aribaba@1819aribaba
その力は小さくても 力のかぎり 生きてゆこう
その愛は小さくても せい一ぱいの愛を傾け 生きてゆこう
時には切なく 生きる力を 失おうとする時があっても
力をふりしぼって 生きてゆこう 二度とない人生なのだ 坂村真民
aribaba@1819aribaba
船というのは、荷物をたくさん積んでいないと、不安定でうまく進めない。
同じように人生も、心配や苦痛、苦労を背負っている方がうまく進めるものである。
ショーペンハウアー
坂村真民bot@shinminbot
怒涛の海を 飛びゆく鳥のように 混沌の世を生きねばならぬ
鳥は本能的に 暗黒を突破すれば 光明の島に着くことを知っている
一寸先は闇ではなく 光であることを知らねばならぬ 新しい年を迎えた日の朝
わたしに与えられた命題 鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ
坂村真民bot@shinminbot
どんなにかっとなることがあっても 通り過ぎる雨のように しばらく時を置くことにしよう
みんな誰でも淋しいんだから 夏の夜空の花火のように あかるくいたわりあってゆこう
深い愛がなかったら 何一つできないから 蜂が蜜を集めるように 力を合わせて仲良くしてゆこう
Facebook辻 信行さん投稿記事
爆心地の空
107年ぶりに優勝した慶應の選手たちと新幹線ですれ違い、17年ぶりに広島にやって来た。
爆心地の石碑の傍らに立ち、空を見上げる。奇しくも爆心地の真上だけ、雲の白が濃い。
広島と聞いて思い出すのは、中学2年の英語の授業である。その日、まずはお手本をということで、いつものように50代男性の教科担任が英語の教科書を朗読し始めた。
内容は、一人の少年の目を通して語られる原爆投下直後の生き地獄と化した広島である。普段は冷静な先生が、何度もつっかえ、次第に嗚咽をもらし、最後は一言も読めないまま、ただハンカチで目を覆った。
教室は静まり返る。普段は先生をおちょくることに徹している男子たちも、この異様な様子を無言で見つめるだけである。2~3分経ち、落ち着きを取り戻した先生が言った。
「毎年同じ文章を読んでるのに、泣けて泣けて仕方ないんです。私には戦争の実体験がないし、身近なところに被爆した方もいないんだけど、どういうわけか、涙が止まらなくなっちゃうんだよね」
話が平和記念資料館のことに及ぶと、同級生の数人が「行ったことある!」と言い、先生はこう応じた。
「人生で何度でも行ってごらん。その度に感じ方が変わるから」。
ぼくはこの授業の3年後に初めて訪れ、雷に打たれたような衝撃を受けたが、今回リニューアルされた資料館を訪ね、前回と異なる感じ方をした。じんわり胸に迫りくるものがあった、という表現が相応しいかもしれない。それは自分が17年分、年を重ねたからというのもあるだろうが、刷新された展示によるところも大きいだろう。
展示室に入ると、巨大な写真パネルによって、まるで自分が戦前の古き良き文化華やぐ広島にいるかのように錯覚する。そして戦争が始まり、1945年8月6日午前8時15分、すべては壊滅する。被爆する広島を、ほんの一歩引いたところから疑似体験できる展示である。そして、被爆によって亡くなった人、大きな苦悩と共に生きることとなった人、一人一人の個別具体的な人生のエピソードが、血の通ったあたたかな視点で紹介されている。
「8月6日」という表記にこだわっているのも特筆したい。つまり、「1945年」は頻出させない。今との隔たりが大きくなってしまうためである。ここで展示されているのは、今と地続きにある「8月6日」の出来事である。それによって小さな子供たちも食い入るように展示を見つめている。
それなりに混んでいる館内を出て、広島原爆死没者追悼平和祈念館、原爆ドームを見学し、相生橋を渡って本川小学校資料室に行く。1928年に創立された広島市内初の鉄筋コンクリートの小学校である。関東大震災を受けて、耐震構造を備えたコンクリートにしたという。この小学校をモデルにしたのが『はだしのゲン』である。
小さな資料室ながら、原爆を耐えて残ったコンクリートの校舎は、迫力がある。被爆した児童でただ一人生き残った居森清子の、語り部としての半生などが紹介されている。
広島での用事を済ませ、夕方に広島市現代美術館で開催中のアルフレド・ジャー展に行く。第11回ヒロシマ賞受賞記念展である。新作「ヒロシマ、ヒロシマ」は、上空からいまの広島が映し出され、原爆ドームの上で止まる。ドームの中に白い輪が見えたと思ったら、それが回転し始め、スクリーンが上がり、向こうから本物の巨大送風機が18台現れ、轟音とともに爆風が吹きつける。
光や音を多用しながら、人類への警告と新たな生命への希望で構成された作品は、この展示を観るためだけに遠方から訪れる価値があると強く感じさせるものであった。
帰りの新幹線の中で、福島第一原発の処理水放出をめぐり、中国との間で対立が深まっているという報道に触れる。そして思い出す。
中学2年のあの授業から5年後、ぼくは大学1年の基礎演習のマンツーマン授業で、比較文化学者の彭浩先生から『原爆の子』の中国語訳にまつわるエピソードを伺った。彭浩先生の両親はともに北京大学の教授で、父上は北京大学日本研究センターの設立に尽力した人物である。
中国語版の長田新『原爆の子』は、この本に感動した彭浩先生とご両親の3人によって、1989年に北京大学出版から刊行された。初版3,500部は瞬く間に完売し、「侵略戦争は一般の日本人も苦しめた」という認識が広がった。その一方、もとから親日家ということもあり、ご両親には「国賊」という批判も寄せられた。
時代は変われど、この世界は金太郎飴のようにいつも似た構図の出来事で構成されている。そのことを強い危機意識とともに伝え続ける使命を担った広島で、ふと空を見上げた。
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