マンネンタケの話

http://www.ffpri-kys.affrc.go.jp/situ/TOK/neda/hanashi/hanasi24.htm 【マンネンタケの話(一)】より

 中国の昔の文献に最も多く登場するのはマンネンタケである。きのこに関する文献の三分の二の量は、このきのこについてである。これに対して日本では、全体の八分の一で、それほどではない。なぜマンネンタケは、中国で重要視されたのだろう。

 マンネンタケは霊芝と一般に呼ばれるが、「芝」だけでもマンネンタケを意味する。「芝」は、草が生え出る姿の象形文字である。その他、■、寿潜、希夷、三秀、菌蠢の別名もある。説文解字という字書(後漢)には、「芝は神草なり」とある。また芝には、青赤黄白黒紫の六芝があるとされた。

 マンネンタケは一年生のきのことはいえ、漆を塗ったような光沢がある堅いきのこで、美しくも摩訶不思議な姿をしている。論衡に「芝は土に生ず。土気和するが故に芝草生ず。瑞命なり」、礼記に「王者仁慈なる時は、すなわち芝草生ず。」とある。とにかく、マンネンタケが発生するのは、おめでたいことのように思われていた。

 抱朴子(晋)という神仙の本によると、「芝には石芝、木芝、肉芝、菌芝があり、およそ数百種類ある。「石芝」は石の姿をしていて海隅、石山、島嶼のほとりに生じる。「肉芝」は形状は肉のようで大石に付き、頭尾をそなえていて、すなわち生物である。氷のように光り澄んでいて、大きいのは十余斤、小さいのは三四斤ある。「菌芝」は、深山の中、大木の上、泉水の側に生じ、その形状はあるいは宮室のようで、竜虎のようで、車馬のようで、飛鳥のようで、色は一定していない。おおよそ百二十種ある。「木芝」は、松脂が地にしずんで、千年すると変化して茯苓となり、一万年するとその上に生じる小木であって、その形状は蓮花に似て、夜見ると光る。これを持ってみると、とても潤滑で、焼いても焦げない。これを身につけていると兵を避け、これを服用すると神仙となる。」とある。

 また採集方法として、「およそ芝草を求めて名山(青芝は泰山、赤芝は霍山など、六芝はそれぞれ特定の山に生えるとされた)に入るには、必ず三月、九月をもってする。すなわち山が開けて神薬を出す月である。さらに所定の時刻、方法で山に行く。霊宝を帯び、白犬を抱き、白塩一斗とお札を包み、大きな石の上に着いた呉唐草(?)を一把とって山に入ると、山の神が喜ぶので必ず芝を見ることができる。必ず呪文を唱えながら歩いて採る。縁起の良い日に骨刀で刻み、陰乾してから服用すれば効果がある。もし精進潔齋せず、けがれたままで、徳が薄く、入山の術を知らなければ、鬼神が人に与ないので、見ることができない。」という心得が記されている。

 しかし酉陽雑爼(唐)には、「屋柱に理由もなく芝の生じるのは、白いものは喪を、赤いものは血を、黒いものは賊を、黄色いものは喜をつかさどっている。形が人面のようなものは材を失い、牛馬のようなものは遠くの賦役に連れていかれ、亀や蛇のようなものは蚕が減る。」とあり、一転して縁起が悪そうなものとされている。

 また本草綱目(明)の著者の李時珍も、「芝は腐朽する余気で生じるもので、さながら人に生ずる瘤のようなものだ。しかるに古今みなこれを瑞草とし、また服食すれば仙人となると言っているのは、誠におろかなことだ」と喝破している。しかし医薬としての効能は認めていたようである。

http://www.ffpri-kys.affrc.go.jp/situ/TOK/neda/hanashi/hanasi25.htm 【マンネンタケの話(二)】より

 中国で古来珍重されたマンネンタケ(以下「芝」)は、「王者の徳の現れ」とされたため、その発生記録は多くの書物に残されている。年代順に列記してみると。

 漢の武帝の紀元前一〇九年、宮殿内に柄が九本の芝が発生した。この時は、大赦を行ったり、芝の歌を作ったりした。紀元前六一年(漢)には、金色で九本の柄の芝が宮殿の銅の雨樋の中に発生した。七八年(後漢)に、ある女性の家の中に芝が五本生えた。長いのは一尺五寸、短いのは七寸ほどで、柄や傘は紫色だった。郡の長官は、それを皇帝に献上した。皇帝は悦んで、銭と衣を下賜した。そして皇族や高級官吏を集めて、芝が出たことを天下に発表した。八〇年に発生した芝は、毎年傘が一つできていったので、五年で五重の傘になった。春は青、夏は紫、秋は白、冬は黒く色が変わった。二七九年(呉)には工人の老人の家に発生した。ナツメの木からで、長さが一丈余り、柄は幅四寸、傘の厚さは三分だった。その老人を侍芝郎という芝を管理する役人に任命して、青い綬のついた銀印を授けた。七四、一四七、一八一年(後漢)、三四六年(晋)、四七八年(南北朝・宋)、五〇二年(北魏)にも記録がある。

 唐の六四三年、皇太子の寝室の中に紫色の芝が発生した。一四本の柄があり、龍が奮い立ち、鳳凰が飛び上がる形をしていた。七四八年、宮殿の柱に玉のような芝が生えた。神々しい光が宮殿内を照らした。そこで当時の玄宗皇帝に「開元天寶聖文神武應道」という尊号を加えた。七四二年頃、ある家の柱に芝が生えた。形は天尊(道教の天の神)のようだった。郡の長官は、柱のその部分を切りとって献上した。七六一年には、宮殿の御座の梁上に、一本の柄に三つの傘のある玉のような芝が生えたので、玉芝詩を詠んで献上した。

 宋の九八〇年、地方の役所の梁に蓮の花のような芝が生えた。一〇〇一年には、地方から仏像のような形の芝が献上された。一〇〇三年には田に黄紫色で高さが五寸の芝が三層に生えた。同じ年、色は紫黄で長さが一尺余り、七本の枝に分かれ、枝は手の五指のような芝が生えた。その一番上の枝は鳳凰に似ていた。一〇〇八年に孔子廟で五株の芝が出た。色は黄紫で、冠のような形をしていた。同じ年、尭帝の祠で、黄紫の芝が九本発生し、うち四本は上の方でつながっていた。また同じ年、神仙仏像に似た芝が献上された。一〇一〇年には芝が二二本採れて、七本は珊瑚のような形で紫色だった。一〇四五年、禅寺の柱に芝が生えた。高さ一尺三寸、傘は二一層になり、色は白黄で紫がかっていた。その傍らに小さい芝も生えていて、傘が九層で煙のような気(胞子か?)があった。一一一五年、ある地方で一万一六〇〇本の黄色の芝が大発生した。その中で一本だけ紫色で柄が九本に枝分かれしていた。一一二八年、地方の知事から傘が五つの芝が献上された。掌のような形で、赤く、光沢があった。大臣は、めでたいことだと奏上したが、皇帝は(興味が無いのか)良く見ないで退けた。その他、宋代は多くの記録が残っている。

 どうも柄が枝分かれしたり、傘がいくつもあったり、龍や鳳凰に似た形のマンネンタケが珍重されたようだ。でも、こんなに頻繁に出たら、「王者の徳」も有難みが薄くなるのではないだろうか。

http://www.ffpri-kys.affrc.go.jp/situ/TOK/neda/hanashi/hanasi26.htm 【マンネンタケの話(三)】より

 中国の人達に古来珍重されてきた芝(マンネンタケ)だから、芝が登場する文学作品が少なくない。古くは屈原の楚辞に、「山間に於いて三秀(芝の別名)を採る」の句がある。李白、杜甫の作品にも登場し、唐・宋を代表する文人は、いずれも芝を題材にした詩文を詠んでいる。

 宋の文豪の蘇軾は、元豊三年(一〇八〇)五月、芝を食べた夢を見た。夢の中でだれかの家にいた。西側の門が開き、入ると小さい庭園と古い井戸が有った。井戸の上部はすべて蒼い石で、石の上には、紫の蔓が竜や蛇のように生えていた。枝葉は、赤箭(オニノヤガラ)のようだった。主人は、「これは石芝です。」と言った。蘇軾は、にわかに一枝を折って食べた。周りの人達は驚いて笑った。鶏のような味がして甘かった。そこで、次の日、早速詩を詠んだ。

空堂明月清旦新  幽人睡息来初■

了然非夢亦非覚  有人夜呼祁孔賓

披衣相従到何許  朱闌碧井開瓊戸

忽驚石上堆竜蛇  玉芝紫筍生無数

鏘然敲折青珊瑚  味如蜜藕和鷄蘇

主人相顧一撫掌  満堂坐客皆胡盧

亦知洞府嘲軽脱  終勝■康羨王烈

神山一合五百年  風吹石髄堅如鐵

芝も漢詩になると、格調高くなる。

 その後、蘇軾は本物の石芝を入手した。蘇軾がみやこに住んでいた頃、井戸を掘った際に子どもの手のような物を見つけて、献上してくれた者がいた。これは、二の腕から指まで具えていて、その肌は生きているようだった。蘇軾はこれを隠者に聞いたところ、「肉芝」であるとのことだった。弟の蘇轍とともに、これを煮て食べた。そしてまた前の詩の続きを作った。どうも蘇軾は珍しい物を食べるのが好きらしい。

その弟の蘇轍も文豪である。彼によると、元祐八年(一〇九三)のある日、登州から客が来た。彼が言うには、遠方の島々には、石の上に多くのきのこが発生する。海の人達はこれを石芝と呼んでいる。食べると茶のような味がして、おくれて甘くなる。その地の人達は採って食べているという。そして蘇轍も、それを題材に詩を詠んでいる。

 宋の次の元は、支配者がモンゴル人である。漢民族ではないため、マンネンタケに関心が薄かったようで、芝の記録はほとんど無い。

 明代になり芝の記録が再び現れる。明の皇帝の世宗(一六世紀)は、芝を採ってくるようお触れを出した。するとまず、宛平県の民が五本を得て献上し、御医の李果は、玄岳(山の名前か?)で、新鮮な芝を40本採って進上した。一五五七年九月、礼部(礼儀、祭祀を司る役所)から千余本の芝が進上された。明くる年には春■県の民が、一八〇本集めて献上した。その中には径一尺八寸のものが数本あった。四川巡撫(四川省の民政・軍政を司る官)の黄光昇は、四九本進上した。十月にも、礼部から一八六四本進上された。どうやら礼部で取りまとめていたようだ。一五六四年に御医の黄金は、黄寿香山に行き、芝を三六〇本集めた。皇帝が命令すると、かなり集まる。

 萬暦三十年(一六〇二)に、徳平葛という人の家の軒に芝が生えた。するとその翌年、彼は科挙(官吏登用試験)に合格したという。この頃になると、芝は「王者の徳」や「仙人になるための秘薬」というよりも、「幸運のシンボル」のイメージに近い。


http://www.ffpri-kys.affrc.go.jp/situ/TOK/neda/hanashi/hanasi27.htm 【マンネンタケの話(四)】より

 日本においても多くのマンネンタケ(芝)の記録が残っている。堅くて漆を塗ったような光沢が摩訶不思議な印象を与えることと、中国で珍重されていることが伝わったためであろう。

 古くは日本書紀にも、記されている。皇極天皇三年、菟田郡の押坂直という者が、子供をつれて雪遊びをしに菟田山に登った。すると雪の上に紫菌(芝)が頭を出しているを見つけた。高さは六寸余りで、あたり一面に出ていた。子供を使って採らせて、付近の家の人に尋ねたが、皆知らないと言った。毒かもしれないと思ったが、煮て、子供と一緒に食べた。とても美味しく、二人は無病長寿になったという。

 公式記録には、天武天皇八年、紀伊国の伊刀郡から芝草が献上された。神亀三年九月、内裏(皇居)に玉来(芝)が生えたので、詩を作らせた。承和二年二月、右大臣の清原夏野が、一本の柄から二本の枝の出た芝草を献上した。色は紫と緋色が混じりあり、柄の先には傘があった。大臣の山荘の近くの山に発生した物で、この日は、酒を侍臣に賜って、お祝いをした。仁寿元年八月、駿河国から瑞草が献上された。傘は紫で、柄は朱色だった。その後は、有難みが薄れたようで、献上の記録は乏しくなる。

 三枝(さえぐさ)という姓がある。その昔、顕宗天皇が饗宴を開いた時、庭に柄が三本に枝分かれした芝が生えた。これを献上した者に、天皇が三枝部連(さえぐさべのむらじ)という姓を賜ったという。

 芝が題材の和歌もある。万葉集(巻十、作者未詳)には、「春さればまず三枝(さきくさ)の幸くあらば後にもあはむな恋そ吾妹(わぎも)」、古今集(序、催馬楽歌)には、「この殿はむべもとみけりさきくさの三つば四つばにとのづくりせり」があり、おめでたい象徴とされていたようだ。

 江戸時代の日本山海名産図会には、「芝、さいわいたけ、俗に霊芝という。一名、科名草、不死草、福草、和訓カトデタケ、サキクサ。本草学で五芝という仙薬である。(中略)一本離れて生えるものがあり、また群がって生えるものもある。また一本の柄に傘が重なり生じてマイタケのような物もあり、また柄が枝分かれして傘があるものもある。また傘が無く、柄だけのものもある。長さが三尺くらいで枝があり、鹿の角のような物は鹿角芝という珍しい物である。先年、伊勢の山中に発生した。(中略)丹後では、門出を祝ってこれを贈る。伊勢では万年たけといって、正月の飾りにする。江戸ではネコジャクシといい、仙台ではマゴジャクシといって、痘瘡を掻くなり。」とある。背中を掻くのに良いかもしれない。

 本草綱目啓蒙(一八〇三年)によると、そのほか、サイワイダケ、吉祥ダケ、ヤマノカミノシャクシ(紀州)という呼び名もあったらしい。この頃になると科学的になり、「五色芝は仙薬にして尋常の品に非ず」などという説は怪しく信じられないなどと記しており、描写も正確になってくる。

 仇討ちで有名な赤穂義士も芝を見つけている。討ち入りの年の七月、稲荷の瑞垣に大きな霊芝が生えているのを見つけた。浅野内匠頭の奥方が言うには、「今日、神垣に霊芝が生えたのは、まさしく大学(内匠頭の弟)殿の出世を明神が予言されたのでありましょう。」現実は、浅野家の再興はならずに、仇討ちになった。




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