京大俳句

https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12440104672.html【戦前は、俳句も弾圧されたの?】

https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-12440105636.html 【新興俳句】

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土地規制法による戦争への足音に耳をそばだて、渡辺白泉の俳句を読み返す

新興俳句の旗手渡辺白泉

 みなさん渡辺白泉という句人をご存じだろうか。

 秘密保護法、共謀罪、デジタル監視法、土地規制法と戦争準備の監視体制を準備する法制度が立て続けに作られていく現在、読み返されるべき俳句だと思う。

 渡辺白泉は、大正2年(1913)東京青山に生まれ昭和44年(1969)に沼津高校で教鞭をとっていた56歳の時に亡くなった。

慶應義塾大学経済学部を卒業し、昭和8年、水原秋桜子の「馬酔木」、翌年に「句と評論」に投句し、新興俳句の新鋭として俳壇に彗星のように登場した。

超季派の代表作「戦争が廊下の奥に立つてゐた」

 彼の句では「戦争が廊下の奥に立つてゐた」(1939年)という銃後俳句が最も有名だろう。

 この俳句には季語がない。白泉は句作において超季派という立場をとっていた。 超季派は、季語がなくても俳句が詩として成立するという考えに立っていた。

 全11章で構成された戦火想望俳句の「支那事変群作」(1938年)は火野葦平の「麦と兵隊」に触発された句作であり、戦意高揚を図ろうとしたものとの読み方ができる句もある。しかし、「赤く、青く、黄いろく、黒く戦死せり」「赤の寡婦黄の寡婦、青の寡婦寡婦寡婦」「突撃の跳び刺し転び撃ち転ぶ」などの句は、戦争の無惨な本質を、色彩や動作で描き出した傑出した句だと評価できるだろう。

「銃後といふ不思議な町を丘で見た」

 「銃後といふ不思議な町を丘で見た」(1938年)という句も有名である。見慣れた町が、戦争にむかう社会の中で「銃後の町」という異貌を現してきたことへの強烈な違和感が表明されている。「街に突如少尉植物のごとく立つ」(1939年)も、人々の日常生活の中に突如として戦争が飛び込んできたことへの畏怖の念が吐露されている。

 「戦争が廊下の奥に立つてゐた」は「京大俳句」の昭和14年5月号に掲載された句の3作目である。この句の直前の句も注目される。「昼は商館に悲しき化物となり」がそれである。この2つの句を統合的に読み解けば、当時の会社勤めの都市生活者は、夜には精神の自由を取り戻すことができるが、昼には人間性を奪われた「化物」として会社に勤めるしかないと詠っているのである。白泉は、資本主義の下で、会社勤めをする者が、その精神の自由を奪われていることと戦争との内的な連関を直感していたのだろう。戦争への途は、組織の中で個人の自由が奪われ、皆が「化物」にならざるを得ない状況の下で掃き清められていった。同じ状況が、今の日本にもそのまま活きている。

新興俳句弾圧事件=京大俳句事件

 昭和8年に創刊された「京大俳句」は「作風と批判の自由」を標榜した。昭和14年、白泉は「京大俳句」に参加した。

 昭和15年、「京大俳句」同人らに掛けられた治安維持法違反事件である京大俳句事件・新興俳句事件に連座し、検挙された。「京大俳句」第1次事件では1940年2月14日には、井上隆證(井上白文地)、中村修次郎(中村三山)、中村春雄(新木瑞夫)、辻祐三(曽春)、平畑富次郎(平畑静塔)、宮崎彦吉(宮崎戎人)、福永和夫(波止影夫)、北尾一水(仁智栄坊)が、「京大俳句」第2次事件では1940年5月3日石橋辰之助、和田平四郎(和田辺水楼)、杉村猛(聖林子)、三谷昭、渡辺威徳(渡辺白泉)、堀内薫らが検挙された。白泉は、起訴猶予となったが、執筆禁止を言い渡された。

 この事件は白泉に深いトラウマを残した。昭和31年1956年に詠まれた「手錠せし夏あり人の腕時計」は、事件後15年余を経てもこのトラウマが強く想起されていたことを示している。

俳句弾圧を先導した俳人小野蕪子

 小堺昭三『密告 昭和俳句弾圧事件』(ダイヤモンド社)は、この新興俳句弾圧事件の背景を解き明かした本である。

 「小野蕪子は、正義の密告者となって特高警察の手で合法的に新興俳句運動を弾圧させ、同時にホトトギス王国の高浜虚子をもおさえて、全俳壇に君臨しようとした野心家でもあった。(中略)小野蕪子は、東京日々新聞(毎日新聞の前身)の社会部長から日本放送協会(NHKの前身)の文芸部長兼企画部長に転じ、内務省計画局審査委員や文部省教育局委員も兼務、多彩なる才覚をもち、俳句雑誌『鶏頭陣』の主宰者でもあった。」

 蕪子は、『戦争と梅干』と題する著書の中で次のように書いているという。

「私は和歌や俳句の小詩形のかげに隠れてゐる変な分子がありはしないかといふことを恐れてゐます。俳句の雑誌をみてすらドウかと思ふ議論や作品に接します。これら不純分子を征伐するのもいいと思ひます。「魁俳壇」も人と時を見て、どなたかに後継して貰ひたいのですが少なくも私が預かってゐるうちにには不純な分子の潜入を断じて許しません。」

 土地規制法が制定された今、保守主義、伝統主義が密告と監視の先兵となることの恐ろしさも、過去のことではない。

弾圧後の白泉

 白泉は1944年には、徴兵され海軍に従軍する。その体験の中で詠まれた次のような作品も残している。

「白き俘虜と心を交はし、言交はさず」

「司令等の倉庫燃えをり心地よし」

 1句目は米軍捕虜との交流、二句目は横浜大空襲の夜を詠んだものとされる。

 戦後は、白泉は諸方を転々とした後、昭和27年、沼津高校の高校教師となり、俳壇から離れて、昭和44年の突然の死まで句作を続けた。沼津高校には白泉に師事した人々の手によって「戦争が廊下の奥に立つてゐた」の句碑が建てられている。

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『京大俳句・全12巻』(臨川書店)

「俳誌。昭和8年1月、三高・京大俳句会の平畑静塔、井上白文地、中村三山、藤後左右、長谷川素逝、野平推霞らによって京都から創刊された。メンバーの多くはそれまで「ホトトギス」「京鹿子」などに拠り次代を担う新鋭として注目されていた人々であり、創刊の辞にも「自由新鋭の風を持し、俳句作品と理論の平行的向上を図り、結社人的狭量を打破し…」とあるように、当初から俳壇自由主義を唱え、閉鎖性の強い俳句界に新鮮な気風を導入した。翌9年、山口誓子が作品発表と連作俳句の選を担当して以来、主力メンバーの大半が新興俳句の支持に傾き、学外に門戸を開放して西東三鬼、高屋窓秋、石橋辰之助、渡辺白泉、仁智栄坊、杉村聖林子、清水昇子、三谷昭らを会員に加えた。そのため、素逝が伝統擁護の立場から単身脱退したこともあって、色彩はいよいよ鮮明になった。やがて日支事変の進展につれて戦争批判を内包した栄坊、白泉らの知性俳句、尖鋭な手法による三鬼、辰之助、聖林子、三橋敏雄らの戦争俳句、また市民生活の暗部をヒューマニスティックに描き出した静塔、三山、白文地、昭、波止影夫らの銃後俳句がつぎつぎと発表されるに及び、検察当局の弾圧は京大俳句事件となって具体化し、昭和15年2月以降主要会員十余名が京都警察部に検挙され、ために京大俳句会は解散、本誌も同年2月号を最後として終刊した」(『現代俳句辞典』(富士見書房)より、執筆者:三谷昭)

京大俳句がなかったならば、その後の前衛俳句・社会性俳句もなく、こんにちの俳句界はきわめて平板で守旧的なものとなっていたでしょう。また、そのような場に私は何ら興味がありませんので、私自身、いまのように俳句を続けてはいなかったでしょう。その意味でも、私にとって「京大俳句」の存在意義はきわめて大きいと言えます。

Facebookいするぎ けめこさん投稿記事

花ノ木町という辺りは、昔「京大俳句」の屋台骨をなした平畑静塔というひとが住んでおられた町。ビラまきを引き受けた町。コナミスポーツも、ビブレも直ぐ近く!

投票日直前のビラを配っていたら、話しかけられました。あなたもそう、思われますか?ええ、と。

盛り上がりました。10程上のご婦人と、意気投合。あんまり、酷い国政に怒りの色の

庭先のケイトウの美しさを語りつつ。

https://note.com/aoyadokari/n/n111ca1e94f0d 【シン・俳句レッスン9】より抜粋

平畑静塔

「京大俳句」を創刊。静塔は新興俳句のオルガナイザーだったが「根源俳句」の人。ハンセン病療養患者を見つめた『月下の俘虜』が有名。カトリック信者で精神科医。戦後は宇都宮転居を機に地縁や風土との一体化を読んだ。

神父の手肉色走り蝿はらふ             故郷の電車今も西日に頭振る

青胡桃みちのくは樹でつながる           えむぼたん一つ怠けて茂吉の忌

「神父の」の句は「肉食走り」が斬新だという。

「故郷の」の路面電車だという。揺れも激しく、西日を浴びて老朽化した電車だという。「今も」から静塔の幼い時から成人するまで走っていたと思われる。

「みちのく」の句は戦後の『栃木集』。「青胡桃」は夏の季語。ただ今は「みちのく」は古すぎる。演歌じゃないんだから。

「えむぼたん」は社会の窓がボタンだった頃の大らかさと図太さを「茂吉の忌」と詠んだのか?

https://plaza.rakuten.co.jp/kamomeza/diary/201302250000/ 【えむぼたん一つ怠けて茂吉の忌 平畑静塔/悪妻をいたわりあって茂吉の忌 松田ひろむ】より

今日の1句   えむぼたん一つ怠けて茂吉の忌 平畑静塔 『壺国』

Mボタンというのもおかしい。静塔の句ならなおさらだ。なお「Mボタン」というのは「男のズボンの前ボタン」(三省堂『新明解国語辞典』)のこと。国民的歌人の斎藤茂吉だが、妻には苦しめられた。

松田ひろむ1日10句

3301 古利根の鮒の巣離れこのように ---------------- 季語( 鮒の巣離れ )

3302 初鮒の釣情報紙色刷りに ---------------------- 季語( 初鮒 )

3303 乗込の鮒に呼ばれて朝ぼらけ ------------------ 季語( 乗込鮒 )

3304 大滝が荒川となる子持鮒 ---------------------- 季語( 子持鮒 )

3305 善し悪しの知らせが届く春の鮒 ---------------- 季語( 春の鮒 )

3306 天皇と関係なくて鰉(ひがい)の名 ------------ 季語( 鰉 )

3307 若鮎は十七歳でレオタード -------------------- 季語( 若鮎 )

3308 恋すちょう雪代山女天城越 -------------------- 季語( 雪代山女 )

3309 俳人の句帳が邪魔で彼岸河豚 ------------------ 季語( 彼岸河豚 )

3310 悪妻をいたわりあって茂吉の忌 ---------------- 季語( 茂吉忌 )

茂吉の妻、輝子は茂吉の養父紀一の次女だった。

悪妻とも猛女とも呼ばれているが、若い時には現実にいわゆる不良華族事件にも関って、社会問題にもなり茂吉と別居する原因となった。

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【永井ふさ子と茂吉】 1934年ごろ秩父にて

失意の茂吉に前に現れたのが、正岡子規の遠縁の永井ふさ子だった。

光放つ神に守られもろともにあはれひとつの息を息づく (斎藤茂吉・永井ふさ子)

二人の合作の歌である。

1934年年9月、正岡子規33回忌歌会が向島百花園で催された。その折、茂吉は若い女性と声を交わす。永井ふさ子である。茂吉54歳、ふさ子24歳だった。1936年1月、ふさ子が上京。二人で浅草観音に詣で、その夕、ふさ子は茂吉に唇を奪われ、さらに6月、上京。いつか二人は深間になり、頻繁に手紙が行き交うようになった。「ふさ子さん! ふさ子さんはなぜこんなにいい女体なのですか。何ともいへない、いい女体なのですか。どうか大切にして、無理してはいけないと思います。玉を大切にするやうにしたいのです。ふさ子さん。なぜそんなにいいのですか」(昭11・11・26)

「ふさ子さん、……ああ恋しくてもう駄目です。しかし老境は静寂を要求します。忍辱は多力也です。忍耐と恋とめちやくちやです。……あゝ恋しいひと、にくらしい人」(昭11・11・29)

茂吉の心は千々に乱れる。なかにふさ子の写真を前に苦しい胸中を訴えるこんな一通もある。「……写真を出して、目に吸ひこむやうにして見てゐます、何といふ暖かい血が流るることですか、圧しつぶしてしまひたいほどです、圧しつぶして無くしてしまひたい。この中に乳ぶさ、それからその下の方にもその下の方にも、すきとほつて見えます、あゝそれなのにそれなのにネエです。食ひつきたい! ……尊い、ありがたく、甘い味あひのしたあのへん!」(昭12・3・19)

 さらにまた別の日の手紙にこんな歌まで記されている(昭11・10・28)。

 狼になりてねたましき咽笛を噛み切らむとき心和まむ

 もう身も世もない。しかし許される仲でない。恋を諦めるには、身を引くしかない。1937年4月、ふさ子は見合いをし、結納までする。相手は牧野という岡山の医師。しかし、ほどなくふさ子は婚約を解消している。その後、生涯嫁ぐこなく、ふさ子は1992年死去。享年83。  (永井ふさ子『斎藤茂吉・愛の手紙によせて』1981年、求竜堂)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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