清明祭

https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/1027 【l清明祭(シーミー・ウシーミー)】より

 旧暦の三月上旬、沖縄本島中南部を中心に祖先供養のまつりが盛大に行われます。シーミー(清明祭)といわれる行事です。那覇市首里近辺ではウシーミー(御清明)とも呼ばれています。

 清明祭は門中(もんちゅう)墓に一族が集まり、各世帯が持ち寄った重詰料理や酒、花をお墓にお供えします。その後、皆でお供えしたごちそうをいただきます。

 清明祭はピクニックのような感覚で行われ、親族の親睦の場にもなっています。

 この祖先供養の行事は、18世紀中頃に中国から伝来しました。

 沖縄本島の一部、宮古と八重山では清明祭よりも旧暦1月のジュウルクニチー(十六日祭)が盛大に行われます。

 清明祭に関する資料を紹介します。

上2枚の画像:

「清明祭の様子」1965年5月撮影 「宮城悦二郎写真資料1 風俗1」(1959年~1967年) 資料コード:T00016674B

『漫遊詩草』(1893(明治26)年5月 渡辺重綱) 資料コード:T00016132B

資 料中「干役琉球」の項に、漢詩と説明が併記されています(資料画像中では「清明祭」の次に清明祭を詠んだ漢詩、その次に清明祭の説明があります)。

 同様の形式で、那覇港・市街・辻阜遊廓・首里城・識名南苑・崎山東苑・崇元寺・清明祭・泊村・古波蔵陸軍兵営・中城趾の漢詩などが収録されています。

 著者の渡辺重綱は、日本帝国陸軍軍医で廃藩置県前年の1878年(明治11)の半年間、沖縄に滞在しました。

 その滞在中の見聞録が『琉球漫録』にまとめられています。

【参考引用文献】

・『沖縄暮らしの大百科 冠婚葬祭・年中行事・風水』(2005年 那覇出版社)

・『最新版 沖縄コンパクト事典』(2003年 琉球新報社)


http://jshm.or.jp/journal/64-1/64-1_rei-shoroku_6.pdf 【西東三鬼と平畑静塔らの戦争俳句】より

―治安維持法との関わりについて―   北野 元生

『京大俳句』の西東三鬼と平畑静塔らは昭和 15年京都府高等警察に治安維持法違反の容疑で検挙される少し前まで,所謂戦争俳句を詠んで発表していた.彼らは実際に戦地に赴かず,戦場での体験もないにも拘らず,想像で嘘(フィクション)と言わざるを得ない戦争についての俳句作品を作っていたことになる.片や戦地で命のやりとりをしながら,それでも俳句を詠んでは,その俳句作品を内地に送ってくる人もかなり多かった時代である.実際に戦地を知らず,ニュース映画や新聞の記事などで知り得た知識を頭の中で掻き集めたものを机上で弄んでいるだけだと非難され,戦地で実戦に従事している兵士に対して道義的に申し訳ないと断罪された.さらに戦後に至っても反戦平和主義一辺倒の世情の中で,彼らの戦争俳句作品が俳句作品として正統に評価されるには中々いたらなかったのである.

彼らの二人の戰爭俳句作品のごく一部を挙げておくと,「機關銃熱キ蛇腹を震ハスル」

「機關銃天ニ群ガリ相對ス」「兵を乗せ黄土の起伏死面なす」〈以上三句 三鬼〉

「病院船工人猫を抱けり航く」「安死術野戦の谷の蟹にある」「磐と餓ゑ磐と墜ち磐に立ち勝つ」〈以上三句 静塔〉

二人は,はじめから,これらの戦争(前線)俳句は嘘俳句であると断って発表していた.彼らの「戦争俳句」作品中の「語り手」がニュース映画のナレーターと同様の第三者の語りを用いて作品を作っているのが特徴である.俳句作品には本来かくあるべきと宿命づけられていると信じられていた種々の制約があり,且つ身辺の出来事や作者本人の経験する範囲内での感情や心理の動きなどを詠むことが作品作成の限界であるとされているのが俳句の命題であると考えられてきたが,それを“私俳句”であるととらえ,その狭い領域を脱却,あるいは脱出することが三鬼や静塔らの課題であったようである.彼らは戦争俳句を詠むに当り,第三者の語り手を利用することにより,「私俳句」の領域を脱却,あるいは脱出することには,一応成功したかの如く見える部分もあったと言えよう.そして,さらには彼らが追及したものが,単純な反戰や平和のような政治的なイデオロギーではなかったのである.実際に参加したこともない戦争を詠むことを通して,第一に何か新しい俳句技術を発見あるいは生みだそうをしていたに違

いないのである.それらは何であったのだろうか.いずれにしても,かれらにとってその解答を見出すには時間が不足していたと言わざるを得ないかも知れない.そして,第二に「戦争」の本質が我々の眼前で行われている戦場のできごととは異なる次元のものではないかとすることにも,彼らの思考が向けられ始めていたことにも注意すべきであるが,それについても遂には明確にはされなかったと言ってよい.

そのことも含めて,「戦争」という現実に直面した三鬼や静塔らの俳句形式が,新興俳句的方法の文芸的卑小と脆さを露呈しているものとの表現史上の批判的評価は率直に受け入れなければならないだろうとする意見も大きい.

戦争俳句の彼らの志向した作品論については一

先ずさて置いて,彼らの机上で作成される「戦争俳句」に対しての世間からの批判は以上の通りであったが,以上とは別の観点から,治安維持法と言う法律が日中戦争の最中,太平洋戦争開戦直前の時期に,「戦争俳句」を詠んでいた三鬼や静塔を含む「京大俳句」,そして全国の新興俳句派の俳人たちの活動を一括して一挙に停止せしめた.

治安維持法違反の理由付けのひとつとして彼らの「戦争俳句」が重要な要件として俎上に乗せられたのである.

そして三鬼や静塔らの所属した新興俳句の活動は,部分的にはともかく,戦後になっても二度と再び日の目を見ることはなかったのである.そのような風潮の中,断片的でわずかではあるが,彼らの「戦争俳句」には,俳句形式に付加された数々の技法を生み出す母体であったという評価もあり,その功績に眼を瞑るのは怠慢である.今後,その掘り起こしをすべきであろう.(平成 29 年 12 月六史学会合同例会)


https://designroomrune.com/magome/daypage/08/0831.html 【機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク】より

西東三鬼

昭和15年8月31日(1940年。 84年前の8月31日) 午前5時30分頃、 西東三鬼さいとう・さんき (40歳)の当地の自宅(東京都大田区大森北一丁目17 Map→)に、京都府警の特高が4名、大森署の私服の特高が1名、警視庁の巡査部長、の計6名が乗り込んできました。

なぜ京都の特高かというと、俳句雑誌「京大俳句」がこの昭和15年の2月から弾圧され、最初は関西方面の「京大俳句」会員が捕まってゆき、特高の魔手が、東京、さらに地方へと伸びてきたのでした。 三鬼も「京大俳句」に深く関わっていたのです。

「京大俳句」は、7年前の昭和8年1月、 平畑静塔ひらはた・せいとう (27歳)、藤後左右とうご・さゆう(24-25歳)、井上白文地はくぶんじ (28歳)などの京大(京都帝国大学)と三高((旧制)第三高等学校。京都大学の前身)の出身者が発行した俳句雑誌です。後に部外者にも開放し、昭和10年、三鬼も請われて加入しました。

「京大俳句」は、リアリズム、ロマンチシズム、モダニズムを標榜し、戦争も詠めば、社会・世相も詠み、身近な生活や恋愛も素材にしました。自由闊達の精神を重んじ、積極的に俳句論争も起こし、新興俳句運動を担っていました。

ところが、日本は、「満州事変」(昭和6年)前後から、中国を舞台に数々の紛争(事変・戦争)を仕掛け、それを拡大していきました。昭和13年には国民を全面的に縛りあげる「国家総動員法」を制定し、戦局が厳しくなるにつれ、その適用範囲を広げ、罰則も厳しくしていきました。この昭和15年頃になると、「お国のために全てを捧げる」ことが当たり前になって、個人の自由や権利を主張するなどは以ての外となります。それでも、「京大俳句」の面々は、果敢に、自由の精神を謳い上げ、そして、弾圧の対象となったのです。

三鬼の家は、天井裏までかき回されて、俳句の本に限らず蔵書のほとんどを押収され(警察関係者の小遣いにもなった)、大森署に連行されたあと、その後京都行きの夜行列車が出るまで、東京丸の内署に留め置かれました。

三鬼が住んだあたり(赤丸の箇所)。大森駅と海岸駅(現・大森海岸駅)間の通りあたりで歯科医院を開いていたこともある 出典:昭和15年発行の地図(東京地形社) 三鬼が住んだあたりの現況。通りの向うの右手。「ベルポート」(Map→)の外れから撮影した。このあたりは昭和20年4月15日の空襲で焼け野原になった

三鬼が住んだあたり(赤丸の箇所)。大森駅と海岸駅(現・大森海岸駅)間の通りあたりで歯科医院を開いていたこともある 出典:昭和15年発行の地図(東京地形社) 三鬼が住んだあたりの現況。通りの向うの右手。「ベルポート」(Map→)の外れから撮影した。このあたりは昭和20年4月15日の空襲で焼け野原になった

その頃、三鬼は、次のような俳句を作っていました。

機関銃眉間ニ赤キ花ガ咲ク

逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ

砲音に鳥獣魚介冷え曇る

占領地区の牡蠣を将軍に奉る

これら戦争の残虐性や非人道性を結晶させた作品は、「けしからん」となるのでしょうが、

昇降機しづかに雷の夜を昇る

を、特高は、「雷の夜はすなわち国情不安定なとき、昇降機(エレベーター)すなわち共産主義が高揚する」と解釈して責め立ててきたそうです。彼らの気まぐれで、どんな表現にも「×」をつけることができました。

三鬼は京都に連れて行かれます。特高たちは、自分たちの京都までの汽車賃も三鬼も払わせ、官給される被検挙者の切符代も着服。やりたい放題でした。

そもそも「京大俳句」が狙われたのも、欲づくで、京都府警特高部に新しく就任した中西警部が“成果”を挙げたいがためだったと三鬼は考えました(前任者は「大本教事件」で手柄を立てた)。“成果”を挙げるためにでっち上げられた「横浜事件」(雑誌編集者、新聞記者ら60名が逮捕され、うち4名が獄死)と同じ構図でしょうか。

検挙された三鬼は、新興俳句や自由律の俳人の系図のようなものを見せられ、「仲間を売る」よう誘われます。その系図には、石田波郷、石塚友二、加藤楸邨、山口誓子 、日野草城、 水原秋桜子の名もあり、波郷、友二、 楸邨には「プロレタリア・リアリズム」「社会主義・リアリズム」と註釈がついていて、 三鬼を驚かせます。特高の文化度はそんなものでした。

三鬼は2ヶ月間の拘置だけで起訴猶予になったので(句作は禁じられた)、三鬼が特高の協力者になったのではとの疑惑も仲間内で持ち上がりました。昭和54年、小堺昭三が『密告 〜昭和俳句弾圧事件〜』(ダイヤモンド社)で、三鬼を「特高のスパイ」と書き、問題になりました。三鬼の弟子の鈴木六林男むりお が、故人の名誉回復を求めて(三鬼は昭和37年に死去した)、 三鬼の次男の斎藤直樹を原告に立てて提訴。勝訴して、小堺とダイヤモンド社は、新聞に謝罪広告を掲載し、慰謝料も払っています。三鬼は特高に利用はされても、けっして友人を権力に売り渡すような人でないことが、三鬼の長い間の言動から明らかになったのでした。

「「京大俳句」弾圧事件」は、昭和15年2月14日(「皇紀二千六百年の紀元節祝賀会」の3日後)の会員8名の検挙に始まり、3回にわたって15人が検挙されました。最新の「京大俳句」(二月号)も押収され、廃刊となります。

2月14日に検挙された平畑静塔(34歳)は「京大俳句」の創立会員で、新進気鋭の精神科医でもありました(若くして兵庫県立精神病院の副院長に抜擢された)。結婚した友人に次の句を贈っています。

ランプ消す外科医と妻は見るは星(静塔)

同じく2月14日に検挙された井上白文地(35歳)も、創立会員で、関西大学と立命館大学で教える秀才でした。

我講義軍靴の音にたゝかれたり(白文地)

同じく2月14日に検挙された中村三山(37歳)も、創立会員で、肺結核を患い療養中でした。

特高が擾みだ す幸福母子の朝(三山)

2月14日に捕まった8人の残りの5人は、波止影夫はし・かげお 、 仁智栄坊にち・えいぼう、宮崎戎人じゅうじん、新木瑞夫みずお、辻 曽春そしゅん 。波止は静塔と同じ病院の医長で、新木と辻は「京大俳句」の編集に携わるようになったばかりでした。 栄坊はたまたま当地(東京都大田区大森)の親戚の家に来ており、三鬼らが2月14日に栄坊の歓迎会を設定しますが、当日本人が来ず、三鬼らも異変に気づきます。

平成30年、マブソン・ローランと金子兜太(とうた)の呼びかけで、「無言館」(長野県上田市古安曽山王山3462 Map→ Site→)近くに「俳句弾圧不忘の碑」が建立されました。

西東三鬼 『冬の桃(自叙伝)』(毎日新聞社)。「「京大俳句」弾圧事件」後、妻子を東京において、神戸の不思議なホテル(様々な国の人や体を売る女性たちが住んでいた)で一人暮らしを始める 「冬の桃」(NHK) 。三鬼の『冬の桃』を元にした早坂 暁のドラマ。出演:小林桂樹、三田佳子、西村 晃、木の実ナナ、大竹しのぶ、笠 智衆、滝田 栄ほか。当地(東京都大田区)で特高に捕まる場面も

西東三鬼 『冬の桃(自叙伝)』(毎日新聞社)。「「京大俳句」弾圧事件」後、妻子を東京において、神戸の不思議なホテル(様々な国の人や体を売る女性たちが住んでいた)で一人暮らしを始める 「冬の桃」(NHK) 。三鬼の『冬の桃』を元にした早坂 暁のドラマ。出演:小林桂樹、三田佳子、西村 晃、木の実ナナ、大竹しのぶ、笠 智衆、滝田 栄ほか。当地(東京都大田区)で特高に捕まる場面も


https://ameblo.jp/mitsulow/entry-12772052886.html 【首里城4回忌】より

「命日」と言うと、最後のトドメを刺されたっぽいし、

これまで4回の焼失から復活してきた城に対して言う事じゃないと思うけど、2019年の10月31日に首里城が燃えたので、まぁ、言うなれば今日は4回忌です。

あの日 深夜3時にふと目が覚めて、部屋から観て、遠くに赤い揺らぎを感じた。

どこが燃えてるのかなんて分からないはずなのに、人間は不思議なもので、直感ですぐ「首里城だ!」と分かる。

歌にした通り、「神々が守っていると信じていた。」

でも、あっさり儚く簡単に燃えて、朝には消えてた。

「神さまに特別なモノなんて、ただの1つも無いと思いシった」

当時、スピリチュアルな人たちでは「龍使い」と言う言葉が流行っていて、「私には、○○龍が居て守られている」だの「私の背後には、なんとかおおがみがいる」だの色々という人が居た。でも、あの国宝級の「首里城」さえも、神々はあっさり燃やせるんだから、たぶん、ちっぽけな人間なんて「守りたい」と思うはずがない、それが分かっただけで有難い炎だった。

「あの城さえも、燃えれるなら」「誰もが偶然の上を生きている」その上で、あなたはまだ生きている、生かされているってのは、本当に凄いことなんだなと思う。

人は凄い。生きているだけで。

これまでに焼失して来た世界中のどんな歴史的建造物よりも価値がある。

例えば、ギザの大ピラミッドも地震の時に表面の化粧石が剥がされている。

マチュピチュの聖地も、コーランに載った聖地も。もう、無い。神々は、守り抜いていない。

でも、あなたは今、そこで生きている。

それが、どれほど凄いことであるか。なんか、ブルーハーツの歌みたいになっちゃったけど(笑)トレイントレイン走って行く♪

https://www.youtube.com/watch?v=JiTAIYG_pbA&t=1s

メッサ長いけど、耐えて耐えて、通勤電車で最後まで読んでみて。最後に分かることがあるから↓

https://ameblo.jp/mitsulow/entry-12541075359.html 【県社:沖縄神社〜首里城が沖縄人をたくましくした〜】より

「どうしてこのタワーマンションが35Fなのか分かりますか?那覇には暗黙のルールがあり、首里城より高くなるような設計は出来ないのです。本当は40F以上でも需要はあるけど、ここだと35Fで首里城と同じ高さです。これが限度です。」

若くて美少年だったサラリーマン時代に、「まぁ、若いお兄さんに言っても分からないだろうけど」とバカにされながら、設計段階だったマンションへ電力の相談にやって来たデベロッパーと県の職員は笑っていた。

その小高い丘は、首里・那覇(スイ・ナファン)で二番目の標高。ここより高いのは、神さまを祀る弁ヶ岳だけ。あとNTTの電波塔だけ(笑)

その丘より高い空域には、神々の特殊なエリアがあると信じられてきた。

米軍も戦後すぐに「沖縄の空域の管制権」を確保した。那覇進入管制空域が返還されたのはわりと最近のこと。

王のための土地ではなく、その小高い「首里の丘」は祈りのためにある聖地だった。

神々の空域に一番近づける神聖な場所だからこそ、その首里の小高い丘は人々に大切にされた。やがて琉球にもイクサや権力主義が発生し、南山・中山・北山の三山時代に中山王国の国王が城を建てた。史書や正史で確認されている限りでは首里は1360年ごろには城があったそうな。それでも琉球の国王は、「自分は神の次」だという位置をずっとわきまえていた。

舜天王も、英祖王も、察度王も、第一・第二尚巴志王統も。神さまのコトバを女性ノロが降ろし、そのコトバ通りの施政を国民へと施す役割に徹していた。

神の空域に一番近い場所に建つその建物はすなわち、人間側からすると「一番高い」位置になるわけで、「高み」を目指す権力者たちによって、その小高い丘では何度も権力争いが起きた。

△1430年 察度王統を第一尚巴志が権力で奪い

△1470年 第一尚巴志から第二尚巴志が受け継ぎ

△1611年 中国と貿易がしたかった江戸幕府は、中国と仲の良かった琉球を足掛かりにしようと、3,000人の兵隊を送り「昔から琉球王国は島津(薩摩)の付属国だった」という文書にサインをしろと強要し断った三司官は首を切られ

△1879年 明治政府は500人の軍隊を連れて首里城へ押し入り、琉球国王を東京へ「連行」し

△1923年 王さまが連れ去られ荒廃したその丘に、「県社沖縄神社」を大正時代に創建

△1944年 日本軍と米軍が「戦場」を沖縄にしようと決め、日本軍総司令部を首里城に設置したせいで、米軍の大規模砲撃で貴重な歴史建造物を次々と破壊

△1945年 司令部を首里城から南へと撤退させる際に、歩けなかった5,000人の日本兵が首里城の地下壕で自決

ざっと書いても、これだけある。

江戸も明治も大正も昭和も。いや、もっと古い時代からずっと。その小高い丘を舞台に、人間たちは何度も争っている。

何度も言うけど、その小高い丘とは「一番神さまに近い」場所なのにだ。

燃えるのは、今回が初めてじゃない。何度も何度も、消失してきた。

琉球国内の戦いで、琉球と日本の戦いで、日本とアメリカの戦いに巻き込まれて。

その小高い丘に建てられた建物を、うちなんちゅは何度も何度も失った。

そして、何度も何度も再建してきたのである。

「たくましい沖縄の皆さんですから、きっと復興できますね!」というLINEをめっちゃもらったけど、ちがう。

沖縄人が「たくましい」から首里城を何度も復興させて来れたんじゃない。首里城を何度も復興させているうちに、うちなんちゅはたくましくなったのだ。

首里城の復興の歴史こそが、うちなんちゅの「たくましさ」のミナモトなのだ。

今回だって炎を真夜中に観た時は悔しくて涙が出たけど、すぐに思ったのは「見とけよ!」という想いだ。うちなー弁かもしれない。「見とけよ!」は。

「すぐに立て直すからな!見とけよ!」と、力強く思ったうちなんちゅの方が絶対に多い。

悲しんでる人よりも。それが、うちなんちゅなのだ。

戦後、↑これを立て直したんだ。これくらい立て直せる。なんだったら戦後には一回、琉球大学まで作ってるからな。

焼け野原になった首里城跡地に。その後、琉大を壊して現在の首里城を建てた。

過去平均すると、築城に「約12年」くらいかかって建て直してる。

2032年のネズミの年には完全復活するだろうけど(沖縄ではネーの年が始まりとされる)、

今回はもっともっと早く復興するかもしれない。

謀反で焼けても、薩摩に壊されても、アメリカに砲撃されても、

うちなんちゅは何度もあの城を建て直してきた。今回も、見とけよ!

寄付?とかはどこにすれば良いのか分からないけど、

きっと世界中からもうちなんちゅを助けたいという思いが集まるはずだ。

安倍内閣と沖縄県は辺野古問題でいまは冷え切った関係だけど、

首里城復興の予算だけは政治の駆け引きとは別枠にして欲しいな。

もし祈りたい人が居るなら、僕は昨日「弁ヶ岳」へと行って来た。

大正時代に首里城に置かれた「沖縄神社」が仮遷宮しているので、「1日も早い復興」を祈るなら、そこが良いだろう。

唯一首里城の高さを超える弁ヶ岳の丘の上にはベンテンヨモツヒメも祀られているしね。

さぁ、うちなんちゅの皆さんここからですね。

あなたの中に流れるDNAは、過去に何度も首里城を消失し再興しています。

そのDNAが、「見とけよ!」とあなたに思わせたはずなので、

今回も、あっという間に建て直る事でしょう。

(略)

ーはかないー

あの首里城があっさり「燃えれる」のだ。

どこにも「特別」なんて無いんだなと、目が覚める気分だった。

きっと神々に「守りたい特別なモノ」なんてどこにも無い。

そもそも、神さまなら「えこひいき」はしないからそれが当然だろう。

全てが特別だと思っているがゆえ、なにか」だけを守りたいなどと思うはずが無い。

「はかない」の本当の意味を痛感した瞬間、またはあの揺れる炎がそうさせたのかもしれないが、身体の奥から目が覚める気がした。

アレを燃やせるのだ。人は死ねる。はかなく、人は死ねる。きっとあっさりと。

「自分だけは誰かが守っている」だとか、守護霊がどうとか、神々がどうとか・・・。

あの首里城をあっさりと燃やせるのだから、「あなただけを守る」なんて、ありえない。

神さまという存在が居るのなら、それは恐ろしいくらいに「平等」であり、「何かだけ」を守ろうという執着なんて絶対に無いだろう。

はかなさとは、恐ろしいくらいの平等さの事なのだ。

誰にも肩入れしない。特別など無い。だから、はかない。人生は、はかない。そして、ゆえに美しい。偶然の上を僕らは渡り歩いているのだから。

そして、ウィキペディアを調べると何度も首里城を復興させてきたうちなんちゅの、「たくましさ」を知る。

人生が「はかない」偶然の産物なら、「はかない」に対抗できるのは、「たくましい」だけだと。

ほぼ発生と同時にその明かりになぜか気づいて、明け方に鎮火するまでその炎を見続け、

はかない、うつくしい、たくましの本当の意味をシり、で、もっともっと「目の前」を大切に生きた方が良いよ~とみんなに伝えたくなった。

「あなた」がいつまでも生きるなんて勘違いは、もう捨てた方が良い。

「私だけは特別だ」という想いも。「守られている」という自負も。僕らは偶然の上を渡り歩く存在、恐ろしいくらいに儚く。

もしも。仮に。「特別さ」というモノがあるとするならば、確実に「あなた」よりも世界遺産の方が上だろうし、「神々が守っている」という自負があるなら、それも確実に首里城の方が上だろう。

そんな、あの首里城を燃やせるのだ。人は死ねる、はかなく、死ねる。

だから、たくましく、生きよう。美しく生きよう。偶然に生かされているとシりながら。

慢心を捨てて。そんなことを、10月31日の午前三時に。遠く、遠くに燃え盛る首里城を見つめながら、ぼーっと考えていたよ⇒未来の自分へ。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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