俳句は宗教か?高浜虚子の「阿弥陀仏」

https://note.com/aoyadokari/n/n4ce2aad5b2ab 【俳句は宗教か?高浜虚子の「阿弥陀仏」。】より

『俳句はかく解しかく味う』高浜虚子(角川ソフィア文庫)

俳句界の巨人が、俳諧の句を中心に芭蕉・子規ほか四六人の二〇〇句あまりを鑑賞し、言葉に即して虚心に読み解く。俳句の読み方の指標となる『俳句の作りよう』『俳句とはどんなものか』に続く俳論三部作。

それまで俳句を作ることは感心があって実践しているのだが読むとなるとそうも行かなかった。鑑賞者の感性の違いで楽しめばいいとばかり思っていた。ところがどうも違うようなのである。オンライン句会なんかで自分が思う句と高得点を得る句の違いに気がついた。それだけなら良いのであるが、感想を求められたときに言葉がなかった。

俳句は近代文学と決定的に違うのは場の文芸であるということだ。俳句の解釈について、岸本尚毅の解説は参考になる。

近代俳句は、正岡子規の「写生」というアンチ教養主義の自然をそのものを讃歌するものである。それは観念としての我を脱ぎ去った姿として、多くの俳句改革者、新興俳句も人間探求派も社会性俳句も前衛俳句も後に続かず、残ったのは客観「写生」という「月並」な手法なのである。その自負が「ホトトギス」を今日まで継続してきた。

「月並」は虚子にとって、教養主義に陥るほどその制度的な社会思想を纏い後には極めて強い個性しか残らない。その強い個性を求めてさらに「月並」になっていくのである。月はそういうものであるのかもしれない。月そのものを目指しても我々には手の届かない並の人間でしかありえない。そして、その闇ばかり覗いてしまうのである。

「写生」は太陽に照らされた自然を見るのである。そこに観念は必要ない。虚子が娘の星野立子に、読書を進めなかったという。ただありのまま在るものを詠むことだけを教えたと。読書によって頭でっかちになることを望まなかった。それは「俳句第二芸術論」に対しての解答なのだ。直截的な直感論だけを頼りにした。俳句は教養や「お勉強」であってはならない。娘の星野立子の俳句に「月」を読んだ俳句がある。それは彼女の反抗心だろうか?

父がつけしわが名立子や月を仰ぐ

それでも虚子という俳句の継承者としての大家による解釈を必要とするのは、まったくの出鱈目というわけでもないのである。虚子が俳句の教養を正岡子規や芭蕉から学んだのは事実なのだ。その方法が極めて密教的な俳句集団としての場の力というものだったのかもしれない。ある部分宗教性を帯びるのだ。

芭蕉の弟子である凡兆の俳句を「客観写生」であると凡庸さを解きながらそれを解釈という虚子の読みを加えることで「ありのまま」という自然観を導き出していく。逆に作為的な其角も俳句の面白みよりも、その其角の偏屈な性格を解釈することで俳句の面白みとするのだ。

芭蕉の句も「古池や蛙飛び込む水の音」を過剰に評価するのを嫌う。ただ古池に飛び込んだ実景だけだとするのだ(解釈によるとそれは実景ではなく、芭蕉の創造力だとするものもある長谷川櫂の芭蕉論)。そこに芭蕉の観念としての俳句を読み込まない。それは改革者としての芭蕉ではなく、芭蕉から始まる俳句という手法の開眼者として祖なのかもしれない。親鸞のような(芭蕉は法然で、親鸞は正岡子規だろうか?)。


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12755274651.html 【親鸞の念仏、高浜虚子の花鳥諷詠】より

念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。そのようなことは、わたしにとってはどうでもよいのです。

たとえ法然(ほうねん)上人にだまされて、念仏をとなえつつ地獄におちたとしても、わたしは断じて後悔などしません。

(中略)

要するに、わたしの念仏とは、そういうひとすじの信心です。ただ念仏して浄土に行く。それだけのことです。

―親鸞の言葉『歎異抄』(訳・五木寛之)―

昨日、浄土真宗のことをやや批判めいて書いてしまったので、寝る前に五木寛之の『歎異抄の謎』を読んでみた。

この言葉は、以前から知ってはいたが、あらためて読んで衝撃を受けた。

浄土真宗は、ひたすら念仏を唱えて、西方浄土の阿弥陀如来に救っていただく。というものだ…と思っていた。

別の言い方をすれば、念仏を唱えれば極楽へ行ける。という教えだと思っていた。

ところが親鸞は、念仏が極楽へ行ける道かどうかは私は知らない。と言い切っている。

「おい、おい…マジかよ…(苦笑)」という感じもするが、ある意味、「正直」な言葉とも言える。

「本当に極楽に行けるかどうかは私にとって大きな問題ではなく、私は法然先生の唱えた『念仏』をただ信じるだけだ」と言っている。

正直、私には不可解な考えだが、読んでいて「親鸞の迫力」を感じたのも確かだ。

ところで、高濱虚子は熱心な浄土真宗信者だった。昨年、亡くなった深見けん二さんから聞いたエピソードを紹介したい。

『「花鳥来」100号祝賀会、『深見けん二俳句集成』出版祝賀会』

花過ぎて雪となりたる虚子忌かな 深見けん二今日は荻窪の「青丹会」のあと、会社で仕事をして、夕方から東京・神保町の学士…

リンク  ameblo.jp

以前にも書いたが、要約して紹介する。

深見先生がお若い頃、師である高浜虚子と句会をした。その時、虚子は、明易や花鳥諷詠南無阿弥陀(あけやすや かちょうふうえい なみあみだ)という句を出した。

「明易」は「短夜」とほぼ同義で、夏の季語。

深見先生は、虚子に向かって、この「花鳥諷詠」と「南無阿弥陀」は並列と考えてよろしいですか。と質問した。

つまり、虚子先生は「南無阿弥陀仏」(念仏)を信仰するように、「花鳥諷詠」を信仰する…、そういう解釈でいいか、と尋ねたのである。

虚子は、そのように考えていただいて結構です。と答えた。

感激した深見先生は、われわれも同じ考えです。と言うと、虚子は笑って、それはどうかな、本当かな。と答えた、というのである。

私は深見先生に二度、インタビューをさせていただいたが、この話を二回ともされていた。

おそらく、このことは先生にとって大きな出来事だったのだろう。

そして、虚子のこの言葉こそが、先生にとって生涯のテーマであったのだ、と思う。

虚子は私などより、よほど浄土真宗関連の本を読んでいただろうし、『歎異抄』も深く読んでいただろう。

以上のエピソードから、私は虚子のこんな言葉を想像した。花鳥諷詠が本当に俳句の真実の道なのか、どうかは私は知らない。そのようなことは、わたしにとってはどうでもよいのです。

たとえ花鳥諷詠が間違っていたとしても、私は断じて後悔などしません。

(中略)

要するに、わたしの俳句とは、そういうひとすじの信心です。ただただ花鳥諷詠の心にしたがって俳句を作る。それだけのことです。この「覚悟」というのはやはり大したもの、と言わざるを得ない。

また、親鸞はこうも言っている。念仏というものは、あれこれ理屈をつけて論じるものではない。それは自分勝手な想像や知識をこえた、大きな他力の呼びかけだからである。

―同ー

これも「虚子風」にしてみると、

俳句というものは、あれこれ理屈をつけて論じるものではありません。

それは自分勝手な創造や知識を越えた、大きな花鳥風月の呼びかけなのです。

ここで、ふと思ったのだが、この言い回しは虚子の著作の書き方によく似ている。

虚子の文章の書き方は「歎異抄」の言い回しによく似ている。


https://jodo-shinshu.info/category/shusotoshite/syu1208.html 【明易や】より

(名畑直日児 教学研究所助手)

明易や 花鳥諷詠 南無阿弥陀 (高浜虚子)

 六月下旬のある席で、この高浜虚子(一八七四~一九五九)の俳句を知る機会を得た。「明易」とは、夜が明けるのが早い、夏至前後の短い夜のことを意味する季語であり、ここでは、「短い明易い人間」(虚子談)を意味している(以下、『高浜虚子の世界』〈角川学芸出版、二〇〇九年〉他参照)。そして「花鳥諷詠」というのは、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂」という、「客観写生」と共に虚子が提唱した俳句の理念である。この句は、虚子が八十歳の時(昭和二十九年)の句である。「明易」という季語を前に、自らの人生を思い起こす時浮かび上がる、花鳥諷詠と南無阿弥陀(仏)を詠み上げた句と思われる。

 高浜虚子は、正岡子規に師事したことが知られている。その子規との出会い、そして朋友の河東碧梧桐との確執、その後勃興する新興俳句との関わりという俳句人生を思い起こしながら、「俳句は『花鳥諷詠詩である』と断じた事は、私の一生のうちの大きな仕事であったと思う」という辞が示すように、虚子自身が出会った俳句が、この花鳥諷詠であったことがわかる。  この花鳥諷詠とともに,ここに南無阿弥陀仏がある。虚子は東本願寺の門徒であり、若い時には、暁烏敏、そして句仏上人(大谷光演)との出会いがある。虚子の辞世の句は、句仏上人十七回忌の時(昭和三十四年)に詠んだ、「独り句の推敲をして遅き日を」が知られている。あまり表に出ることはないが、虚子の俳句には、この南無阿弥陀仏への「信仰」があることが、これらの俳句によって知ることができる。

 俳句については初学の筆者だが、季節の移り変わりの機微の一つひとつに季語があり、その季語によって映し出される詩情の世界を、十七文字に表現する俳句のもつ魅力、形容しがたい力強さを感じるものの一人である。この花鳥諷詠とともに虚子は、「客観写生」を唱える。あらゆる主観を離れ、小さな感動をも消し去ろうとする姿には、厳しさが同居している。「俳句は沈黙の文芸であります」という虚子には、言葉を超えた沈黙を生きる姿があるように思う。このように主観を離れ自然を詠むということの中には、単なる自然賛美とは違うものがあると思うが、これからまた探っていきたいと思う。

 主観を離れ、そのままありのままに見ていくというのは、阿弥陀仏の心に通ずるものがあるようにも思う。そのままありのままというのは、その現象の根源を照らし出す光であり、あらゆる生死勤苦の姿を浮かび上がらせる眼差しだともいえる。そこに、本願を建立しようとする、不可思議なる法蔵菩薩の初一念の声がある。  六月のこの季節、虚子の大切な句を知る機会を得たことから感じたことを記させていただいた。

(『ともしび』2012年8月号掲載)

https://miho.opera-noel.net/archives/2929 【第五百六十五夜 高浜虚子の「明易」の句】より

 夏の稽古会が千葉県鹿野山神野寺で行われるようになったのは、「ホトトギス」同人の山口笙堂が神野寺住職になってからである。

 そして昭和29年、神野寺での第1回目の夏の稽古会が始まり、昭和33年まで続けられた。

 この第1回目の勉強会は7月13日から19日まで行われ、若き世代の、東の上野泰、清崎敏郎、深見けん二らの新人会、西の波多野爽波らの春菜会の稽古会は17、18、19日の3日間であった。

 最後の19日に詠まれた中の、『七百五十句』掲載の5句が次の作品である。

  明易や花鳥諷詠南無阿弥陀  毒虫を必死になつて打擲(ちょうちゃく)す

  山寺に名残(なごり)蠅叩に名残  すぐ来いといふ子規の夢明易き

  蠅叩にはじまり蠅叩に終る

 今宵も昨夜の夏の稽古会の続きである。昭和29年7月19日作の「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」の句を虚子と深見けん二、両先生の考えを学び直してみよう。

  明易や花鳥諷詠南無阿弥陀 (あけやすや かちょうふうえい なむあみだ)

 深見けん二推薦、あらきみほ著の『図説 俳句』の中の[深見けん二インタビュー④]で、先生は「花鳥諷詠」について詳しくお答えくださっているので、そのまま転載させていただく。

  Q・虚子に「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」という句がありますが、どう鑑賞したらよいのか難しいと思いました。ぜひ教えてください。

けん二―この句は、昭和29年、私も参加した夏の稽古会での作品です。

 その後、「玉藻」の研究座談会で虚子先生から花鳥諷詠を叩きこまれましたが、その時の印象深いことの1つに、この俳句について虚子先生から次のように言われたことがありました。

 「この句は何がどうというのではないのですよ。信仰を表しただけのものですよ。我々は無際限の時間の間に生存しているものとして、明け易いにんげんである。ただ信仰に生きているだけである、ということを言ったのです」

 それ以来、私は、俳句を作りつづける上で、俳句とは何かと考える時に、何時もこの句に立ち帰る生涯のテーマとなった句です。

 明け易い人間というのは、人の命は明け易く短くはかないことです。しかし、花鳥、つまり季題に宿る力といいますか、命というものは宇宙と1つで極めて大きい、いや無限と云えます。その季題の力を信じて、俳句を作れば、自分の力、人間の力を超えたものが俳句に宿る、つまりそうした俳句が出来るという確信めいたものがあります。

 そのことによって一と刻でも、安心が得られます。

 人間には、また人生には、地獄のない極楽はありません。俳句は、その地獄あっての極楽を詠むものであり、その極楽を詠むことにより、ゆとりが出来る。しかも、誰でもが救われるところに、南無阿弥陀仏と同じところがあると思います。

  Q・花鳥諷詠と俳句はどう違うのでしょうか。また、「花鳥諷詠」という言葉はとても誤解を受けやすいように思います。

けん二―確かに、「花鳥」という言葉は、花と戯れ鳥と遊ぶことを連想しますので、俳句は単なる遊びと誤解されやすいですね。虚子は、定型と季題を破壊した河東碧梧桐の新傾向に反対し、季題を尊重し定型の調べを大事にする意味で、「花鳥諷詠」を唱導しました。

 「花鳥諷詠」ということは、花鳥を、また花鳥を透して心を、調子よくうたうということになるでしょう」とは、虚子先生から直接伺った言葉です。またその時、「花鳥諷詠ということは俳句とシノニム(同義語)です」とも言われました。

 花鳥というのは、自然を代表した言葉で、人事を含む季題のことです。

 俳句界では、プロレタリア文学やモダニズムの影響があり、新興俳句運動が興り、戦後には第二芸術への論議や前衛俳句運動が興りますけれど、「花鳥諷詠」は俳句そのものを表す言葉として、反対運動が起こるたびに、力強いものになったとして、「この一語を残し得たことは私の誇り」と、虚子は言いました。



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