Facebook清水 友邦さん投稿記事
オオカミは長い間、作物を守る神、多産の象徴として尊崇されてきました。
中国はシリウスを天狼星(てんろうせい)と呼び、モンゴルは始祖が犬という伝説がありジンギス汗は”蒼き狼”の子といわれました。
ローマには建国した双子の兄弟がオオカミに育てられた神話があります。
オオカミは社会性の高い動物で一頭のリーダーの統制によって平均8~15頭ほどの群れを形成しています。
オオカミは雌雄別の順位や血縁関係を重視し、一夫一婦制で生涯連れ添い、子狼を群れで育てるという習性も持っていました。
オオカミは踵を地面につけて歩く庶行(しょこう)性のため犬や猫のような爪先で歩く指行性の動物にくらべると走るとスピードが遅いのです。
そのために集団で狩りをする高度な社会性と知性を身に付けたのではないかと言われています。
人間もまた自然の中では捕食される弱い存在なので集団で暮らす社会性と知性を使って生き延びてきました。
農耕と家畜の放牧が始まって森林を伐採して開拓が進むとシカやイノシシ、などが人間によって乱獲されるようになりました。
生活圏を侵されて餌を失ったオオカミは家畜を襲うようになりました。
各国の政府は懸賞金制度を充実させて、オオカミを激減させました。
(「狼と人間 ヨーロッパ文化の深層」ダニエル・ベルナール著)
ヨーロッパでオオカミは最も憎まれました。
童話の「赤ずきんちゃん」で悪役にされたように、キリスト教の世界でオオカミは神どころか悪魔でした。
オオカミはむやみに獲物を襲うのではなく、おもに襲うは動きの鈍い子供か年寄り、あるいは病気で弱った動物であり、健康な成獣を襲う事はまれでした。
先住民が「オオカミは医者だ」と呼ぶのは年寄りや病弱な動物を襲う事により、群れを健康に保ってくれていたからなのです。
アイヌもまたオオカミを「ウォセ・カムイ」「ホロケウ・カムイ」と呼び深く畏敬していました。
畑を荒らすイノシシやシカを追い払ってくれるオオカミは江戸時代までは神様(大神)でした。
江戸時代の弘前の史料によると1690年~1729年の間にオオカミによる死傷者45名(死者25名)と言う記録があります。約40年で年間約一人です。
35年間で1000頭のオオカミの捕獲数が記録されているので実際には捕獲する時の死傷者がおおかったようです。
近代に入ると人間のオオカミへの信仰は変わっていきました。
近代化を進める明治政府は神として崇拝されてきたオオカミを有害獣として駆除の対象としました。
岩手県では家畜の保護という名目で雌オオカミ1頭七円、雄オオカミ1頭五円という賞金(当時の白米の値段は1俵四円)を出したので猟師たちは夢中になってオオカミ狩をしました。
ニホンオオカミは1905年1月23日奈良の吉野で捕獲された以後目撃がなく、絶滅したといわれています。
現在、ニホンオオカミの剥製は国内に3体しかありません。
神話の時代、動物と人間は兄弟姉妹でした。
自然界には山の神、泉の女神、火の神がいて狐や熊や狼が物語の主人公になり、延々と語り継がれてきました。
資本主義が発展して合理主義の時代になると、縄文時代から続いてきた自然を畏怖するという野生の思考を日本人は失っていきました。
オオカミにかわりお金が神になりました。
オオカミが消滅した森では、天敵を失った大型の草食動物が異常に増加しました。
増え過ぎた草食動物が植物を食べつくしてしまい森が消滅しました。
そして森が消滅すると食べ物を失った草食動物が大量に死んでしまったのです。
オオカミは自然界のバランスを保っていました。
東北はイノシシの食害被害が少ない地域ですが近年、気象変動の影響で南の方からイノシシの被害が広がってきています。
岩手県の五葉山付近の鹿は「北限の本州鹿」と呼ばれ、保護の対象になっていました。しかし、近年数が増加したので、年間、1300頭の鹿を捕獲する対策をとっています。しかし、鹿は増え続け、北にも広がり農作物や植林したばかりの杉の苗を食い荒らして社会問題になっています。
昔は鹿が増えすぎることはありませんでした。
鹿が増えすぎれば鹿を殺すオオカミがいたからです。オオカミは自然界の秩序を守る大神(オオカミ)でした。地球の生き物は相互に関係して生命の環を織り成しています。環境と生命全体が自分であることを私たちは忘却しています。「白人はいのちの環を見失っている」と先住民は語ります。「白人たちはわれわれの国を破壊し、自然界にうめき声をあげさせている。
草を長いナイフで切り、野の草を枯らすので、野の草は涙をながす。森を伐採し鉄で木を殺し、木に不当な仕打ちを与えるので木は涙を流す。
彼らは大地のはらわたをえぐりだし、大地を痛めつけるので、大地は泣いている。
われわれの清らかな川の水を汚し、濁し、魚を殺すので、魚と川は泣いている。
大地は泣き、野の草も泣く。そうなのだ。自然のすべては白人に泣かされているのだ。
なんという恩知らずな者たちよ。だが彼らにも罰があたるだろう。」
北米インデアンのキカプー族
イエローストーン国立公園ではオオカミを再導入しました。
その結果、生態系が回復に向かい絶滅状態であったビーバーの個体数の増加が観察されています。オオカミ復活の事例 イエローストーン
Facebook竹元 久了さん投稿記事 🔵精錬燃料に森林を伐採、そして文明は滅んだ
日本の場合・森の管理を怠ると自然災害が増え国力が低下する
また、GDPが上がっても国民の幸せ感、国力につながらない。
引用
このように、古代文明の時代から人類が続けてきた森林破壊によって歴史上何が起きたのであろうか。文明の衰退である。森を破壊することによって発展させてきた文明が皮肉にも、森の破壊が原因で衰退していった 。
このことを科学的に立証したのは、世界で環境考古学という新しいジャンルの学問を確立した安田喜憲である(参考:同氏著『森と文明の物語-環境考古学は語る』=ちくま新書)。樹木などの花粉は何千年土中に埋ま っていても組織が破壊されない。
土中から採取した花粉を電子顕微鏡で分析することによって、どの年代にどのような植物が生えていたかを正確に知ることができる。したがって、文明の歴史と重ね合わせてみれば植 生の変化と文明の盛衰が関係つけられる。
木を伐って滅んだ文明 こういった研究の結果、森林破壊によって衰退していったことがわかった古代文明をいくつかあげてみよう。
かつて鬱蒼としたナラの森に覆われていたクレタ島に栄えたミノア文明(紀元前3,000~1,400年)。
クレタ島(ミノア文明、クノッソス宮殿遺跡とその周辺) メソポタミアとの交易で栄えたが、輸出用森林資源の枯渇によって衰退したインダス文明(紀元前2500~同1700年)。アナトリアで紀元前1100年頃製鉄法を発明し、鉄製武器によって青銅製武器を持つエジプトとの戦 いで優位に立ったヒッタイト(紀元前1,600~500年)。
アナトリア半島(ヒッタイト遺跡とその近く) モミ、マツ、ナラの森に覆われた古代ギリシャのミケーネ文明(紀元前1500~同1100年)などである。ミケーネの王、アガメムノンがトロイ攻めを行ったのは、ペロポネソス半島の森がなくなり、代わりにアナトリア半島の 豊かな森林資源に目を付けたからではないかと推測されている。
アナトリア半島(エフェソスの遺跡とその近く) 人類が最初に森の破壊を始めたのは紀元前3500年頃のことといわれる。メソポタミアで人類最古の物語が「ギルガメシュ叙事詩」として粘土板に刻まれたものが発掘されている。
シュメールの王ギルガメシュの英雄伝説 である。この物語は、ギルガメシュとその従者エンキドゥが、レバノンにある香柏とよばれる鬱蒼とした杉の巨木の森を、その番人フンババを殺して破壊をするところから始まる。この豊かな森林資源をめぐってメソポタミ アやエジプトの諸王による争奪戦が行われ、やがて消滅していった。
これらの古代世界に限らず、その後のローマ帝国、ペルシャ帝国、オスマン・トルコ帝国)、ムガール帝国、そして中国の唐・宋・元・明・清といったスーパー・パワーを築いた文明圏でも、あるいは、近代そしてずっと時 代が下って現代に入っても、世界各地の森林を破壊し続けてきたわけである。
時代は下って産業革命期に入ると、少なくとも製鉄用木炭をつくるための森林破壊は止まった。
イギリス人のダービー親子が石炭を蒸し焼きにしたコークスを使う高炉を、そして同じくイギリス人のべッセマーが転炉を発明した。転炉は溶鉱炉から出てきた銑鉄の中に空気を吹き込んで不純物を取り除き、大量か つ安価に品質のよい鋼鉄をつくる方法である。これらの技術は現在も使われている。この近代製鉄技術が開発されたときには、すでに英国はじめヨーロッパでは森林はほとんど伐採しつくされていた。
精錬に使用する木炭生産のための森林・生態系破壊は止まった。しかし、金属の大量生産は別の目的でいまも森林破壊を続けている。
産業革命以後の急激な金属の需要増大は、鉱石採掘を世界に拡散させた。まず、高品位の鉱石資源が掘りつくされ、次第に低品位の鉱石も対象になっていく(現在、銅鉱石の品位は露天掘りの場合で0.6%、金鉱石は0.00 01%=1トン当たり金含有量1グラム程度である)。これは、わずかな金属を取り出すのに必要な採掘量が桁違いに大きくなることを意味した。
その結果、発展途上国などの豊かな熱帯雨林を切り開き、大規模な露天採掘 が行われることが多くなってきている。
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