Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)投稿記事
こんなにたしかに
9月は月見る月ですが、日本は、月を愛でることを風雅と考えますね。
月が雲間に隠れて姿を現さないのを無月と言いますが、見えない月にも名前をつけるくらいです。名月の夜に雨が降れば、雨月。こちらも見えない月です。
人間というものは「意味」というものを求めるものですが、理性で答えを出せないものに焦がれたり、患わされたりしてしまうようです。理性に先行するものがあるということでしょう。人間の生理(リズム)とも言えそうです。
あらゆるものが私の一部であるという感覚。そして、私があらゆるものの一部であるという確かな感覚。
その確かさを、詩人はこんなふうに記しています。
こんなに たしかに(まど・みちお)
ここは宇宙の どのへんなのか いまは時間の どのへんなのか 鉱物たち はてしなく大らかで 植物たち かぎりなくみずみずしくて 動物たち いつもまっ正直で
この数えきれないまぶしい物物物の中の ひとにぎりの人間 ぼくたち こいびとたち 美しく 父母たち やさしく 友だちみんな たのもしく たべもの みんな おいしく
やらずにおれない素晴しいこと 山ほど あって 生かされている!
自分で 生きているかのように こんなに たしかに!
https://kamenoashioto.blog.fc2.com/blog-entry-517.html 【心に響く詩集-まど・みちお詩集】より
まど・みちおさんの詩は、易しい言葉で書いてあるのに、内容が深くて心にしみてきます。
まどさんの詩は、気持ちが自然と一体化しているので、彼の詩を読むと心が安らぎます。
まど・みちお詩集『こんなにたしかに』より
(水内喜久雄選・著/高畠純絵/理論社「詩と歩こう」/2005年/1400円)
どうしてだろうと(初出*『まど・みちお全詩集』)
どうしてだろうと おもうことがある なんまん なんおくねん こんなに すきとおる
ひのひかりの なかに いきてきて こんなに すきとおる くうきをすいつづけてきて
こんなに すきとおる みずを のみつづけてきて わたしたちは そして わたしたちの することは どうして すきとおっては こないのだろうと…
春の訪れ(初出*『きょうも天気』)
太陽がうたう… 小鳥たちが咲く… 花々が照らす…と言えば少量の嘘と
少量の真実を伝えることになるが もともと百万言が死力を尽くしたとて
「春の訪れ」に届くわけのものでもない 「自然」はいつも遠いのだ
自身が自然でありながらまるで それを忘れている人間の 「ことば」からは
ゆびさす手の先に触れると見えて ひとりはるかなあの虹のように
昨日あった「伊丹三樹彦先生の俳句サロン」で、みなさんに気に入って頂いた拙句。
「猫宛てのハガキ来ている 春の宵」
ぼくが ここに(初出*『ぼくが ここに』)
ぼくが ここにいるとき ほかの どんなものも ぼくに かさなって
ここに いることは できない
もしも ゾウが ここに いるならば そのゾウだけ マメが いるならば
その一つぶの マメだけ しか ここに いることは できない
ああ このちきゅうの うえでは こんなに だいじに まもられているのだ
どんなものが どんなところに いるときにも その「いること」こそが なににも まして
すばらしいこと として
まどさんの詩は前から好きでしたが、この年になると前より更に心ひかれます。
神との対話@kamitonotaiwa_
「たいていの人は神を信じています。調査によれば、最近、神を信じるひとは増加しいるそうです。」『そう、大多数の人びとがわたしを信じているといえるのはうれしいことだ。
しかし、問題はわたしを信じるかどうかではなく、わたしについて何を信じるかだ。
神との対話@kamitonotaiwa_
ほんとうのわたしてはなく、知っているつもりのわたしを知るだけだ。
想像もつかないわたしを知るには、知っていることを棚上げにする意志を持たなければならない。それが鍵だ。
あなたがたは現実とは似ても似つかない神を、いろいろ想像しているのだよ。
満月のりこ【心理セラピスト@東京】@mitsukinoriko
胸がもやもやするけれどうまく言葉にできない 言語化が苦手なのは 嬉しいね 悲しいね
嫌だよね 幼少期から 自分の気持ちに共感してもらっていないから
今からでも遅くない 今何を感じているの?どんな気持ちなの? 自分で自分の心を育てていこ
アドラー心理学サロン@adler_salon
他者の期待を満たすように生きること、自分の人生を他人任せにすること、これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。
アドラー心理学サロン@adler_salon
人は居場所がないと感じると精神を病んだり、アルコールに溺れたりする。他者に貢献することで居場所を確保すればよい。
一指李承憲@ILCHIjp
私たちは気エネルギーに満ちているとネガティブな考えに振り回されず、よりよい選択ができます。エネルギーが尽きると誰でもネガティブになりやすくなります。体を頻繁に動かしてあげるとエネルギーレベルが向上します。するとうわべの声は静まって内面の声があふれ、知恵と自信、勇気が湧き出てきます
一指李承憲@ILCHIjp
情熱があればスピードは上がりますが、方向を決めるには洞察力が必要です。瞑想で心をカラにし、心の秤に乗っている感情、欲、観念を手放して目盛りをゼロにしてみましょう。心がカラになれば、自分と自然が一つだと感じられ、明確な方向性を探し出せます。
アドラー心理学サロン@adler_salon
劣等感を抱くこと自体は不健全ではありません。劣等感をどう扱うかが問題なのです。
アドラーのことば@adler187027
2匹の蛙がミルクの入った壺に落ちました。1匹は「もう終わりだ」と泣き、溺れ死ぬ覚悟をしました。しかし、もう1匹は諦めず何度も脚をばたつかせると、足が固い地面をとらえました。何が起きたか?ミルクがバターに変わったのです。
by アルフレッド・アドラー
アドラー心理学サロン@adler_salon
楽観的であれ。過去を悔やむのではなく、未来を不安視するのでもなく、今現在の「ここ」だけを見るのだ。
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/55_emile/index.html 【6月の名著 エミール】より
「人間不平等起源論」「社会契約論」等の著作でフランス革命を思想的に準備したといわれる、18世紀の哲学者ジャン=ジャック・ルソー(1712~1778)。彼は「近代教育思想の祖」とも呼ばれ、著書「エミール」は、「近代教育学のバイブル」として今も多くの人に読み継がれています。しかし、この「エミール」は単に「教育学」の書ではありません。ルソーはこの書物に自らの哲学・宗教・教育・道徳・社会観の一切を盛りこみました。100分de名著では、「エミール」を、現代の視点から、ルソーの思想を凝縮した「人間論」として読み解いていきます。
「エミール」は、一人の子どもをルソー自身があずかって教育するという形で、赤ん坊から青年期に至るまでの教育方法を論じた「教育小説」という体裁をとっています。「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」という有名な言葉が示すように、徹底した自然の賞揚、人為への批判がその思想のベースを貫いています。しかし、決して教育を自然まかせにしようというのではありません。人間の成長や発達をもたらす力として「自然」「人間」「事物」の三つの力を挙げ、それらを相互に矛盾することなく、調和させていくことを教育の根本理念にすえて、「人間を作っていく技術」にあらためて光を当てなおそうとするのです。
では、ルソーはこの教育によって、どんな人間を作ろうと考えたのでしょうか? 哲学研究者の西研さんは、ルソーがこの「エミール」という著作によって、本当の意味での「自由な主体」を作り出そうと考えていたと指摘します。「自由な主体」というとき、ルソーは二つを考えていました。一つは、「名誉・権力・富・名声といった社会的な評価から自分を測るのではなく、自分を測る基準を自分の中にもっていること」。もう一つは、「民主的な社会の一員として、一緒にルールを作り自治をしていくことのできる公共性を備えていること」。この「自分のため」と「公共のため」という折り合いにくい二つを両立する主体こそ「真に自由な主体」であり、それを育てる「教育論・人間論」が「エミール」なのです。
確かな座標軸が見失われ、他者からの承認だけを求めて右往左往しがちな現代。「エミール」を読み解くことで、「人間は、自分の中に確固とした基準をもちうるのか」「ありうべき理想の社会を実現するためには、どのような人間を育てたらよいのか」といった根源的なテーマを考えるとともに、ルソーの思想に現代の視点から光をあて、そこにこめられた【人間論】や【自由論】、【社会論】などを学んでいきます。
朗読を担当した要潤さんからのメッセージ
ルソーとエミール。独学のルソーによる、教育学。今の教育論に当てはまるかどうかは、分かりませんが、個人的には勉強になる部分が多く、没頭して読んだ箇所もありました。
独学でしかも架空の少年をイメージしながら思考し、生み出した言葉たちはファンタジックでもあり、リアリスティックでもあります。
第1回 自然は教育の原点である
【指南役】
西研(東京医科大学教授)…「大人のための哲学授業」等の著作で知られる哲学研究者
【朗読】要潤
…ドラマ「新・愛の嵐」「夜王」、歴史番組「タイムスクープ・ハンター」等に出演
「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」という言葉が示すように、徹底した自然の賞揚、人為への批判をベースにして教育論を展開した書「エミール」。人間の成長や発達をもたらすものとして「自然」「人間」「事物」の三つを挙げるルソーは、それらを調和させることで、架空の孤児エミールを理想的な人間を育てようとする。ではそれはどんな人間なのか? ルソーは、自分のためだけに生きる「自然人(オム・ナチュレル)」と社会全体の中で自分を位置づける「社会人(オム・シヴィル)」という相対立する二つの人間像を提示し、折り合いにくいこの二つを統一した人間を育てることこそ、人間が幸福の障害を取り除くための大きな鍵を握っているという。第一回は、ルソーが提起した「自然教育」の根本理念を明らかにし、「自分のため」と「公共のため」という相矛盾する要素を両立する「自由な主体」とはどんな存在か、それを育てるには何が必要かを考えていく。
第2回 「好奇心」と「有用性」が人を育てる
ルソーに預けられたエミールは、「快・不快」を基準に生きる幼年期から「用・不用」という基準に生きる少年期へと成長していく。ルソーはこうした発達段階を無視した従来の教育方法を徹底的に批判。常識に反して「読書」「歴史教育」「道徳教育」をこの時期に行うことを否定する。代わりに行うのは「そら豆畑のエピソード」に代表される、徹底して「好奇心」「有用性」に基いた教育だ。エミールは生々しい事件に直面しながら、自らの体験の中で「初歩の道徳感覚」や「天文学や地理学の有用性」を学んでいく。それはお仕着せの知識ではなく、エミールが自ら掴みとっていく生きた知識である。第二回は、自然や事物にのっとった教育によって育っていくエミールの姿を通して、他者に惑わされることなく、自分だけの力で推論、判断し行動していく自律した主体になるために必要なものは何かを考えていく。
名著、げすとこらむ。指南役:西 研 真に自由な人間を育てるために『エミール』
◯『エミール』 ゲスト講師 西 研
真に自由な人間を育てるために
十八世紀のフランスで活躍したジャン=ジャック・ルソー(一七一二~七八)は、近代の「自由な社会」の理念を設計した思想家です。フランス革命によって絶対王政が倒れ、封建的な身分制度が廃止されるのはルソーの死の十一年後ですが、ルソーはこの革命を思想的に準備したともいわれています。
今回ご紹介する『エミール、または教育について』は、『社会契約論』と同じ一七六二年に出版されました。『社会契約論』が自由な社会の「制度論」を展開したのに対し、『エミール』は自由な社会を担いうる人間を育てるための「教育論・人間論」を展開しています。この二冊はいわば車の両輪であり、二つで一体の書物だといえるところがあります。
ルソーの考えた「自由な社会」とは、平和共存するために必要なことを、自分たちで話し合ってルール(法律)として取り決める「自治」の社会でした。権力者が勝手な命令を押しつけてきたり、一部の人たちだけが得をする不公平な法律や政策がまかりとおったりすることのない、そんな社会です。
そういう自由な社会をつくるために、『社会契約論』でルソーは「一般意志」(皆が欲すること)という概念を提示しました。〈社会(国家)とは、構成員すべてが対等かつ平和に共存するために創られたものだ。だから、そこでの法律は、どんな人にとっても利益となること、つまり、皆が欲すること(一般意志)でなくてはならない〉。そうルソーはいっています。
人びとが集まって人民集会(議会)を開くときは、提出された法案についてそれが本当に皆の利益になるかどうか(一般意志といえるかどうか)を議論します。最終的には多数決で決めるのですが、その法の正当性は「多数が賛成したから」という点にあるのではなく、それが「一般意志である=皆にとっての利益である」という点にある、とルソーはいいます。つまり、いくら多数が賛成したとしても、一部の人に損害を与えるような不公平な法律には正当性はないのです。
この考え方に最初出会ったとき、ぼくはびっくりしました。「多数決の民主主義は嘘くさい。結局は、力のある者が多数をとって法律をつくるだけになる」。そんなふうに若いときのぼくは思っていたからです。だから、〈法律は一般意志でなくてはならない〉というルソーの考えには強く共感しました。しかし疑問もわいてきました。「人はまずは自分の利益を考えるもの。みんなの利益を考えるようになれるのかな」とも。
自由な自治の社会が成り立つためには、公共の利益を考え実現しようとする姿勢が必要です。自分の利益はもちろん大事ですが、他の人たちの言い分もよく聞いて〝自分も含めたみんなが得になるような〟ルールをつくっていく。そういう姿勢をもつ人間は、どうやったら育つのか。これは、ルソーの大きな思想的な課題でした。
ですから、教育論である『エミール』の目的の一つは、「みんなのため」を考えられる人間をどうやって育てるか、ということになります。もっとも、みんなのため、といっても自分を犠牲にして国家に尽くすということではなく、〝自分も含むみんなの利益〟をきちんと考える、ということです。
『エミール』の目的はもう一つあります。ルソーは、個人としての生き方の面でも、真に自由な人間を育てようとしました。しかしこれにも大きな困難があると考えていました。
〈文明が発達した相互依存的な社会のなかでは、人は自分を、名誉・権力・富・名声のような社会的評価でもって測るようになり、そしてまわりの評価にひきずりまわされる。それでは自由とはいえない。そうではなくて、自分の必要や幸福をみずから判断して「自分のために」生きられる人間こそが真に自由な人間だ〉。こうルソーは考えました。自分のため、といっても単に利己的な人間ということではありません。自分にとって必要なことは何か。また自分はどう生きたいのか。つまり自分の生き方についての価値基準をしっかりと「自分のなかに」もっているということです。
まとめてみましょう。ルソーが『エミール』で課題としたのは、「自分のため」と「みんなのため」という、折り合いにくい二つを両立させた真に自由な人間をどうやって育てるか、ということでした。この難しい課題に対して、この本は彼なりの答えを示しています。
ルソーの提示した、自由な社会と自由な生き方の構想は、隣のドイツでも大きな影響を与えました。「ドイツ観念論」といういかめしい名の哲学で知られるカントやヘーゲルはルソーの熱烈なファンでしたし、ヘーゲルの弟子筋のマルクスもルソーの愛読者でした。ルソーがいなければこれらの人たちは出てこなかった、といえるほど、ルソーの影響は近代の思想家たちに深い影響を与えたのです。
では、ルソーはもう過去の思想家なのでしょうか。決してそんなことはありません。
現代の私たちは、自分のなかに自分の生き方の基準をもつ、自由で自立した人間になっているでしょうか? いまの日本の子どもたちや若者たちは、空気を読むということに必死だといわれます。そのため「個性的」という言葉が、いまは悪口に、つまり「空気が読めないヤツ」ということの婉曲な言い回しになっているのだそうです。「俺はこれがしたい」「わたしはこれで満足だ」という、自分なりの基準をもって生きることはますます難しくなっているように思えます。
また「みんなのため」を考え実現できる、つまり自治できる人間は育っているでしょうか。ルソーがイメージしていたのは、対等に、お互いの都合や利害を正直に出し合い聞き合いながら、「どうするのがみんなのためにいちばん良いのか」を議論することでした。しかし「空気」を恐れながら生きるとき、人は自分の都合を口に出すことはできないでしょう。私たちの社会は人権と民主主義を柱とする憲法をもっていますが、部活やサークルや地方自治の場面など、いろいろなところでほんとうに民主的・自治的な場面をつくれているかといえば、首を傾げざるをえないと思います。
「自分のため」に生き、また「みんなのため」に生きる、そうした人間はどうやったら育つのか。今からおよそ二百五十年も前にルソーが提示したこの課題は、現代においてもまったく古びていないどころか、いまますます重要なものになってきていると思います。
第3回 「あわれみ」を育て社会の基盤に!
16歳になり思春期を迎えたエミールはいよいよ社会の中に入っていく。その際に最も大事な要素は「あわれみ」の感情。人間が元々もっている「自己愛」を「あわれみ」の感情へと上手に育て拡大することで、貧しい人々への共感や不平等な社会への憤りをもつ「公共性」を備えた存在へとエミールは成長していく。その媒介となるのが「歴史教育」と「宗教教育」。社会の不平等に直接対面させるのではなく「歴史」というフィルターを通してみせることでより普遍的な感情を育てることができる。また、ルソー思想の白眉ともいえる「サヴォワ副司祭の信仰告白」の章は、「自然宗教」を通して人間の良心の本質を明らかにし、ニヒリズムに陥りがちな青年期の懐疑から脱する方途も示唆する。第三回は、私たちの社会の基盤ともいえる「あわれみ」の感情、「公共性」、「良心」といった根源的な問題を、ルソー思想の核心部分から読み解いていく。
第4回 理想社会のプログラム
いよいよ成年へと成長し、結婚、社会への貢献といった問題に直面するエミール。恋愛や外国旅行といった体験を通じて、「理想の社会とは何か」という根源的なテーマが浮かび上がってくる。そこには、ほぼ同時期に書かれた「社会契約論」のテーマでもある「自由な社会」の理念の設計プランもかいまみえる。「エミール」は、「一人一人が真理を知る能力をもった人に育ち、正しいことを意志する人に育ってはじめて、全体意志と一般意志が一致する理想社会が実現する」という「社会契約論」のテーマを補完するための「人間論」でもあったのだ。第四回は、「エミール」と「社会契約論」をつなげて読み解くことで、私たちが目指すべき、自由で自律した理想社会がどんなものか、それを実現するには何が必要かという、現代に通じるテーマを考える。
こぼれ話。
民主主義の根幹に立ち戻れ!
この原稿を書いている真っ最中に、イギリスの国民投票で「EU離脱」支持票が過半数を超える見通しとなりました。これによりイギリスだけでなく、ヨーロッパ全体が大きな岐路に立たされることになります。「民主主義というシステム」は、時にこのような巨大なうねりを引き起こすことがあります。
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ルソーを「100分de名著」で取り上げたいと思ったきっかけは、「民主主義というシステム」の根幹をもう一度検証してみたいと考えたからです。戦後70年というときを経て果たして民主主義というものが日本に根付いたのか。あるいは、私たちは本当に民主主義の本質を知りえているのか。空気のように当たり前に享受しているこのシステムについて、私たちは実は何も知らないのではないか。……昨今の状況をみて、深く考えることがたびたびでした。
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ルソーを取り上げるにあたって、「社会契約論」と「エミール」のどちらを選ぶかについて、実は悩みました。より直接的に民主主義について考えるなら「社会契約論」ではないかとも思いました。しかし、全体を通読する中で驚いたのは「エミール」の5編の中に、ミニ社会契約論ともいえる論述が組み込まれていること。いや、それだけではありません。ここには、ルソーの哲学、倫理学、人間論、社会論、宗教論、教育論の全てがカオスのように全て盛り込まれていること。「エミール」を使えば、ルソー思想の全体像が描けるのではないかと直観しました。
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ちょうどそんなとき、「100分de名著」の記念すべき第一回「ツァラトゥストラ」を担当した西研先生が、最近ルソーに強い関心をもっているという噂を耳にしました。まずはお話をお聞きしてみようと、西先生の研究室にお邪魔した日のことを今でも鮮烈に覚えています。あたかも大学の授業を受けるような形で、ホワイトボードに図を描きつつ解説してくれる西先生のルソー論に大きく目を開かれました。
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実は、西先生との出会いは(といっても本人ではなく西先生の著作との出会いですが)、1989年、大学院の修士論文を仕上げようとしていたさなかでした。フランスの哲学者、モーリス・メルロ=ポンティの身体論をテーマにした修士論文だったのですが、彼が大きな影響を受けたドイツの哲学者、マルティン・ハイデガーの著作にまるで歯が立たず、彼に関する記述からはほぼ逃げた形になっていました。そんなときに出会ったのが、西研先生の処女作「実存からの冒険」。現象学者フッサールからハイデガーに至る問題意識の流れを見事に整理し、しかも噛み砕いた日常言語で解説した手腕に脱帽しました。「なんだ、こんなことが書いてあったのか!」と初めてハイデガーの思想が腑に落ちるとともに、「もっと早くに出会っていればこんなに苦労はしなかったのに!」と歯噛みをしたものです(新刊本だったのでそんなことは不可能だったのですが)。
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その当時は、現象学や実存論といったことを中心テーマにしていた西先生がなぜルソーに?とも思ったのですが、解説を聞く中でその疑問が氷解していきました。人間の在り方(実存)を追求する上で、社会とどう関わるかをはずすことはできない。西先生は、若き日から追求してきた実存論を、いわば社会という位相から照らし出そうとしているのだと思いました。番組をご覧いただいた方は既におわかりかもしれまんせんが、「エミール」という著作のねらいは、「名誉・権力・富・名声といった社会的な評価から自分を測るのではなく、自分を測る基準を自分の中にもっていること」と「民主的な社会の一員として、一緒にルールを作り自治をしていくことのできる公共性を備えていること」の間、つまり「自分のため」と「公共のため」という折り合いにくい二つを両立する「真に自由な主体」がどうしたら実現できるか、ということだったんですね。そういう明確な図式を最初の取材のときにお聞きでき感銘を受けた私は、講師を正式にお願いすることにしました。
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さて「民主主義」です。私たちはなんとなく「民主主義」って多数決のことだと思い込んでいるのではないかと「エミール」を読んで痛感しました。どうせ意見は分かれるのだから、より多くの人が賛成する意見を選んで法律にしたり政策を決定したりする。だから、最終的に物事を決定するは「数の論理」だ。そうやって選ばれた意見こそが正しい意見なのだ。皆さん、そう思い込んでいませんか? しかし、ルソーが原理論で考えたのは、そういうことではないのです。
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たとえば、一国民の大多数が外国を侵略して征服することを欲したという場合、それが果たして正しい意見といえるのか? ルソーはそういう事態を原理的に考えたのだと思います。もう一つ例に挙げると、人類の大多数は、太陽や惑星が地球の周りを回っているという「天動説」を信じていました。そうではないといった人は当時コペルニクス一人だけでした。多数決でいえば「天動説」が正しかったわけですが、今では「地動説」が正しいというのを誰もが知っています。多数決が必ずしも真理や正義を導き出すわけではないのです。
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大事なのは、それぞれが自分の意見や自分の都合をしっかりと出し合うことだ。そして、対話を通してしっかりと煮詰めていき、互いの事情がわかった上で「どうすれば一部の人だけではなく、どんな人にとっても利益になるのか」を導きだしていくことだ。ルソーが「一般意志」という言葉で示そうとしたのはそういう理念であり、これこそが民主主義の根幹に据えられるべきものなのです。私たちは、こういう対話のプロセスをいつしか忘れて、「意見が割れたら即多数決、それが民主主義だ」と勘違いをしていることが多いのです。
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翻って現実を見つめるとき、多数派工作をして一部の人の利益をみんなの利益として押し通す、少数意見を全く省みないといったことが横行しているのではないかと、自分自身の反省を含めて思います。町内会での決め事、会社の会議、趣味のサークルの運営、学校のクラス運営……こうしたことは日常のあらゆる領域にも通じています。しっかりと自分の都合を出し合い、粘り強い対話を通して「一般意志」を煮詰めていくこと。ルソーに学べることは大きいと思います。ルソーは、こうした「自分のため」と「みんなのため」という二つの軸に、しっかりと折り合いがつけられるような主体を作るためにこそ、架空の設定の中でエミールを育てていったのだと思います。
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とはいえ、いみじくも西先生が番組でいっていたように、「エミール」は大変「お行儀の悪い」作法で書かれた本です。読み勧めていくと、とんでもなく長い寄り道につきあわされたりして本筋を忘れてしまうことも。自分の興味のあることはとことん書いてしまわないと気がすまないというルソーの気質にもよるのだと思いますが、私は読んでいてあまりにも迷い続けるので、まるで「ジャングル」のような本だと思いました。だからこそ面白いとも思うのですが、細かい章立ても全くされていないため、自分が興味のあるところを探し出すのも一苦労です。今回の番組テキストは、西先生のたっての希望で、引用箇所にページ数をふっています。番組やテキストを「ベースキャンプ」としていただき、「エミール」という広大なジャングルを、迷いながらも踏破していただけたらうれしいです。
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