https://naginote.atelier-nagino.com/archives/2166 【狐面と鎮守府八幡宮とアテルイのこと】より
狐面と私
福島県棚倉町とお隣の横浜市鶴見区が友好交流都市ということで、棚倉町を紹介するイベントを開催するために仲間たちが棚倉町の狐面に絵付けをしております。福島県は夜しか出歩く思い出がなかったので、棚倉町も夜ドライブの思い出です。
そういえば、福島県ではなく地元岩手県で野生の狐をみたことが1度だけあるんです。それは不思議な体験でした。
狐を見た話
賢治作品にも出て来る狐。私の生まれ育った水沢市は、花巻市よりも南になり、日常的に野生の狸はみるのですが狐を見ることはありませんでした。
今から20年前、1度だけ「見た!」と確信する出来事がありました。今回は私の体験の話で「忘れられない狐との出会いの思い出」です。
狐にあった場所
その狐と会った場所は岩手県奥州市水沢「鎮守府八幡宮」という神社です。
水沢駅から金ヶ崎を経由して北上駅に行くバスに乗っていると、バス通り沿いに大きな鳥居が建っているので、通った人には「おぉ、あそこか」と記憶に残る神社です。本殿はバス通りから田畑の間をだいぶ歩いた森の中にあるので、バスから本殿をみることはできません。
この神社のロケーションについて、奥州市と共に説明させてください。
阿弖流為の拠点 奥州市
当時、岩手県水沢市と言われた場所は、平成の大合併では胆沢(いさわ)・江刺(えさし)地区で合併し「奥州市」になっています。もともと「胆江地区(たんこうちく)」として併せて呼ばれていて活動圏も近いので、一緒になることに違和感はなかったのですが、平泉との関係に微妙な感じがあるところでしょうか。
平泉が世界遺産になったことで、歴史の話では奥州藤原氏関連が先に目につきますが、奥州市地区ではやはり阿弖流為関連に目を向けたいところです。
阿弖流為とは?
社会の教科書では「8世紀末から9世紀初頭に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷の族長」と習います。教科書のみの印象だと「大和国の蝦夷討伐」のように見られますが、大和に蝦夷と言われた地方にも独自の文化をもった「日高見(ひだかみ)」という連合国が存在しました。決して一方的に肯定される正義の討伐ではありません。
ただし、文字の記録が歴史調査のよすがになるため、文字を持たない日高見国側の情報は、敵方の大和国に記されたものになっていきます。
日高見国とは?
日高見国の範囲としては、茨城県日立市より北部の東日本の広い地域という説がありますが、その中心の「胆沢の地」は胆沢・江刺地方を中心に、南の東磐井・西磐井、北の和賀及び稗貫地方の南部を含むと広域とされています。
今の奥州市、南の一関市・平泉町、北の金ヶ崎町・北上市・花巻市の一部ということになります。
「稗貫」という地名、宮沢賢治に関心がある方にはすでに「おや?」というキーワードですよね。この話は賢治さんとも関係するのです。
日高見国(蝦夷)がどのような民族であったかは2説あり、どちらかはっきりした決め手にはいたっていません。1つは東北地方に住んでいたアイヌ民族「蝦夷アイヌ説」、もう1つはアイヌ民族と近しい別の民族「蝦夷辺民説」です。
アイヌ語で説明がつく岩手県各所の地名について、その言語を使っていた人たちその人だったのか、後から流入した人が以前から呼ばれていた地名を使っていたにすぎないのか…ということです。
北海道アイヌに連なる同族であったと言い切れる状況ではないのですが、私は感覚的に近しいものを感じています。遠野のヤマビトについても、感じることがあるのですが、それはまた別の機会にしたいと思います。
胆沢(いさわ)=i・sa・wa=聖なるそれの・前の・岸
「いさわ」アイヌ語起源について引用させていただきます。
もしも、この「いさわ」がその通りアィヌ語系古地名だとしたら、次のように解釈されます。
「いさわ」の語源は、=アィヌ語の「イ・サ・ワ(i・sa・wa)」で、その意味は、
=「(聖なる)それの・前の・岸」になります。
この場合の「(聖なる)それ」とは、いったい、何を指すのかと申しますと、それは、「エミシの国の偉大な指導者阿弖流為のチャシの丘であるとともに、村落連合国家日高見の中央本部であり、かつ、「田茂村のエミシの人たちの”チ・ノミ・シル”(我ら・祭る・山)でもある聖なる丘「田茂山」のことであったと推定されます。
そして、「前の・岸」というのは、「田茂山の前の北上川の岸辺」ということだったと考えられます。
つまり、「いさわ」の地名の起こりは、「聖なる丘田茂山の・前の・北上川の岸辺」を指す古地名の「イ・サ・ワ」だったのではないか…と思うのです。
出典「随想 アイヌ語地名考」
岩手を知る上で、アイヌ語を理解して検証することが必要なのだと思うきっかけになったサイトです。岩手出身の金田一京助氏がアイヌ語の研究に打ち込んだのも通じるものがあったのでしょうか。
金田一京助氏は賢治さんの盛岡中学の先輩であり、大正3年に「北蝦夷古謡遺篇」を出版しています。アイヌ語の聞き取り調査をし、千里幸恵氏に「アイヌ神謡集」を出す導きをしています。賢治さん大正10年の家出時代、金田一氏の家と下宿先が近く、交流があったことから賢治さんと千里氏の接触とまではいかなくとも、アイヌ語の聞き取りやノートの存在を見聞きしたのではないか?と想像される状況があります。
賢治さんの作品に端的に「アイヌ」「悪路王(阿弖流為の大和側の呼称)」が出て来るので、手掛かりが少なく困難かとは思うのですが、アイヌ語や日高見国との関連で見えてくるものがあるのだと思います。
征夷大将軍 坂上田村麻呂と胆沢城
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
延暦16年11月5日(797年11月27日)桓武天皇より征夷大将軍を任命されて蝦夷を討伐。東北地方を統治した人です。
桓武天皇といえば、平城京から平安京に遷都した天皇。大和政権の中心が西日本なのに、北東北まで侵略した坂上田村麻呂が人間離れした功績なので、信じがたい人物像です。
坂上田村麻呂は、征服の証とさらなる北方の侵略の拠点として城を建設し、大和の神を祀った神社を建設していきます。
阿弖流為の館の目の前に建造したのが「胆沢城」で、その敷地の北側祀ったのが「鎮守府八幡宮」です。
ちなみに胆沢城は築城されてから4,000人を配置する命令が出て、今の関東地方から人が集められ、常時700人がここにいたそうです。
これだけの人数が流入し、神の持ち込みで同化が行われていたなら、長い年月の果てに既にどちらを祖先としているかは知る由もないのも無理もないことかもしれません。賢治さんも。私も。
八幡宮でキツネを見た
胆沢城があった場所は、今は公園という名前の広い野原です。その奥の森の中に佇む「鎮守府八幡宮」は立派な社で、神は神なのだという風格を感じます。
20年前の正月2日夜。友人たちと初詣にきました。2日の夜は人がおらず、バス通りの鳥居から八幡宮までの胆沢城跡は全面真っ白な雪原で、車のヘッドライトだけでは道路の判別も難しい道のりでした。
駐車場に車を止め、本殿の明かりでお詣りした時、雪の上をサササと移動する影が。見ると、白いキツネ!初めて見ました。なんかもう、冬毛で白い狐が珍しいし、狐が水沢にいるのにもビックリで、犬でもウサギでもなくキツネというのに感激して「すっごぉぃ!」と年甲斐もなく追いかけたのですが、本殿の曲がり角で見失いました。トホホ。
そこに、お稲荷さんを祀った社があり、狐が出るからここには祀られているんだな…と、そちらも参拝。それまで本殿しか拝んでなかったので、お稲荷さんもあったんだなと、後から追いついた友人に報告。その場では「白いキツネを見た!」「へぇ、キツネって水沢にいるんだね!」という会話で終わったのですが…後日、どうも冬に毛が白くなるキツネも、そもそもキツネも水沢には生息していないと言われております。
見たんだけどなぁ…むしろお稲荷さんのご神体を見たんじゃないか?と言われるものの、そっちだったとしても不思議な体験です。
やけにはっきりと見た白いキツネが、生物でも神でも不思議な出会いでした。ま、イーハトーブなのでということにしておきましょう(笑)
https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver104/ 【宮沢賢治が旅した人首の街道 | 未知の細道】より
岩手県奥州市
「人首」と書いて「ひとかべ」と読む、岩手県奥州市江刺区にある小さな町並み。かつて宿場町として栄えたこの町には、若き日の宮沢賢治が2度訪れたという記録がある。賢治が歩いたという、今も残る古い街道を実際に歩いて、詩が生まれた当時の情景に思いを馳せてみる。
#1 プロローグ・詩を生み出した風景
まるで絵の中の風景にいるみたい——ここに来てから何度そう思ったことだろう。石仏や石碑が点在する街道、あるいは町なかの高台や人里から少し離れた峠から見下ろす風景。山間にあるこの町は、どこを歩いても、まるで時が止まったかのような昔ながらの佇まいなのだ。
私は今、岩手県の奥州市は江刺区、人首(ひとかべ)という地域に来ている。「人首」とかいて「ひとかべ」と読む、何やら恐ろしげな地名の由来は、平安時代の蝦夷の伝説だ。蝦夷の首領・悪路王の甥とも言われる伝説上の少年首領「人首丸」が朝廷軍と戦うために立てこもった地域とも、斬首された場所とも言われているのだ。いずれにしろ、この一帯は、蝦夷一族が朝廷との戦いを繰り広げ、そして敗れ去った歴史の舞台の一つに違いないのだろう。
そんな蝦夷の哀しい伝説に加えて、人首には近世から近代にかけて東北の要衝として栄えた地域、という側面もある。鉄道や車が発達するまでは、水沢から大船渡までをつなぐ盛街道や、遠野へと出る五輪街道の宿場町として、人首の町はたいそう栄えたという。
まさに人首が賑わっていた大正時代に、若き日の宮沢賢治が2度、この町を訪れたという記録が残っている。岩手の自然をモチーフにしているとも言われる理想郷「イーハトーブ」を舞台に、豊かな心象世界を描き出した宮沢賢治の文学。その作品は、今もなお古びることなく私たちに読み継がれている。
1度目の旅はまだ学生だった大正6年(1917)に二人の友人と地質調査に、2度目は大正13年(1924)に、花巻農学校の教師となってから。本州で一番広い岩手県の中を、大部分は歩いて移動するしかなかった時代に、2度も人首を訪れたということは、この町には賢治の心に響く何かがあったに違いない。それが何だったのかを知りたくて、私は賢治が歩いた街道を歩いてみることにしたのだ。
https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver104/01.html 【#2 人首の佐伯家へ】より
人首城の大手門を移築した佐伯家の門
初冬とは思えないほど寒いある日の午後、私は音楽家の友達と共に、人首に向かっていた。水沢から江刺の町を抜けて、盛街道と呼ばれる道を車で登っていく。車を走らせること30分、だんだん人家が少なくなり、心細くなってきたころ、やっと小さな町にたどり着いた。ここが「人首」だ。
目指すは町の中心にある人首城跡に通じる坂の一角にある、古いお屋敷だ。まるでお城のような門をくぐると、樹齢250年を越すという大きな山桜、築山のある庭、二つの蔵、そしてタイムスリップしたような武家屋敷風の家がそびえ立っている。それもそのはず、この佐伯家は仙台藩人首城主沼辺氏の家老だった家柄で、主屋は110年前に建て替えられ、庭は江戸時代中期からあるというから驚きだ。
私はここの家主、佐伯研二さんに会いに来たのであった。佐伯さんはここで暮らしながら古い屋敷の保存と公開、そして「賢治街道を歩く会」というグループを会長の山崎勝さんらと発会し、宮沢賢治の人首での足取りの調査とそれを伝える活動を行っている。これまでに賢治ゆかりの場所を表すマップの発行や、賢治が歩いた道の整備活動、案内板の設置などを続けているのだ。
保存、公開している佐伯邸。広い座敷を使って、講演会や音楽会などを行うこともある。
資料に目を通す佐伯研二さん。
「まんず」と言いながら佐伯さんは家の中に迎え入れてくれた。部屋の中も、まるで時代劇に出てきそうな立派な作りだ。「こっちは寒いでしょう、本州で一番寒いのが岩手だからね」と佐伯さんは教えてくれた。
「明日は実際に賢治が歩いた道を辿ってみましょう。まんず、今日はゆっくりして!」と佐伯さんが相好を崩し、取材もそのままに宴会となった。冷たいみぞれ混じりの雨が降り出し、底冷えのする夜だったが、まきストーブの前で奥さんの美味しいお料理と岩手のお酒をいただきながら、佐伯さんとの人首の歴史や賢治の話は尽きなかった。
https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver104/02.html 【菊慶旅館から見た人首の町】より
旧菊慶旅館の二階から見た人首のメインストリート。
朝起きるとキンと冷えてはいるが、昨夜の雨は嘘のように晴れていた。
佐伯さんと共にまず向かった先は、以前は「菊慶旅館」と呼ばれていた建物だ。宮沢賢治が2度、人首に来た際、いずれもここに宿泊し、その部屋から眺めた町の目抜き通りの印象が、「人首町」という詩になっていることがわかっている。
その一節はこうだ。
雪や雑木にあさひがふり 丘のはざまのいっぽん町は あさましいまで光ってゐる
そのうしろにはのっそり白い 五輪峠のいたゝ゛きで 鉛の雲が湧きまた翔け
南につゝ゛く種山ケ原のなだらは 渦巻くひかりの霧でいっぱい つめたい風の合間から
ひばりの声も聞こえてくるし やどり木のまりには艸いろのもあって その梢から落ちるやうに飛ぶ鳥もある『五輪峠・賢治マップ』(賢治街道を歩く会、2013)より引用
明治時代に創業した菊慶旅館は、この町を代表する立派な旅館だった。しかし2011年の東日本大震災によって建物の一部が壊れたため、惜しまれながらも閉じてしまった。岩手の内陸であるここ人首も、震災の影響は甚大だったのだ。しかし今でも、先代の娘さんである武内美紀さんが、こうして訪れる人たちを元の客室に通し、賢治が見た眺めを案内してくれている。
旧菊慶旅館を案内してくれた竹内美紀さん。
入ってみると広々とした作りで、かつてはたくさんの人が泊まりに来たことだろう。大正時代に岩手県知事一行が泊まった際の記念写真なども飾ってあり、菊慶旅館と人首の町の華やかなりし頃を思い浮かべることができた。
2階に上がり、賢治が泊まったと思われる部屋に入った。建替えしているが、部屋があった場所は同じなので、窓から見える風景は賢治が眺めたものとほぼ同じでしょうね、と佐伯さんと竹内さん。
窓を開けて外を眺めてみる。人首の町の目抜き通りが昨夜の雨に濡れている。そして輝く朝日を受けて、キラキラと光っている。まさに詩の通りの風景だ。今は少しの人が歩いているばかりだけれど、往時にはきっとたくさんの人馬が行き交ったに違いない。一本道の向こうには紅葉が残る山々がある。右のほうに見えるのが詩の中に出てくる五輪峠だろうか。そうか、賢治はあの山を越えて、歩いてこの町までやってきたのか。
そう思ったら、次はあの山の中へと行ってみたくなった。私たちはもうすっかり、詩の世界に入り込んでいたのである。
https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver104/03.html 【静かなる五輪峠】より
昔のままの峠道。賢治はこの五輪街道から五輪峠を登り、人首の町へと入った。
山の天気は変わりやすい。人首の町には、また戻ってくることにして、天気がいい午前中のうちに、五輪峠まで車で登ってみることにした。かつて人や馬が歩いて通った五輪峠への道はすでに使われなくなり、昭和31年(1956)になって新しい道路ができている。時代と共に全く使われなくなった旧道は大半が草木に埋もれてしまったが、そのおかげで賢治たちが歩いた当時のままの道が残った。近年その一部を佐伯さんたち「賢治街道を歩く会」が整備して、昔の峠道の雰囲気を歩いて体感できるようになっているのだ。
佐伯さんは「昔は水沢から人首を通ってこの峠を越えて遠野や、さらに宮古などの三陸海岸まで出たんですよ」と教えてくれた。賢治も行った遠野だが、昔はこの峠が人首から遠野に出る唯一の道だったのだ。
峠からは人首を越えて、水沢の町がうっすらと見える。賢治もここからの眺めを詩の中で「あすこらへんが水沢か」と書いている。
五輪峠の頂上まで行くと、名前の由来となっている「五輪塔」がある。
この付近の武士が先祖の供養のために350年ほど前に建てたもので、すでに2度ほど代替わりしているらしい。賢治が見た塔は2代目だろうと言われている。 「五輪峠」という詩の中にはこう書かれている。
あゝこゝは 五輪の塔があるために 五輪峠といふんだな ぼくはまた 峠がみんなで五っつあって 地輪峠水輪峠空輪峠といふのだらうと たったいままで思ってゐた 地図ももたずに来たからな『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房、2009)より引用
実は五輪峠には戦にまつわる言い伝えなどが多く、平成に入ってからも、摩訶不思議なことが起こると言われている場所なのだそうだ。行く前から佐伯さんにさまざまな言い伝えを聞いていたので、なんとなくドキドキしながら五輪塔の周りを歩いた。
賢治は1度目の旅では、五輪垰で野宿したのだが、のちにその夜のことを「とても恐ろしさを感じた、その静けさは死と同様である」と恩師に語っている。賢治の文学は、大いなる自然との交感が豊かに描かれているのも魅力の一つだ。そんな賢治だからこそ、この地にヒヤリとする何かを感じ取ったのかもしれない。音楽家の友達もあたりに耳を傾けながら、確かにここは音がないなあ、静かすぎる、と呟いていた。
峠を下って人首へと向かう行く道すがら、蛇紋岩という、鉱物を多く含んだ火成岩の露頭が目につく。子供の頃から「石コ賢さん」と呼ばれるほど鉱物採集に熱中し、長じてからは地質を学んだ賢治だが、学生の時の旅も地質調査が目的だった。以後の作品のモチーフにも、地質や鉱物は深く関わってくる。
1度目の旅では蛇紋岩をハンマーで割りながら「ホーホー20万年もの間日の目を見ずに居たのでみんな驚いている」と叫んだ、と同行した友人の逸話が残っている。もしかしたら、この蛇紋岩のどこかに賢治がハンマーをあてたのかもしれないな、と思えば、自分にとってはなんでもないはずの岩でも、急に違って見えてくるから不思議だ。蛇紋岩を含め、この辺り一帯の地盤は太古の昔は海の底にあったものだ。自然の神秘が賢治の心を刺激したことは間違いなさそうだ。
https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver104/04.html 【五輪街道の原風景】より
五輪峠を下って、私たちは現在も使われている五輪街道へと向かった。どこか神秘的で寒々とした五輪峠と一転して、日が当たるこの街道には人気があり、ほっとするような温かみが感じられた。この街道を下れば、やがて人首の町へと出る。「2度の人首探訪で、賢治はいずれもこの道を通って人首の町へ投宿したと考えられています」と佐伯さん。
上大内沢という集落に入ると、手入れされた畑や牧草地の合い間に、古い家がポツリポツリと見えてくる。どの家も、この地方独特の、まるでお寺のように大きな屋根と、母屋の手前に家畜小屋がある作りの立派な家屋が並ぶ。このあたりが、2度目の人首の旅で書かれた詩「丘陵地を過ぎる」の風景ではないか、とされている。その一節はこうだ。
水がごろごろ鳴ってゐる さあ犬が吠え出したぞ さう云っちゃ失敬だが まづ犬の中のカルゾーだな 喇叭のやうないゝ声だ ひばがきのなかの あっちのうちからもこっちのうちからも こどもらが叫び出したのは けしかけてゐるつもりだらうか それともおれたちを気の毒がって とめやうとしてゐるのだらうか 『五輪峠・賢治マップ』(賢治街道を歩く会、2013)より引用
地元の人たちが馬洗淵(まりゃぶち)と呼ぶ、沢が出てきた。地名の通り、昔の旅人たちがここで馬を洗い、水を飲ませ、休憩したのだろう。清冽な水が、確かにゴロゴロと勢いよく流れている。友達は、これはいい音だなあと、聴き入っている。立ち止まって耳を澄ませると、いくらでも聞いていられそうな心地よい響きだった。
もしかしたら賢治たちも馬洗淵で一休みし、近所のこどもたちに、うちに寄って行け、泊まって行け、とせがまれたのかもしれない。そしてその子供たちとは、少し前までこの家々で暮らしていた世代の、幼い頃の姿なのかもしれないのだ。そんなことを想像すると、詩の世界がぐんと身近に感じられる。
「この街道が一番、賢治が歩いた当時の面影が残っていると言えるかもしれません」佐伯さんはそう教えてくれた。なんだか昔話の中に出てくるような、美しい道だった。
https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver104/05.html 【賢治と人首の町】より
五輪街道を後にし、また人首の町に戻った。町へと入った途端、お天気雨が降り出した。晴れ間からキラキラした雨が町に降り注いでいる。山あいならではの不思議な天気である。やはり先に峠に行っておいてよかったね、と言いながら佐伯家に戻ると、奥さんがお昼を用意して待っていてくれた。岩手名物「卵麺」である。黄色い素麺のよう……、と言えばいいだろうか。サクサク、プチプチとした食感でおいしい。「卵麺は夏のお料理なのよね」と言って、奥さんは暖かいうどんも出してくれた。
すっかりご馳走になった後、再び人首の町へ。賢治が人首滞在中に友達宛の手紙を出した郵便局や、下書稿にも書かれているバス停や人首橋など、大正時代と変わらぬ場所にある、賢治ゆかりの地を見て回った。これらの場所には全て「賢治街道を歩く会」が設置した案内板が設置してあるので、マップを片手に町を散策するのも楽しいだろう。
下書稿にもある、昔と同じ場所に位置するバス停。
さて賢治が大正6年(1917)の人首の旅を振り返った友人宛の手紙の中には「人首ノ御医者サンナンドヲ思ヒマス」と書かれている。当時、人首にあった病院は「角南医院」だけで、賢治が会ったのは当時の院長「角南恂」だったであろう、と佐伯さんたちは推測している。町のはずれにあったその病院は、今は無くなってしまったが、佐伯さんのお父さんの世代には存在していて、町の人々は病気にかかるとそこを訪ねたのだという。
佐伯さんが「病院へ行くときは、今も残る田んぼのあぜ道が近道だったので、町の人は必ずそこを通ったんです」という。だから賢治もきっとそのあぜ道を歩いたのではないか、と佐伯さんたちは考えているのだ。
実際にその道を歩いてみることにした。人首橋を渡り、田んぼのあぜ道に入る。町の人々に踏みしめられてできた、短いでこぼこ道だ。
賢治が最初に人首へ地質調査に来た時は、2人の友人も一緒だったことがわかっている。「仲間の一人が急に体調を崩して、病院を訪ねたのかもしれないですよね」と佐伯さんは推論を語ってくれた。
賢治の物語の中には、弱い人や困った人を心から心配し、オロオロしながらも、手を差し伸べる人物がよく出てくる。昔のままのあぜ道を歩きながら、なんとなく、そんな場面を思い浮かべた。
https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver104/06.html 【#7 「風の又三郎」と「銀河鉄道の夜」】より
栗木鉄山精錬所跡。よく見ると林の中に遺構がある。
さて日が暮れる前に、盛街道を通って栗木鉄山跡と種山高原に行くことにした。賢治が1度目の人首への旅で行ったところだ。この江刺周辺は、昔から金や銅、鉄などの様々な鉱物が採掘されており、蝦夷の一族の繁栄にも砂金の産出が重要な役割を果たしたと言われている。
この盛街道は水沢を起点に、人首を通って大船渡の盛までをつなぐ、岩手の内陸と三陸をつなぐ重要な道だった。そして軍需産業に沸いた大正時代には人首周辺にもいくつかの鉱山があり、水沢まで鉄を運ぶ盛街道一帯が賑わったのだという。
その中の一つ、栗木鉄山跡に寄ってみることにした。往時には国内の民営鉄山の中で3番目の生産高があり、「山の中に2千人もの労働者がいたんですよ」と佐伯さんが教えてくれた。今では鉱山があったとはわかならないほど、すっかり山の中に埋もれてしまっている。街道沿いから、佐伯さんが指し示す方向を眺めて、頭の中で想像するばかりだった。
鉱山の技師の息子が村の小さな分教場に引っ越してきたことから始まる、現実と心象が交錯する物語「風の又三郎」は、まさにこの時代の情景が一つのモデルになっているのである。賢治が盛街道を通った時、この栗木鉄山を見たことは十分に考えられる、と佐伯さんは語ってくれた。
最後に訪れたのが、物見山である。ここが今回の旅のファイナルディスティネーションだ。物見山のある種山高原一帯の風景を愛した賢治は、人首来訪時はもちろん、何度かここを訪れており、ここの情景は「銀河鉄道の夜」や戯曲「種山ケ原の夜」などのモチーフとなっていると言われている。
この日の物見山は気温2度を切っていた。寒さに震えつつも、種山高原の山並みは、どこまでも続いていくような雰囲気があって、しばらく見惚れていた。黄昏に霞んでいく山の中に、賢治独特の幻想的な心象世界の原風景が垣間見えるような気がしたのだ。
https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver104/07.html 【#8 佐伯郁朗と「人首文庫」】より
蔵を改装して作った人首文庫
こうして私たちの宮沢賢治の足跡を辿る旅は無事に終わった、のであるが……。私たちは佐伯さんの好意に甘えて、もう一泊させてもらうことにしたのである。話がおもしろい佐伯さんとお料理の上手な優しい奥さんがいる、この古くて立派なおうちが、私たちはすっかり好きになってしまったのだ。
さて佐伯家には、古い蔵がある。そこを開けると資料室になっていて、明治、大正、昭和の貴重な文学資料約5000点がぎっしりと入っている。その名も「人首文庫」という。この私設文学資料館の館主は、もちろん佐伯さんだ。小川未明、北原白秋、萩原朔太郎、中原中也、井上靖など、時代を彩る作家たちの手紙や写真、初版本などの貴重な資料を、希望者に無料で公開している。珍しい資料を求めて、研究者や作家が訪ねてくることもある。
萩原朔太郎や北原白秋、中原中也、佐伯郁朗たちのグループ「くるみの会」の署名帳。右の絵は白秋が書いた朔太郎の似顔絵という珍しいものだ。
なぜ岩手の小さな町の一角に、こんなにもたくさんの貴重な資料が揃っているのか?
実は佐伯家の出身に、詩人であり、戦前の旧内務省の官僚でもあった佐伯郁朗という人物がいる。郁朗は佐伯さんの大叔父にあたる人物で、早稲田大学在学中から詩人として活動しながら、卒業後は内務省で文芸統制の仕事をし、多くの作家たちと深い交流を持った。銀座で飲み歩くのが好きだった北原白秋だが、その妻は「内務官僚の佐伯さんと一緒なら」と許したエピソードもあるそうだ。
宮沢賢治と同時代に生きた佐伯郁朗だが、二人は生前に出会うことはなかった。だが賢治の死後、その作品を讃える草野心平たちによって「宮沢賢治友の会」が立ち上がり、そこに加わった郁朗は賢治の死後に出た「宮沢賢治全集」の出版に尽力している。
戦中、これまで集めた資料や作家たちからの書簡が焼けるのを恐れた郁朗は、東京から岩手へと運んだ。こうして戦火を免れた第一級の文学資料は、いま私たちの眼前にある、というわけなのである。
哲学者・谷川徹三からの礼状。
小説家・井上靖の書簡。
戦後の郁朗は平成4年(1992)に亡くなるまで、詩人であり官僚でもあった自分の数奇な人生について多くを語らなかった、と佐伯さんは言う。郁朗が創作を続けながらも、戦時下の官僚として芸術を統制する側の立場に苦しんでいたであろうことは想像に難くない。しかしながら現在の研究では、官僚・郁朗の助けによって戦前、救われた作家たちもいた、という証言もあるといわれている。
そして郁朗から貴重な資料と「これを後世に残し、この地域の発展に役立てたい」というスピリッツを引き継いだ佐伯さんは、この屋敷と資料を守りながら、宮沢賢治の足取りの調査を続けている、というわけだ。佐伯さんの活動は、どことなく郁朗の姿勢にも重なって見えてくる。
https://www.driveplaza.com/trip/michinohosomichi/ver104/08.html 【#9 エピローグ・宮沢賢治が教えてくれたもの】より
三日目の朝。人首の町を離れる前に、友達と二人で、近所をもう一度、散歩してみることにした。
ほぼ江戸時代のまま残っている城内の区割、そして今はすっかり草に埋もれた人首城跡の入り口、大正時代から立っているという擬洋風建築の立派な住宅、今でも夕方になると鳴らされるフランス製の鐘だけが残ったカトリック教会の跡地など……、きっと賢治もこれらを目にし、耳にしたに違いない。そんなことを考えながら、小高い丘の上にある神社の階段を登ってみる。町の人が「壇ケ丘」と呼ぶところだ。
賢治の下書稿には、壇ヶ丘のことも含めて、人首の朝の風景を、このように書かれている。
「丘には杉の杜もあれば/赤い小さな鳥居もある」
「水沢へ七里の道が/けさうつくしく凍ってゐて/藻類の行商人や/税務署の濁密係り/みな藍靛の影を引いて/つぎつぎ町を出てくれば/遠い馬橇の鈴もふるえる」
『五輪峠・賢治マップ』(賢治街道を歩く会、2013)より引用
階段を上ると、この町が見渡せる。町が昔ながらの佇まいなのは、開発に遅れ、時代に取り残されたからだ、と言えるかもしれない。でもその結果、私たちは賢治が見た風景と変わらぬ世界を今でも見ることができる。
町の向こうには昨日と同じように美しい山がある。本格的な雪もそろそろと思わせる冷気が小さな町を包み込んでいて、その中に家並みが光って見える。屋根の下には暖かい暮らしがあって、通りをゆっくり歩く人々が小さく見える。賢治が書いてきた作品は、そんな昔から変わらぬ岩手の暮らしの中にある光や音、色、匂いに満ちていて、それこそが、私たちにとって本当は一番大切で美しいものなのではないか、と語りかけてくれるような気がする。
ねえねえ、今日はあの山を越えて、遠野まで行ってみようか。賢治や、昔の人々と同じようにね——。友達と私は、人首の町を見下ろしながら、次の目的地までの計画を始めた。
https://aterui8.jp/history/info/aterui_info068.html 【情報61 牛崎敏哉「宮沢賢治と〈アテルイ〉」】より
「宮沢賢治はアテルイをどうみていたのだろうか」をテーマとする。賢治の詩「原体剣舞連」には、アテルイが伝説化したことによる呼称ともいわれる「悪路王」が登場する。しかし、検討していくと、賢治作品の「悪路王」は史実のアテルイとオーバーラップできないことに気づかされ、むしろそれから遠ざかっているという。
岩手日報社発行の文芸誌『北の文学』第35号の入選作(文芸評論部門)
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