俳句のこころ

https://gospel-haiku.com/hl/essence.html 【俳句のこころ】より

阿波野青畝先生の著書「俳句のこころ」から俳句づくりのエッセンスを学びます。

はじめに

俳句を学び始めると文法や季語を覚えたり、さまざまな約束ごとを習得しなくてはなりません。 学びたての頃は「感じる」ことよりも「覚える」ことの割合が多いのです。ところが、いつまでも知識に傾いた俳句づくりをしていると、やがて壁にぶつかって行き詰まり俳句を詠むことが苦しくなってきます。

多くの知識を詰め込んでも、それを創作に活かすことができなければ意味がありません。「新しい感覚の俳句を創りだす」ためには「覚える」だけではなく「感じる」訓練がどうしても必要なのです。

この稿では阿波野青畝先生の俳話集から「感じる」ために必要な俳句づくりのエッセンスを抽出してまとめました。すでに何処かで読んだり聞いたりしたことも多いと思いますが、それらをもう一度見直して活用していただこうというのが目的です。

観念に溺れないこと

頭の中が知識で支配されてしまうと、俳句という天地はこういう天地と最初に観念で固定化してしまいがちです。つまり先入主観念の色眼鏡をかけて、その色を透して対象を捉えようとするのでほんとうに生き生きした対象が目に入らないからです。

心を虚しくして対象に接し、自分の好悪も捨ててじかに自然に飛び込むことが大事なのです。そうすると、今まで気づかなかったことがあっちからもこっちからもぶつかってくる。おや、これは驚いたなあと少なからず心をゆすぶることでしょう。それらを、心にひびいいたとおりに十七字に写しとるのです。

ほんとうの写生の意義

短歌も俳句も詩の仲間ですから、本来は主観が存在してあるべきものです。けれども初学の頃は、徹底してそれを封印し、画家が形を具象化するのと同じようにスケッチすることを訓練させられます。

俳句でいう写生というのは命を写すこと

命を写し取っていない写生は、詩ではなくただの 報告 なのです。写すというのは具体的に描くこと であって、客観の必要はその具体性の尊重にあります。つまり客観写生のなかから主観が滲み出るという域を目指して日々写生の訓練をするのです。客観写生については次章で詳しく触れたいと思います。

客観と主観とは表裏の関係

わたしたちが花鳥を諷詠するときに、客観尊重という語を耳にしますが、それは単に客観のみを切り離して尊重し、逆に主観を軽視する傾向に解釈すべきではありません。

青畝先生の著書に書かれている、譬ばなしを読むとわかりやすいでしょう。

わたしの手をごらんなさい。やわらかい手の平が主観とすると、かたい手の甲が客観となり、いつも表裏の関係をなしています。この表裏を引き離せば、わたしの手の命はなくなり、手の存在を失うということを考えてください。

やわらかい手の平は、握りしめれば内部にこもります。主観というのは、作者の心ですから、常になくてはならないものですが、それは表面には現れずして内部にこもり、外部からはちょとも見えないことがあります。

かたい手の甲はつねに表面に出ていて、握りしめてもこれを内部に隠すことはできません。客観というものは作者の心が感じている相手であり、対象物です。作者の心がもしも鈍って感じないときには目の前に対象物が厳と存在していても、その作者にとっては無きに等しくなります。つまり、主観がなければ客観も存在しないということです。

作者は、客観写生をするためには、つねに主観を活発にはたらかせなくてはならいという道理です。いくら宇宙に万相が無限にころがって作者の応接にいとまがないといっても、中心の作者の心が無感応であったならば、ゼロに等しいことです。

著書『俳句のこころ』から引用

先生はこの俳話の最後に「裏に主観がくっついている客観、切り離した客観でないところの客観、そういう客観をおろそかにしないためにも、一層自然に親しみ、さらに愛する目をそそいで対象を把握せよ、私情をさしはさまないで本当の姿を抱擁するという謙虚な態度になれ」と、結ばれています。

写生についての間違った理解

俳句においては、題材となった自然と、俳句化されたあとの自然とが別種のものであるかに見えることはよくあり、虚飾だ虚構だと騒ぐ人もいます。このように別種のものに見えるような場合にも写生といえるかどうか。

写真で見たその人よりも漫画のように省筆して描かれたその人のほうが格段とその人の真が伝って感じられるという場合が多いですね。これは道理に合わないようで、むしろ真に迫るから不思議です。このようなことは、俳句でも行われていて、こうした俳句における変容は、作者の直感が最もよく正直に写しこなした描写だといえます。

また、ある作者は、屋根の瓦の一枚一枚をとうてい意識に捉えることはできないので、その中から直感的に把握して屋根の形の面白いところを印象させて詠む。つまりその作者は不必要なものをふりおとして純粋のものだけを簡潔に感得しようとしているのです。それゆえに行われた変容であり対象の生命をつかみとって描写しているのですから、対象そのままの形相と比較して歪があろうとも欠けておろうとも、写生にほかならないと考えたいのです。

単純の美を感じとる

石ぐらいかたくなに黙しているものはないでしょう。

でも、東洋の思想につちかわれている日本人ならば、石をしてもの語らしめ、それを限りなく聞きとることができます。石を庭園にならべたり、床の置物にしたり、また硯として愛用したりしているのは、効用のみではなく、限りなく石に愛着があるからです。

石を眺めていると楽しくなり、千崖万谷もかくのごとくならんと思うときがあります。水に潤う石はしみじみとある深さを感じさせてくれます。石にかげが生まれると、石のまわりのひろがりとそれの変幻の面白さを見せてくれます。そこに俳句の心があるのだと思います。

また、お皿の上にぶどうが一ふさ置いてあるとしましょう。

これは実に簡単な静物です。ところが、私たちの心に写った映像が、単に一ふさしかない静物的なぶどうであっては貧しいのです。一ふさのぶどうから、ぶどう園を想像し、はさみで摘んでいる人物を想像し、白雲の浮かんでいる秋空を想像する等々、自然の一部分を切りとってきたその一ふさのぶどうを、いま連想しながら見つめてほしいのです。

ぶどうを結実させたのは自然の力であるから、その自然が躍動してきて、季節の秋という感じがあふれてくるものにならなくては魅力にならないわけです。

観照して見つめているうちに、未完から完成へ、不足から充実へと展開傾向をもって、いわゆる気配で感じ発見するという方法、そういう方法で表現すれば短い俳句が最も妙を尽くすところとなるでしょう。

新しみを求める

「古壺新酒」というのは、高濱虚子先生がよく使われた言葉で、俳句というのは古い壺に新しい酒を盛るようなものだ…という意味です。

私たちは時代とともに生きているのですから、いまさら芭蕉の時代に戻れといわれてもそれは無理です。伝統は大切にしながらも、いま私たちが生かされている日常に感動することが肝要です。

人からの借り物ではなくて実際にわが胸を躍らしめたもの、つまりその実感を取り逃がさないでしっかりと抱きとめて詠む。それが新しい酒という意味だと思います。

新しいということは、何も珍しい題材、変わった言葉というような皮相なことではなくて、私たちの心の中の問題です。心の中というのはいわば一つの修養です。できるだけ謙虚な気持ちでながめ自然に向かって心を澄ましていけば、自然と新しいものがよくつかめるようになってきます。

個性は俳句づくりを通して養われる

個性的な作品を作ろうといくら努力してみても、たやすく自分の個性が光りでてくるものではないですね。

ある人の説によれば、個性は汗のようなもので、出そうと思っても出てくるものではない。けれども激しく運動すれば、汗を出すまいと思っても勝手に流れ出てくる。

それと同じように、個性は俳句を作るのに一生懸命になればおのずからにじみ出てくるのであって、個性をだそうだそうと思っても直接に現れてくるものではないのです。

あとがき

この稿は、阿波野青畝先生の著書『俳句のこころ』に書かれた俳話の中から、俳句づくりのエッセンスになる要素を抽出して、内容の紹介を兼ねてまとめたものなので、決して私のオリジナルではありません。

著書は、昭和50年が初版で、おおよそ半世紀が経とうとしていますが、現在の私たちが読んでも気づかされることが多く、私は、自身の俳句バイブルとしていつも座右に置いています。

残念ながらいまは古書としてしか流通しておらず、昨今は入手も難しい状況です。著作権のことも考えましたが、このまま埋もれてしまうのはじつに惜しいので、こうゆう形でご紹介することにしました。天国の青畝先生もきっと許してくださると信じつつ。


https://zatsuneta.com/archives/112227.html 【青畝忌(12月22日 記念日)】より

大正~平成時代の俳人・阿波野青畝(あわの せいほ、1899~1992年)の忌日。

この日は1931年(昭和6年)に刊行された句集『萬両(まんりょう)』にちなみ「万両忌」とも呼ばれる。冬の季語。

青畝は、昭和初期に俳人・水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)、高野素十(たかの すじゅう)、山口誓子(やまぐち せいし)と共に「ホトトギスの四S」と称された。

阿波野青畝について

1899年(明治32年)2月10日、奈良県高市郡高取町に四男として生まれる。旧姓は橋本。本名は敏雄。父・橋本長治は八木銀行高取支店長で士族の家系。

幼少の時に耳を患い難聴となる。1913年(大正2年)、奈良県立畝傍中学校(現:県立畝傍高等学校)に入学。1915年(大正4年)、俳句雑誌『ホトトギス』を知り、奈良県立郡山中学校(現:県立郡山高等学校)で教師をしていた『ホトトギス』同人の原田浜人(はらだ ひんじん)のもとで俳句を学ぶようになる。

1917年(大正6年)、郡山の句会で俳人・高浜虚子(たかはま きょし)と出会い、師事する。畝傍中学を卒業後、八木銀行(現:南都銀行)に入行。1922年(大正11年)、俳人・野村泊月(のむら はくげつ)の俳句雑誌『山茶花(さざんか)』の創刊に参加。

1923年(大正12年)、大阪市西区京町堀の商家の娘・阿波野貞の婿養子となり阿波野姓となる。1924年(大正13年)、25歳にして『ホトトギス』課題選者に就任。1929年(昭和4年)、郷里・奈良県八木町(現:橿原市)の俳人・多田桜朶らが俳句雑誌『かつらぎ』を創刊、請われて主宰となる。同年、『ホトトギス』同人。

1973年(昭和48年)、『甲子園』(1972年)他で第7回蛇笏賞(だこつしょう)、西宮市民文化賞を受賞。1974年(昭和49年)、大阪府芸術賞を受賞。俳人協会顧問。1975年( 昭和50年)、勲四等瑞宝章(ずいほうしょう)を受章。俳人協会関西支部長。

1990年(平成2年)、『かつらぎ』主宰を俳人・森田峠(もりた とうげ)に譲り、名誉主宰に就任。1992年(平成4年)、『西湖』により第7回詩歌文学館賞を受賞。同年12月22日、兵庫県尼崎市の病院で心不全により死去。93歳。

その他の著書として、句集『花下微笑(かかびしょう)』(1940年)、『国原(くにはら)』(1942年)、『春の鳶(はるのとび)』(1952年)、『紅葉の賀(もみじのが)』(1962年)、『除夜』(1986年)、俳論集『俳句のこころ』(1975年)などがある。

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