https://rieyogaplus.com/%E5%BF%83%E3%81%AE%E9%97%87%E3%81%AB%E5%85%89%E3%82%92%E5%BD%93%E3%81%A6%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8B%EF%BC%9F/ 【心の闇に光を当てられますか?】より
最近、私自身の心の闇を自分で感じることが多く、疲れているのもあるし、同時に手放す必要のあることを認識する時期なんだと思ったりします。
どんな人にも、「心の闇」ってあります。
もちろん、心理系の仕事をしている人にだって・・・いやこういう仕事をすることになった過去の経緯はおそらく、そのような心の闇からくる様々なトラブルで苦しんだから、という人が多いのではないかと思います。
コーチングでは、基本的にポジティブ心理学という考え方で、未来志向と肯定的なアプローチで意識を明るい方に向けていきます。
いっぽうで、心の闇や過去の経験にフォーカスして進めていくのがカウンセリングの分野です。
私は大学時代、臨床心理学を専攻して伝統的なカウンセリング手法をかじりましたが、ひたすら傾聴に徹して、相手を否定しない・自分の見解を言わない、というスタイルが、どうも自分には合わないと思い、カウンセラーには向いていないな、と判断しました。
ですが、実際コーチングを進めていて感じることですが、未来志向&ポジティブアプローチだけで人生が前向きになったり、それまでと行動や考え方を本質的に変えていくのは難しいのです。
どんなに未来に向かって夢をもっても、ポジティブな考え方や行動の起こし方を実践しようとしても、そこで障害となるのが、心の奥深くにあるトラウマ、コンプレックス、ネガティブな思い込みだからです。
これが、多くの人が奥底に隠し持っている、人には見せない「心の闇」です。
明るい方にストレッチするためには、暗い根っこも見るのが大事
心の闇って、根っこの部分で隠し持っていたりするので、人には気づかれないようにするし、自分でも認めたくなかったりします。
でも、まずはここをしっかり自分で認識できていることが、この闇とどうつきあっていくのか?を決めるスタートになります。
そして、ここを見ないで明るい方向ばかり見ようとしても、それこそ「糸の切れた凧(たこ)」状態となってしまうので、フワフワ現実感のない「偽ポジティブ」状態に陥って現実はなかなか変わらない、ということになりがちとなります。
では、心の闇と向き合うにはどうしたらいいのでしょうか?
これは、どれだけその闇が深いか?で、自分一人でできるのか、人の助けが必要となるのかが違ってきます。
自分でやるにしてもかなりしんどかったり億劫になるため、なかなか進まないかもしれません。
私のコーチングでは、どのコースでも「インナーチャイルドと向き合うセッション」というものをやっていくのですが、ここでは過去を振り返りながら、ご自身の心の思い癖がどこからきているのか、特にネガティブな体験をベースに見ていきます。
この時に、忘れていた幼少期のつらい体験について思い出したりするので、人によっては一時的な鬱状態とか体調不良になってしまうこともあります。
それくらい、普段はぜったいに見たくない体験であり、記憶なんですね。
でも、ここで踏ん張って一緒にその体験を振り返ることによって、その時の自分が何を感じたのか、そしてそこからどんな思い込みや防衛反応を身につけてしまったのかに気づいていきます。
このような、思い癖や防衛反応のもととなる原体験が見えてくると、なぜいつも同じような思考パターンや反応パターンを自分がしてしまうのか、その理由も見えてくるため、ご本人の中では一気に気づきが深まります。
そして、この原体験とそこからなるパターンは人それぞれなのですが、だいたい「繰り返されるパターン」の根っこはここにあった!という納得感へと繋がります。
また、表面的なポジティブ思考や未来志向なあり方をどんなに実践しようとしても、ここをしっかり見ない限り進まないことが大半です。
ストレッチしてしっかり伸びたい方向に向かうためには、土台となる部分が安定していい状態であることが大切。
これは、ヨガのアーサナ(ポーズ)の体感でもわかることで、共通しています。
闇は取り除くのではなく、気づいて光を当てること!
私の心の闇もかなり根強くて、最近いろいろな過去の記憶が浮上してきて苦しかったです。
あ、浮上してきた、というのは間違いで、どちらかというと自ら思い出した、が正しいです(笑)。
思い出す必要があったのは、自分の人生を前に進めていく必要があるから。
今いる場所から次のステージにいく時には、この「心の闇」と向き合うことは、だいたいにおいて必要だったりしますね。
なぜなら、気づかないうちにまた忘れてなかったことになっているから。
なかったことにして隠してしまうと、それを表に出てこさせないための心の動きがまた強まってしまうので、時々見て、光を当てて、風を通す必要があるのです(もちろん、いつもいつも考える必要はないし、それは✖️です)。
無理に取り除こうとする必要はないですし、その闇を否定せず、自分の一部としてちゃんと受け入れてあげる方がむしろ大事なのです。
その過程で自然に手放せるものがあれば、どんどん手放していきます。
いらない思い込み(信念)や価値観で、もうこれに振り回されるのはやめたい、そう思うなら、ただ「もう信じない」と決めましょう。
そうやって、いつも自分の陰の部分もちゃんと見て受け入れられている人は、安心して明るい方を見てどんどん進むことができます!
逆に言うと、明るい方に進もうとするとなぜかいつも障害が発生する、心が不安になる、行動が起こせなくなる場合には、陰の部分をちゃんと見てあげて!というサインですよ😉
まとめ
私の闇も相当深かったのですが、数年がかりで見つめてきました。
でもまだ、あえて人に話したりしないこととか、触れられたくないことってそれでもあって。
だけど、今、この仕事をもっと発展させて、もっと多くの皆様のお役に立つためにも、その闇と向き合うだけでなく、それをブログで語ったり、隠さずにオープンにしていくことが必要だとも感じています。
機能不全家族で育ったこと、両親の離婚、在日韓国籍、自分を愛せない長い時間、頑張り過ぎてしまう自分と、その一方で途端にやる気をなくす自分、お金を稼ぐことや社会に適応することへの恐怖心、家族関係や恋愛の分野での大きなコンプレックス、などなど・・・
これらの自分と向き合いながら、受け入れながら、自分を癒して鼓舞しながら・・・・今の自分まで辿り着きました。
でも、もちろんまだその闇はちゃんとそこに(?)(笑)ありますので、これからも見つめながら、そして少しずつ隠していたヴェールを解放しながら、自分のことも語っていけたらと思います。
自分の闇と向き合うこと、インナーチャイルドワークにご興味ある方は、ぜひメルマガに登録してくださいませ〜✨❣️
Facebook相田 公弘さん投稿記事
「人の心を見る唯一の方法」というお話です。サン・テグジュペリの「星の王子さま」に、
「本当に大切なものはね、目には見えないんだよ」という超有名な言葉があります。
そして、「人の心」というものは、「本当に大切なモノ」の一つだと思います。
「人の想い」や「人の心」を今目の前に出せと言われても、中々難しいでしょう。
しかし、しかしです!
あえて言わせていただきたいのですが、唯一、「人の心」を見る方法があるのです!
知りたいですか?知りたいですよね?知りたいって言って!(笑)
では、そこまで言うのであれば、「魂が震える話」秘伝の「人の心を見る唯一の方法」を伝授させていただきます。
それは、【相手の行動を見る】ことです。たとえば、「この仕事大好き!」って言っている人がいるとします。しかし、その人の行動を見れば、本当はどう思っているかなんてスグに分かるものです。
仕事中の表情も、声のトーンも、歩き方さえも、一つひとつの行動を見れば分かります。
休みの日も勉強してたら、仮にその勉強している姿を見ていなくても分かるものです。
「仕事好き!」って言っても、そこまでの行動をしていない人は大勢います。
つまり、「好きって言っているけど本当はそこまで好きじゃない」という心が見えるはずです。
「お客様を大切にしていきます」と言ったところで、【行動】が伴わなければそれは大切にしていないのと一緒で、そこまで強く思っていないのです。そういう心は誰でも見えるものです。
誰かのことが好きだって気持ちも、そのための【行動】(たとえば自分を磨くとか、勉強頑張るとか、試合に勝つとか、一生懸命働くとか)していなければ、そんなに思っていないということです。
「好きだけど、そこまで好きじゃない」が、自分以外の全員にバレていると思った方がいい。
相手の心を知りたかったら、相手が言ったことはハッキリ言ってどうでもいい。
【相手の行動】にすべてが隠れています。
人に信用される人、出世する人、お金持ち、プロスポーツ選手、つまり「成功する全ての人」は、【「行動」が伴っている】のです。
もし、実力が無いのにプロ野球の監督さんが知り合いで、裏口から入れてもらったとして、どうなると思います?
間違いなく、結果は残せず、ファンからは袋叩きにされ、起用した監督も批判されるでしょう。「行動」が伴っていないので、実力もつかないからです。
日本一のお金持ちと言われている“斎藤一人”さんはこう言います。
「この星は、思ったことがかなう星ではありません。思ったことが正しいかどうか、それを行動に移してみて、うまくいったらそれは正しい、うまくいかなかったらそれは間違いである、
ということがわかる星なんです。そのためには、まず人に聞くのもいいし、勉強するのもいい。けれど、いずれにしても行動ありきなんです」
「ごめんなさい」も、「ありがとうございます」も、そこに【行動】が無かったら、思っていないのと一緒だと思います。
遅刻してしまったら、その日は一生懸命働くのもそうですが、次の日に誰よりも早く行くとか、有難いな~と思ったら、社長だったら給料を上げたりご馳走したり、部下だったら今まで以上に頑張る行動を増やしたり、
そうやって行動し合うからこそ「信頼関係」が深まっていき、最強の組織(家族、チーム、会社、等々)になっていくのではないでしょうか?
あなたがどう思っているかなんて、みんな知っている。
「そんなことない、違う」と言ったところでそれは、そう思いたくないだけで、実際は【行動がすべて】。何万年と繋いで受け取ったこの命、【行動】しなくちゃモッタイナイですね♪
※魂が震える話より
https://www.zen-essay.com/entry/jitoumyou 【【禅語】 自灯明 - 本当に自分を支えることができるのは自分だけ -】より
【禅語】自灯明(じとうみょう)
前回、法灯明という禅語についてご紹介した。ブッダが亡くなる前に弟子たちに残した言葉である。 法灯明とは真理を依りどころとすること
法灯明とは、要約すれば、真理、つまりは「本当に正しいこと」を頼りにして生きていきなさいという意味の禅語であった。
それは、何かを信じることではなく、何が本当かを見抜き、考え抜く生き方ともいえるものだった。その法灯明という禅語とともに、ブッダはもう1つの言葉を弟子たちに残した。
それが自灯明。
この2つの禅語はいつもペアで語られることが多いので、ここでも続きにしてみたいと思う。
ブッダが残した自灯明の教え
自灯明とは、自分自身を頼りとして生きていきなさいという意味の禅語である。
自分自身を灯火として、先の見えない暗闇のような人生を歩いていきなさい。
ふいに停電した夜に灯すロウソクの明かりのように、頼るものが何もない場所でも、自分を頼りとすることで自分自身が明かりとなり暗闇を照らすことができるように。
もし自分以外の誰かを灯火として、誰かに前を照らしてもらって生きていたのでは、その誰かがいなくなり明かりが消えたとき、人は真っ暗闇のなかをさまようことになってしまう。
それは生き方として非常に危うい。
だから他に寄りかかるような生き方はするべきではないと、ブッダは人生の最期に言葉を残した。
永平寺の老杉
この自灯明という禅語について考えるとき、私はよく樹木をイメージする。
とりわけ、永平寺にそびえる老杉を。
樹はとても寿命の長い生物である。
何百年も、種類によってはそれこそ何千年も生き続けていく。
永平寺の山門の前には「五代杉(ごだいすぎ)」と呼ばれる老杉がそびえている。
永平寺の5代目の住職の時代に植えられた杉だから、五代杉という。
ちなみに五大杉の樹齢は700年ほどだとされているが、私が永平寺で修行をしていた時にその老杉のそばを通ると、年輪を重ねた太くたくましい幹に否が応でも目が向いてしまったものだった。
周囲の空気が澄んだものに感じられ、真っ直ぐに天を突く姿には神々しさすら覚えた。
その老杉は、地中に根をしっかりと張って自分の力で堂々と大地に立っていた。
自分を支えることができるのは自分だけ
しかしそのような立派な大木も、生まれたばかりのころはもちろん可愛らしい新芽だった。
風が吹けば倒れてしまいそうな、日照りが続けばすぐに枯れてしまいそうな。
何とも頼りなく弱々しい新芽からはじまったのである。どんな大木も。
そんな新芽が少しずつ大地に根を張り、葉を茂らせて幹を太くし背を伸ばしていく。
自分で自分を支え、700年という歳月をかけてあのような大木へと成長する。
そうした樹を見ると、自分自身を灯火として生きてきたのだなと、思わず感慨にふけってしまう。
それとは反対に、森に密集して生える樹には幹の細いものが多い。
周囲の樹を伐採すると、ぐにゃっと曲がってしまうものさえある。
周囲を伐採するまでは周囲の樹にもたれて生きているから倒れはしないが、それらがなくなった途端に倒れてしまう。
あのような木々は結局、自分の力で立っていたのではなかったのだろう。
周囲の樹にもたれかかって大きくなっていただけなのだ。
だから、もたれていた支えがなくなった途端に、自分を支えることができなくなってしまう。
自灯明という禅語が危惧しているのはそこである。
自分自身を灯火とせずに自分以外の何かを灯火としてしまうと、頼りにしていた灯火が消えた瞬間に自分を支えることができなくなってしまう。
それは、自分という人間が、本当には成長していなかったことをも意味する。
つまり自灯明とは、根を張り幹を太くし自立せよという教えなのである。
私(ブッダ)が亡くなっても、自分の足で世界に立っていなさいと、誰かにもたれかかるような生き方はやめなさいと、ブッダは言い残してこの世を去っていったのだった。
自分を支えるものは何か
禅では、本当に自分を支えることができるのは自分だけだと考えるが、世間ではむしろ、自分を支えるものは自分ではない「何か」と考えることが大半かもしれない。
たとえば、富や権力や名声。
それらによって自分を支えている人も少なくないだろう。
けれどもそういったものをふいに失った時、自分がぐにゃっと倒れてしまうようであれば、やはりそれは人として本当には成長していなかったことを意味するのだろう。
富や権力や名声といったつっかい棒に支えられて、ただ背だけを伸ばしてきただけのこと。
うわべばかりの成長、いや、それは「成長ではなかった」ことが露見してしまう。
外見だけ大人になったところで、自分を支える本当の力は外側からは見えない内側にある。
精神にこそある。
樹木を支えている根も、外側からは見えない。
だから外側ばかりを繕うと、いずれそのほころびが生じてくる。
富や権力や名声といった自分以外の支えを得て「大人になった」「偉くなった」と思い違いをすることは、じつはとても虚しいことなのではないだろうか。
0コメント