磐座探訪雑記帳

http://www.message.ne.jp/iwakurapc/blog.html     【磐座探訪雑記帳 池田清隆 】より

100.自然神の精気

 この項をもって、ブログも百回を数えることになる。まだ書きのこしたこと、書き足らないこともあるのだが、ひとつの区切りを迎えたという想いもつよい。冒頭にも書いたが、磐座と思しきものに出会ったのは小学校の林間学校、ふるさとの「金山出石寺」だった。山門前の広場、弘法大師空海が修行をしたという「護摩岩」が子供心にもつよく印象にのこった。われながら奇妙な子供だと思うが、なぜか気になるのだ。無数の割れ目がはしり、びっしりと樹木が生い茂る巨岩だったが、その割れ目の奥に「なにか」潜んでいるような、得体のしれないその「なにか」がじっとこちらを見ているような気がしてならなかった。怖いもの見たさ……とでもいうのか。あえてその巨岩の近くを通ると、背筋がゾクゾクした。子供ならではの「異界体験」だったのだろう。

 八ヶ岳の南麓、標高一二五〇メートルの森に移り住んで二二年、クマザサが生い茂る雑木林のなかに「磐座」や「石神」が点在する庭をつくりつづけてきた。いわば「私のイワクラ」ともいえるものだが、もとより、自身がそう想っているにすぎない。全国各地の磐座を訪ねるなかで、印象にのこったものを思い浮かべながら、自らの感覚で石を組み、再現しようと試みたものだ。が、いつしかまわりの景色にとけこみ、苔むし、もうすっかり「自然の石」と化している。たで食う虫も好き好きとはいえ、「阿呆の鳥好き貧乏の木好き」のようで、なにやら面はゆい。とはいえ、当人はいたって真面目そのもの。家族からイシアタマと揶揄(やゆ)され、冷ややかな視線を感じながらも、それを本気で懸命にやってきた。自身のことながら、そこがやはりおかしい。

 さて、コロナ禍において、いかに人類が自然の前で「無力」なのかということを目の当たりにしてきた。自然災害のひとつと捉えられているほどだが、このウイルスは自然界の安定した生態系のなか、野生動物と共存しながらひっそりと生きてきたという。著名な霊長類学者は、「われわれは自然の一部であり、依存しているにもかかわらず、自然を無視し、ともに共有すべき動物を軽視したことに原因がある」といっている。人間が自然を破壊してきた結果だというのだ。

よく「パワースポット」という言葉を見聞きする。俗にいう「ご利益」と混同されていると思えるほどだが、視点をかえると、自然がもつ根源的な生命力といった景色がみえてくる。元来、年自然神は現世のご利益とは無縁だったし、あるとすれば、自然の精気によって癒されるという施しのようなものだった。昨今、あまりにも人間だけのご利益に振子が振れすぎているように思える。自然に帰れとまではいわないが、これを機に、自然との向き合いかたを見直し、「密」とは対極にあるような自然神の精気にふれてみたらどうだろう。ホッとひと息つけるはずだ。

令和4年3月10日

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99.岩石崇拝の始まりを考える

 誰が言ったのか、神のまばたきは人間の百年に相当するという。かつて奈良県桜井市の檜原神社近く、「山辺の道」から三輪山を拝し、山中の磐座を想い描いたときに観じたことがある。自然は神のまばたきの内に季節をめぐり、生と死を循環する。山からは雲が湧き、雲は、雲根(うんこん)とよばれる岩石から生じ、水をともなう。石は動かず、いつもそこにある。やがて、人は引き寄せられるように石の周りに集まる。子どもが生まれたとき、身内が亡くなったとき、獲物が獲れたとき、石に向かい頭(こうべ)をたれた。産土(うぶすな)の神はこうして生まれた。

 なぜ、人は大切なものを包むように石を神聖視し、祀ってきたのか。『百選』では、人類が石器という道具を手にしたときに、その萌芽があるのでは……と書いたが、これはいわば利便性といった観点から考えたものだ。とすると、精神性といった視点からはどうなのか。難しい課題だと思う。いや誰にもわからない。それこそ「神のみぞ知る」ことかもしれない。でも、なぜか。

何ごとの おはしますをば知らねども かたじけなさの涙こぼるる……。中世の歌人、西行が伊勢神宮で詠んだとされる歌だ。私はこの歌に日本人が神という存在に抱いてきた、えもいわれぬ深淵な心を想う。なぜかわからないけれど、じわりと胸が熱くなるような気這い、鳥肌がたつような感動が「あの辺り」から伝わってくる。でも妙に懐かしい。そうしたごく自然な感覚、直感的な想いが岩石崇拝のはじまりだったように思える。石に宿る神は、ただ自然のままにそこに在(おわ)す。みえないけれど、見守っていてくれる。「かたじけなさ」に手を合わせ、拝すればよかった。そのあたりの皮膚感覚のような感受性が、岩石崇拝の基層を静かに流れている。

 岩石の持つ永遠性、普遍性といったものも拝する「わけ」のひとつかもしれない。石は、変わらないものの象徴であり、祈りの根底には、変わらないものへのあこがれが託されている。季節は、春夏秋冬、毎年変わらないでめぐってくる。春には命が芽吹き、夏には命が茂り、秋には命が実る。そして冬には命が休み、籠るのだ。はるか縄文の昔から、その繰り返しのなかで人は生きてきた。自然そのものに身を委ねてきた。それが祈りであり信仰のはじまりだった。自然の営みが、人のすべてを左右すると日々体感していたからだ。変わらない自然の営みこそ、崇拝の対象だった。自然の摂理にはむかえば死がまっている。身を寄せ、ゆだねるしかない。順応するしかなかった。そうした無条件ともいえる自然に対する畏敬が、「かたじけなさ」という祈りへとつながった。つい頭をたれ、柏手(かしわで)のひとつも拍ってみたくなるのだ。

令和4年1月25日

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98.岩になったアイヌの酋長

アイヌは四季の移ろいに順応して生活を営んだ。小規模な農耕もおこなわれたが、生活の基盤は、漁労・狩猟・採集だった。いわば縄文以来の生活を維持し、大自然のなかに食料を求めて生きてきた民族だ。かつて樺太や千島・本州の北部にも分布していたが、やがて北海道が唯一アイヌの土地となった。濃密に暮らしていた地域は、いまでいう胆振(いぶり)から日高地方に至る地域で、集落を形成する戸数はふつう五~六軒とされ、十戸もあれば大村とみられた。そうした集落にも秩序を維持するための裁判や刑罰のようなものがあった。刑罰は、一種のムチ打ちやツグナイという弁償刑で、裁判は、弁論をたたかわして是非を決めるチャランケ(談判)が主なものだったという。今回は、チャランケして岩になったというアイヌの神話を紹介したい。訪ねたのは、内浦湾(噴火湾)に面した伊達市の有珠(うす)という景勝地。一四二年前にここを訪れた英国人の女性旅行家・イザベラ・バードが、「私がこれまで日本で見てきたなかで最高に美しいものだった」(金坂清則訳『完訳日本奥地紀行』)と絶賛しているところだ。

「チャランケ岩」は、バードが泊まった「有珠会所跡」の西方、伊達市有珠と洞爺湖町虻田(あぶた)との境界にある。説明板に、境界近くに漂着した鯨の所有をめぐって有珠と虻田の酋長が七日七晩チャランケしたが譲らず、ついに八日目の朝、二人とも岩と化していたという話が記されている。更科源蔵の『アイヌの神話』をみると、岩になったのは、文化の源をひらいた神・オキクルミとその兄・サマイクルとあり、左の勝ち誇っているように見える岩がオキクルミで、右の文句を言っているように見えるのがサマイクルだという。「欲張ると岩になるぞ」という罰のようだが、岩になったあとでも、まだチャランケしているような造形がおもしろい。

 有珠会所跡の北側に「善光寺」がある。ここにバードが「実に立派な造り」と称賛した本堂が現存している。江戸末期に設けられた「蝦夷三官寺」のひとつだが、鄙には稀な……と違和感を覚えるほど端正で優雅な佇まいをみせている。ロシアの南下にともなう邪宗門対策、アイヌへの仏教布教などとされているが、むしろ有珠湾に面した神秘的な立地そのものが建立の「わけ」だったように思える。『菅江真澄遊覧記』には、「かつて見た松島、象潟の面影が目に浮かび、庭園などをみているようなおもしろさ」とあり、「アイヌは有珠のコタンをアイヌの国の都と言っている」とも記している。有珠は、日本有数の貝塚地帯である内浦湾のなかでも、とりわけその数が多いことが知られているが、和人が来る以前、おそらくここは、神々が集う「カムイコタン」そのものであり、信仰の地であったにちがいない。日本三景の松島にも例えられ、バードが「有珠は夢のように美しく、平和である」と記した情景がそれを物語っているように思える。

令和4年1月10日

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97.江差・瓶子岩

 この岩はいつまでもつだろうか……というのが第一印象だった。徳利を逆さにしたような姿から瓶子岩(へいしいわ)とよばれているが、その危なっかしい造形そのものがもうすでに神が宿る領域に達している。北海道江差町の鷗島(かもめじま)に屹立する伝説の奇岩だ。高さは約一〇メートルだという。海岸に立つ説明版に「神様から瓶子を授かった折居(おりい)という姥が、瓶子の中の水を海に注ぐと、ニシンが群れて江差の人びとの糧になった」とあり、そのときの瓶子が逆さまになり岩になったと記されている。が、安政年間の古地図には「ヘンシ岩」と書かれているという。ヘンシとは、アイヌ語で「頭の大きな」という意で、ヘンシが転じて瓶子となり、折居姥の伝説に結び付いたとみるのが妥当と思われる。わたしも瓶子というより、アイヌ語にいう大きな鷗の頭に見えた。古くより漁師の守り神として崇められていたというが、にょっきりと巨大な頭をもたげ、ニシンの群れを狙うような鋭い眼孔が印象深い。もともと鳥居はなかったようで、鷗島に鎮座する「厳島神社」建立四〇〇年を記念し、平成二七年に立てられたものとある。

 江差は、鴎島がいわば巨大な堤防の役割をもつ天然の良港で、この島があってこその繁栄でもあったといわれる。鷗が羽を広げたように見えるからとか、島を覆うほど鷗が群れていたからなど由来が語られているが、アイヌ語のカムイ・シリ(神の島)が転化したという説も伝わる。かつては弁天島とも呼ばれていたというが、豊漁の神である弁財天を祀る神の島であり、神の使いのような鷗が群れる島でもあったろう。江差という地名もまた、アイヌ語の岬を意味するエサシとも、「戦に敗れた砦」を意味するウエン・チャシに由来するともいうが、それ以上のことはわからない。かつてここにアイヌの砦があり、屈辱の記憶を地名に刻んだのだろうか。

松前江差の 鷗の島は 地から生えたか 浮島か……。心をひきつける「魂の唄」とも表現され、難しくも味わい深い格調と小節でもって唄われる「江差追分」の本唄のひとつだ。鷗が島全体を覆い隠すように群れているため、まるで浮島のように見えたという意だが、それほどニシンの群れが押し寄せたというのだ。押し寄せたのはニシンと鷗だけではない。江戸時代の中ごろからニシンに惹きつけられるように全国各地から人も押し寄せた。ヤン衆とよばれる出稼ぎ漁師・商人・職人・遊女や衣食住を支える女たちなど、「入船三千、出船三千」といわれるほどニシンに沸いた。が、つわものどもが夢のあと……やがて明治の末期、ニシンは北に去り、江差にかつての静かさがもどる。つわものといえば、鷗島にはエンカマ(弁慶の足跡)とよばれる大きな穴など、あの源義経渡来伝説ものこされている。それらもすべて夢の彼方だ。

令和3年12月25日

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96.石が寂びるという魅力

 雨あがりの匂いがする石が好きだ。苔むし、寂びてきた石がたまらなく好きだ。水気をたっぷりとふくみ、命がきらきらと輝いているような深い緑、深呼吸したくなるような爽やかさ、そうしたもろもろの風情が好きだ。久しい間、「磐座」という岩石崇拝を追いかけてきたが、今さらながら石そのものが好きなのだと自覚する。で、石のなにがこうも惹きつけるのか。よく石の永遠性という表現に出あうことがあるが、不変ながらも、時とともに風化していく過程に魅かれるのだと思う。掘り出した石もやがて肌合いが変わり、ところどころ苔むしてくる。数年も経つと全体が苔に覆われる。人の命の有限さを思うにつけ、そうした「時のつみ重なり」がしみじみと心をうつ。時と自然が、ゆっくりと、育むように石の美しさをつくりだしていく。 庭師の話によると、寂びた石のことを「ジャグレ石」というそうだ。水石(みずいし)の鑑賞などにつかわれる用語のようだが、風化などによって生じたざらざらとした凸凹(おうとつ)のある石の表面、肌合いなどを表現する言葉として使われている。「仙境の風情」などという表現もみられる。俗にいう「さび」に通じるものだと思うが、枯れるという味わいではなく、深々(しんしん)と心に沁みてくる石の風趣、いぶし銀といった感覚だろうか。時間(とき)と自然が奏でる魅力とでもいうのか、そうした石はただそこにあるだけで愛おしい。

八ヶ岳の山中に庭をつくりはじめて二〇年以上たつ。磐座を訪ねる旅のおり、各地の庭をみてきたが、作庭の拠りどころはやはり自身の「好み」でしかなかった。心がけたことは、起伏に富んだ地形と現存する雑木林を生かした庭……という一点だった。材料はほぼ敷地からでてきたものでまかなうことができた。藪のように荒れていた土地は、大小の石がごろごろところがっていた。どこを掘っても石がでてきた。石好きの身にとっては、願ってもない環境ともいえたが、庭にするには想像以上の労力と時間が必要だった。でてきた石はできるだけその場所に据えることを心がけた。あるがままに、という想いからだが、その過程がまた心地よかった。

自身で動かせる石の重さは一〇〇キロほど。それ以上になると庭の師匠でもある「作庭処・川口」の川口さんの力を借りた。が、ひとりで石の向きを決め、動かし、据えているときの快い緊張感は言葉にならない。半ば埋まっている石は可能な限り顔をだしてやる。顔をだした石は、風雨にさらされながら、森の香気を浴び、樹木が育つように肌合いを変え、苔むし寂びてくる。それがまたなんともいえず味わい深い。想えば、そうした日々を過ごしてきた。七五歳をむかえる冬、あと何年できるだろうか。そう考えながら、今日も「ヨタヨタ」と石と向きあう。

令和3年12月10日

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95.恐山の積石

 これはこの世の事ならず、死出の山路の裾野なる、賽(さい)の河原の物語……かの嬰児(みどりご)の所作として、河原の石を取り集め、是にて回向の塔を積む、一重積んでは父のため、二重積んでは母のため……。『地蔵和讃』の一節だが、ここには親より先に亡くなった幼子が、親に先立つ「親不孝」のために罪をあがなうという因果応報が語られている。いたいけな幼子が夜になると「一重積んでは」と唱えながら石を積み、それを鬼が壊し、また泣き泣き積みはじめる。が、際限もなく壊される。手足は擦れただれ、血が滴る。やがて「お地蔵さん」が現れて救ってくれるのだが、それを永遠に繰り返していかねばならない。賽の河原の石積みといわれる由縁だ。

 日本人は仏教が渡来する以前から石を積んで霊を回向してきたという。五輪塔や層塔はこの積石信仰が仏教化したものだといわれる。でも、なぜ石を積むのか。人がもつ本能のようなものかもしれないが、一つ、二つと数えながら……石だから積む。個人の願いをこめて一つでも多くの石を積む。積みあがれば塔となる。亡き人への「功徳」も積み上がる。仏教が伝来する以前、カミとホトケを区別するいわれはなかった。ごく自然な感覚で一つ一つの石に想いを託したのだ。石だからこそ功徳となり供養となる。想えば、もっとも自然で素朴な石への祈りがここにある。そうした原初以来の信仰がいまもって脈々と積石の基層を流れている。

以前訪ねたのは、四〇年以上も前だが、青森県下北半島にある恐山は、見ちがえるように整備されていた。が、宇曽利湖へとつづく「賽の河原」の光景は変わっていなかった。丘といい、谷といい積石で覆われ、いたるところから水蒸気が噴き出し、濃い硫黄の臭いがたちこめている。「死ねばお山にいく」と伝えられ、死者の霊が集まる山と信仰されてきた歴史そのままだ。印象的だったのは、やはり水子供養の地蔵と積石だった。地蔵さんは左手に幼子を抱え、両足には幼子が必死で取りすがっている。積石には数多くの風車が供えられ、カタカタと音をたてていた。

それにしても、と想う。『地蔵和讃』が語る情景のなんと非情なことか。幼子はなにも自らの意思で亡くなったわけではあるまい。できるはずもない。それをなぜ親不孝と責められるのか。なぜ永遠に石を積まなければならないのか。親も悲しいけれど子も同じように悲しい。なぜ幼子だけが責められるのか。むしろ責められるのは親のほうではないか。それにもまして、これほど「むごい」歌をまことしやかに謳うことの不条理を想う。親の悲しみと幼子への愛情という、いわば一方通行の裏に潜む「身勝手さ」を感じるのはわたしだけだろうか。南無地蔵菩薩……。

令和3年11月25日

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94.大石神社の「馬」

 岩木山の北東に位置する大石神社を訪ねたときの異様さは、いまでも忘れられない。神社の神体とされる「大石」のことではない。境内に群れているような「馬」のことだ。祭神が、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と神皇産霊神(かみむすびのかみ)で、ともに産霊(むすび)という文字を冠しているため、男女の「むすび」を象徴する神と考えられ、子授けと安産の神として信仰されてきた。「群れる」馬は、安産祈願とお礼のために奉納されたものだが、なんとも精巧にできており、小振りながら、まるで厩舎に繋がれている馬のようで、いななきが聞こえてくるようにも感じた。馬が繋がれた小屋には「馬ノ家」とあり、大石神社氏子という文字と、奉納した年月日が書かれている。よく見ると「飼い葉おけ」まで用意されている。

 大石神社を『百選』に選んだのは、津軽における岩木山の存在だった。巌鬼山と書いて、イワキヤマとも読んできた地域の歴史に、なんとも言いようのない怪奇さを覚えたからだ。さらにいえば、山頂近くに、祖霊がおさまるとされる巨大な霊巖・「御倉石(みくらいし)」があることもその「わけ」のひとつだった。岩木山の鬼門にあたり、巨石を祀る大石神社とともに、山頂付近に群れ広がる岩海と霊巖の存在。原初の「お山信仰」の痕跡が色濃く残る赤倉参道。イワキ(巌鬼)と表現されているように、鬼神が隠れ住んでいると伝えられてきた異界ともいえる霊域。なんとも神秘的で不思議な世界が、まるで磁石のように私を引き寄せた。

 それにしても、安産の象徴はふつう「犬」とされているが、なぜ、馬なのか。馬の信仰をしらべると、平安時代から願いを叶えるために、神の乗り物である「生きた」馬を奉納することがおこなわれ、それが土や木で作られた駒形に変わり、やがて板に馬を描いた絵馬(えま)に変化したことが記されている。また、「産の穢れ」のためなのか、馬小屋にワラを敷いて出産したという話も伝わっている。さらに、小舘衷三の『津軽の民間信仰』に、こんなことが書いてある。老婆に「なぜ木馬を奉納するのか」と聞いたところ、「産人(さんと)が苦しんでいると、神様に早くきていただかないと困るので、馬に乗ってきてもらうためです」と答えたという。

同じような信仰だが、岩手県遠野市には、出産のとき、夫が馬に鞍を置いて、お産の神である山の神を迎えに行くという習俗があったと伝わる。「産人の神」と呼ばれているが、素朴で切実な生と性に対する産神(うぶかみ)への願いをここにみる。そうした信仰と関係があるのか。境内の松の木に巨大な男根が刻まれ、そそり立っていた。それにしても誰が彫ったのか、なんともリアルで見事な出来だと感心した。馬と男根、これもまた産人の神への祈りなのだろう。

令和3年11月10日

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93.毛越寺庭園の立石

 奇跡に近いことだが、平安時代後期の石組がほぼそのままの姿で遺っている。岩手県平泉町の毛越寺(もうつうじ)庭園。奥州藤原氏二代・基衡(もとひら)の造営とされる「浄土式庭園」だ。永い年月の間に荒廃を重ね、地震などで一部変形してもいるが、八七〇年余前の面影をいまに伝えている。ただ、『吾妻鏡』に「堂宇は四十余宇、禅房は五百余宇」と記され、「吾が朝無双」といわれた壮麗な堂塔伽藍は、嘉禄二年(一二二六)の火災でその大半が焼失した。以後、幸か不幸か、主(あるじ)を失った壮大な庭園は、「兵どもが夢の跡」さながらに、ゆっくりと自然の一部に同化しつつ、発掘されるまで、忘れ去られたように眠っていた。当時の特質をもっとも純粋なまま、具体的に示している……と賞される由縁である。

 庭園の中心となるのが、塔山(とうやま)を背景とした「大泉が池」の景観だ。東西約一八〇メートル、南北約九〇メートルという広がりがなんとも心地いい。当時の堂塔は一物もなく、松尾芭蕉が『奥の細道』で「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたに有り」と詠んだ南大門跡も礎石を残すのみだ。姿をとどめるものは広大な池だけといってもいい。永い間隠されたようにひっそりと埋もれていただけに、それがかえって寂びた風情を醸しだしている。文字通り「夢の跡」ながら、王朝の雅(みやび)を超越した異次元ともいえる世界をつくりだしている。

大門跡から右手の松並木に沿って池のみぎわを歩くと、出島と中島の石組が見えてくる。当時の造形そのままに、九百年近い時の重なりが幻のように現世浄土の世界を現出している。ゆったりと、やさしく、のびのびと、これが基衡の願った「仏の庭」なのか……としばらく魅入ってしまった。基衡の勢力は父清衡を大きく超え、日本列島の三分の一ほどに及んだという。かつて大和朝廷に奪われた「蝦夷の大地」をとりもどしたと思っても不思議ではない。理不尽にも攻められ、かつ抑圧されてきた蝦夷への深い鎮魂と祈り。極楽浄土を願う基衡の想いをここにみる。

その一画に斜めに傾いた立石がある。高さ二・八メートルだという。目を惹きつけるとはこのような景色のことか。なにを表現しているのか分かっていないが、まるで庭園の主・基衡がそこに佇んでいるように想えてくる。おそらく、この立石には基衡の心霊が依りつき、宿っているにちがいない。創建当時の堂塔が消えうせたいま、いわば庭園を守護する神体石であり、寺の本尊とでもいうべき存在だろうか。まるで「ピサの斜塔」のように、程よい傾きとでもいうのか、当初からこのような造形だったのか、それとも永い風雪のなかでこのような姿となったのか。それがかえって存在感を高め、たった一石で庭全体を引き締めている。まさに「主石」の風格である。

令和3年10月25日

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92.北限の摩崖仏

 岩手県平泉町の中心部から太田川を南西に六キロほど遡ったところに、達谷窟(たっこくのいわや)と呼ばれる史跡がある。東西約一五〇メートル、高さ三五メートルほどの断崖に穿たれた岩窟で、ここに懸崖造(けんがいづくり)の毘沙門堂が建っている。崩れやすい岸壁のためか、岩窟そのものは浅くなっており、朱色の堂が張り付き、食い込んでいるような感じをうける。平安の初め、この地を支配した蝦夷(えみし)の首領・悪路王が住んでいたと伝わる岩屋で、あの坂上田村麻呂が悪路王を滅ぼしたおり建立、毘沙門天を安置したことが始まりとされている。今まで野火のため二度ほど焼失したというが、現在の堂は昭和三六年に復元されたものだ。

 毘沙門堂をでて奥へすすむと、岸壁が途切れるあたりに巨大な顔が浮き出ている。探さないとわからないほど崩落がすすんでいるが、かつては一六・五メートルの摩崖仏だったという。「岩面大仏」と呼ばれているが、大日如来とも阿弥陀如来ともいわれ、日本最大級、北限の摩崖仏とされている。が、いまはわずかに顔の部分を残すのみだ。その顔も長年の風雪で摩滅、上部が大きく欠けており、崩れ去るのも、時間の問題かもしれない。田村麻呂が彫ったとか、源義家が弓弰(ゆはず)で刻んだとも伝承されているがその真意はわかっていない。

 じつは源頼朝も、奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉へ帰るおりここを訪ねている。『吾妻鏡』には、達谷窟を「田谷窟」とし、「賊主悪路王並赤頭等、塞を構えるの岩室也」と記している。ここにいう賊主が、悪路王の初見だというが、田村麻呂に征服されたアテルイ(阿弖流為)のことだとする説がある。どうも悪路王の背後には田村麻呂の姿がちらつく。光と影のようなものだ。思えば長い間、毛人(もうじん)、エミシ(蝦夷)、鬼などと蔑称され、天皇支配の外、化外(けがい)の民とされた人たちがのどかに暮らしていた陸奥国(むつのくに)。蝦夷の蝦は毛深いこと、夷は野蛮人を意味する。また陸奥国はそれまで道奥(みちのおく)と呼ばれていた。都から遠く離れた道の奥に住む毛深い野蛮人……と差別されてきた「影」がこの達谷窟に漂っている。

 頼朝は達谷窟を訪ねて三年後、征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府を開くことになる。想うに、このとき既に頼朝は自身を田村麻呂将軍になぞらえ、八幡神を鎌倉に勧請した五代前の祖・頼義に想いを馳せていたのだと思われる。頼義は鎮守府将軍に任ぜられ、朝敵・阿部貞任を厨川で討ち果たしたことで知られるが、頼朝の胸には「オレはあの田村麻呂に並び、尊敬する先祖・頼義の切願を果たした」という想いが熱い血潮のように去来していたであろうと想像する。

令和3年10月10日

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91.沖の石

 山本周五郎の歴史小説に『樅ノ木は残った』という長編がある。五五歳という、まさに円熟期に紡ぎだされた代表作で、質量ともに読み応えがあった。仙台藩の三代藩主・伊達網宗のときに起こったお家騒動(伊達騒動)を題材にしたもので、従来逆臣とされてきた原田甲斐を主人公とし、幕府による取り潰しから藩を救う忠臣として描きなおしている。初めて読んだのは二五歳になったころだが、壁に突き当たるたびに読み返してきた「座右の書」のような存在だった。

 このころの伊達家は、政宗の末子・宗勝も生存しており、まだ藩の基盤も固まらず、六二万石という大藩ゆえに幕府から干渉をうけ、騒動の種には事欠かなかった。取り潰しは免れたが、綱宗は二一歳で隠居させられ、二歳の長男(綱村)に家督を譲るというありさまだった。騒動は綱村が幼少という間隙を縫って起きた事件ともいえるが、その反動なのか、綱村は長ずるにおよんで、人材の登用、養蚕や塩田の開発、寺社の造営など藩の振興に努め、中興の主と仰がれた。が、皮肉にもこれらの改革が財政を圧迫、四四歳のとき、父と同様、一族の反発で隠居する羽目になる。

 綱村がすすめた藩政で異色とも思えるものがある。藩祖・政宗に端を発する名所旧跡整備と称されるもので、とくに藩をあげて取り組んだ歌枕の地再発見と保護が知られている。よく紹介されるのは、海岸近くにありながら「けっして波(津波)が越えることはない」と『古今集』や『百人一首』などに詠まれた多賀城市の「末の松山」だが、今は二本の老松が残るのみ、その麓に、今回紹介する「沖の石」が存在する。『千載和歌集』に載る「わが袖は しほひにみえぬ 沖の石の 人こそしらね かわくまぞなき」という二条院讃岐の歌などで知られる。

 沖の井、興井とも表記されるが、民俗学者の野本寛一氏は『神々の風景』で、井は、井戸をさす場合が多いが、ときには水を意味し、水源地としての意をもつと記している。説明板には「綱村は地元の有力者を奥井守(おくのいのもり)に任命し、諸役を免除する代わりに興井を手厚く保護させた」とある。過去の文献をみても「池」という表現がみられ、湧水による池であったと考えられる。諸役を免じてまで守る井という表現に、歌枕だけではない沖の石の存在が視えてくる。かつてはここまで海だったというが、現在でも海から一・五キロほど、先の大震災のときには二メートルほどの津波が押し寄せている。ということは、海岸近くに湧く貴重な水源だったことが想像できる。しかも、池の中には巨大な奇岩(沖の石)が盛り上がるように横たわっている。必然、信仰の対象となったであろうと想像される。綱村が諸役を免じてまで任命した奥井守は、貴重な水源と沖の石を祀る神官でもあったのではないか……。そう、沖の石は「磐座」だったのだ。

令和3年9月25日

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90.仙人が住まう「蓬莱島」

 四国の出身だからというわけではないが、以前から「日本三名園」という呼称に違和感をもっていた。この表現がいつから使われ始めたのかわからないが、明治の中頃から文献に現れてくるという。三名園(三公園)とは、金沢の兼六園、水戸の偕楽園、岡山の後楽園を指すが、共通するのは、江戸期に造営された池泉回遊式の大名庭園ということだ。広大な規模を誇り、池の周りに築山を配し、橋を架けて園路を巡り、景色を愛でるという日本庭園の要素をすべて詰め込んだ様式がとられている。広さは兼六園が約三万五千坪、偕楽園と後楽園が約四万坪とされている。

 比べて、高松の栗林園は約二三万坪だという。三名園と比べても破格の広さを誇り、築庭の歴史も室町末期にさかのぼる。単なる大名庭園ではない造形の思想が各所に遺り、庭の歴史を語っている。明治の庭園研究家・小沢佳次郎は『明治庭園記』に、「誰が言い出したのか、偕楽園、兼六園、後楽園を日本三公園と称しているが、これは庭園を知らない者の評価であって取るに足りないもの」という旨を記している。岡山や水戸から反発や異論がでそうだが、さらに、兼六園は天下の名園だが、後楽園は遠く栗林園に及ばず、まして偕楽園は、後楽園と比べても見劣りする……という趣旨を述べ、「畢竟日本三公園の題目は一笑をも値せざる俗評」と断じている。

 ふるさと自慢のような話になったが、栗林園で最も気に入っているところは、園の西南にある小普陀(しょうふだ)と呼ばれている築山から南湖にかけての一帯、園の歴史と魅力がぎゅっと詰まっているようなところだ。小普陀とは、中国の観音霊場・普陀山にならって名付けられたと伝わり、ここに石組をともなう築山がつくられたことが築庭の始まりとされている。今まで数多くの石組を観てきたが、野趣に富みながらも、小普陀ほど粋で気品があるものはあまりしらない。初めて対峙したときは、息が詰まるような感動にとらわれたことを思い出す。これはなんだ……という驚きでもあったが、以来、何度ここを訪ねたことか。いわば、栗林園の原点であり「聖地」のようなところだ。栗林園はここを基点に南湖一帯が整備され、園の原形がつくられていった。

 小普陀の東、南湖に面して掬月亭(きくげつてい)と呼ばれる大きな茶屋がある。そこから南湖を望むと太鼓橋のような偃月橋(えんげつきょう)が眺められ、その左手前、池のなかに不思議な石組が見える。えもいわれぬ絶妙な石の組み合わせが池に映え、まるで仙人が住む蓬莱島のように想えることから「仙磯(せんぎ)」と呼ばれている。池泉の中心、掬月亭や偃月僑、南湖にあるさまざまな島や石組が、すべて仙磯のために存在しているように想えてくる。それほど蓬莱島石組の存在は大きい。湖面に揺らめいているような蓬莱島、そこに遊ぶ仙人が観えるようだ。

令和3年9月10日

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89.大湯環状列石と安久谷川

 先月、世界文化遺産に登録されることが決まった秋田県鹿角市の「大湯環状列石」。大湯ストーンサークル館の最新のガイドブックによると、列石は約八五〇〇個の石でつくられ、そのうちの六割ほどが安久谷川(あくやがわ)から大湯川に流れ出た石だという。しかも石の大きさからしてすぐ近くの河原ではなく、遺跡から二~四キロ上流と考えられている。なぜ大湯の縄文人は遠くから石を運んだのか。なぜ安久谷川の石でなければならなかったのか。以前、『百選』でも採りあげたが、環状列石を取材したときの素朴な疑問だ。石の下には遺体が埋葬され、列石は墓の上につくられた目印だというが、この石でなければならなかった「こだわり」とはなんだろうか。

 安久谷川の石は、石英閃緑玢岩(せきえいせんりょくひんがん)と呼ばれるものだという。マグマが地下の深いところでゆっくりと冷えて固まった深成岩で、滑らかな石肌をしており、硬くて重く、淡い灰緑色で、水に濡れると緑色を発することが特徴とされている。列石は二〇〇年間にもわたってつくられたというが、重さは平均すると三~四〇キロ、なかには二〇〇キロを超えるものもあるという。大湯の縄文人は、長い間、これだけのものを営々と運んできたのだ。この石のなにが縄文人を惹きつけたのか。いわば、岩石崇拝の根源に迫るようで興味がつきない。

 ともあれ、安久谷川と安久谷川が大湯川に合流するあたりに行ってきた。 写真は合流地点の河原と環状列石の一部を撮影したものだが、河原に群れる石が、なぜか配石遺構と重なるように想えた。どこか雰囲気が似ている。大湯の縄文人は、こうした河原から緑色をした石を探しだし、亡き人にふさわしい形と大きさの石を選んだのだろう。でもなぜ、緑色の石にこだわったのか。そう考えるだけでも、四〇〇〇年前の縄文人に触れるようで心がときめく。

 おおざっぱで感覚的な想いながら、大湯縄文人の鑑識眼のようなもの、美意識を思わずにはいられない。近しい死者を弔うためには、どうしてもこの「緑の石」でなければならなかったのだろう。そこに強い「こだわり」を感じる。わざわざ遠くから、同じ色をした石を同じ場所から、二〇〇年もの間、何代にもわたって運んできたという事実がそれを語っている。理屈ではない。「この石なら亡き人が喜んでくれる」という極めて情緒的で素朴な想いだったろう。滑らかな石肌、硬くて重く、水に濡れると命が輝くような緑色に変化する。まるで祈りを捧げる儀式に用いられた緑のヒスイと重なるようだが、そうしたごく自然な「祈り」のようなもの、それが環状列石の基層を流れているように思える。大湯の縄文人はどういうわけか緑の石が好きだった……。

令和3年8月25日

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88.二つの岩偶

 世界文化遺産に登録されることが決まったばかり。北秋田市の伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡の縄文館に、縄文晩期とされる二つの岩偶(がんぐう)が展示されている。ひとつは「藤株遺跡」から出土したもので、かすかに口を開け、目を閉じて眠っているような表情をしている。安らかで穏やかな顔だと思う。もうひとつは、「笑う岩偶」と呼ばれているもので、愛嬌ある表情から「がんたくん」と愛称され、いまや北秋田市のシンボルのような存在として知られる。

平成四年(一九九二)一〇月二五日付の朝日新聞に、三千年ぶりに見せた笑み……という解説とともに「なぜ笑う縄文岩偶」という記事が載った。「白坂遺跡」から、まるで笑っているような岩偶が出土したのだ。記事には考古学者の意見が載っており、三叉紋(さんさもん)という呪術的な文様の指摘とともに、「土偶は女、石製品は男がつくるのが普通であり、この岩偶も男がつくったもの」、「縄文の神事芸能では、神のまじめな顔、人を笑わせる顔、ヒステリックな顔の三種の土面が使われたが、この岩偶は陽の力を呼ぶ笑いの仮面」という二つの意見が興味を引いた。でもなぜ石でつくられたのか。そこがわからない。縄文館で学芸員の方にも聞いてみたが、数が少なく、顔であることは間違いないが、なぜ石なのか、まだ定説はないという。

考古学の辞典をみると「土偶に比して簡素な表現をなす」とあり、土偶と同じ意義をもつと記されている。いずれも限られた地域のみに存在し、出土数は極めて少ないという。その代表例といえるものが「笑う岩偶」だと思われる。しかし、この岩偶ははたして笑っているのだろうか。梅原猛は『縄文の神秘』において、「土偶は死者を表現した像」といっている。そうなのであろう。私には、この二つの岩偶が穏やかな死期を迎え、まるで微笑んでいるような死に顔(デスマスク)のように想えてくる。去り行く人への思慕なのか。穏やかでゆったりとした表情、眠るが如く、微笑むが如く、大往生といった雰囲気を宿す。死期が近づいた老人の顔を表して「のんのんさま」と表現をすることがあるが、この岩偶たちもまた、もうすでに神や仏ともいえる域に達し、彼方から子孫を見守るような「温顔」になっているように見えてくる。

さて、笑う岩偶……「オバQ」に例えられる大きな口とダンゴ鼻、下膨れた顔の「男」がニヤリとした表情でこちらを見つめている。どこかで見た顔だと思いながらカメラを向けると、なにか語りかけてくるようでドキリとした。笑いの奥に潜む緊張感、さしずめ「陽の力を呼ぶ仮面」の意かと思うが、なぜ石なのかという疑問はつきない。が、どうも「石は男がつくるもの」というところに答があるように思える。三〇〇〇年の眠りが覚めること願ってやまない。

令和3年8月10日

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87.湯殿山と剣の権現

 森敦は芥川賞を受賞した『月山』で、「月山はこの眺めからまたの名を臥牛山と呼び、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の陰所(かくしどころ)とみられるあたりを湯殿山といい、これを出羽三山と称するのです」と表現している。松尾芭蕉は『奥の細道』に「此山中の微細(みさい)、行者の法式(ほっしき)として他言することを禁ず」と記し、語られぬ湯殿にぬらす袂かな……という句を残している。森敦が陰所と表現し、芭蕉が、涙がでるほどありがたいと詠んだ湯殿山にふれてみたい

  陰所と表現され、「語られぬ湯殿」と詠われた湯殿山。そう記される由縁は、熱湯が湧出する赤い巨岩にある。この「赤い霊巖」が湯殿山神社そのものであり、社殿はない。湯が湧きでる赤い巨岩のぬめぬめとした感触、古代人はその官能的ともいえる有りように驚き、語ることすら畏れ多いと思ったのだ。まるで大地から湧きでるような精気のほとばしり。磐座信仰の古態をいまに留めるものだが、おそらく、この霊巖が出羽三山の原点だったのではないだろうか。出羽三山の「奥の院」といわれる由縁だ。ただ、その艶な姿を紹介することはできない。撮影禁止となっているからだ。しかし驚くなかれ、「御祓料」五〇〇円を納めると霊巖を裸足で登ることができるのだ。そうした参拝ながら、写真を撮ってはいけないという。とはいえ、調べている過程で多くの「語られぬ湯殿」を紹介する写真とであった。某大手出版社の『奥の細道』案内本には、なぜか見開き扱いで写真が載っている。が、その経緯はわからない。いや語ることができない。

 陰所といえば、駐車場から神社に向かう途中、巨大な赤い鳥居の背後に異様な山肌が見えてくる。「剣の権現」と呼ばれるが、赤い霊巖さながら、むきだしとなった茶褐色の断崖が妙に艶めかしく、雪解け水が滝となって流れ落ちていた。仙人沢と呼ばれるが、梵字川をはさんで相対する山を仙人岳といい、中腹には修行の場となった洞窟があり「女人権現」として拝されていた。いわば陰陽和合の形ともいえるが、私には剣の権現そのものが巨大な女陰に想われた。今東光が『奥の細道』で、「湯殿山は昔から恋の山という異名がある。想うに古くから生殖崇拝の習俗があり、この山の行事は淫らなものであったと想像される」と書いていた。修験道では修行の意味づけを男女和合であらわすことが多く、まれに「左道」すれすれの修法がおこなわれたというから、そうしたこともあったのかもしれない。赤い霊巖もさることながら、剣の権現もまた、別の意味での奥の院であり「かくしどころ」だったのではないだろうか。

令和3年7月25日

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86.安達原の鬼婆伝説

 久しい以前から、鬼婆(おにばば)が住んでいたという岩屋が気になっていた。身の毛がよだつような伝承とともに、鬼婆が住んでいたというからには、さぞかし鬼気迫るような岩窟……と想像していたからだ。が、伝説地(観世寺)訪ねてみると「笠石」と呼ばれているように、岩屋というより、雨宿りができる程度の空間でしかなかった。ところは、福島県二本松市の安達原(あだちがはら)。しかし、ある意味期待外れながらも、笠石にまつわる鬼婆伝説は、人間のもつ根源的な宿業を鮮やかに映しだしており、怪奇さとともに、人間的ともいえるむごたらしさが胸に突き刺さる。いわば、人が畜生にも、鬼にもなるという目と耳を覆いたくなるような物語だ。

 公家に奉公する岩手という乳母が育てていた姫が重い病にかかり、「妊婦の生き肝をのませれば治る」と告げられる。岩手は生き肝を求めて安達原の岩屋にたどり着く。そこに臨月の妻を伴った夫婦が宿を求め、産気づく。岩手は、夫が外に出たすきに妊婦の腹を裂き、生き肝を取り出す。息絶えた妊婦のお守りをみると、生き別れた娘であることを知り、自らの業(ごう)にもだえ狂い鬼と化す。以来、宿を求めた旅人を殺し続け、「安達原の鬼婆」としてしれわたる……。

 なんとも凄まじい話だが、安達原・観世寺に伝わる鬼婆伝説だ。手元にある辞書で「鬼」のキーワードをみると、化け物・無慈悲・冷酷・恐ろしいという言葉が並ぶ。でも、化け物以外は、すべて人間にも当てはまる言葉ではないか。ここにいう鬼婆も、姫の病を心配する心優しいひとりの女だった。姫を救うためとはいえ、実の娘を殺した母として「もだえ狂う」という悲惨さも、生身の人間そのものといっていい。『日本民俗事典』には「空想上の怪物として擬人化されたもの」とある。鬼とはやはり人なのだ。仏教に「みな人の心の底の奥の院、探してみれば本尊は鬼」という歌があるが、鬼とはいわば人の心を映しだす鏡のようなものかもしれない。

 観世寺のすぐ近く、阿武隈川の堤防脇に鬼婆を埋葬したという黒塚がある。謡曲「黒塚」の題材となったところだが、土饅頭のような小さな円墳に杉の古木が窮屈そうに根を張っている。ここに我が子の腹を裂き、罪の重さに耐えかね、鬼婆と化した哀れな老女が葬られているという。考えてみればこれほど残酷な話があるだろうか。知らぬこととはいえ、乳母として育てていた姫を救うために生き別れた娘を殺し、果ては鬼婆となって旅人を殺し続ける。悲劇が悲劇を呼び、さらに悲劇が重なるような老女の末路。人は誰もが鬼になりうるという「心の底の奥の院」を覗くような話だが、さて、あなたの心の底には、どんな「本尊」が鎮座しているのだろうか。

令和3年7月10日

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85.水戸黄門と岩石崇拝

 山梨県に在住する者として、最も頻繁に出会う歴史上の人物は武田信玄だが、茨城県においてはやはり「水戸黄門」こと徳川光圀だろう。水戸藩の二代藩主であり、地元では、七三歳で没するまで殉死の禁止、『大日本史』の編纂、社寺改革などに尽力した「名君」として慕われている。「黄門さま」という愛称で知られるが、調べていくと磐座を含む神道にも大きな影響を与えた人物であることが浮かび上がる。光圀は『大日本史』の編纂などから「水戸学」の創始者と考えられているが、その基層を流れているのは、「天皇に対する絶対的な忠誠」とされる。御三家のひとつである立場を想うとなんとも危険な思想ともいえるが、それが許されるというところが、光圀たる由縁ともいわれている。なぜか。いくつか説があるが、徳川幕府の「保険説」といわれるものがおもしろい。つまり、徳川家存続のために、御三家のひとつに天皇家の「血」を入れておき、いざというときの「保険」にしたというものだ。その血を入れたのが水戸家だったという。事実、光圀は皇族ともいえる関白近衛家から泰姫(たいひめ)を妻に迎えている。

 さて、光圀がおこなった社寺改革だが、お抱え医師だった井上玄桐(げんとう)が記した『玄桐筆記』にその概要をみることができる。「神道ハ神道、仏道ハ仏道、修験ハ修験、各々其道を専にして他を混雑せざれと教へ給ふ」というものだが、各々その分を守り、純正を保て……といっている。あるべき姿に「再生」させるという名目ながら、寺院においては、二〇八八寺のうち一〇九八寺を破却。神社では一村一社制を徹底し、神仏習合色の強い神社は仏教色を払拭させるか破却した。さらに、仏像を神体とする神社から大半の仏像が追放され、幣・鏡・石といったものに替えられている。殿さまとはいえ、神社の神体を入れ替えるということまでやっているのだ。

 そうした光圀が巨岩を神体とした神社を創建している。ところは、常陸大宮市の陰陽山。標高二三三メートルの岩山で、頂上付近に陰陽神社が鎮座する。ことの起こりは、三四歳で藩主になったとき、巡視中に二つの巨岩を望み、登山して確認、感動して祀ることを思い立つ。さらに、六三歳で隠居したときに再び山に登り、陰陽石と名付けた……というものだ。陰石の高さ約一〇メートル、陽石は約九メートルとされている。が、「東日本大震災」により陰石が崩落、以来、あまり手入れもされていないようで、訪ねたときは木々に覆われていた。かろうじて裏側から陽石を垣間見ることができるが、往時の面影はない。展望台がある頂上部分には磐座を想わせる露岩が群れており、晴れた日には筑波山を望むことができるという。奇しくも光圀が藩主になった年と隠居した年、二度も登って拝したという陰陽石。光圀の岩石崇拝への想いをここに観る。

令和3年6月25日

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84.コロナと丸石道祖神

 聖武天皇の御代、天然痘が猛威をふるい、人民の三分の一に当たる命が奪われたという。感染症のパンデミックが起こったのだ。このときの懺悔にも似た天皇の詔が『続日本紀』天平九年(七三七)五月一九日の条に記録されている。四月以来、疫病と旱魃が並び起こって、田の苗は枯れしぼんでしまった。このため山川の神々に祈祷し、天神地祇に供物を捧げてお祀りしたが、まだご利益がなく、現在に至るまで尚人民は苦しんでいる。朕が不徳のためにこのような災難を招いてしまった。これを反省して寛大で情け深い心を施して、人民の患いを救おうと思う……。

 朕が不徳のため、としながらもできることはただひとつ。山川の神々や天神地祇に祈り、供物を捧げることでしかなかった。でもまてよ、と思う。コロナ禍のいまとなにがちがうのか。有効な水際対策もままならず、ワクチンは遅れ、病床はひっ迫。ただ、三密を避け、自粛してほしいと神頼みのように言っているだけではないか。目に見えずして忍び寄る疫病神。令和のいまでもこのありさまだ。まして奈良初期、防ぐ手立てはなかったろう。とはいえ、いつの世も同じ、自らの命は自らが守らねばならない。で、お上に頼れない庶民は考えた。あの世とこの世を塞いだ千引(ちびき)岩のように、疫病を防いでくれる石神を境界に祀り、さえぎってもらおうと。道祖神(どうそじん)こと、サエノカミ(塞神)だ。柳田國男監修の『民俗学辞典』をみると、「その名のごとく元来は防障(ぼうしょう)・防塞(ぼうさい)の神であり、外から襲い来る疫神悪霊などを村境や辻・橋のたもとなどで防障する意」とある。難しい言葉が並んでいるが、ようするに、自分たちのムラに邪霊や疫病神の類が立ち入らぬようサエギル神として祀られたというのだ。

 道祖神のひとつに「丸石道祖神」がある。山梨県の甲府盆地に集中してみられる石神だが、ここに紹介する丸石は山梨市七日市場にある道祖神で、直径一一〇センチ、高さ九五センチという日本最大級を誇る。この道祖神場で一月一四日の小正月に「ドンドンヤキ」と呼ばれる祭事がおこなわれる。写真を見比べてほしい。ひとつは普段の丸石神、もうひとつはオコヤ(御小屋)と呼ばれるが、竹や稲わら、ヒノキの葉で覆われた丸石神。この小屋をドンドンヤキのときに燃やしてしまう。燃え上がる火に悪魔払い、再生という意が語られるが、ぱちぱちと燃え盛る音は、悪霊を追い払う呪文のように聞こえたことだろう。最近はこの火で焼いたマユダンゴを食べると虫歯にならない、風邪をひかないなど、身近な願いに変わっているという。それもそのはず、道祖神ながらも集落の守り神そのものだからだ。村人は丸い石があれば、ここにもってきた。でもなぜ丸石なのか、どうもこれは理屈ではない。ただ丸い石だから祀る……というのが根源らしい。

令和3年6月10日

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83.蚕影神社の蚕種石

『古事記』のオオゲツヒメ(大気都比売)の条に、乱暴狼藉を働いたスサノオ(須佐之男命)が高天原を追放され、オオゲツヒメに食べ物を乞う場面がある。オオゲツヒメは、鼻・口・尻から美味しい食べ物を取り出して差し出すが、スサノオは食べ物を穢していると怒り、非情にもオオゲツヒメを殺してしまう。すると、殺されたヒメの頭からカイコ(蚕)が生まれ、目から稲の種、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生まれる。五穀の起源とされるものだが、神さまの優先順位を示しているのか、五穀より先に頭からカイコが生まれたというところが意味深い。

 カイコを育て繭(まゆ)をとる養蚕(ようさん)は、今から五〇〇〇年ほど前に中国で始まったとされるが、日本には紀元前二〇〇年ごろ、中国からの渡来人が稲作とともに伝えたといわれている。が、神話の世界ではオオゲツヒメの頭から生まれたことになり、さらにいえば、金色姫(こんじきひめ)伝説という言い伝えも存在する。天竺の姫さまが継母に殺されそうになったため、桑の木でできた船で逃げ、常陸の国にたどり着いて、権太夫という夫婦に助けられ、大切に育てられたが病で亡くなる。やがて姫は棺(ひつぎ)のなかでカイコとなり、繭となった。筑波山の神から糸を紡ぐ技を教えられた夫婦は、その繭から糸をとり、糸を織って布にすることができた……という話だ。この伝説が、日本における養蚕の始まりとされている。その養蚕の始まりを誇る神社が筑波山の麓に鎮座する。蚕影(こかげ)神社だ。神額には「蚕影山」とあり、屋根の鬼飾りと呼ばれる部分には「蚕」の文字が大きく並ぶ。参道入り口の由緒板には、この神社が養蚕信仰の本山であり、それゆえ「日本一社」と名乗っているという旨が記されている。

 ただ、養蚕信仰の「本山」は荒れていた。養蚕業の衰退を示すように社殿や絵馬堂はなかば崩れ落ち、参道は枯草と落ち葉に埋もれていた。参拝者が来ていないという現実とともに、荒廃の陰が色濃く漂う。社殿の左側に蚕の病を防ぐと伝わる「蚕種石(こだねいし)」と呼ばれる石があるのだが、それと思しき石も苔むし、落ち葉の中にぽつんと忘れられていた。説明板もなにもない。この石を削り、石粉を蚕室に飾るとネズミの害を防ぎ、子孫繁栄とともにカイコが無事成長すると信仰された「霊石」だが、その面影はもうない。削り跡を覆いつくすほどの苔が、そのまま養蚕の衰退を示しているようで、信仰の虚しさといったものが伝わってくる。ひとたび、ご利益を求める人がいなくなるとこうなるのか、という想いが強い。まるで廃墟のような境内だが、その荒れ寂びた風情が蚕影神の「いま」を語っているようで心に沁みた。

令和3年5月25日

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82.日光東照宮・神橋

 日光を開山した勝道上人は、日光山内を区切る大谷川(だいやがわ)を渡るときに難渋した。谷が深く激流のため渡れないのだ。そのとき対岸に深沙(じんじゃ)大王があらわれ、赤と青の蛇をからませ、そこに山菅(やますげ)を生やして虹のような橋をかけ、渡岸を助けたという。そのために、蛇橋(じゃばし)とか山菅橋とも呼ばれているが、いまの神橋(しんきょう)の原形とされる橋のことだ。対岸に渡った勝道は、大谷川近くの丘上に草庵を建て「四本龍寺」を創建する。これが日光発祥、開山の紀元とされている。

 かつて、神橋近くの上流に、勝道が座して修行をおこなったという巨岩があった。高座石(こうざいし)と呼ばれているが、いまは埋もれて見ることができない。明治九年に記された『上野下野道の記』には、「大谷川の中に大岩あり、此の石は開山(勝道)坐して行をなされし故、高座石と云ふ。洪水にても流るる事なしと云ふ」とあり、明治二〇年刊行の『日光山小誌』には、神橋より二十間ほど上流に高座石があり、ここには鼻突石と讀誦(どくしょう)石と称する奇石もあったが、貞享の洪水で三石共に埋れて見えなくなり、その後、元禄の洪水で再び高座石だけが現れた……という旨が記されている。洪水でも流れないとされながら、その後洪水で埋もれ、再度洪水で姿を現したという高座石だが、いまはまた、その姿を隠している。明治三五年の洪水で再び埋没したのだ。この時の洪水は未曽有なもので、鬼怒川上流で山津波が発生、男体山中腹の崩壊で土砂が中禅寺湖へ流れ込み、大谷川は大洪水となり、神橋が初めて流失したと記録に残る。橋の長さは二八メートル、幅七・四メートル。水面からの高さは一〇・六メートルだという。野太い木製の橋ながら、江戸期に改修された切石製の橋脚が堅牢さを示し、弧を描くような優美な曲線と上品な朱色が周りの景色に映え、美しさを際立たせている。神事や将軍社参、天皇の勅使などが日光山内に向かうときにのみ使用されたという「神の橋」だ。

 神橋を渡ったすぐ近く、観音堂と三重塔が遺るのみだが、勝道が創建した四本龍寺の旧跡がある。ここに二荒山(ふたらさん)を遥拝していたときに紫の煙が立ち昇り、二荒山の方向にたなびいたと伝わる「紫雲石(しうんせき)」が苔むしている。この一画こそ、いわば、日光開山の原点であり、聖地といえるところだが、まるで時間が止まったかのように、石仏に見守られながら神寂びている。境内には日光修験の痕跡を示す護摩壇跡もあり、山岳信仰の名残が色濃く漂う。訪ねる人もほとんどなく、心穏やかに「霊性」を感得できるところといっていいだろう。

令和3年5月10日

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81.岩神の飛石

 初めて「飛石」という名を聞いたとき、火山噴火による噴石だろうと思っていた。群馬県前橋市の岩神稲荷神社の神体とされる「岩神の飛石」のことだ。事実、過去の由緒をみると、赤城山の噴火によって飛来したとも考えられていたようで、ゆえに飛石と名付けられたと記録に残る。周囲約六〇メートル、高さ約一〇メートル、埋もれている部分も約一〇メートルだという。はたしてこれだけの岩塊が噴火とはいえ、ここまで飛んでくるものかと調べてみると、大きな噴石はせいぜい火口まわり二~四キロほどしか飛ばないらしい。この飛来説以外にも赤城山や浅間山からの流出説などがあり定まってはいなかった。こうしたモヤモヤとしたわだかまりは地元にもあったようで「本当はどこから来たのか」という調査が、平成二五~二七年にかけておこなわれた。

 説明板によると、「調査の結果、浅間山からのものであることが判明した」と記されている。浅間山が二万四三〇〇年前の噴火で大崩壊、土石流が吾妻川を流れ下り、さらに渋川市付近で利根川に流れこみ、前橋や高崎の一部を含む「前橋台地」を形成したときに押し流されてきたものだという。飛んできたのではなく、浅間山からはるばると運ばれてきたということがわかったのだ。総重量は、二〇九八トンと推定されている。それにしてもと思う。おおまかな計測だが、浅間山から吾妻川を下り、利根川を経由して前橋まで優に六〇キロはあるだろう。感覚的な想いだが、それだけの距離を周囲六〇メートル、二〇〇〇トンもの岩塊が流されてくるだろうか。天変地異とはいえ、ちょっと「無理」があるようにも思えるのだが、それ以上のことはわからない。

 稲荷神社とあるが、「上野厩橋(前橋)藩の初代藩主酒井重忠公が、巨岩に稲荷大神を勧請したことが始まり」と由緒に記されている。岩神に稲荷神が習合したという姿だろうか。各所にひび割れがあり、岩石を積み上げたようにもみえるが、一体の岩塊であることがわかる。ぐるりと回ると、巨大さに圧倒されながらも、歩を進めるたびに千変万化の様相を呈する。赤みを帯びていることから「赤石」とも呼ばれるが、血の色を想像させるのか、江戸期に編纂された『前橋風土記』には「石工之を摧て、造屋の用に充てんと欲す。石中声有り、人の号ぶが如し。濃血流れ走る。石工四肢麻痺し両目眩暗して倒れ死す。故に土人相尊んで神と称す」と記されている。石工がノミを打ち込んだところ、石の中から叫び声が聞こえ、血が噴き出したというのだ。まるで怪談話のようだが、ここでは岩神そのものが、いわば生身の人間のように描かれている。にもかかわらず「土人相尊んで神と称す」というところが岩神に対する「畏れ」を表しているようで興味深い。

令和3年4月25日

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80.織田信長と岩石崇拝

 いままで「磐座」に関する本を三冊上梓したが、そのすべてで織田信長をとりあげた。信長が岩石を崇拝し、自身の依代としていたと思っているからだ。しかし、確証はない。史実として認められてもいない。でも、信長は磐座を信仰していた、そう想っている。信長は無神論者といわれることが多い。事実、多くの身内や家臣を殺し、数多くの虐殺をおこなっている。比叡山の焼き討ち、伊勢長嶋の大虐殺など、枚挙にいとまがない。が、信長にとっては、天下統一のための手段であり、過程にすぎなかったと思われる。当然ながら、かれは、俗にいう神も仏も人間が創ったことを理解しており、極めて客観的に、覚めた眼で眺めていたと考える。

 そうしたなかで、拠りどころとしたのが「石」だったと思われる。詳しいことに触れる余地はないが、いくつか事実を指摘しておきたい。まず、初めて築いた小牧山城の中心部を総石垣づくりとし、大手門脇には「鏡石」の先駆とされる巨石を置いた。岐阜城がある稲葉山は別名「一石山」、館の入口に人の背丈ほどもある巨石を立て並べ、高さ三五メートルの岩盤を背景とした庭園をつくる。安土山を総石垣造りの石の山に造り変え、一万人もの人数で頂上まで引き上げたという蛇石の存在。自身の化身として城内の総見寺に安置し、礼拝させた盆山(ぼんさん)という神体石。さらに、盆山を拝すれば、富と子孫と長寿に恵まれ、八〇歳まで長生きする……などとご利益を謳い、果ては「予が誕生日を聖日とし、総見寺へ参詣することを命ずる」と布告する。ところが、その「聖日」から二〇日後、「本能寺の変」で滅亡する。こうしたことを、宣教師・ルイスフロイスは、(信長は)あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望したが、悪魔的傲慢さによって破滅に至った……と『日本史』に記している。

 想うに、信長は自然神とでもいうべき不変な石に自身の依代を託そうとしたのではないか。天皇を超越した存在、アマテラス(天照大御神)以前の神を必要としたのだろう。それが蛇石であり、盆山だったと思われる。安土山に神殿のような天主をつくり、神体石を祀り、神のようにご利益をほどこす……そうした存在になろうとしたと思えてならない。独りよがりながら、無邪気とも思えるほどの「信仰心」だと想う。さらにいえば、安土城跡に造営された信長の廟所。秀吉が信長の一周忌にあわせて築いたとされるが、切石でできた基壇に、石の壇を重ね、その上に沢庵石を大きくしたような自然石を冠している。盆山を模したものだろうか。簡素ながら、信長の風貌を彷彿させるような造形。秀吉だからこそ、主君の「本質」を見抜いていたと思える佇まいだ。おそらくこの地下に蛇石と盆山が「埋葬」されていると思うのだが、どうだろうか。

令和3年4月10日

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79.秩父神社

 以前、埼玉県皆野町の「稲穂山古墳」について調べたとき、被葬者は知々夫国の初代国造とされる知々夫彦ではないかと想いを巡らしたことがある。その想いは今も変わっていないが、知々夫彦を祭神とするのが秩父の総鎮守・秩父神社だ。市の中心地に社殿を構え、正面に武甲山を拝し、ハハソノモリ(柞の森)と呼ばれる深い森を背負う。『新編武蔵風土記稿』には「社地一万千四百八十四坪、是を柞の森と称す。杉檜槻の大木多く繁茂し、古社の様思ひ知らる」と描写されている。「母巣の森」とも表記されるが、神社の起源が武甲山を遥拝する森であったことを想起させる。ハハソはハフリと同一語源で、放るに通じ、死体を捨てた場所、神葬りの意だという。とすると、知々夫国造の奥津城があった可能性も考えられるが、その伝承は見当たらない。

 贅を凝らした神門を入った左側に、「御神降石」と呼ばれる赤紫色をした巨石がドーンと座っている。家内が「亀の頭のようだ」と言っていたが、見る角度によっては、巨大な亀がうずくまっているように見える。湿気が高いときは紅色を呈し、水滴をつけるため「生き石」と呼ばれているらしい。高さ約一・五メートル、周囲約四・五メートルだという。社殿のなかった太古、鬱蒼とした樹林の中に、汗をかいたような赤い巨石が鎮座する。まさに自然崇拝の原点のような光景が現出していたと想像する。この巨石の前で武甲山を拝し、神霊を招いたのだろうか。

 さて久しい間、気になっていることだが、秩父神社を想い描くとき、つい腰が引けるのは、武甲山の痛々しい「姿」だ。西の伊吹山とも重なり、写真を撮るのもためらうほど、その山容に胸が痛む。「神の山」を爆破し、姿を変えることが許されるのか、という戸惑いとやるせなさが去来する。にもかかわらず、大規模な反対運動が起きたという記録はない。郷土の霊山が「白いピラミッド」と揶揄されるほどむき出しになっていくにもかかわらず、なぜだろうか。石灰岩採掘のため一三三六メートルあった標高が、四〇メートルも頂上を削られたという。が、山を削ること自体で地域住民の健康が害されたということはなかったという。逆に、繊維産業が衰退するなかで、セメントが秩父を潤し、救ってくれた……。けっしていい気分ではないが、許容できる範囲の変化、そうとらえたのだろうか。想うに、セメントによって恩恵を受けているという、いわば神さまの「恵み」だったのかもしれない。ただ拝むだけではなく、生活のために利用し得る山へと変容していった経緯をここに観る。これも地域と共存する新しい神体山の「あり様」なのかとも思うが、喉にトゲが刺さっているような感覚はぬぐえない。

令和3年3月25日

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78.鉈切と刀切

 千葉県館山市の船越鉈切(なたぎり)神社を再訪した。初めて訪ねたのはもう二〇年ほど前だろうか。以前上梓した『神々の気這い』でも採りあげたが、当時とあまり変わってはいなかった。県道をはさんで海側に海南刀切(なたぎり)神社が鎮座するが、もともとは同じ神域であり、同じ神を祀っていたと思われる。山側の鉈切神社を上之宮、海側の刀切神社を下之宮と称している。上之宮は海蝕洞窟にトヨタマヒメ(豊玉姫)、下之宮は大きく裂けた岩礁とともに手斧鑿(ちょうなのみ)明神を祭神とする。『安房志』に「古昔この神、上国より船に乗じてこの海浜に来たり、手斧を以て巨岩を鑿開(さくかい)して路を通ず」とあるので、「手斧鑿の神」が古来の土着神だったと思われる。鉈切、刀切と表記し、ともにナタギリと読んでいる神社名が、その名残を留めているように思える。おそらく、黒潮に乗って流れ着いた人びとが切り開いた土地でもあったろう。

 上之宮(船越)への参道は、以前と同じようにその清々しさを保っていた。薄暗い照葉樹林のなか鉈切洞窟への石段が続いている。説明板には、約六〇〇〇年前の縄文海進のときにできた海蝕洞窟で、高さ約四メートル、幅約六メートル、奥行約三七メートル、縄文後期から住居として使用され、古墳時代には墳墓として、のちトヨタマヒメを祀る神社として信仰をあつめている……という旨が記されている。普段は洞窟のなかに入ることはできないが、格子の間から本殿を拝することができる。コンクリート作りの小さな社殿ながら、よく整備されており、奥行きのある洞窟のなかで青い扉がその存在を訴えている。一九五六年に発掘調査がおこなわれたが、注目されるのは、丸木舟を利用した洞窟葬がおこなわれていたことだ。舟葬(しゅうそう)と呼ばれるが、このような葬送は、対岸の三浦半島や伊豆半島など黒潮海流圏にみられるという。

 この洞窟には住民を苦しめていた大蛇が棲んでいたが、その大蛇を手斧鑿の神が一刀両断、切り殺したという伝説がある。鉈切という神社名に繋がるものだが、それを裏付けるように、参道の中ほどに大蛇を退治するため、鉈を砥ぎ、試し切りをしたところ、真っ二つに割れたという「鉈砥ぎ石」が存在する。幅は四〇センチ、長さは七〇センチほどだろうか。びっしりと苔に覆われ、なるほど真ん中で割れている。「霊石」として祀っているのか、自然石で区切られた一画があり、四隅を簡素な杭で囲み、しめ縄ならぬ鎖が張られている。神籬のような樹木とともに、拝所のようなものも見てとれるが、ちょっとお粗末という感がする。もう少し神域としての配慮はできないものか。神社にとって、いわば、洞窟と並ぶ信仰の対象でもあるはずだ。祖先が伝えてきた伝承を語り継ぎ、大切に護ることこそ、今に生きるわれわれの責務と思うのだが……。

令和3年3月10日

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77.立石という「地名」

 前項で、東京には「これ」といった磐座が少ないと思っていた……と書いたが、それでも淡い期待を寄せていたのが葛飾区にある「立石」という地名だった。民俗学者の谷川健一は『神は細部に宿り給う』で、地名は土地の標識であり、土地に刻まれた人間の足跡と述べているが、由緒ある立石が屹立しているのではないかと想像していたからだ。江戸後期に刊行された『江戸名所図会』には、「この石によりて、近郷四五箇村の名とせしが、分郷となりしより後は、この村のみを立石とよべり」と記されている。なるほど、地名の起こりとなった石があるらしい。ところが立石のことを「地上へ顕れたる所わずかに壱尺……石根地中に入る事そのきわまりをしらず」と表現している。地上に出ているのは三〇センチほどだが、根本は際限がないというのだ。これでは立石というより、鹿島神宮の「要石(かなめいし)」のようではないかと可笑しかった。

 二回ほど訪ねたが、地名とは裏腹に「壱尺」どころか、ほとんど埋もれたような扁平な石でしかなかった。図絵には、ごつごつと盛り上がるような岩が描かれているが、刊行されてから二〇〇年近く、すっかり石は埋もれてしまい、立石と呼ばれていた面影はない。説明板には「古墳時代に房総から古墳の石材として運びこまれたもの」とあり、その後古代東山道の目印として転用されたものとある。おそらく、立石と呼ばれるような形状をしていたときもあったと思うが、今は小振りながらも形のよい石鳥居の先に、玉垣で囲まれ、地面より一段低いところに僅かばかり顔をだしている。いわば「立石」が埋もれたまま、地名だけが古来の土地柄を語っている。

 地名といえば、私の在所は山梨県北杜(ほくと)市大泉町で、字名が西井出。近隣の町村が合併して誕生した市だが、それまでは大泉村だった。村名や字名が示すように、八ヶ岳南麓湧水群と呼ばれる湧水が点在しているところで、いかにも水が豊かで、泉がこんこんと湧き出ているような地名が気にいっていた。村という牧歌的な響きも心地よかった。数多くの縄文遺跡が存在するところで、なんでもかんでもくっつけて効率を求める「平成の大合併」という風潮が好きではなかった。しかも生まれた市名が北杜。山梨の北端にある森(杜)という意だと思うが、その二文字から地域に刻まれた足跡は伝わってこなかった。杜は本来、ヤマナシという樹木を指す言葉だが、町村間の妥協でできた「造語」のようなものと聞いた。足跡を消してしまえばもう戻らない。それでも、大泉や井出という地名は、地霊のように水の恵みを語っている。神は細部に宿り給う……ではないが、いつか土地の足跡が「ホクト」に宿ることを願ってやまない。

令和3年2月25日

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76.「イナカブ岩」と呼ばれる磐座

 磐座を調べ始めたころ、東京には「これ」といった対象が少ないと思っていた。そうしたなかで、異色とも思える磐座があることを知った。西多摩にある武蔵御嶽神社や青渭(あおい)神社などを訪ねながら、見落としていたところだ。それもそのはず、存在を記した文献が見当たらないのだ。「天狗岩」とも「イナカブ岩」とも呼ばれているが、あきる野市五日市にある金比羅山の頂上近く、琴平神社の背後に屹立する。側面から見ると、天狗の鼻のように見えることから天狗岩と呼ばれるようになったというが、なぜ、イナカブなのかわからない。

 イナカブといえば、稲を刈り取ったあとの「稲株」が思い浮かぶ。とすると、稲作と関係があるように思えるのだが、繋がりがわからない。その謎を解く鍵は、どうも阿伎留(あきる)神社にあるらしい。武蔵国多摩郡八座の筆頭にあげられる式内社として知られ、琴平神社はその境外社とされている。秋留・安伎留とも表記、江戸中期から春日明神と称するようになったが、古くは「畔切(あきる)神」として信仰されていたという。現在はオオモノヌシ(大物主)を主神とするが、『式内社調査報告』によると、春日明神を称したときに主神を退いた「地主神」がいるという。新しい神に追い出されたのか。その正体は不明のまま、謎に包まれている。

 畔切とは、畔(あぜ)を切り築いて水田を開くことを意味すると思われるが、これも確かなことはわかっていない。推測になるが、主神を退いた地主神こそ、アキル(畔切)神だったのではないかと思えてくる。畔切と稲株、表記は違いこそすれ、この地を開拓し、水田を切り開いてきた一族の「祖先神」のように思えるからだ。さらにいえば、イナカブ岩がアキル神の神体石であり、阿伎留神社は、イナカブ岩を遥拝する里宮だったのではないかと想いがひろがる。

 琴平神社の社殿を右にまわり込むと、杉木立の向こうに岩石群と巨大な立岩が見えてくる。聞きしに勝るとはこのことか。歪んだような巨大な顔が、こちらをにらんでいる。これが天狗の顔なのか。自慢の鼻が折れたのか、鼻と思しきあたりが崩れている。顔が歪んでいるのは、苦痛のためか。それともなにか叫んでいるのか……などと想像が膨らむ。高さ約一二メートル、幅約八メートルだという。崩れ落ちた岩の一部が祭壇のようになっており、小さな石祠が置かれ、信仰の対象となっていることがわかる。しかも巨岩というだけではない。これほど表情豊かに見える岩はそうあるものではない。眼下にはあきる野の街が広がる。里人は畔を切るころ、ここまで登り、にらまれているような感覚に畏怖しながらも、稲の豊作を祈ったに違いない。

令和3年2月10日

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75.金閣寺の「九山八海石」

 九山八海石。クセンハッカイセキと読む。どこにでもある代物ではない。宇宙の中心にそびえ立つという巨大な須弥山(しゅみせん)を囲む九つの山と八つの海を表現した石のことで、仏が住む浄土の意をあわせもつ。縁起がいい石として珍重されてきたが、権力者が富と力でもって手に入れたものがほとんどだ。金閣寺の九山八海石も例外ではない。「北山殿」とも呼ばれたが、今や京都を代表する観光寺で、京都に来る訪日観光客の半分が訪れるという。当然ながら、境内に入った途端、トコロテンのように人の流れに身をまかせながら押し出されていく羽目になる。

 とはいえ、ここは人混みを避けて立ち止まり、九山八海石を探してほしい。観光客のほとんどはこの石の存在を知らず、金閣(舎利殿)のきらびやかさに目を奪われたまま通り過ぎる。が、金閣に近い入江のようなところから鏡湖池(きょうこち)を振り返ると、本州を模した葦原島(あしはらじま)と松の美しい鶴島と亀島が見えるはずだ。その手前、白い炎のような石がいかにもという表情で存在感を示している。足利義満が中国から取り寄せたという名石だ。古来より中国で好まれた太湖石だというが、岩肌が深い「しわ」を刻み、峰を成し、波打つようにくねっている。大海に浮かぶ深山といった景色だろうか。金閣寺庭園の「主石」といわれる由縁だ。

 義満は将軍職を長男の義持にゆずり、太政大臣に昇りつめるが、中国(明)の皇帝にたいしては日本国王と称しつつ、「臣源」という臣下の礼をとった。結果、明との貿易で莫大な富を得、北山殿と呼ばれる広大な庭園を手に入れたともいえるのだが、義満の危うい権力基盤を象徴しているようでどこか心もとない。義持は父義満を憎んでいたという。父が死ぬと北山殿は解体され、縮小して禅寺となる。応仁の乱では多くの伽藍が薪のように燃やされ、金閣と鏡湖池を含む庭の一部が往時の面影を保ったといわれる。さらに、足利義政が「銀閣」を造営するときも数多くの名石が運び出され、昭和の世、唯一創建当初の建物であった金閣までが放火され焼失することになる。

 以前、権力者が愛した「藤戸石」について触れたおり、まるでかれらの墓標のようだと書いたことがあるが、この九山八海石もまた、義満の墓のように見えてくる。古代インドの宇宙観に基づくという「貴石」とは裏腹に、その陰に見え隠れする数多くの悲劇とともに、権力者がもつ幻想のようなものが凝縮しているような気がする。池のなかに「天下」を模した葦原 島を造り、宇宙の中心を象徴する九山八海石を眺めていたと思われる義満。青白い炎のような石を見ていると、義満という強者(つわもの)の夢と観光客が落とす莫大な拝観料とが重なってくる。

令和3年1月25日

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74.鎌倉十王岩

 今から八四〇年ほど昔、源頼朝が鎌倉に拠点を構えたとき、源氏の氏神である鶴岡八幡宮を平安京の大内裏(だいだいり)に、若宮大路を朱雀(すざく)大路になぞらえて街づくりにあたったという。一四歳まで都で育ち、父義朝が平清盛に敗れたあと、伊豆で二〇年の流人生活を送っていた頼朝にとって、鎌倉は父ゆかりの故地のみならず、源氏再興の想いが凝縮したような土地でもあった。頼朝の妻・政子の安産と嫡男誕生を祈願するため、大路に石清水から勧請した八幡神の新しい宮を意味する「若宮」を冠するなど、頼朝の想いが顕れている。源氏再興の願いを街づくりの基軸に託し、新しい源氏の世が始まるという宣言でもあったろう。その若宮大路と鶴岡八幡宮の延長線の先に、街づくりの基点と伝わる「十王岩」が存在する。

 永い年月で風化し、形も定かではないが、中央に血盆(けつぼん)地蔵、左に如意輪観音、右には閻魔大王が彫られているという。ここにいう十王とは、死後の世界で亡くなった者を裁く王をいう。初七日から三回忌まで一〇回の裁判があるそうだが、そのなかで最も恐れられているのが五七日目の閻魔大王だ。でもなぜ十王岩に血盆地蔵と如意輪観音が彫られているのか。なぜ中央は閻魔ではなく血盆なのか。如意輪観音はなぜここにいるのか。謎だらけといっていい。そもそも血盆地蔵という存在が怪しい。調べると、一〇世紀ごろ中国で成立した「血盆経」と、そこに記された「血盆池地獄」という思想が見え隠れする。血盆経とは、女が女特有の「血」のために、死後、血の池(血盆池)地獄に堕ちることを説く経典のことで、救い出してくれるのが如意輪観音だという。女だけが堕ちる血の池、裁くのは閻魔大王、救うのは如意輪観音……という構図がぼんやりとだが浮かんでくる。とすると、十王岩の意とするところは「女人救済」という観念なのか。若宮大路は頼朝が政子の安産を祈り、手ずから道づくりを始めたと伝わる。血をともなう出産ながら、源氏の再興と弥栄がかかっている。基点と基軸という視点のみならず、頼朝と政子の願いがまるで水脈のように、基層で繋がっているように思えてくる。

 鎌倉は相模湾に面し、三方を山に囲まれた要害の地といわれる。十王岩がある鎌倉アルプスは北の要害でもあるが、逆にみれば、ここを破られれば「終り」ということにもなる。逃げ場もない。だから最後の執権、北条高時は逃げることもできず、一族郎党とともに自害した。十王岩から南を望むと鎌倉の市街が広がり、若宮大路が一直線に伸びている。磨崖仏がいつ彫られたのかわからないが、ここに立てば、いわば鎌倉の「きも」に触れるような気がする。

令和3年1月10日

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73.鎌倉の「やぐら」

 鎌倉幕府滅亡の地、北条高時の「腹切りやぐら」を訪ねたときの衝撃は忘れられない。ぽっかりと口を開けた楕円形の「やぐら」が、執権高時と北条一門八百七十余人の霊を飲み込んでいるように思えたからだ。崖に穿たれた穴が不気味な静寂のなか、ひっそりとうずくまり、まさに陰々滅々といった霊気が地面を這っていた。霊というものは、こういうひんやりとした澱みのことではないか、そう思った。元弘三年(一三三三)五月二二日、新田義貞によって鎌倉の各口を破られ、若宮大路に攻め込まれた高時は、屋敷の裏手、葛西谷(かさいがやつ)にある菩提寺・東勝寺に火を放ち、一族郎党とともに折り重なるように自害したという。ここにいうやぐらとは、山腹の崖をくりぬいた岩穴のことで、鎌倉から室町期にかけておこなわれた「納骨窟」のことをいう。矢倉・屋蔵・窟などの文字をあて、岩屋や岩殿などもやぐらと呼んでいた。いわゆる、鎌倉武士の墳墓窟と理解すればいいと思う。その数、二千基とも三千基ともいわれているが、まだ数多くのやぐらが埋もれているとされ、正確なことはわかっていない。

 もう五〇年以上も前のことだが、家内とよく鎌倉へ通った。三方を低い丘陵で囲まれた狭い土地ながら、古都の風情が色濃く残り、今のように観光客であふれる喧騒の巷とは無縁のころだった。駅から少し歩くと、谷戸(やと)と呼ばれる谷間が数多くあり、その奥に足を踏み入れると必ずといっていいほど寺があり、裏山には「百八やぐら」など、さまざまなやぐらが口を開けていた。まるで鎌倉武士の世界にタイムスリップしたような感覚になったことを思いだす。

 鎌倉という地名の起こりはよくわからない。が、有力な候補としてふたつの説が存在する。ひとつは、地形が竈(かまど)に似た谷のようであることから、釜の谷といい、「くら」は谷の意にして、かまくら(釜谷)と呼ばれたという説。もうひとつは、鎌倉は神倉(かみくら)にして神庫の意であるという説。どちらも決め手はないのだが、地形が竈に似た谷、という説により親しみを感じる。古来より日本人は、暗さをともなう「穴」には、なにか神霊が籠る神秘的な佇まいを感じるとともに、大いなる母性のようなものを抱いてきた。と同時に、人の生命力を復活してくれるところとして聖視した。アマテラス(天照大御神)は天岩戸に籠ることによって霊威を回復し、皇祖神としてよみがえった。古墳の石室も同じような意をもつと思われるのだが、やぐらもまた、岩穴崇拝が基層を流れているように思える。やがて、やぐらは室町中期で姿を消す。まさに鎌倉幕府とともに生まれ、幕府滅亡とともに消えていったといえるだろう。

令和2年12月25日

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72.フォッサマグナ

 前項で「国石」となったヒスイの話をしたが、この宝石は日本列島の成り立ちと密接な関係があるという。我が家がある山梨県北杜市は、本州中央部を南北に縦断し、日本を東西に分ける「フォッサマグナ」と呼ばれる大地溝帯の只中に位置する。フォッサは地溝、マグナは大きいという意で、大きな溝(みぞ)のことだ。明治初期にドイツ人の地質学者、エドムント・ナウマンが命名したもので、ナウマンゾウに名を遺すことで知られる。約一六〇〇万年前、日本列島がアジア大陸から離れ、現在の形になる過程で、ほぼ真ん中で大きく裂けて深い溝ができ、そこに海水が流入、海峡のような状態が続くなか、海底にたまった新しい地層が隆起し、八ヶ岳や富士山などの火山列ができたものとされる。溝の深さは約六〇〇〇メートル。その西端が糸魚川・静岡構造線と呼ばれるもので、ヒスイは古い地層との裂け目付近から見つかるという。ここを境に、食文化や習慣の違いも指摘され、糸魚川市は東と西の「境界のまち」として売り出している。

 裂け目の起点となる新潟県糸魚川市は、日本で初めてユネスコのジオパーク認定を受けたところだが、ここにはフォッサマグナに起因するさまざまな奇岩、景勝地が存在する。そのなかのひとつに能生(のう)海岸にある巨大な岩礁・弁天岩がある。約一〇〇万年前、フォッサマグナが陸地化する直前に海底火山の噴火によってできたものだという。岩というより島と表現したほうがぴったりくるような巨大さだが、岩礁には役割を終えた白亜の灯台と厳島神社があり、航海安全や豊漁を祈る聖地として信仰されてきた。付近にはヒスイの女王といわれるヌナカワヒメ(奴奈川姫)の産所や住居跡などの伝承地が点在し、奴奈川族が蟠踞(ばんきょ)していた地域とも考えられている。いわば、大地の裂け目が生み出した地球の遺産だが、マグマの息吹を留める雄大な造形が、ヌナカワヒメの霊能が宿る「奥津城」のように想えてくる。

 フォッサマグナの中間地点あたり、長野県南牧村、JR小海線の野辺山駅から国立天文台付近を通り平沢峠に向かうと、「獅子岩」という巨岩が見えてくる。今風にいえば、さしずめ「ゴジラ岩」とでもいうのだろうか。ナウマンはこの岩に登って南アルプス方面を眺めたときに、彼の言葉で「著しき奇妙な地形」と表現された景色に驚き、感動したという。気が遠くなりそうな話だが、ナウマンはここが列島を東西に分ける巨大な溝であり、日本列島の誕生にさかのぼる光景ではないかと思い始めたのだ。それがやがてフォッサマグナの発見に結実し、日本列島の起源へと繋がっていく。まさに磐座の始原ともいえる「天地創造」の世界をここにみる。

令和2年12月10日

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71.日本の「国石」となったヒスイ

 令和二年(二〇二〇)六月二四日の朝日新聞デジタルに「一・五トンのヒスイ原石、二〇個の穴、川面露出で盗掘被害」という記事が載った。糸魚川市を流れる青海川(おうみがわ)にあった巨大な原石が、ドリルで穴を開けられ盗掘にあっていたというのだ。現在は同市にあるフォッサマグナミュージアムに「保護」され、展示されているが、それほど貴重で高価なものだという証でもあるのだろう。今回は、世界最古、ヒスイに魅せられた国の話だ。

 国を代表する石を国石(こくせき)と呼んでいるが、平成二八年(二〇一六)九月二四日、金沢大学で開かれた日本鉱物科学会において、ヒスイが日本の国石に選ばれた。それまで、水晶や真珠が国石に準じた扱いをうけてきたが、正式にヒスイが認定されたのだ。白い色をした石が多いが、ところどころに緑色をした部分があり、古代より永遠の生命力を宿していると信じられてきた。漢字では翡翠と表記され、翡はカワセミのオスで赤を意味し、翠はメスで緑の意をもつという。日本人が最初に愛した宝石とされ、山梨県北杜市の「天神遺跡」から約六〇〇〇年前(縄文前期前半)の首飾りが出土している。日本最古であり、世界最古ともいわれるヒスイの装身具だ。カツオ節を小さくしたような大珠(たいしゅ)と呼ばれるものだが、こののち玉、勾玉(まがたま)へと姿を変えていく。ところが不思議なことに、奈良時代に忽然と姿を消し、昭和になって再発見されるまで、一三〇〇年もの間忘れられていたというから驚く。神秘の宝石とされる由縁でもあるが、長い間、日本でヒスイは採れないと思われていたのだ。

 渓流に洗われる白い巨石の写真は、小滝川ヒスイ峡に現存する最大級の岩塊で、硬くて重い性質上、かなりの激流でも動かないという。約五億年前、地下深くに生まれたものだが、悲しいことに盗掘を防ぐため、監視員が常駐しているという現実に胸が痛む。そのヒスイ狭から車で四〇分ほど、親不知の「翡翠ふるさと館」に世界最大級、一〇二トンの原石が展示されている。この原石も盗掘防止のため、青海川から運ばれたものだ。イルカの頭ように見えるが、これだけ巨大な原石は類をみない。まさに日本を代表する「国石」といえるだろう。それほど貴重なヒスイの原石。これは観光客に観せるものではなく、厳かに拝するものだと思う。「ヒスイの女王」といわれるヌナカワヒメ(奴奈川姫)伝説が色濃く残る糸魚川地方。いわば地域の歴史を刻んだ「地母神」のような存在だと思うからだ。鉱物学という視点では理解が難しいヒスイの信仰。見せ物ではなく、縄文から続いてきた糸魚川土着の神秘性を大切にしてほしいと強く願う。

令和2年11月25日

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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