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【月を見よ、死を想え】
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO91848550X10C15A9000000/ 【月を見よ、死を想え】より
「月狂い」のわたしは大いに月を愛で、大いに飲みました。じつは、わたしは月こそは「あの世」ではないかと思っています。地球上の全人類の慰霊塔を月面に建てるプランを温めたり、地上からレーザー光線で故人の魂を送る「月への送魂」を行ったりしています。なぜ、月が「あの世」なのか、今回はそのお話をしたいと思います。
世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きており、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月です。
彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えました。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。多くの民族の神話と儀礼のなかで、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然だと言えるでしょう。地球上から見るかぎり、月はつねに死に、そしてよみがえる変幻してやまぬ星なのです。
「葬式仏教」といわれるほど、日本人の葬儀やお墓、そして死と仏教との関わりは深く、今や切っても切り離せませんが、月と仏教の関係もまた非常に深いと言えます。
お釈迦さまことブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったそうです。ブッダは、月の光に影響を受けやすかったのでしょう。言い換えれば、月光の放つ気にとても敏感だったのです。
ミャンマーをはじめとした東南アジアの仏教国では今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行います。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるでしょう。仏教のみならず、神道にしろキリスト教にしろイスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっています。地球人類にとって普遍的な信仰の対象といえば、なんと言っても太陽と月です。太陽は西の空に沈んでいっても翌朝にはまた東の空から変わらぬ姿を現しますが、月には満ち欠けがあります。つねに不変の太陽は神の生命の象徴であり、死と再生を繰り返す月は人間の生命の象徴なのです。
また、「太陽と死は直視できない」という有名なラ・ロシュフーコーの言葉があるように、人間は太陽を直視することはできません。しかし、月なら夜じっと眺めて瞑想的になることも可能です。
さらに、人類の生命は宇宙から来たと言われています。わたしたちの肉体をつくっている物質の材料は、すべて星のかけらからできています。その材料の供給源は地球だけではありません。はるかかなた昔のビッグバンからはじまるこの宇宙で、数え切れないほどの星々が誕生と死を繰り返してきました。その星々の小さな破片が地球に到達し、空気や水や食べ物を通じてわたしたちの肉体に入り込み、わたしたちは「いのち」を営んでいるのです。
わたしたちの肉体とは星々のかけらの仮の宿であり、入ってきた物質は役目を終えていずれ外に出てゆく、いや、宇宙に還っていくのです。宇宙から来て宇宙に還るわたしたちは、「宇宙の子」なのです。そして、夜空にくっきりと浮かび上がる月は、あたかも輪廻転生の中継ステーションのようです。
もし、月に人類共通のお墓があれば、地球上での墓地不足も解消できますし、世界中どこの夜空にも月は浮かびます。それに向かって合掌すれば、あらゆる場所で死者の供養をすることができます。また、遺体や遺骨を地中に埋めることによって、つまり埋葬によって死後の世界に暗い「地下へのまなざし」を持ち、はからずも地獄を連想してしまった生者に、明るい「天上へのまなざし」を与えることができます。そして、人々は月をあの世に見立てることによって、死者の霊魂が天上の世界に還ってゆくと自然に思い、理想的な死のイメージ・トレーニングが無理なく行なえます。
「葬送」という言葉がありますが、今後は「葬」よりも「送」がクローズアップされるでしょう。「葬」という字には草かんむりがあるように、草の下、つまり地中に死者を埋めるという意味があります。「葬」にはいつでも地獄を連想させる「地下へのまなざし」がまとわりついているのです。一方、「送」は天国に魂を送るという「天上へのまなざし」へと人々を自然に誘います。「月への送魂」によって、葬儀は「送儀」となり、お葬式は「お送式」、葬祭は「送祭」となる。そして「死」は「詩」に変わります。満月の夜、ぜひ月を見上げて、死を想ってみてください。
わたしは「狂」がつくほどの大の月好きです。毎月、満月の夜には宗教哲学者で京都大学こころの未来研究センター教授の鎌田東二先生とWEB上の往復書簡を交わしています。「ムーンサルトレター」というのですが、最近、なんと10周年を迎えました。それを記念して『満月交遊 ムーンサルトレター』上下巻(水曜社)という本を上梓しました。満月の気に誘われて書き上げた世にも不思議な本ですので、よろしければご一読下さい。
一条真也(いちじょう・しんや)本名・佐久間庸和(さくま・つねかず) 1963年北九州市生まれ。88年早稲田大学政経学部卒、東急エージェンシーを経て、89年、父が経営する冠婚葬祭チェーンのサンレーに入社。2001年から社長。大学卒業時に書いた「ハートフルに遊ぶ」がベストセラーに。「老福論~人は老いるほど豊かになる」「決定版 終活入門~あなたの残りの人生を輝かせるための方策」など著書多数。全国冠婚葬祭互助会連盟会長。九州国際大学客員教授。12年孔子文化賞受賞。
Facebookブネイ・バルーフ カバラ教育研究所さん投稿記事·
「肉体が死ぬと、私たちは魂が完成するまで、ひたすら新しい体に生まれ変わります。カバラではそれを『スピリチュアル的到達の125段階』と言います」
参考:「人が死ぬと魂はどうなるのか?」
http://laitman.jp/.../what-happens-to-a-persons-soul.../
「人が死ぬと魂はどうなりますか?」
私がかつて、我が師、ラバシにこの質問をしたところ、彼はこう答えました。
「それは、一日の終わりに汚れたシャツを脱いで、洗濯機に投げ入れるようなものだよ……」
これと同じように、人生の終わりにも魂から体を脱ぎ捨てます。身体は朽ちてなくなりますが、魂は生き続けます。古いシャツを脱いでも生きたままなのと同じように、肉体を脱いでも生きたままなのです。
質問:ならば、身体なしで魂はどのように存在するのでしょう?
答え:今も魂は体なしで存在しています。身体に伴ってはいますが、それに触れてはいません。魂はあなたが感じることができない別の次元に存在しています。
バール・ハスラムは『平和』という記事でこう書いています。
「このように我々の世界では、身体は新しくなっても新しい魂というものはなく、(形態変化の輪の上で)実体化するある決まった量の魂だけが存在する。そのために魂に関して言えば、創造の始まりから是正の終わりまでのすべての世代は、魂が発達しあるべき姿に是正されるまで続く数千年にわたる人生を生きるひとつの世代である……」
この世で魂が発達する期間は6000年です。この発達は5775年前に生きていたアダム・ハリション(最初の人)から始まり、6000年が終わるまで続きます。つまり、私たちにはあと225年残されているということです。この間に、私たちは全員で自らの魂を発達させなければなりません。それは集合的な魂における私たちの役割であり、私たち全員で全員をひとつの魂につなげるということです。
カバラの知恵はその全過程を説明しています。140億年前、ひとつの火花から私たちの宇宙の物質的進化が始まりました。ひとつの火花が「ビッグバン」の始まりとして用いられたのです。こうして、無生物の進化が始まりました。そして、20億年前、最初の植物が地球に現れ、次に動物が現れ、その後人類が現れると、人類はその次の段階、つまり上層の世界、生命の源を獲得したいという欲求が芽生えるところまで発達してきました。
無生物から始まり、植物、動物、人間へと続いた発達の中で、人間は、魂の発達と呼ばれるより高い段階へ至らなければなりません。次の段階、その上の世界へと上がっていくということです。上の世界にも、無生物、植物、動物、人間という発達段階があります。しかし、その上に、私たちが成長しさらに高い世界へ上っていくのに必要なスピリチュアル段階があります。私たちはこうやって5つの世界を通過していくのです。
質問:アダム・ハリションは5775年前に生きていて、彼は自分の内で魂を発達させたのですよね?
答え:そうです。だから彼はアダム・ハリションと呼ばれています。
質問:つまり、あと225年の間に、すべての人がその内側に魂を発達させなくてはいけないということですか?
答え:そうです。あと225年、もしくはそれよりも前にです。誰一人例外はありません。だから、私たちはこの発達が速度をあげていくさまを目にすることになります。時間はその濃さを増し、一見すると縮小して圧迫されていきます。私たちが自分たちの内側に魂を発達させないならば、そして発達に向かって自分自身を押しやらないならば、自然の力はあらゆる災害やさまざまな問題で私たちを圧迫し、私たちをすさまじい重圧のもとにさらします。自然の力が私たちを魂の発達へと向かわせるのです。
魂の発達はなによりこの世でしか起こりません。そして、それは人々の間のつながりを通してのみ改めていけます。私たちの間のつながりを通して、私たち全員にとっての全体であり共通であるたった一つの魂に形を与えるのです。(略)
https://mooc.tohoku.ac.jp/mooc/a_vol1/ 【「memento mori-死を想え-」】より
https://www.youtube.com/watch?v=4A1NiWydDXQ
講座概要
memento moriというラテン語は「死を想え」という意味で、現在は幸せに生きている自分自身もいずれは死を迎えることを忘れるな!という警句です。特に中世末期のヨーロッパ、ペストが蔓延するなどして逃れようのない終末観の中で享楽的な生活におぼれるキリスト教徒に対して発せられたこの言葉は、現世での楽しみや贅沢が虚しいものであることを強調するものであり、来世に思いを馳せるきっかけとなりました。
”Man is mortal.(人は死すべき存在である)” と言われるように、われわれ人間はいつか必ず死を迎えます。しかし死んだらどうなるのかと言った、古い時代からの永遠の疑問は、未だ解き明かされないままです。死後世界へと旅立った人々の誰一人として、この世に戻ってきた人がいないからなのでしょう。
そのため正解のわからない死をめぐって、人はさまざまな生活様式(=文化)を創造してきました。授業では現代日本人の死の文化を中心に、「死」について考えます。
※本講座は、2017年2月開講の第1回、2017年10月開講の第2回、2018年10月開講の第3回、2019年8月開講の第4回、2020年7月開講の第5回及び2022年10月開講の第6回と同じ内容となり、課題の一部を変更しております。
Facebook田中 宏明さん投稿記事
明日地球が滅亡することがわかったら人類ははじめて平和の意味を知ることになるでしょう
今日しか生きられないとわかったらほとんどの悩みが消えてしまうからです
未来が消えた時その不安を解消するためにどれだけのエネルギーを使っていたかに気づくでしょう 明日必ず死ぬとしたら あなたのしたいことはなんですか?
いがみ合い争い合いますか?
人より少しでも抜きん出ようとしたりお金や名声を得ようと奔走しますか?
そんな意味のないことは誰もしないでしょう 地球で今起こっている あらゆる問題は
人々が今日しか生きられない と気づいた瞬間に 終わります
明日も来年も何十年先も あなたは生きる予定ですよね?
でもその思い込みこそが 実は不安と争いの源なのです
人はいつも 今日しか生きられないのです 明日になれば それが今日になります
どんな時も ずっと「今日」なんです^ ^ わかりますでしょうか?
たとえ貯蓄の残高が 日ごとに増えていっても あなたの未来への 不安は消えません
未来のために 生きている人は 永遠に未来のために 生き続けるからです
老後の資金を 潤沢に用意して いざ老後を迎えても あなたの未来病は 消えません
絶えず先の不安を 見つけ続けるからです これが今多くの人が 陥っている病です
治療法はただ一つ「今を生きること」
空を見上げてください ゆっくりと秋の空気を 感じてください 一歩一歩の足取りを
感じてください 深く呼吸してください それが 今を生きる、ということです
かんたん、かんたん^ ^
では皆さまも 良い一日を😁🌈✨らぶ💓
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