Facebook新田 修功さん投稿記事
星の時間……⁉️🌟
「はてしない物語」でおなじみのミヒャエル・エンデさんの名作「モモ」の中に星の時間という言葉が出て来ます。
映画化されたので、「ネバーエンディングストーリー」は有名ですが、「モモ」を読まれている人は少ないかも知れませんね。
彼の作品はルドルフ・シュタイナーの影響を受けていてとても深淵な神秘哲学を示唆しています。この「モモ」という作品の主要テーマは時間です。
時間泥棒の灰色の男たち、永遠の時間を表現する亀、その他不思議な登場人物が一杯で、とても楽しく読めるファンタジー文学の傑作なのですが、スピリチュアル文学と呼ぶ事も出来ると思います。
星の時間について、少し引用してみましょう。
「星の時間て、なんなの?」とモモはききました。
「いいか、宇宙には、あるとくべつな瞬間というものがときどきあるのだ」と、マイスター・ホラは説明しました。「それはね、あらゆる物体も生物も、はるか天空のかなたの星々にいたるまで、まったくその時かぎりしか起こりえないようなやり方で、たがいに働き合うような瞬間のことだ。そういうときには、あとにもさきにもありえないような事態が起こることになるんだよ」
………………………………✨✨✨
そういう奇跡の瞬間のような時間の事を「星の時間」というのです。実は、「星の時間」とは私たちの人生の毎瞬毎瞬のことです。
眠っている私たちには、なかなか星の時間をつかむことが出来ません。
一日のうちの、ほんの一瞬、目覚めた時が、「星の時間」を感じる事が出来る唯一のチャンスです。
夕焼け空を見て、言葉がなくなるような感動の瞬間。
心の窓をふと開けた時に、爽やかな風が吹いて来た時。
子供の瞳の中の輝きに、じっと見入ってしまう瞬間。
本当に生きる為に必要な、大切な時間を時間泥棒に盗まれないように、「星の時間」を意識する練習をしましょう。
あなたにも必ず、「星の時間」があるのですから⭐️
今日も読んでくれてありがとう🙏😊💕
おやすみなさい。また、明日😴
Facebook近藤裕子さん投稿記事 ☘️心に止めたい言葉☘️
「悠然会心」 ゆうぜんかいしん
ゆったりと落ち着いた状況下に心をおくことを意味する言葉です。
悠然とありたいと願いながらも 心はいつも不安定です。
「心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心ゆるすな」 これは 沢庵禅師の「不動智神妙禄」にある歌です。これは心こそが自分を迷わすモノだから、自分の心の動きに気を許すな、という意味のようです。感情に振り回されない心を持つことは 幾つになっても課題です。
FacebookAyuka Mizoguchiさん投稿記事 「時間がなければ、苦しみはない。」
そうかもしれないけど、時間ってあるし・・・。と、思うかもしれません。
または、時間ないかもしれないけど、今の私の問題にはあまり関係ないように思えるという方もいらっしゃるかもしれません。
とりあえず、人生をコントロールするのがしんどくなった人、単に興味がある人、ぜひお読みください♪
https://ayukablog.wordpress.com/2021/11/27/%e6%99%82%e9%96%93%e3%82%82%e3%81%aa%e3%81%8f%e3%80%81%e8%8b%a6%e3%81%97%e3%81%bf%e3%82%82%e3%81%aa%e3%81%8f/? fbclid=IwAR2teAdhb20ofe6viXxHGSP1uRoH07xw0z5IneVDodPhnS5V9qWllPdmqvc 【時間もなく、苦しみもなく】より
突然ですが、「時間がなければ苦しみはない」終わり。
これを読んで、“そりゃそうだ、でも時間ってあるし・・・”と思う方が一番多いかもしれません。
私はこれがほんとうに腑に落ちたとき、なんでこんな明白なことに気づくのに何年もかかったのだ!バカバカと自分の頭をぽこぽこしたい気分になりました。
とりあえず、ご説明させてください。
そのためにまず、過去も未来もないとイメージしてみませんか?
過去の出来事にまつわる記憶がまったくなくて、同じように未来もぜんぜんない。
ほんとうにない!ゼロ!消えた(笑)!
イメージできましたか?
過去と未来が消えたとき、私たちの悩みや問題はまだ存在しているでしょうか?
例えば、「私は無力だ」という思いを持っていたとしても、過去と未来がなければ、その思い自体の意味がなくなりますね。
または、過去に誰かに傷つけられた、自分が誰かに酷いことをした、間違った選択をしてしまった、などなど過去の出来事に対するネガティブな思いも消えてしまう。
当たり前じゃないか・・・と思うかもしれませんが、ぐっとこらえてついてきてください。
で、そうなれば、今は過去の結果ではなくなります。また、未来も今の結果ではなくなりますね。
エックハルト・トーレは「今ここ」には悩みや問題はないと常に言っていますが、この意味が以前はまったく分かりませんでした。というのも、「今」の意味を時間系列の中で考えていたからです。なので当時は「でも、今借金があれば問題じゃない?」とか思っていたのです。
しかし、エックハルト・トーレがいう「今」とは、時間の流れの中にある今ではなく、実体の場を指していたのです。
例えば、過去と未来はどこに存在するでしょうか? 私たちが絶対にあると信じて疑わない過去と未来はどこに存在するでしょうか?
・・・・・・・・・私たちの頭の中だけですね。
また、過去と未来を実際に経験することはできるでしょうか? 誰も一度もしたことがないはずです。
つまり、私たちがいう時間とは、頭の中だけに存在して、誰も経験をしたことがないんです。
では、頭の中にあるものは実体があるのでしょうか?
記憶はイメージや思考や感情、感覚で成り立っていますね。
例えば記憶のイメージは絶対的なものでしょうか?それとも自分バージョンの映像でしょうか? 同じ出来事に対して、兄弟で記憶がぜんぜん違うことはそれなりにないでしょうか?記憶は基本的に主観的な自分バージョンです。
これは絶対的なものとはいえないですね。
歴史も勝者によって書かれるというように誰かの記述であって、絶対的な真実ではありません。
過去や未来が頭の中にしか存在しなくて、記憶や歴史が真実ではないのなら、時間や記憶って何なのでしょうか?
それでは、「今」はどうでしょうか?今にいることはできますか?「今」は捉えた瞬間には過去になっているはずです。時間は一度も止まっておらず、流れっぱなしですよね。流れ続けるものに「今」は実際には存在しないはずです。
頭で捉えないで、ぜひ実際に自分で観察してみてください。自然観察です♪
では、過去も未来もなく、今もないなら、一体「私」は存在しているのでしょうか?しているとしたらどこに存在しているのでしょう?
私たちの経験の中に“唯一まったく流れないもの、変化しないもの”、頭の中ではないものがあります。それはそれらのすべてに気づいている意識です。何かが流れていると分かるには、流れていないものがないといけません。
時間が流れていることに気づいている自分。でも、その自分は流れていない。動いていない。
流れない、動かないということは、今しかないということです。今しかないんです。これがエックハルト・トールのいう「今」です。
では、振り返って、いわゆる「私」や「私の人生」というもの。これはすべて「過去、今、未来」という時間軸の中にしかありません。でも、存在していませんでしたね?
今というのは、時間軸のストーリーがない場所(場所じゃないけど)を指しているんです。ストーリーがないところ。
一旦ストーリーがないところに立ったとき、目の前に見える流れていく事象は、次々と現れる未知な現象となります。次の瞬間に角から自転車が現れるかもしれない。またはある新しい思いが浮かんでくるかもしれない。次の瞬間に何が起きるかはいつも未知。
そうやって見ていくと、人生は自分がコントロールしてなんとか幸せに、または安心安全にしていくものではなく、一つ一つの出来事、現象が生まれてくる愛おしいものになります。
出来事が悲しいことだったとしても、辛いことだったとしても、なぜか現れてきた生命のストーリー。「私」という愛おしい主人公がいるストーリー。
理由はわからないけど、生まれてくるストーリー。そして、そのストーリーに気づいている時間を超えた自分。
色即是空=ストーリーを生きる自分(色)は、すなわちストーリーに気づいている自分(空)である。この二つを分けることはできない、二つではない。非二元(二つに非ず)。
私たちの一番の勘違いは、この二つの自分が同じ個の自分だと思っていること。さて、こっちへ行くと話がいつまでも終わらないので話を戻します。
実体である「今」には悩みはない。時間軸のストーリーから解放されているから。じゃぁ、「今」に目覚めれば悩みなくなる?ある意味そう。でも、色の自分が癒やされていないほど、個の自分のストーリーにはまってしまう。だから癒しも大切だと思うのです。
長々と書いてきましたが、実体のない私は、「私の人生」を行きている私と常にともにあって、決して離れることはない。実体の私とは「永遠の無条件の愛、生命」。
私たちはみな守られている♪ ストーリーから離れて、愛を感じてみませんか?
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