Facebook岡部明美さん投稿記事
今の精神科医療を見ていると診察時間があまりに短いと思います。
ほんらいなら一人当たり1時間くらいは必要だと思います。
ところが、現実には10分くらい。これですと精神療法などできません。
薬物にたよらざるをず得ず、しかも診察は、その薬物を調整するための情報を得るのにぎりぎりの時間です。
何もできない。現状この状態を変革することも残念ながらほぼ不可能だと思います。
とはいえ、患者さんからすれば、薬による精神活動の抑制は、深刻な問題ですし、
「副作用、依存性、さらに多剤」というさまざまな問題があります。
現に私のところを訪れる方は、「薬や精神科医に頼りたくない」という方が少なくありません。そしてかなりの方が、「傾聴や祈りや瞑想」だけで平癒してゆく。
しかし、このことが精神医療の中に生かされ、減薬が進むには、まだまだ長い時間がかかることでしょう。
瞑想も修行とは別の細やかな配慮が必要ですし、
そんなことが他人に対してまともにできる(日本の現状は、それができているとは言えない。研究もなさ過ぎ)
人が、少なからず育つには、時間が必要なのと、
そもそも日本の医療界が、きちんと受け入れ導入するかは、正直疑問です。
ですので私としては、その可能性を抱きながらも、ご縁のあるところで行ってゆきたいと思っています。
とはいえ、先日ハワイ大学にてこのあたりの講義と実践の機会を与えられました。
こうしたことが、少しずつ変化をもたらすことになったら幸いです。
或いは少しずつなろうとしていることを感じています。
もっともこれには、不安、怖れ、うつ、ストレスを増強してやまない外的要因としての社会経済システムの修正もしなければならないので、
そういうことについても取り組んでゆきたいと思っています。
🍇YouTubeあけみちゃんねる
新作のゲストは、上記のメッセージを発信している、精神科医、カウンセラー、僧侶の斎藤大法さんです。
ダライ・ラマ法王の主治医であるバリー博士と盟友である斎藤大法さん。
大法さんは、青年時代、国の難病指定の潰瘍性大腸炎に苦しみ、病気が治らないことに絶望していました。
しかしある時、1人の医師との出会いがあり、その医師に言われたある言葉がその後の人生を決定づけたのです。
またある時、1人の尼僧との出会いがあり、その在り方から溢れる慈悲、慈愛に心を打たれ、
自分のためにただひたすら祈りを捧げてくれるその姿に本当の精神医療の真髄を知るのです。
悩み苦しむ人々の話もろくに聞かず、薬漬けの精神医療、
大学病院の上下関係のヒエラルキー、自分が理想とする医療をここで実現することは無理だと思い、大学病院を辞めて
独自の道を歩きはじめた斎藤大法さんにお話を伺いました。
【YouTubeあけみちゃんねる】
https://youtu.be/wqAJYFJb_24
https://cotree.jp/columns/627 【【精神科医で僧侶という異色の経歴】「うつ急増時代」を打破する「生きる力」とは<前編>|要唱寺 住職 斉藤大法】より
精神科医から僧侶へと転身された斉藤住職。一般的な僧侶の枠組みを越えて様々な活動に携われており、バイタリティに溢れている姿はとても清々しく、「真に幸せな生き方」を体現されているように感じます。「うつ病」が急増する昨今。「今」人に必要なことな何か?斉藤住職にお話を伺ってきました。
ーー医師で僧侶というのは、大変めずらしい経歴かと存じます。精神科医になられたキッカケをお教え下さい。
精神科医を目指した最大の理由は、自らの難病体験がもとになっていると思います。
中学2年生の時に突然下血し、病名すらわからずに病院を転々としました。全部でおよそ十人ほどの医師に診てもらいました。当時のお医者さんは、「怖い」というイメージが強かったと思います。病気に打ちひしがれると気弱になり、自分の症状の変化を十分に伝えることすらできないほどおどおどしていました。そのような私(患者)の心まで本当に心の手を届かせてくださる医師は、あまりなかったように思います。
私は、身体疾患の重症さも然ることながら「思いやりの心の大切さ」というものがどれほど大切でまた有難いものかを知ることになったのです。その「思いやり」とは、日常の生活の中で考えられている「思いやり」よりずっと深いものでなければならない、と実感したのです。
ーー「思いやり」から「心」への興味が強くなったのですね。
はい。そこで医科大学を卒業する際に、心療内科か精神科のどちらかにしたいと考えました。当時、日本において心療内科はあまり開設されておらず、自分の大学の中にもなかったので、結果として精神神経科の医局を選びました。医学研究や診療の一方で、関心があった哲学の勉強も出来ると思ったのです。そして、精神科の中でも比較的内科との境界領域を中心としたのです。
精神科学は、主に精神病理を中心にして学ぶわけですが、私としてはもっといわゆる人間一般の心の探求をしてみたいという欲求が強くなっていました。それこそが、精神医学(心療内科なども)の大切な基礎だと思ったのです。それは、そもそも医学を学びたいと思った動機のひとつとなった順天堂大学医学部の入学案内に書かれていた「医師たらんと欲すれば、まず人として成らねばなりません」という言葉に原点があるものと思います。
この言葉に当時まだ病弱であった私は、深い感銘を受けたのです。「これだ!!!」と。「人として成る」ということは、いわゆる「常識ある成人になる」というレベルであろうはずはありません。単なる技術者でもありません。「普通では考えられない苦しみの中に沈む病者の心を抱きしめ、生きる道を示せるくらいの人に成る」ということだろうと考えたのです。それこそが、医師としての最初の基礎であると。
僧侶との再会が仏道探求へのキッカケ
目指すべきものが明確になったのですが、どこにその精神性の実現を求めたら良いのかわかりませんでした。悩んだ挙句、高校生の時にお世話になった僧侶のもとを訪れたのです。特に何かを期待したわけではありません。ただ、今の自分の思いの相談くらいには応じてくださると思ったのです。ところが、たまたま訪れたその日が『寒修行』という、お寺でひと月くらい集中的に修行をする期間中であったため、いきなり「修行してみませんか?」と言われました。一瞬戸惑ったのですが「やってみよう」と思ったのです。
その修行は、一時間程度のものだったのですが、私の人生を転換させたのです。それは、それまでの人生の中でまったく経験したことのない深い安心とどこまでも澄み渡るような心境だったのです。今まであった不安や悩みが、まったくなくなるという信じがたい体験でした。
これは、いったいどういうこと(状態)なのだろうかと思っていると、その僧侶から「三昧(Samadhi)という状態です」と言われました。これを体験した私は「このまま病院の医局には、戻れない。是非、これを探究したい」と思うようになりました。これは、単なる繰り返しの修行ではなく、毎日新しい内容が展開するのです。それも自分にとって魅力であり、以後続けていった結果、仏教の修行をもっぱら追窮するために僧侶となろう、と決心したのです。
仏教を通して「心」をほぐしていく
ーー住職が実施されているカウンセリングと祈りというのは、具体的にどのような内容になっているのでしょうか?
斉藤住職白袈裟
私の寺院では、比較的ゆったりと時間を取って、まず傾聴し、お出でになった方の状態を出来るだけそのまま受け止めるところからはじまります。 そして、その不安のもとを次第にご本人が気づくようにサポートしたり、場合によって解決のヴィジョンやある程度の智慧を提供いたします。
しかし、お出でになる方の中で、表面的な方法では容易に解決し得ない場合も多くあります。たとえば、心の深層に突き刺さった棘のようなトラウマや、通常ではわかりにくい霊的な問題の場合などです。そこでカウンセリングの延長でもありますが、より深いレベルの問題や私でも洞察し得ない領域にアプローチするために「祈り(いのり)」を行っております。祈りの効果は、大きく潜在意識の奥深いところまで比較的速やかに解決できることです。いま米国などでは、病院などで普通に「祈り」や「瞑想」が行われていますし、「祈り」の効果について研究もしっかりされています。
ーー瞑想や供養など、一般的な僧侶の活動の他に様々な活動をされていらっしますね。
はい。私は瞑想(私のところでは、唱題プラクティスと言います)を主軸としながら、様々な相談事に応じてきました。精神的な悩み、難病、いじめ、不登校、引きこもり、霊的な問題、水子さんの供養、どうぶつの供養、人間関係のトラブル、それから地鎮祭、各種清めなど、頼まれますと何でも、というほどやってまいりました。ところが、縁があって2006~2008年までカンボジアの寺院に滞在することになり、仏教の修行と共に池や道路つくり、学校教育などの活動を行うことになりました。帰国後、従来の活動内容に加えて、さまざまな方との関わりを持つようになりました。
それらを簡単に紹介させていただきます。
・要唱寺にて瞑想(唱題プラクティス)指導
さまざまな悩みを抱えた方や僧侶などが、宗派を問わず参加されています。
・四方僧伽(しほうさんが)運動
アジアを中心とした二十か国の仏教徒(最近は、カンボジアのイスラム教徒なども参加)とともに各国の社会問題解決のための活動と平和法要・行進。
・CEP( Cambodia Empowerment Project )
「こころ」「教育」「経済」「地域つくり」という視点からカンボジアの自立支援活動。毎年、プノンペン大学にて講演と学生さんとの対談を行っている。斉藤住職カンボジア・RSE(宗教研究者エコ・イニシアティブ)
地球環境問題における我が国の代表的な研究者である東京大学教授(当時)山本良一先生その他が発起人となり、宗教者と科学者との合同の環境問題解決のための研究・活動。
・「持続可能な平和社会構想」研究会
未来型の経済システムと平和世界創り構想
・立正大学社会福祉学部(医学一般)非常勤講師
以上のほかに医療・福祉関係者とのご縁も多いのですが、今のところ共同事業などをするというより、講演会や学会発表などです。
経済成長だけが人生における幸せではない
ーー昨今、うつ病患者の増加がとまりません。この状況をどのように見ていらっしゃいますでしょうか?
「抑うつ状態」や「うつ病」が注目されるようになったことや、元々備わっている個人的素質も原因のひとつであると思いますが、主に学校や会社などでストレスがかかり続ける状況や、さらに広い視点で見ると経済・社会システムや精神文化の変化が原因でしょう。1997年の消費税の増加とデフレ傾向が、精神疾患殊にうつ病の止まることのない急増につながっているという見方もあります。
そもそも、社会のそして人生の価値観が「経済成長」ということに置かれている社会においては、当然ながら過酷な競争を強いられます。それでも、経済成長という成果が得られ、多くの人が中流階級意識を持てる時代には、その弊害があまり顕在化しないのでしょう。しかし、全体的な成長が止まり格差が広がってゆく社会にあっては、前向きの競争ではなく、ネガティブで後ろ向きの意識による競争社会になってゆきます。
このような競争があまりに激化してゆくと、各人の精神は孤立してゆきます。子育てよりも両親とも働きに出る、という方向に流れてゆき、家庭の団らんも少なくなってゆきます。本来あるべき家庭的愛を、消費行動で代償しようとするのですが、それだけでは心の空虚感は満たされません。家庭での愛情は、良好な人間関係作りの基礎となるものですが、それも劣化してゆくのです。
また過酷な経済的競争社会において、勤勉で真面目な人は企業にとって都合が良いわけです。もともと真面目な人が、さらにその方向のみに自分を酷使し続けてゆくことになりやすく、張りっぱなしのゴムのような状態を緩める余裕のなくなった状況は、深刻だと思います。そもそも人生の目的は幸福になることであり、経済活動はそのための手段に過ぎないわけです。手段が、目的化してしまっている価値観の社会では、うつやその他さまざまな困難が起こってきて不思議ではありません。
先に述べましたが、「内なる心の問題」だけでなく外界すなわち社会活動や経済・社会システムの問題に取り組もうと思ったのは、この理由からです。「地球環境問題」と「近年増加する『うつ病』の問題」は同根であると考えています。
https://cotree.jp/columns/655 【【精神科医で僧侶という異色の経歴】「うつ急増時代」を打破する「生きる力」とは<後編>|要唱寺 住職 斉藤大法】より
自分の生き方を見つけることが大切
ーー目に見えないためか、『心』を扱う優先順位を下げてしまう方々が多いように思います。自分に対しても相手に対しても『心遣い』が欠如していると感じるのですが、いかがでしょうか?
戦後の焼け野原からの復興を図った日本は、経済成長をスローガンにひた走りしてきました。物質的な豊かさの追求こそが最大の価値観でした。それは、復興という地点までは必ずしも間違っていないと思いますが、それを達成した後も(価値の優先順の)軌道修正をしてきませんでした。ここに根本的な問題があると思うのです。それは、単に社会構造の問題ではありません。その価値観をわが価値観として固定し、動かせない我々の一人一人の問題でもあります。
このような価値観の人生や社会において、「心」というものはおろそかにされ劣化してゆきます。そのことは、社会や文化の劣化でもあり、生きにくい世の中をつくってゆきます。これ自体、うつなどを生み出す素地になっていると思います。ですから、私たちは自身の価値観がほんとうの幸せにつながるものか、ということと、単に現代社会に順応するだけでなく、果たして今の経済・社会システムが幸福を達成するものになっているかどうかをよく考えるべきだと思います。まずは「信じられる自分(の生き方)」を見つけることが、大切です。そして社会システムが、皆の安心や幸福につながらないものであれば、少しずつでも改変してゆく努力も大切です。
ーー精神科医、僧侶という2つの草鞋を履かれている住職が考える『心』や『精神』とはどういったものなのでしょうか?
私たちは、自分の意志で自由に心というものをコントロールできると思いがちです。さらに私自身をコントロールしていのは、この観念体系である”わたし”だと思いがちですが、心というものは、”わたし”という観念によって思い通りにすることは、難しいのです。心には、そのような感情、思いをつくりだすシステム(潜在意識)があり、それによって我々の思いや感情はつくられます。今日の心理学は、私たちが意識できる観念の領域は、実は私たちが通常意識化できていない潜在意識によって大きく影響されている、と考えられています(異論の方もあると思いますが・・・・)。 仏教の唯識(ゆいしき)という学問においても、ほぼ同様のことが言われております。恐らく、唯識の影響を受けてユングなどは、無意識、集合的無意識ということを提唱したものと思います。
今から1500年以上も前に、すでに仏教ではこのようなことが精密精緻に研究されていました。つまり、いわゆる私たちの「こころ」は、潜在意識の中に貯めこまれた過去(過去生も含める)からのあらゆる(思考をも含めた)体験と、それによって起こった恐怖や喜びの記憶の集積によって「我」という観念体系が形成され、それらに影響されて普段の思考や行動がつくられていると言われます。トラウマとかカルマというものは、潜在意識の中に集積された記憶の粒のようなものです。(このことは、偏桃体、海馬、側頭葉、前頭葉・・・の機能や関わりの研究が進んでやがて脳科学的にすっきり解明される時が来るかも知れません。) 以上のことが理解されるならば、私たちは発想や行動の仕方を変えることができる、ということでもあります。
そして、最大の可能性は、わたしたちの現実がどうであろうと、その心の奥、トラウマやカルマ、さらにそれをつくるもととなった迷いの根元のもっと先に、それら一切を超えた”いのちとこころの輝き”を生来的に持っているということだと思います。このことを仏教では、「仏性」と表現しています。わたしどもの唱題プラクティスの真の目的は、この根元的な心を顕(あらわ)しだすことにあります。
これまで「心の問題」を”こころ”に限定して申し上げてきましたが、その心に影響を与えているものとして体調、姿勢、生活習慣、さらに家庭や社会環境、自然環境等があります。私は、目に見えない環境、つまり家庭環境という中にご先祖の霊的な状態ということも入れて問題を捉えてゆきます。
自分の内面に信じられるもの見出そう
ーー現代に生きる人々に必要な事はなんだと思われますか?
現代の人々にとって必要なものは、いくつかあると思います。その中でも、私が最も大切でなおかつ現代人に欠落していると感じるものは「信ずる」ということです。「心底信じられるものを見つける」といっても良いかも知れません。しかもそれは、自分の外ではなく自分の内にあるべきだと思います。なぜなら、外にあるものは、常に移ろいゆくものだからです。
唱題風景
時に人は、「信じられるもの」を他人に求めようとします。しかし、それは実にはかないものです。その理由の一つは、信じるといっても、しばしば「相手に対する自己のイメージ」を信じている場合が多いのです。
この場合、相手が自分のイメージにそっているうちは良いですが、そぐわないとショックを受けやすく、時にその人を批判や非難するようになることさえあります。一方、自分自身を責めて落ち込んでしまうかも知れません。これは、非難している、あるいは責めつけてしまう自分自身の心の問題なのです。このことは、巷で良く起こっています。夫婦喧嘩やその他さまざまな人間関係におけるトラブルの根本的な原因のひとつでもあるのではないでしょうか。
これに対して、信じられるものを自分の内に見出し、育ててゆく人は、それ自体によって満たされる、ということが先ず第一。そして、外側のさまざまな変化に惑わされることなく生きることができますし、他人(の評価)に過度に依存しませんので、相手に対して寛容にもなれるのです。つまり「信じられる自分になる」ということこそが、大切だと思います。でもそれは、学校や書物で知識を覚えるのとは違いますし、他人とか知識がそれを教えてくれるものではありません。それらを参考にしつつも、自らが見出さなければならないものです。
不安や迷いをを解決するヒントの1つでありたい
ーー未来に向けて、住職並びに要唱寺としてどのようなことを願いますか?
宗教というと皆さまどのようなイメージをお持ちでしょうか?信仰。同じ信仰や価値観を持った人々の集団ならびに集団的行動などと思われたりするのではないでしょうか。あるいは、盆・正月と言う行事と死んだ時にやってもらう儀式とか・・・・・。
ところで信仰とかその集団というものは、何故存在するのでしょうか。なぜ必要なのか?ということでもあります。それは、かつては自然や他の動物などの脅威にさらされながら、弱き人類が生き抜き発展するために必要だったのではないかと思います。他にも存在理由はあるとは思いますが、そうした結束力や統一力を作り出すために宗教(神話)は、長い期間必要だったのです。
しかし、科学や科学技術がこれほどまで進み、それによって自然の制約から相当程度まで解放された人類にとって、昔のような意味での結束力強化装置としての宗教は、もはや必要なくなりつつあります。今日、集団をつくっている古い宗教システムは、老朽化し機能不全に陥り、むしろあちこちで価値観のぶつかり合い、果てには紛争・戦争の原因とさえなっています。もちろん、とても柔和な集団を形成しているところもありますが、今後多数派として広がってゆくことは、ないでしょう。
昔の宗教の名残をとどめたものが、行事や儀式だとも言えなくもありません。それは、宗教自体がほとんど必要なくなったということを意味するのでしょうか。私は、そうではないと思っています。科学がどんなに進歩しても心の迷いや不安というものは、なくならないのです。むしろストレス社会となり、精神的環境は、かつてより過酷なのではないでしょうか。
私は、皆さまがそのような歴史的必然性や推移に気づかれ、現代や生活の現場に応じた深い知恵を宗教という伝統の中から見つけて欲しいと願っています。それだけものが、宗教には在ります。ただし、今日においては、それは「○○しなければいけません」という上からの教え込みではなく、心を開き、自ら生きる方向性を見出し、深い安らぎや生きる喜びを内面から湧きあがらせ、深めてくれる方法や道が求められると思います。そして、そのことをつかんでいただければ、個人的にも社会的としてもどんなに可能性が開けるか知れないと思っています。
今の時代、自分の心と対話する時間、環境が非常に大切です。しかしながら、スピードが重視されがちで、心と対話できず、気がついたら大きな迷いや悩みの中で苦しまれている方々が増えてきています。 そんな中で、カウンセリングや唱題プラクティスを通して、一人でも多くの方々に「本来の自分」を見つけ出して欲しいと願ってやみません。
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