鑑真和上

https://akutsu.cocolog-nifty.com/blog/2022/10/post-b33fc7.html 【鑑真和上と下野薬師寺】より

栃木県立博物館 開館四十周年 記念特別企画展 「鑑真和上と下野薬師寺~天下三戒壇でつながる信仰の場~」を観た

天下三戒壇の一翼を担った「下野薬師寺」について 学習してきた

「下野薬師寺」は 古代下野の仏教文化を象徴する名刹

【歴史】

≪飛鳥時代≫ 創建される 「大宝律令」の選定者の一人である「下毛野古麻呂」を生んだ豪族「下毛野」氏の勢力下に成立した

≪奈良時代≫ 唐僧「鑑真」による授戒作法を執り行う「戒壇」が 東国で唯一設置され 東大寺(奈良)・ 観世音寺(太宰府)とともに 天下三戒壇と称される 以後 東北・関東の授戒と 信仰の中心寺院となり隆盛を誇る

≪平安時代≫ 一時衰退する

≪鎌倉時代≫ 「慈猛」が 戒律と真言密教を柱として再興する

≪南北朝時代≫ 「足利尊氏」によって「安国寺」と改称される 以後600年以上「安国寺」として存続

≪平成30年(2018年)≫ 本堂・山門・本尊など「平成の大改修」を行ったのを機に 寺名を「下野薬師寺」に復古する

「下野薬師寺」に下向した日本屈指の高僧は 「鑑真」の高弟の「道忠」や 「道鏡」・「行信」など

「下野薬師寺」から排出された人物は 日光開山の「勝道」や 金沢北条氏の菩提寺である「称名寺」開山の「審海」など

【展示構成と展示品】

≪プロローグ≫ 日本に戒律を伝えた「鑑真和上」の紹介 「唐招提寺」の「鑑真和上」坐像の展示

≪第一章 古代下野のすがた≫ 国宝「元暦校本 万葉集 巻二十」(東京国立博物館蔵)展示

≪第二章 鑑真和上の来日と戒律の伝来≫ 「唐招提寺」の国宝「薬師如来立像」など展示

≪第三章 天下三戒壇 下野薬師寺の創建と発展≫  下野薬師寺出土瓦など展示

≪第四章 下野薬師寺と人物・信仰の広がり≫ 重文「勝道上人像」(輪王寺蔵)など展示

≪第五章 下野薬師寺の衰退と復興≫ 平安時代の衰退から鎌倉時代の復興 南北朝時代の「安国寺」への寺名改称 国宝「下野薬師寺僧慶順解」(東大寺蔵)など展示

≪エピローグ≫ 現代につながる信仰の場「下野薬師寺」 唐招提寺薬師如来立像 復元模刻など展示

久々の歴史学習に疲れを感じながら 展示室を出ると 企画展にまつわる品を販売しているショップがある

コーヒードリップパック「下野薬師寺ブレンド」が 目に付いた 

仏教に合わせて コーヒー豆は インド産と中国産で 蓮の実と葉も ブレンドしてあるそうだ どんな味がするのだろうか 思わず独り笑いをしながら 買い求めた

「下野薬師寺」の住職・谷萩昌道さんは 高校時代の一学年先輩で 演劇部で一緒に活動をしたことがある

彼は 大学院まで進み ある大学の学長も務め 詩人でもある 今や 由緒ある立派な寺の住職だ

「下野薬師寺」は 私の住まいから近くにあるので 近々 訪ねてみることにした

高校時代以来 お会いしたことがないから 私のことなど 覚えていないだろうなぁ・・・・


https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/726248 【春風に揺れる「瓊花」 鑑真大和上ゆかりのめずらしい花が開花 下野】より

 【下野】薬師寺の下野薬師寺(旧安国寺)で、鑑真大和上(がんじんだいわじょう)ゆかりのガクアジサイに似ためずらしい花「瓊花(けいか)」が咲き始めている。

県博40周年記念特別展17日開幕 「鑑真和上と下野薬師寺」 国宝の仏像など160件公開

 瓊花は随や唐の時代に皇帝が好んだ花として知られ、スイカズラ科の半常緑低木。香りも良く、鑑真も大切にしていたとされる。中国の揚州市から唐招提寺(奈良市)に贈られた木の苗木を、鑑真とゆかりのある下野薬師寺が4年前に寄贈を受け、今年初めて花が咲いた。

 境内では、瓊花のかれんな花びらが春風に揺れている。谷萩昌道(やはぎしょうどう)住職(73)は「瓊花は唐招提寺や皇居、東大寺、鑑真記念館でしか見られない貴重な花。ぜひ見ていただければ」と話している。


https://ameblo.jp/ice-blue-love/entry-12577421494.html 【鑑真和上がされたご苦労】より

こんにちは。あきこです。鑑真和上のお話がずっと続いていて、もしかしたら、もうお腹いっぱいの方もいらっしゃるかもしれませんが、もうちょっとで終わりです。

(あきこは、寂しい・・・)

皆さん、鑑真和上に会いたくなったかしら?ぜひ、世間が落ち着いてまた旅行に行く気持ちになったら奈良、唐招提寺に行ってくださいね♡

コジュウさんが仰っておられたのですが、日本に来てから、晩年の鑑真和上は不遇の時を過ごされたようです。わたしの方でも少し調べてみましたのでご紹介させてください。

鑑真和上が日本にやってきたのは日本に「授戒」の制度が整備されていなかったから。

そうなると・・勝手に僧を名乗る人が出る。僧になると、税が免除されるからです。

それでは律令制度が立ち行かない。また、仏教の教えも人によりバラバラになってしまう。

授戒が出来、その制度を日本に整備できる人がいなければいけないということで、鑑真和上は日本に請われてきたのです。

ちなみに、当時、授戒を授けるには10人の正式な僧がいないとできませんでした。

当初、鑑真和上の弟子に来てもらえないかと、鑑真和上に要請をしたようですが、彼らからすると未開の地、日本に唐からわざわざ来たい者はそういません。

鑑真和上は自ら赴くことを決意。鑑真和上は、唐でもかなりの高僧で厚遇されていたのにも関わらずです。皇帝玄宗にも可愛がられていたくらいです。

鑑真和上が来ることになったので最終的に24名の弟子も一緒に日本に来たのです。

日本に来た鑑真和上は、東大寺に居住し、日本の授戒を一任されます。

聖武上皇に重宝され、聖武上皇は鑑真和上から授戒を受けます。

聖武上皇が亡くなった後、鑑真和上は、大僧都に任命され、授戒の場である戒壇を東大寺、太宰府観世音寺、下野薬師寺の三か所に作ります。また、授戒を授ける僧を育成する律宗を興して日本の仏教を整備します。

しかし、それは、既存の僧達にとっては立場を脅かされることでもありました。

既得権を守りたい仏教界からの圧力で鑑真和上は大僧都の位を降り朝廷から新田部親王邸跡地を譲り受けて東大寺を去って今の唐招提寺を建立したのです。

ちなみに、鑑真和上が唐招提寺に移られたとき、一緒に来た中国僧達は唐招提寺に来た者もいれば東大寺に残った者もいたそうです。

唐でのご自分の地位を投げ捨てて10年以上の時間をかけて、5回の渡航失敗と、それにより32名もの弟子を失いさらに失明という苦難を乗り越えてそれでもやってきた日本でのその処遇を

鑑真和上や近しい人達はどう思っていたのでしょう・・

そう思うと、唐招提寺は素晴らしいお寺なのですが少しだけ寂しい気持ちにもなります。

サイキックちゃんが聞くと、鑑真和上は「多くの者に、もっと自由に教えを広げたかった。学問の場を作りたかった。そういう気持ちで、東大寺を去って唐招提寺を作ったみたいだよ。」と言っているみたいですが。

でも、わたしは、ご自身の仏法にかける使命のため様々な苦労、苦難を受けられた鑑真和上だからこそどんな状態のわたし達の傍にもいてくださるのかなって思いました。






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