自由人の系譜 丸谷才一「横しぐれ」

http://blog.livedoor.jp/maturika3691/archives/7634631.html 【自由人の系譜 丸谷才一「横しぐれ」番外(下)】より

「谺して山ほととぎすほしいまゝ」での帝国風景院賞(昭和6年)、主宰誌「花衣」の創刊と廃刊(昭和7年)を経て、昭和8年(1933)は杉田久女43歳の年であるが、どういうわけか久女はこの年のみ、ほぼ一年間にわたる日付の飛んだ日記を残した。

3月22日の記述に、「光子の遊学問題を中心として、夫との争ひますます深刻。金も百円以上に入用なのに」夫は「駑馬叱言のみにて、一銭も出してくれぬから私はしかたないなけなしの預金をはたいて皆出してやらねばならぬ。私はどこまでも光子の見方だ」とある(註1)。どうやら次女(16歳)の進学(美術学校)に、宇内は反対していたらしい(註2)。

(註1・杉田久女の漢字表記には、現在とちがうところが散見されるがそのまま用いた。以下同。註2・長女は前年に同志社を卒業して、中村汀女夫妻の斡旋で横浜で就職していた。)

出立(3月28日)の前夜にも、宇内から異議が出ていさかいとなり、次女を泣かせたともある。子供への対応においても、夫婦の教育方針のくい違いは如実である。

俳句の短冊まで書き散らして、学資を捻出せざるを得ない久女は(宇内の実家からの援助はこれまでにもなかったようである)、「自分の前歯はかけたままなれど一銭もない」と記したあと、「無限の淋しさ。私は始終最後を自殺でとぢ様と考へ出す程幽うつで孤どくで寂ばくだ」とつづる。

4月24日になると、「はりもない、たのしみもない、愛もない生活。只子を恋い、俳句のみ」「死か離婚か、道は一つだ。しかし私は光子の母として死ぬ方をえらびたい」「私は今何も求めてはゐない。肉慾も恋愛もとみも。地位と只げいじつ(芸術)と子と、誠じつ」

これが「花衣」を廃刊してからの久女の心境であった。いかに、久女が絶望にさらされていたかが、歴然とする記述である。しかしまた、こうも書き足している。「自分が安心立命して、どうか人を救ひたい。安心立命して、人をも救ふかがやきがほしい」

空虚極まる日々の中にも、前年につづいて、二度目の「ホトトギス」七月号雑詠巻頭を飾ると、「神の守りと、高浜先生の御慈愛による」と記し、土地の物産品を虚子に贈り、「師恩のありがたさを謝し我まゝを謝しまつ」らずにはいられなかった。

久女に俳句を教えた次兄は昭和4年に死んでいたが、まだ母親は関西宝塚に長兄とともに健在であった。娘たちも巣立ったいま、虚子と母親とが久女の安心立命の源であったようだ。

  無憂華(むゆうげ)の 木陰はいづこ 仏生会

  うらゝかや 斎(いつき)祀(まつ)れる 瓊(たま)の帯

平成元年に刊行された「杉田久女全集」(全二巻)の年譜によると、昭和7年の項に「句集出版の志を持ち、序文を虚子に願うも承諾されなかった」とある。

この年譜は久女の長女である石昌子さん作成によるものであるが、久女が「ホトトギス」同人になったのがこれには昭和9年となっている。ただし昭和7年とするものもあって、これから述べる事情を考慮すれば、昭和7年のほうに整合性があると思える(のだが)。

ともかく、昭和7年から8年にかけての久女は、次女の進学資金の工面をしながら、虚子の歳時記資料の下調べに奮闘している。短冊を書くのさえわずらわしいと、愚痴をこぼすほど多忙であるにもかかわらず、久女は嬉々として虚子を手助けしているのである。日記にも「高濱先生の御手伝出来れば幸いなり」とある。虚子はそれまでにも多くの序文を草しているのに、けなげともいっていいほどの献身ぶりを見せていた久女に、何ゆえかたくなに序文を与えようとしなかったのか。久女は「磯菜」と句集の題名まで決めていた(上掲「磯菜摘む行手いそがむいざ子ども」から採った題名)。宇内のみならず虚子との間にも、いつのまにか感情的齟齬(そご)が生じていたとしか思えない。それも虚子の側が一方的に拒否した形跡がある。

日記から三年ほど経った昭和11年2月、虚子はフランス外遊に旅立ち、6月に帰国した。この渡仏途上、虚子の乗船は門司に寄港した。このときの久女を伝える摩訶不思議な文章を虚子は残した。久女を語るとき、必ず取り上げられる「箱根丸事件」と呼ばれるものである。

この文章は「墓に詣り度いと思ってをる」と題されて、昭和21年「ホトトギス」11月号に掲載された。殊勝(な題名)をよそおいながらも、中味はあくどい久女攻撃文にほかならない。念のため付言しておくと、昭和21年は久女が世を去った年である(この年1月に死去)。以下、その文章の抜粋。

「久女さんの俳句は天才的であって、或る時代のホトトギスの雑詠欄では特別に光り輝いてゐた。其が遂には常軌を逸するやうになり、所謂(いわゆる)、手がつけられぬ人になって来た。最後に久女さんに会った時のことを思ひ出して見よう」と虚子は前置きして、その場景を述べる。

「門司を出航する間際になって甲板に立って港に別れを告げやうとしてゐると、其時〈虚子渡仏云々〉といふ旗を立てた一艘の舟が船尾に現れた。其舟には女の人が満載されてをって、其先頭に立ってゐるのが久女さんであった。察するところ其満載された女の人は久女さんのもとに集まってをる、昨日鯛を私にくれた(註)、小倉の俳人であろうと思はれた」

(註・虚子の言うその日、2月22日は、虚子62歳の誕生日だった。久女が祝い品に届けたのだろう。)

「さうして其等の人は皆一せいに私に向ってハンケチを振ってゐたが、其中に久女さんは先頭に進み出て千切れよとばかり手を高く上げて振ってゐた。甲板に出てゐる客は皆異様の目をして其舟を見、又其視線を私の方に向けてゐた。其舟はエンジンのついてゐる舟なのでポンポンと音を立てて汽船に遅れぬやうにと懸命について来る容子であった。もういい加減に離れてくれればいいと思っているのにいつ迄もついて来た。私は初めの間は手を上げて答礼してゐたが其気違ひじみてゐる行動に聊(いささ)か興がさめて来たので其のまま船室に引っ込んだ」

というものだった。

まだある。

「フランスから帰る時分にも同じ航路を取ったが為に又門司に立寄った。其時は私は人々に擁せられて陸に上ってをった。久女さんは私の船室を何度も訪れたさうで、・・何故に私に逢はしてくれぬのか、と言って泣き叫んで手のつけられぬ様子であったといふ。其時、久女さんが筆を執って色紙に書いたものだといふものを」虚子は見せられたが、「其は乱暴な字が書きなぐってあって一字も読めなかった」と、虚子は書いた。

さすがは実写を身上とする「ホトトギス」結社の総帥の文章である。さも目の当たりにしていたかのような写生文だ。この文面に接すれば、久女(の直情径行的性格)を知っている人なら、さもありなんと思ったであろうし、何も知らない人は杉田久女という俳人を虚子の文章どおりの女人と想像したであろう。

が、これは虚子の大嘘であった。杉田久女研究家増田連氏(宇内の教え子だという)の調査によれば、箱根丸の出航を、この日久女達は岸壁から見送ったのが真実であり(このときの見送り証言者を、増田氏は探し出している)、しかも復路において虚子の乗船が門司を素通りしたことは、虚子自身の文章「渡仏日記」が証明しているという(増田連著「杉田久女ノート」、昭和53年)。

「一字も読めなかった」というのが、久女の句であったとすれば、次の句を想定していたのだろうか。

   帰朝翁 横顔日やけ 笑み給ふ

なお、門出を祝した句は、

   虚子たのし 花の巴里へ 膝栗毛

という一句で、帰国後の日焼けした師の横顔を、どこで見たのかどうかはさておいて、このニ句からは虚子を崇敬する心情が素直に表出されているのみである。つまり虚子は、往路復路をごちゃまぜにして文章をでっち上げ、ことさらに久女異常説を流布させようとした節がある。

その久女が「ホトトギス」同人剥奪を突如通告されたのは、虚子帰国後まもなくのことであった(昭和11年10月)。昭和9年に久女は、三度目の雑詠巻頭を占めたものの、以後次第に久女の句は「ホトトギス」に入選すらしなくなっていた(昭和10年で一旦途切れ、13年に一回だけ再掲されたのが最後らしい)。虚子のかかわる会席にも、虚子側近たちによって遠ざけられたともいわれる。

そういった事情にある中での外遊と、突然の破門であった。処分事由が示されていないのだから、久女にはまったく訳がわからなかったにちがいない。虚子は自分を試しているのではないか、としか考えられなかった久女は、当然のことに〈ユダともならず〉(註)、ひたすら虚子の誤解が解けるのを待ちつづけた。

  とほくより 桜の蔭の 師を拝す

  虚子留守の 鎌倉に来て 春惜しむ

  蝶追うて 春山深く 迷ひけり

(註・そのころ水原秋桜子をはじめ、虚子の指導にあき足りない思いを抱いた門弟たちは、「ホトトギス」から離反していた。)

ここで一つエピソードをはさめば、箱根丸には洋行する横光利一が同乗していた(この渡欧体験を素材にして、未完の大作「旅愁」が書かれた)。虚子に面会できず、箱根丸船上に待ちつづけていた久女たち一行と出会わせた横光は、気の毒がって(虚子の代わりに)短冊を一筆、「鳥飛んで烏に似たり」としたためてくれた。上述、増田連氏によると、この短冊が久女の遺品に残されていたという。

もしそのとき横光が虚子とともに甲板に出て見送りに応えていたとしたら(その可能性は高いのだが)、ポンポンと音を響かせ、エンジン全開に追ってくる舟などついぞ見かけはしなかった、と証言してくれたかもしれなかった。が、残念ながら志賀直哉と並ぶ「小説の神様」横光利一に、そんなゆとりはなかった。虚子の虚偽文章が発表された直前の6月に病で倒れた横光利一は、そのまま翌昭和22年に49歳の若さで死去していたのであった。

ひたすら恭順の意を尽くしても、虚子の態度は変わらない。久女の一片の希望が、次第に絶望の怒りへと変じたのも、無理からぬことであったろう。久女からすれば叛意のかけらもないのに、冷酷に拒絶されつづけるのだから。ついに、久女の詩嚢(しのう)は毒と化す。

  たてとほす 男嫌ひの ひとへ帯       張りとほす 女の意地や 藍ゆかた

  押しとほす 俳句嫌ひの 青田風       虚子きらひ かな女嫌ひの ひとへ帯

  石角に 林檎はつしと わがいかり      一束の 緋薔薇貧者の 誠より

久女の投じたりんごの割れるさまを想像すると、ぞっとする。かな女とは、長谷川かな女のことで、当時久女のライバルと目された東京在住の「ホトトギス」同人。最後の句は「上京丸ビルにて」の前書があり、そこに「ホトトギス」の発行所があった(久女が訪れたとき、虚子は不在だったといわれる)。「貧者の誠」を裏切られた女の真紅の怒りが、バラの棘となって突き刺してくる、すさまじい一句である。

これらの句に反撥して、まさか虚子が大嘘を並べたとも思えないが、昭和23年にも虚子はとどめを刺すように、久女の奇行を暴露する文章を発表した。「国子の手紙」である。一応、創作とは銘打っているものの、これは明らかに久女が虚子に宛てた手紙が下敷きにされている(「国子の手紙」によると、久女の虚子宛て手紙は昭和9年から14年までに、二百三十通にのぼるという。しかし、現物を確かめた者はいるのであろうか?)。

この「国子の手紙」では、昭和9年の手紙が引例されているのであるが、このような手紙を送り付けてくる久女を、この時期に「ホトトギス」同人に迎えたのは不自然な気がする(もしも、これら尋常ならざる手紙のすべてが本物ならばだが)。

「国子の手紙」の詳述は省くが、この小説仕立ての文章は、久女がいかに常軌を逸していたかを、再度世間に定着させることに、その目的があったとしか思えない。あの大虚子が、なぜこうも執拗に死者を鞭打たねばならなかったのか。これについては、後年いろいろな人がいろいろな説を立てている。また、水原秋桜子が「ホトトギス」を離反したとき、秋桜子に当てつけるように、虚子は謀反者を打ち首にする小説を発表しているのと、同質の仕打ちだったのか。いずれにしても、「ホトトギス」という一大結社を率いた男の冷酷極まる一面を物語っていよう。何せ、

   初空や 大悪人虚子の 頭上に と、自らを詠んだ男である。

久女念願の句集「久女句集」は、昭和27年に長女石昌子さんによって角川書店から出版された。題字も序文も昌子さんが虚子に懇請して、こんどばかりは虚子も応えた。その序文。

「杉田久女さんは大正昭和にかけて女流俳人として輝やかしい存在であつた。ホトトギス雑詠の投句家のうちでも群を抜いて居た。生前一時其の句集を刊行し度いと言って私に序文を書けといふ要請があつた。喜んでその需(もと)めに応ずべきであつたが、其の時分の久女さんの行動にやゝ不可解なものがあり、私はたやすくそれに応じなかった。此の事は久女さんの心を焦立たせてその精神分裂の度を早めたかと思はれる節も無いではなかったが、併しながら、私は其の需めに応ずることをしなかった」

文はまだまだつづくが、ここでも久女に奇怪な行動があったことを匂わせ、果ては精神分裂とはっきり病名まで世間に公表した。この序文でも、昌子さんが乱雑に書き散らした久女の遺稿を送ってきたと書いているが、昌子さんによると事実無根であり、きちんと清書した原稿を送ったと反論している。最後まで奇怪な言辞を弄したのは、常に虚子の方である。

虚子は久女の句を、この序文でも「清艶高華」と高く持ちあげてはみせるけれども、序文全体の印象はどこかお座なりで温かみに欠けているように感じる。

これら虚子の曲筆を真に受けて(だったかどうか)、当代の人気作家が歪曲(わいきょく)された久女像をさらに広めることになった。

昭和27年に芥川賞を受賞した松本清張の受賞第一作「菊枕」が、それである。小説の登場人物はすべて仮名にしてあるが、主人公のぬいが久女であることは、すぐさまわかるように描かれている。「箱根丸事件」も虚子説どおりに出てくる(小倉に在住した久女は、清張にとっても近しい人物であったのだろう)。

いま一つは、吉屋信子の俳人列伝「底のぬけた柄杓」収載の「私の見なかった人/杉田久女」(昭和38年)である。こちらの伝記小説もおもしろく読ませるが、事実誤認の箇所がいくつかあるかと思われる(むろん、吉屋信子としては愛憐の情を交えての久女像だったのだろうけど)。

虚子を読まなくとも、この二人の作品をとおして、実在の杉田久女を知ることになった読者も多かったのではあるまいか。吉屋信子と松本清張の二人が、多数の読者を誇る人気作家であっただけに。

「久女は入院中、ベッドの布団の布を切りとって人形の着物とし、布団綿をまるめて頭にした人形を幾つもつくりつつ独りつぶやきひとり笑っていた」(吉屋信子「私の見なかった人」)。

「ぬいは昭和21年に病院内で死んだ。57歳であった。看護日誌をみると、連日〈独言独笑〉の記入がある。彼女をよろこばすどのような幻聴があったのであろうか」(松本清張「菊枕」)。

両作品とも、久女はまったくの狂人として描かれる。現実に誰かが、この病床(看護)日誌を持ち去り、病院から消えたというミステリアスな事態まで発生したという。

昭和20年10月末、久女の様子に異変を感じた宇内は、いやがる久女に麻酔を打って無理やり大宰府の病院に入院させた(といわれている)。精神分裂症と診断された久女は、三ヶ月後の昭和21年1月21日、持病だった腎臓病の悪化で、身内の誰にも看取られないままに息を引き取った(腎臓病は、父親の納骨に行った松本で発症していた病気である)。享年55歳。

当時、久女の長女昌子さんは宇内の実家に子供をつれて疎開中であったし、次女の光子さんは結婚して台湾在住であったのか(?)。いずれにしても、二人の娘は戦時、戦後の混乱の中で、久女の傍にはいなかった。久女の遺体は火葬されて、宇内が故郷愛知へ持ち帰った。

精神科医師で俳人の平畑静塔は(橋本多佳子の句仲間であった。註)、昭和28年に久女の入院していた筑紫保養院を訪ね、久女が閉じ込められていた部屋の小さな窓と鉄格子(てつごうし)を目(ま)の当たりにして、久女追悼文「筑紫の配所-杉田久女のためにー」を書いた。

その文章で平畑静塔は、久女は決して精神分裂症などではなかった、久女の真の死因は栄養失調による餓死だったのではなかろうか、との推論を残している。

戦後の食糧難で日本中が飢えているときに、病院でまともな食事が与えられたとはとうてい考えられないと。また、「知能高く感情豊かで意志の張りの強い」「精神貴族のような」久女の俳句の「どこからも、その未来の精神分裂の気配をかぎとることは出来ない」とも。さらには「久女はひょっとするとヒミコの再生した姿であったかも知れない」とまで書いているが、奇抜な発想ながらも相槌を打ちたくなる。

(註・平畑静塔は明治38年ー平成9年。和歌山出身、京大卒。精神科医、俳人。)

さらに余談をはさむと、空襲警報鳴り響く中、久女は句集出版のために自分で清書した句のつづりを胸に抱えて防空壕へ避難を繰り返したという(生前に句集出版が実現しなかったのも、戦争激化が一因であった)。

その昭和20年8月9日朝、原子爆弾を搭載したアメリカ空軍のB-29エノラ・ゲイは、小倉の上空に現れた。ところがたまたまその日、小倉上空は厚い雲に覆われ目視が利かなかったので、エノラ・ゲイは急遽、長崎へと方向を転じた。もしもこの日、予定通りに原子爆弾が小倉へ投下されていたら、久女も(その原稿も)、宇内もたちどころに焼き尽くされていただろう(このとき、35歳の松本清張は陸軍上等兵に進級し朝鮮にいた)。

久女の死する前、すでに昭和15年に長兄が、久女の母は昭和19年に死去していた。久女は親兄弟をことごとく喪ってから、いわば日本の敗戦を見届けてから自らも亡びたことになる。久女の死とともに宇内は、四十年近くを奉職した小倉を引き揚げ、帰郷した。宇内の発願にて昭和32年、久女の遺骨は父母の眠る松本の墓地に分骨埋葬されたとある。この宇内の措置と虚子の筆による墓碑建立は、泉下の久女を少しは慰めたであろうか。

久女悲願の句集は、何やら筑紫での自らの死出の旅を、暗示していたかのような一句で閉じられている。

  鳥雲に われは明日たつ 筑紫かな

と思ったが、この句は次女の結婚を寿いだ句であった。

虚子は、その句集の前掲序文に添えて、女弟子への哀悼句をも寄せていた。この句には、一掬の涙ともいうべき師としての真情がこもっているように思われる。

  思ひ出し 悼む心や 露滋し

久女句集出版から二年後の昭和29年、虚子は俳句普及の功績を称えられ、文化勲章の栄誉に輝き、昭和34年に85歳で瞑目した。小倉での趣味の釣り竿を猟銃に換え、古里の山中を逍遥しながら余生を過ごしていた宇内は、久女の死から十六年後の昭和37年に、その謹厳実直の生涯を終えた。78歳だった。

松本清張の短篇小説に(註)、「背の高い、すらりとした姿は、自分などにはとうていよりつきがたい貴婦人のように映った」と、その容姿を形容された橋本多佳子は(昭和38年、64歳没)、平畑静塔が訪問した翌昭和29年に、大宰府の久女終焉の地に立ち、

  万緑や わが額(ぬか)にある 鉄格子

と、久女を偲んだ。

(註・昭和41年作「花衣」のこと。昭和49年刊行「松本清張全集」の自作解説「花衣」あとがきには、「久女の句は天才的である。多佳子は久女の天才に迫らんとして達し得なかった」との記述が見える。)

  鶴舞ふや 日は金色の 雲を得て

久女晩年の句である。いま読むと、どこやら鶴マークの日本航空ジャンボジェット機を連想しないでもないが、久女の詩魂は雄大である。久女が「ホトトギス」同人を剥奪されず、戦後も永らえていたら、さらなる前人未到の句境を切り開いたのではあるまいか。かえすがえすも残念である。

以上を以って、この文を閉じるつもりであったけど、大事なことを見落としていた。

上記下線を施した部分は、むろん偽らざる感想なのだが、それは甘い夢想に過ぎなかったようであるからだ。このことは、久女がいつまで句作をつづけていたのかと、いうことと関連する。虚子に破門され「ホトトギス」復帰が絶望となっても、久女にとって句作こそが心の糧、生きる証しであったのだと思い込んでいたので、当然命尽きるまで句作をつづけていたものと、勝手に想像していたのであったが、ちがっていたようだ。

以下、そのことに触れて、擱筆(かくひつ)としたい。

杉田久女の生涯をつづるに、澤地久枝「俳人杉田久女」(昭和51年「試された女たち」所収)、田辺聖子の力作評伝「花衣ぬぐやまつわる/わが愛の杉田久女」(昭和62年刊)や、坂本宮尾「杉田久女」(平成15年刊)等を参照にした。いずれも、閨秀作家による久女伝説雪冤(せつえん)の書であった。

とりわけ、先に引用した「鳥雲にわれは明日たつ筑紫かな」の句についての、坂本宮尾氏の考察は重要な示唆を含んでいた。

この句には、「昭和17年光子結婚式に上京」と前書が付されてはいるが、実際に作られたのは昭和14年であるとの考証から、久女の句作活動はその年に終止符が打たれていた、だから19年に死んだ母親を哀惜する句がないのだ、との指摘にハッとさせられたのである。

だとすれば、昭和9年から14年までの間に二百三十通の書簡を寄こした、という「国子の手紙」の虚子の記述とぴったり符合し、俄然(久女の手紙の現物がないとしても)、「国子の手紙」記述の信憑性(しんぴょうせい)が増すからである(まさか、昭和14年というのまでもが、虚子の創作とは考えにくい)。

久女にとって虚子との訣別は、同時に俳句との訣別をも意味していたのだ、ということに思い当たったのである。

句作を放棄しての久女の晩年とは、いったいどういう日々だったのだろう。句集出版の悲願が、唯一心を占めていたとしても、戦火の拡大に伴い日に日に望みも薄れていっただろう。かの芥川龍之介は自殺直前になっても、「生活欲はなくなったが、制作欲だけは持っている」(「或阿呆の一生」)と、芸術家魂だけは最後まで保持していた・・。創作欲を封印した久女の生活欲をかろうじて支えていたのが、母親の存在(と娘の結婚による孫の誕生)であったというのであろうか?そのことを想うとき(久女の昭和8年の日記を読んでいるだけになおさら)、久女の哀れさに胸がふさがる。

それとも、あり得ない話ながら、宇内との生活(関係)が戦争という大変事の中で、いくらかは持ち直されていたというのだろうか?

  常夏の 碧き潮あび わが育つ

  栴檀の 花散る那覇に 入学す

  万緑や わが額にある 鉄格子

万感こもごもの絶唱である。いたいけな少女の額に、やがて覆いかぶさる鉄格子とは、男尊女卑の世に生きた女人すべてに、あらかじめ烙印されていた受難の表象。

河東碧梧桐明治6年、高浜虚子7年生れ、種田山頭火15年、志賀直哉16年、荻原井泉水17年、尾崎放哉18年、長谷川かな女20年、杉田久女23年、水原秋桜子、芥川龍之介25年、吉屋信子29年、横光利一30年、橋本多佳子、三橋鷹女32年、中村汀女、高濱年尾33年、星野立子36年、平畑静塔38年、山本健吉40年、松本清張42年、「番外篇」に登場させた日本文学史に残る明治生年の面々である。付記すれば、このうち最も短い生涯だったのは芥川龍之介の35歳(昭和2年没)、平成まで生きたのは平畑静塔ただ一人(平成9年、92歳死去)、また昭和天皇は二十世紀を告げる明治34年、1901年の御生誕で、1989年に崩御された。大正は15年だったが、昭和は64年の長きを数えた。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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