https://note.com/bunkahyakkaten/n/nd2c8a31ccd44 【俳句は、曇った世界を叩き割って晴れさせてくれる“バール“!?/文化を突き詰め、“人間“の話をした5年間【2022/3/27放送_俳人/俳句雑誌「鷹」編集長 高柳 克弘】】より
Fm yokohama(84.7MHz)から毎週日曜日深夜24:30~25:00にお送りするラジオ番組『文化百貨店』。
3月27日の文化百貨店のゲストは先週に引き続き、俳人・俳句雑誌『鷹』編集長の高柳克弘さん。今回は、近著『究極の俳句』と高柳さんご自身の俳句感について伺います。また、5年間に渡る文化百貨店を通じて、MCの山崎晴太郎が感じてきた事についてもお話します。
【パーソナリティ】
セイタロウデザイン代表・アートディレクター 山崎晴太郎(@seiy)
【今週のゲスト】
俳人/俳句雑誌「鷹」編集長 高柳 克弘さん
1980年、静岡県浜松市生まれ。早稲田大学教育学研究科博士前期課程修了。藤田湘子に師事。第19回俳句研究賞受賞。句集に『未踏』(第1回田中裕明賞)、『寒林』。評論集に『凛然たる青春』(第22回俳人協会評論新人賞)、『どれがほんと? 万太郎俳句の虚と実』『究極の俳句』。児童書に『そらのことばが降ってくる 保健室の俳句会』。2017年度、2022年度「NHK俳句」選者。「鷹」編集長。読売新聞朝刊KODOMO俳句選者。中日俳壇選者。早稲田大学講師。
【山崎】今週は、もう少し高柳さんの俳句感を深掘りしていきたいと思います。早速ですが、昨年5月に出版された評論集『究極の俳句』。これは、どういった内容のものですか?
【高柳】俳句は、“高尚な文芸”や“伝統的な文芸”だと、現代では思われているんですよね。それによって、風通しが悪くなっているというか、閉塞しているのではないかと思う所があるんです。
例えば、「松尾芭蕉の頃の俳句は、前衛的な芸術だったのではないか?」というような、俳句が本来持っていたものを忘れていけないのではないかと。それ故に、対極にあるような言葉をぶつけた時の“思いがけない衝撃や意外性”、“常識を打ち破っていくようなもの”が、究極ではないのかという事を問いている本なんです。
【山崎】想像できるような言葉の繋がりではなく、全然違うものが組み合わさった時に、何か新しいものになるのではないかという事ですかね。
【高柳】そうですね。いかにも“文学っぽい世界”ではなく、全く違う所から飛び込んでくるみたいなイメージですかね。
【山崎】『究極の俳句』を拝読しましたが、すごく面白かったです。僕は、次の知性への入り口を用意してくれるような、“数珠繋ぎ”になっていくのが良い本だと思っているんです。だから本を読むときには、そのポイントをドッグイアしているんですけど、1冊に1つあれば良いぐらいなんです。だけど、この本にはたくさんドッグイアが付きましたよ(笑)
【高柳】ありがとうございます。
【山崎】俳句をこんなに体系立てて整理をしたことが無かったので、すごくいいヒントをいただいたなと感じています。本の中には、有名な句もたくさん出てきますし、色んな俳人が紹介されていますが、特に影響を受けた人や句はあったりしますか?
【高柳】大学生の時に出会った寺山修司ですね。劇作家として知られていますけど、若い時には俳句や短歌に熱中をしていたんです。そんな彼の「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」という句があるんです。
五月の空に鷹が浮かんでいる。見ても自分を支配してくるような力があるし、例えそこから目をつぶったとしても、なお自分を統括しているような感じがするという、青春期の沸々とするマグマみたいなエネルギーを、全て鷹に委ねたような句なんです。これは、地上に居るちっぽけな自分と、空を舞う崇高な鷹という距離のある物を激しく自分の中でぶつけているんですよね。この句が、「俳句はすごい!」と思うようになったきっかけでした。
【山崎】それは、俳人になろうと思ったきっかけでもあるんですか?
【高柳】はい。寺山修司の俳句を読み漁って、「いつかは寺山みたいに!」と思ったんです。あとは大学3~4年生の時に、松尾芭蕉に関心を持ち始めたのも大きいですね。やはり俳句を研究していると、どうしても最終的に芭蕉に行き着くんですよ。芭蕉も「予が風雅は夏炉冬扇のごとし」というカッコイイ事を言っているんです。
自分の俳句は、夏に使う囲炉裏、冬に使う扇だと。「何の役にも立たない」と、自虐的な事を言っているように見えて、逆に自分を奮い立たせているように思うんです。それこそ、「俺は凄いことをやっているんだぞ!」という決意表明のような言葉ではないのかなと。
世の中に役立たないからこそ、「皆が信じているものでは無い、違う価値観を自分は持っているんだ」と、いつかどこかで今自分が抱いている価値観が、役に立つかもしれないと思っていたのではないかと感じるんです。
【山崎】「俳句とは何ですか?」と聞かれたら、現時点では何と答えますか?
【高柳】こう言って良いのか分からないんですけど……、“バール”。
【山崎】工具の!?あの、こじ開けるやつですか?
【高柳】開けるというより、“叩き割る”ですね。曇りガラス等があって先がよく見えない時に、それを“叩き割って、見晴らしをよくするもの”という感じがします。なぜバールかというと、私自身は俳句に対して、“硬くて強いもの”というイメージがあるんですよね。短い分、ギュッと力が濃縮されていて、密度が高い。一言だけで、読んだ人の偏見や先入観という曇りをパッと払ってくれる。
自分もそういう俳句に勇気づけられましたし、曇りを晴れさせてくれた印象があるから、自分もそういう句を詠みたいなと思います。
例えば桜を詠むとしても、皆が集まって「綺麗だな」「美しいな」と言うけれど、美しさの奥にはもっと違うものがあるのではないのかと思っています。そういうものをバールでバンッと割って、固まった印象が飛び散るというイメージが近いですね。
画像2
▶︎バイヤーをするなら、季語にちなんだ美味しいものが届くサービスを
【山崎】ゲストの方みなさんに聞いてきた、定番の質問です。僕、山崎晴太郎とコラボレーションをするとしたら、どんなことをしてみたい、もしくは出来ると思いますか?
【高柳】最初は素敵な句帳とかを作ってもらうのが無難なのかなと思っていたんですけども……。山崎さんは、建築もされているんですよね。それなら、街づくりをしたいな。今、街並みって、どこもほとんど一緒じゃないですか。もうちょっと、駅ごとに特色を出しても良いのかなと思うんです。
それこそ俳句には昔から季語があって、身近な季節を感じる言葉になっていますよね。だけど今は、例えば“桜ビル”という名前がついていても、実際はまったく桜っぽくなかったりする。
【山崎】名称が、ただの記号になっていますよね。
【高柳】そうなんですよ。初めての街に行って、「桜ビルってどこだろう?」と探しても、桜っぽくないレンガ造りのビルだったりするから、方向音痴の私は迷うんですよ(笑) もうちょっと建築に自然を取り入れて、かつ融合的な街並みをつくっていただけると、私は迷わず桜ビルまで行くことが出来るかなと。みんなにとっても、良くなるのではと思うんですよね。
【山崎】自然観を取り込むという事が、俳句には大事なんですよね。
【高柳】そうですね。自分の中だけで考えを巡らしても、仕方がないものですね。自然に目を向けると、自分が思いもしなかった美や価値があったりするんですよね。
デザインでも麻の葉文様が、『鬼滅の刃』の禰豆子ちゃんの模様として流行っていますけど、それは自然のモチーフをデザインに生かしているという事ですよね。そういう事を建築で、山崎さんと一緒に出来ないかなと思いました。
【山崎】建物の名称とリンクする部分は、ファサードなんかで表現したりはしているんですけど、分かりづらいところはありますよね。個人的には、素材感は建築でもプロダクトでも、すごく大きい問題だと思っているんですよ。
僕はどちらかというと自然素材が好きで、建築も木造軸組という昔ながらの大工さんが建てるようなものを専門にしていたんです。だけど大きいものを造ろうとすると、自然素材から鉄骨などのケミカル素材にどんどん置き換わっていくんですよね。そうすると僕の感覚では、素材が時間を内包しなくなる。
【高柳】時間が変わらないということですか?
【山崎】汚れてはいくんです。だけど“わびさび”ではないけど、時間の経過が美しさに投影していかない。自然素材は、過ごす時間自体を美しさとして吸収していくんですよ。
【高柳】革ジャンとかも、長年着ていると味が出てきて良いと言いますもんね。
【山崎】そういう美しさがどんどん無くなってきているのは、残念だと思いながらも、それが無いと経済は成長していかないという……。難しい話なんですけど、それに抗うのも、つくり手の責任の1つなのかなと思いますね。
もう1つの定例の質問です。この番組のコンセプトである、“文化を伝える架空の百貨店”があったとして、バイヤーとして一画を与えられたら、どんなものを扱いたいですか?
【高柳】ワクワクして色々考えたんですけど、 “季語チケ”というのを考えてみました。
【山崎】きごちけ?
【高柳】季語のチケットです(笑) 売り場には紙のチケットしか置いてなくて、購入したら四季折々に、お家に季語の美味しいものが届くみたいなものです。
【山崎】それは、すごく良いですね!
【高柳】春は桜餅や草餅が届いたりとかね。夏だったら……アイスクリームは溶けちゃうか(笑) 素麺とか、そういう季節の折々の良いものが届くチケット。
【山崎】なるほどね。普通にサブスクで行けそう(笑) 季節の行事や、季節を味わうという行為がどんどん減ってきていますもんね。
【高柳】前倒しし過ぎている感じもしますよね。クリスマスなんか、すごく早くから始まっていますからね。
▶︎言葉を道具や武器として使うのを一旦やめませんか?
【山崎】前半にご紹介した『究極の俳句』や、先週ご紹介した児童小説『そらのことば降ってくる』を見ていると、高柳さんが現代の言葉や俳句の在り方に一石を投じているような印象を感じました。現代の言葉って、結構ドラスティックに関わり方も変わってきている気がするんですけれど、今の言葉をどう見ていらっしゃいますか?
【高柳】ますます“効率的”にというか、“合理的”に使われている感じがしますね。“部下を動かすための言葉”みたいなのがあったりするじゃないですか。こう言えば相手がこう動いてくれるというのは、完全に効率を考えていますよね。
それはそれで、ビジネスの場では必要なのかもしれないですが、言葉自体は生き物みたいなもので、音や臭い、形を持っているものだと思うんですよね。それを1つ1つ吟味するような、ゆっくりした時間の流れが欲しいなと感じているんですけど、句会にはそういう時間が流れているんですよ。
現代は、言葉をマシンガンみたいに打って効果を確かめて、「これが効かなかったから、次へ」という風にやっている感じがするので、言葉を道具や武器みたいに使うのを一旦置いて、“まったりした使い方をしませんか?”というのは、俳人から提案したい事ですね。
【山崎】タイムラインがすぐに埋め尽くされて、言葉がどんどん流れていきますもんね。
【高柳】次から次へと流れていって、追いかけられないですよね。
【山崎】それに、今はライトな言葉が多いですよね。
【高柳】そうですね。でも言葉って、本来は表には出ていないものを裏に大きく抱えているんですよね。直接的ではなく、間接的であるというか。だから、「何が言いたいのか?」という所を読み取る力が、これから試されるのかなと思いますね。
【山崎】それは必要な力ですよね。2週に渡ってお話をして、デザイナーと俳人には似ている部分があるなと思いました。概念化していない世界というか、言葉が与えられていない世界みたいな中に、新しい意味や概念を見つけて、新しい表現として立ち上げていく所に、共通点があるのかなと感じました。
高柳さんのおかげで、俳句をようやく始められそうなマインドになれたので、すごく嬉しいです。俳句をやること自体が、僕の日常のメッシュみたいなものが変わって、デザインや表現にもフィードバックされていくんだろうなと確信しています。
今回のゲストは、俳人、俳句雑誌『鷹』編集長の高柳克弘さんでした。ありがとうございました。
高柳克弘さんのリクエスト
宙船 / TOKIO
▶︎山崎晴太郎が5年間で気づいたこと
【山崎】2017年の4月からスタートをした文化百貨店ですが、残すところ数分となりました。文化人の方々にお話しを伺って、感性や知識を拡張していこうという事で進めていたんですけども、5年間で126名のゲストに来ていただきました。
僕自身、番組をきっかけに音楽をつくってレコードを出したり、他にも色んな取り組みを一緒にやるようになったり、すごく良い出会いがたくさんありました。それに、自分が知らなかったジャンルというか通って来なかった世界でも、深いお話を聞ける機会も多かったので、すごく刺激になりました。
文化百貨店というタイトルなので、文化的な切り口からゲストを紐解いていくんですけど、どのジャンルの文化と向かい合っても、結局は“人間の話”をするんだなと思っていました。どんなジャンルの人も、文化を突き詰めていくと、必ず人間とぶつかるんだなというのは、この番組を通じた大きな発見でした。
画像2
▶︎山崎晴太郎が文化百貨店でバイヤーをするとしたら?
そして、ゲストの皆さんに聞いていた「文化を伝える架空の百貨店でバイヤーをするとしたら?」という質問に、自分でも答えてみます。文化百貨店の最終回という事を踏まえて言うとしたら、ジャンルではなく“人を切り口にした展示”ですね。
この番組のゲストは、基本的には“肩書”で来ていただいていますよね。だけど話しをしていくと、その肩書の周辺にその人を構築しているものがたくさんあって、僕らが肩書から感じたり知ったりしているものって、その人の一側面でしかないんだなと。だから、その人の全体像が分かる空間をつくりたいですね。
365日・365名みたいな形で、その人がどういう所で過ごしたとか、実はこんな食べ物が好きだとかね。そうすると、「こんな高尚な事をしているのに、B級グルメ派!?」というような発見があったりして、そういう振れ幅も含めて、人の魅力を感じてもらえるのではと思いました。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
アンデルセン童話の「みにくいアヒルの子」はアヒルから美しい白鳥になった訳ではありません。みにくいアヒルの子は最初から白鳥でした。
アヒルの群の中で、他のアヒルと異なった姿のひながいました。
「みにくいアヒルの子」は周りのアヒルから、あまりに辛くいじめられるので耐えられなくなって逃げ出しましたが他の群れでもやはりひどいいじめにあいました。
生きることにすっかり疲れ切った「みにくいアヒルの子」は死のうと白鳥の住む池に行きました。そこで初めて自分はアヒルではなく美しい白鳥だったことに気づくのです。
みにくいアヒルの子はアヒル社会の中で育つうちに自分はアヒルだとプログラミングされました。思考が作り出すアヒルという偽りの自己を自分と思い込んだのです。
自分がアヒルだと思っている考えが外からプログラミングされたとは全く疑いもしません。
アヒルの家族やアヒルの仲間がその考えを補強したからです。しかし、「みにくいアヒルの子」に何かおかしい変だという感覚は常に付きまとっていました。
周りのアヒルと自分は声も姿も違うからです。でも、頭にはすっかりアヒルの自我が形成されてしまっていたので自分をごまかしてまわりのアヒルたちに合わせて生きていました。
自我は外からの教育や経験によるプログラミングでできています。「みにくいアヒルの子」はアヒル社会の信念体系が刷り込まれた自我を自分だと思い込んでいました。
そうして、アヒルと思い込んでいる白鳥は困惑しながらも努力してアヒルを演じ続けるのです。これが私たちのマインドに起きている事です。
頭の中の思考を自分と思い込んでいるのが自我です。
自分は哀れで惨めな無力な人間だという考えが外から植えつけられた強力な信念だとは疑いもしません。
自分がアヒルだと完全に信じ込んでいる「みにくいアヒルの子」を白鳥にさせる手段はありません。最初から白鳥のままだからです。
白鳥が白鳥になる為に努力する必要はありません。自分が白鳥と気がついていないだけです。
苦しんでも苦しまなくとも気がついても気がつかなくとも
最初から白鳥ですから白鳥だという本性に目覚めるだけでいいのです。
自分の真の姿に気がついて、アヒルと思いこんでいる夢から眼をさませばいいのです。
探し続け、疲れ果てて、もう何処にも行けなくなってマインドが降参したとき初めて気がつきます。白鳥と気づく前から「みにくいアヒルの子」はすでに白鳥だったことを。
心理的な苦しみを一瞬にして取り去る方法とは、思考と一体化している偽りの自己から離れて、今ここに在る純粋な意識と繋がることです。
今この瞬間に意識を向けると思考や感情に覆われない本当の自分に気がつくことが出来ます。
不安な時、憂鬱な時、退屈している時は思考に同化しています。
人生の質を高める最も簡単な方法は身体感覚に意識を向けて、思考からの脱同一化の仕方を学ぶことです。
思考を超えた本当の自分に気づくだけでいいのです。
感情や思い込みの葛藤の中で全体を俯瞰する本当の自分が目覚めると、心の表層を流れる波に呑み込まれていたことに気がつきます。
あれ狂う嵐の日でも深い海の底はいつも静かに沈黙しています。
空が雲で覆われて雨が降り、風が吹き、嵐がこようと、その背後には常に青空があります。
視野をこころ全体に拡げると、苦悩も喜びも、雲のように過ぎ去る心の大空の一部だということがわかります。雲(思考・感情)があってもなくても、常に青空(本当の幸せ・気づき)がなくなることはありません。
つらい時やもがき苦しんでいるときは、思考や感情を自分と思い込み、心が狭い範囲に限定されています。
視野をこころ全体に拡げると苦しみが心の一部だということが分かります。
人生の中で起きる喜怒哀楽の感情を自分と思って苦しみますが、その物語が展開している何もない空っぽの舞台空間、風が吹き雪や雨が降る青空という広大な空間、その虚空というスペースが本当の自分だということに気づくとあらゆる偽りが落ちて真実が輝きだします。
本当の幸せがいまここにあることに気がつかないと、探して探すほど「いまここ」から遠く離れてしまいます。
遠くに求めてしまうと、ますます離れて苦しんでしまいます。
本当の幸せはいつも今ここにあります。
それが腑に落ちない人のために呼吸道のワークがあります。
今年もイーハトーブ岩手県に白鳥がやってきました。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
自分の本当の心の声を聞かずに人の意見ばかり従って苦しんでいるのなら最も重要なことは囚われの状態から自由になることそれは肉と皮を剥がれるのを大人しく待っている羊から百獣の王であるライオンに変容する事を意味しています。
以下、羊の群れの中で育ったライオンの子が、見つけられたライオンに連れ出されて初めて咆哮する寓話「獅子の咆哮」
『羊飼い達は、毎日羊の群れをつれて、森や草原を歩きまわっていました。あるとき、川辺で羊たちに水を飲ませていると、薮のかげから小さな動物の鳴き声が聞こえてきました。
不審に思って声のするほうに行ってみると、一頭のライオンが死んで、横たわっていました。
そして、そのそばに、生後まもないライオンの子供が、死んだ母親にすがりつくようにして泣いていました。
羊飼いはかわいそうに思って、ライオンの子をつれてかえり、それを羊の群れのなかにいれて育てました。ライオンの子は、ほかの羊たちと同じように育てられました。
そして、ライオンの子はミルクを与えてくれる羊を母親だと思い、一緒にミルクを飲む羊を兄弟だと思いながら成長しました。
大きくなるにつれ、ライオンの子は、自分がほかの羊たちと少しちがっていることに気づきはじめました。たてがみのところにふさふさした体毛があります。
けれども、ほかの羊のように全身をおおっているわけではありません。
声も羊より低音で、すこし奇妙です。それになにより、草を食べてもちっともおいしいと思えないのです。羊は一日中草を食べて満足していますが、ライオンはそうではありませんでした。まわりの羊たちは、ライオンの子を病気の羊という目で見ていました。
ある朝、羊たちはいつものように草原に散らばって、草を食べていました。そこに一頭の大きなライオンがやってきました。ライオンは羊の群れに襲いかかるために薮に隠れて羊たちに近づきました。そして、どの羊を襲えばいいのか、羊の群れを眺めました。大きなライオンは、そこに信じられない光景を目撃しました。羊の群れのなかに一頭の若いライオンがいたのです。まわりの羊たちはその若いライオンを怖がるわけでもなく、一緒に草を食べながらたわむれています。
大きなライオンは自分の目を疑いました。こんな光景は今まで見たこともなかったし、聞いたこともありませんでした。大きなライオンは藪から飛び出しました。「ライオンだ!」
羊たちは四方八方に逃げはじめます。
自分を羊だと思っている若いライオンも、ほかの羊たちと同じように必死に逃げました。
大きなライオンは羊たちには目もくれず、若いライオンにむかって一直線に走りました。
若いライオンも全速力で走りましたが、大きなライオンの足にはかないません。
とうとう、追いつかれてつかまってしまいました。全身を恐怖で震えながら、若いライオンは泣いて許しをこいはじめました。「メエー、どうか私を食べないでください。お願いですから、みんなのところへ返してください。メエー、メエー」
自分を羊だと思っている若いライオンは、哀れな声で必死に嘆願しました。大きなライオンは、若いライオンを押さえつけながら言いました。「おまえ、なにをバカなことを言ってるんだ! 自分を羊だと思っているようだが、ほんとうはライオンなのだぞ」若いライオンは意味がわからないという顔つきで、言いました。「私はライオンではありません。羊です。生まれたときから羊の母親のミルクを飲み、羊の兄弟たちと草を食べながら生きてきました」
言葉で説明しても無理だと思った大きなライオンは、若いライオンの首根っこをくわえて近くの沼までひきずっていきました。「目を開いてよく見ろ! 私の姿とおまえの姿を見れば、同じだということがわかるだろう」若いライオンは、水に映ったふたつの動物の姿を見ました。
それは驚きでした。水面に映っている自分の姿は大きなライオンの姿よりほんの少し小さいだけで、まったく同じ姿でした。
若いライオンは、その瞬間、すべてを理解しました。長いあいだ、自分でも何かがおかしいと思っていました。
いくら羊たちのように振る舞っていても、そこにはいつも違和感があり何かがおさまりきれないもどかしさ、苦しさ、葛藤がありました。一陣の風が吹き、彼ははっきりと自分自身を認識しました。すると、突然内側から大きな力が湧きおこりました。
そして、それは抵抗できないほどの強烈さで一気に爆発しました。
若いライオンは全身をブルルッとふるわせると同時に、「ガオー!」というライオンの雄叫(おたけび)びをあげました。それは、本来の自分自身を知った歓喜の雄叫びでした。』
(「TALES & PARABLES OF SRI RAMAKRISHNA」VEDANTA PRESS)
羊がライオンに成長したのではなくてライオンは最初からライオンでした。
問題は羊の社会で育てられた為に自分の本性がライオンだと知らずに自分が羊だと思い込んでいることにありました。
ライオンは羊社会の中で育つうちに自分は羊だとプログラミングされました。
思考が作り出す羊という偽りの自己を自分と思い込みました。
自分が羊だと思っている考えが外からプログラミングされたとは全く疑いもしません。
羊の家族や羊の仲間がその考えを補強するからです。
しかし、何かおかしい変だという感覚は常に付きまといます。周りの羊とは声も姿も違うからです。しかし、頭にはすっかり羊社会の信念体系が刷り込まれて羊の自我が形成されています。外からの教育や経験による条件付けによるプログラミングが脳を支配してしまっているのです。羊と思い込んでいるライオンは努力して羊を演じ続けるのです。
これが私たちに起きている事なのです。
頭の中の考えを自分と思い込んでいるのが自我です。
自分が羊だと信じ込んでいるライオンを言葉だけで目覚させることは容易ではありません。
ライオンがライオンになる為に努力する必要はありません。
羊の群れにいる若いライオンは気づいていてもいなくとも最初からライオンのままです。
自分がライオンと思っていないだけです。
最初からライオンですからライオンだという本性に目覚めるだけでいいのです。
羊と思いこんでいる夢から眼をさませばいいのです。
「ガオー!」
清水友邦著「覚醒の真実」より
羊だと思っている頭をつかわずに自分の本当の姿を見ることが呼吸道です。
***************************
清水友邦インタビュー「すべては実体がなく変化し続けている」
https://www.youtube.com/watch?v=JYr-nckcw90
0コメント