http://leonocusto.blog66.fc2.com/blog-entry-2736.html 【『ヘルメス文書』】より
荒井献+柴田有 訳
本書「解説」より:
「古代ヘルメス文書は前三―後三世紀、エジプトで生れた。本書はその一部を対象とした訳註である。一部と言うのは、訳者が適宜選択したという意味ではなく、中世以前からひとまとまりのものとして扱われてきた、ヘルメス文書中の一部である。この部分を欧文では「コルプス・ヘルメティクム」(Corpus Hermeticum)と呼びならわしており、我々は『ヘルメス選集』と試訳する。『ヘルメス選集』は第I―XVIII冊子まであり、ほとんど全冊子が宗教・哲学的な内容のものとなっている。今日知られているヘルメス文書の範囲で最も代表的な部分であることは、周知の通りである。」
「実は『ヘルメス選集』の訳註は、今回初めてなされたのではなく、荒井献と私との共訳として既に月刊「エピステーメー」(朝日出版社)に連載してあった。これは、一九七五年一〇月号(創刊号)から一九七八年五月号にわたる長期連載であった。今回はこの連載稿に手を加えた上で単行本にまとめたのである。連載時との違いは、何よりも無数の追加・さく除・訂正であり、この外、第I冊子「ポイマンドレース」は全面的に改めた。」
本書は、荒井・柴田共訳となっていますが、本書「あとがき」によるといろいろ大人の事情があったようで、実質的には柴田訳(柴田氏に文責がある)ということだそうです。
◆本書より◆
「ポイマンドレース」より:
「「さて、神なるヌースは男女(おめ)であり、命にして光であるが、ロゴスによって造物主(デーミウールゴス)なるもう一人のヌースを生み出した。彼は火と霊気の神であって、ある七人の支配者を造り出した。この者たちは感覚で把握される世界(コスモス)を円周によって包んでいて、その支配は運命(ヘイマルメネー)と呼ばれている。
神のロゴスはただちに下降する元素から飛び出して、フュシスの清い被造物の中に入り、造物主(デーミウールゴス)なるヌースと一つになった――それ(ロゴス)は(造物主なるヌースと)同質であったからである。そこでフュシスの下降する元素は、ロゴス無きままに取り残され、質料(ヒュレー)は孤立して存在した。
さて、造物主(デーミウールゴス)なるヌースはロゴスと共にあって、(世界の)円周を包み、(これを)シュルシュルと回す者であって、自分の被造物を回転させ、限りない始めから無限の終りの時まで回転するままにしておいた。それは、終る所で始まるからである。ところで、被造物の円転運動は、ヌースの意のままに、下降する元素からロゴス無き生き物をもたらした――それはロゴスを持っていないのである。すなわち、空は飛ぶものを、水は泳ぐものをもたらした。それから、土と水とは、ヌースの意のままに、互いに分離し、〈土〉は自分の中から孕んでいたもの、すなわち四足獣〈と〉這うもの、野獣と家畜とを産出した。
さて、万物の父であり、命にして光なるヌースは自分に等しい人間(アントローポス)を生み出し、これを自分だけの子として愛した。と言うのも、彼は父の像を持っていて甚だ美しかったからである。すなわち、父も本当に自分の似姿を愛したので、自分の全被造物をこれに委ねたのである。
そこで人間(アントローポス)は(天界の)火の中に造物主(デーミウールゴス)の創造を観察し、自らも造物したいと思った。そして彼は(これを)父から許可された。(世界の)全権を得ようとして彼は造物の天球に至り、兄弟の被造物(七人の支配者)を観察した。すると、彼ら(七人)は彼を愛し、それぞれが自分の序列(に属するもの)を(彼に)分け与え始めた。彼らの本質を学び尽し、彼らの性質に与ると、彼は円周の外輪を突き破り、火の上に坐する者の力を観察したいと思ったのである。
そして、死ぬべき、ロゴス無き生き物の世界に対する全権を持つ者(人間(アントローポス))は、天蓋を突き破り界面を通して覗き込み、下降するフュシスに神の美しい似姿を見せた。フュシスは、尽きせぬ美しさ〈と〉、支配者たちの全作用力と、神の似姿とを内に持つ者を見た時、愛をもって微笑んだ。それは水の中に人間(アントローポス)の甚だ美しい似姿の映像を見、地上にその影を見たからである。他方彼は、フュシスの内に自分に似た姿が水に映っているのを見てこれに愛着し、そこに住みたいと思った。すると、思い(プーレー)と同時に作用力が働き、彼はロゴス無き姿に住みついてしまったのである。するとフュシスは愛する者を捕え、全身で抱きしめて、互に交わった。彼らは愛欲に陥ったからである。
この故に、人間はすべての地上の生き物と異り二重性を有している。すなわち、身体のゆえに死ぬべき者であり、本質的人間のゆえに不死なる者である。不死であり、万物の権威を有しながら、運命(ヘイマルメネー)に服して死ぬべきものを負っている。こうして(世界)組織の上に立つ者でありながらその中の奴隷と化している。男女(おめ)なる父から出ているので男女(おめ)であり、眠ることのない父から出ているので眠りを要さぬ者であるのに、〈愛欲と眠りによって〉支配されているのだ」。」
「「よし、おまえは正しく知解した。それでは、神の言葉(ロゴス)が言うように『自己を知解した者は彼(神)に帰る』のはなぜか」。
私は言う、
「それは、一切の父が光と命とから成り、人間(アントローポス)は彼から生れたからです」。
「おまえの答は正しい。神にして父なる者は光であり命である。人間(アントローポス)は彼から生れた。そこで、神が光と命とからなることを学び、自らもこれらから成ることを学ぶなら、お前は再び命に帰るであろう」、
こうポイマンドレースは語った。
私は言った、
「でも、もっと私に語って下さい。この私はどのようにして命に帰るのでしょうか、わがヌースよ。」」
「これについてポイマンドレースは語った、
「先ず、物質的な身体の分解において、お前は身体そのものを変化に引き渡し、お前の有する形姿は見えなくなる。そして(身体の)性向(エートス)をダイモーンに引き渡して無作用にする。また身体の諸感覚は、部分部分に分れ、共々に上昇して再び作用力を得つつ、自分の源へと帰昇する。また、情熱と情欲とはロゴスなきフュシスの中に帰る。
こうして人間は、界面を突き抜け、さらに上へと急ぎ、第一の層には増滅の作用を、第二の層には悪のたくらみを、計略を、無作用のまま、第三の層には欲情の欺きを、無作用のまま、第四の層には支配の顕示を、(もう)願わしくないまま、第五の層には不遜な勇気と敢えてする軽卒を、第六の層には富の悪しき衝動を、無作用のまま、第七の層には隠れ潜んだ虚偽を返す。
すると、彼は組織の作用力から脱し、本来の力となって第八の性質(フュシス)に至り、存在する者たちと共に父を讃美する。そこに居る者たちは彼の到来を喜ぶ。彼は共に居る者たちと同化され、また、第八の性質(フュシス)の上にいる諸力が何か甘美な声で神を讃美しているのを聞く。すると、彼らは秩序正しく父のもとに昇り、諸力に自らを引き渡し、諸力となって、神の内になる。神化、これこそが認識(グノーシス)を有する人々のための善き終極である。」」
https://readyfor.jp/projects/taiinshien2023 【稲を刈る夜はしらたまの女体にて(平畑静塔)】より
稲を刈る夜はしらたまの女体にて
鑑賞: 鎌で刈る昔の稲刈りの光景。
日がある間に、黙々と一株ずつ刈り取っていく。 力がいるので、田植えは手伝える小学生も、稲刈りは無理である。重労働なのだ。
この句は、そんな激しい労働に従事する若い女性をうたったもの。
稲を刈る人々はみな同じようににしか見えないけれど、しかし、そのなかに白い玉のような輝くばかりの肉体の持ち主の存在を想像したところが眼目である。
「夜はしらたまの女体」とは、いささか耽美的に過ぎるともいえようが、労働を扱った句としては異色中の異色だろう。
なべて詩の第一の要諦は「発見」にある。(清水哲男)
「夜はしらたまの女体」に惹かれて選んでしまったエロじぃじぃである!
周辺の田んぼは、この雨になる前に全て刈り取られた。勿論コンバインで、運転しているのはほとんどが老人だ。若い息子夫婦が手伝わなくても無問題なのだ!
ところで作者は何歳ごろにこれを詠んだのだろうか?
平畑 静塔(ひらはた せいとう、
1905年(明治38年) - 1997年(平成9年))は、和歌山県出身の俳人、精神科医。
明治・大正・昭和・平成の四代を生きてるが、分若い時ではないか?
高度成長とともに農業の機械化が進んでいるので・・・、
こんな風景が当たり前だったのは、昭和の中期までだろう!
もし年寄りになって詠んだとしたら私と同じ・・・・・?
(以下略)
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