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https://ameblo.jp/lifeskills/entry-12462036738.html 【自然への畏敬】
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6974609/ 【三位一体】
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/46083228?categoryIds=7317888
【プレートの境界?】
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/43957203?categoryIds=4590230【まつり】
http://tiiki-saisei.jp/1512/ 【土着する・アラハバキ編―御柱祭とミシャグジ】より
本年は7年(6年ごと)に一度の式年大祭『御柱祭』が挙行される。国内でも奇祭と呼ばれる御柱祭だが、確かに常識で考えると不思議なことがある。
土着する番外編6で、トーテムポール説を有力な起源としたが、柱を道や川中でズルズルと引きずり回し坂から落とす。さらに柱にまたがるなど神の依代となる柱とは思えない。
同じく番外編7で、イエストがゴルゴダの丘まで、十字架を背負わされ街中を歩き処刑され、神として祭られるようになったのと似ていると書いたが、どうもこちらが正解に近いと思える。
どう考えても御柱の扱いが荒っぽい上に、建てた御柱を誰も拝んでいないからだ。
改めて御柱の成り立ちを考えてみよう。
推古天皇28年(620)の日本書紀で、檜隈陵(ひのくまのみささぎ)の上に天皇が臨席の中、有力氏族を総動員して柱を建てる(立て御柱みたい)大祭を挙行したとの記述がある。しかし檜隈陵は欽明天皇陵とされているので、父親の陵墓を串刺しにしたとは考えられない。
だが埋葬者は蘇我稲目だとする説もあり、そこから推論すれば御柱の根源は『怨霊封じ』しかあり得ないのだ。
では諏訪の御柱も怨霊封じなのか?少なくとも苛め抜かれる柱を『神』とは見ていない。
町奉行が「市中引き回しの上、磔(はりつけ)、獄門!」と言う時代劇をご覧になっているだろう。
市中引き回し
江戸時代の罪人は馬に乗せられ、刑場まで江戸市中を練り歩いた。当然、道々の両側には庶民が祭のごとく並び、見世物と化していた。あの義賊で有名な鼠小僧は、伝馬町の牢屋から小塚原刑場まで引き回され首をはねられ晒し首とされた「獄門」である。
イエス・キリストの磔刑と江戸の処刑は酷似しているが、この処刑方法は万国共通であり見世物であろう。つまり「御柱」は、これと同じだと感じるのだ。
一説には、かつては生身の人間が血を好む神に捧げられた人柱であるとしている。怨霊封じや厄災除けの生け贄だったわけだ。事実、上社には硯石がある。どう見ても浅いへこみは、血を貯めたとしか考えられない。インカやマヤ文明の生け贄神事と同様なのである。
昔話には橋や城の建設で、人柱を埋めたとの伝承が各地に残る。だいたい女の子がその犠牲になっている。香川県の丸亀城では、たまたま通りがかった豆腐屋を穴に落とし生き埋めにした。豆腐屋もたまったもんじゃない。
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柱を建てるのは「鎖す(さす・とざす)」行為だ。字の通り地面に何本も突き刺し、鎖(結界)を張り巡らしたとすれば納得がいく。
御柱
日本書紀に聖徳太子が初めて登場するのは物部守屋と蘇我馬子の戦いだ。蘇我側が、守屋がクーデターを画策したとねつ造。物部守屋を滅ぼした話だ。これは当然、当時の考えからすれば陥れた蘇我馬子は祟られる。だから怨霊神守屋を封じる手段に出る。
ゆえに戸谷学は、御柱は「怨柱」だと言う。御柱は物部守屋の怨霊封じなのだ。
現在の四本柱の建立は、平安時代から上社のみで挙行されたもので、下社では諏訪大明神を信奉していた武田信玄が上下両社で行ってからの話だ。
だが諏訪には洩矢神以前に縄文時代から「ミシャグジ」と言う謎の古代神がいた。
前述した戸谷学の著書「諏訪の神」では、「怨柱」どころか、とんでもない説を立てている。
御柱で封じているのは「ミシャグジ神」であり、それは『フォッサマグナ』であると言うのだ。
ヤマト言葉で発想すると「シャ」は「サ」であり、狭・裂・塞の意味で「クチ」は口だと断定。合わせれば「サクチ」=「割け口」であり、ミシャグジとは裂け目を畏怖して祀ったのが始まりではないかとする。「ミシャグジ」=「巨大断層地震」となるわけだ。
さらに戸谷は諏訪神社の向きにも注目した。諏訪神社四社は東西南北それぞれ違う方向を向いており、かつ、どの神社も諏訪湖に背を向けている。つまり諏訪湖を封じていると言うのだ。
諏訪湖はご存じの通り、フォッサマグナと中央構造線が交わる。民俗学において、これほど超俯瞰で見ている者は過去にいない。ちなみに戸谷学は神道学者であることを添えておく。
私はこの説に一矢で射貫かれた。まさに「洩れ矢」に当たったのだ。
「巨大地震」が大地神として縄文時代に祀られたとしても不思議ではない。巨石などが地震の産物だと考えれば、その石は祀る対象になるし、隆起した山も同様に御神体となる。
この封じられたミシャグジ神は荒神であり、アラハバキと通じる。
さて、そうした目で御柱祭を見たら、また不思議なことが見えてくるかもしれない。
https://ameblo.jp/gerbera-it/entry-12446008548.html 【諏訪の神の正体 ①】より
私の産土神社である諏訪神社の祭神はタケミナカタ(建御名方神)です。
タケミナカタは古事記では屈辱的な姿で描かれています。それなのに諏訪神社は全国に5千を超えて祀られています。これがずっと不思議でした。
古事記の国譲りの場面でタケミナカタはタケミカヅチ(建御雷神)と力比べをして、軽々と投げ飛ばされて逃げ去り、諏訪まで逃げたが追い詰められ、この地から外には出ないと約束して
死をまぬがれた、という情けない話でした。
不思議の理由の一つが、「古事記」はほとんど読まれなかったことです。
今でこそ古事記は有名ですが、読まれるようになったのは江戸時代に本居宣長が「古事記伝」を出してからです。ですからその影響はなかったということです。
それにしてもあの神話の内容は気になります。
結論としては、タケミナカタは蘇我馬子に敗れた物部守屋を表しているようです。
6世紀に仏教を取り入れるかどうかで大和朝廷は大きな争いが起きました。
崇仏派の蘇我馬子に対して物部守屋は廃仏派。最初は守屋の方が優勢で、疫病がはやるのは
仏教が原因だとして、仏殿を焼き、仏像を海に捨てました。
その後は蘇我馬子が盛り返して主導権を握り、物部守屋は賊軍とされて、結局打ち取られました。これを機に仏教は全国に広がりますが、善光寺が長野に創建されました。
『善光寺の本堂の108本の柱は円柱のものだが、唯一大黒柱のみが角柱で、これは別名「守屋柱」と呼ばれ、柱の下には物部守屋の首が埋設されていると伝えられる。
また善光寺の本尊は、そもそも物部守屋が蘇我馬子の寺を破壊して、仏像を難波の堀江に棄てたものを本田善光なる者が拾い上げて持ち帰ったのに始まると伝えられる。』
(~戸矢学著 河出書房新社刊『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』より~)
守屋の首を埋めてその上に大黒柱を立てる。反対派を封じて仏教を普及させるという
凄まじい執念を感じます。
一方、無念にも敗れた物部守屋が死後祟りをなしているという現象が起きました。
太宰府に左遷されて怨みのうちに死んだ菅原道真公が都を祟ったように。
それで、怨霊となった物部守屋の怒りを鎮めるために、善光寺の南にすでにあった諏訪神社の
神域に物部守屋神社を建てて、一族の者に祀らせたようです。
のちになって、古事記編纂のおりに、守屋を殺して長野に首を埋めて封じた出来事を
タケミナカタが諏訪に逃げて外に出ないと約束したという神話に表現したようです。
そのついでに、藤原氏の氏神である鹿島神宮の祭神を顕彰するためにタケミカヅチを最強の神に仕立て上げたというのが真相のようです。
そして、いつしかタケミナカタが諏訪大社の祭神になってしまった。
諏訪の神の祭神決定には3つの段階があります。
1.縄文時代からの「ミジャグチ神」信仰
↓
2.物部守屋の善光寺封印と物部守屋神社祭祀
↓
3.タケミナカタの古事記への登場と 諏訪大社の祭神への指定
これでだいたい納得できました。
しかし、諏訪の神の本質は縄文時代からの「ミジャグチ神」です。
この「ミジャグチ神」がわからないと本当の諏訪の神はわかりません。
これについてはまた次回に。
https://ameblo.jp/gerbera-it/entry-12446225907.html 【諏訪の神の正体 ②】より
昨日は、諏訪の神の祭神決定の3つのプロセスを見ました。
そして、物部守屋とタケミナカは後から乗せられたものであり、本質は縄文時代からの「ミジャグジ神」にあるのではないか、ということでした。
その「ミジャグチ神」について、戸矢学氏は日本の地形をヒントにしています。
オレンジ色の部分が「フォッサマグナ」です。
基底の地盤が、その東西の地盤に比較して6000m近くも低い大地溝帯です。
東西に巨大な断層があるわけです。その上に後から堆積して関東平野になり関東山地は火山活動でできたようです。
このフォッサマグナの西側の端を南北に走るのが紺色の「糸魚川静岡構造線」です。
一方、日本列島を東西に走る赤い線が「中央構造線」です。
そして、糸魚川静岡構造線と中央構造線がちょうど「諏訪湖」で交差しています。
日本列島を形づくる大きな構造線が2本あり、その2本が交わっているということは、
そこは、古代において激しい地殻変動があったということです。
そこで、『ミシャグジとは濁音のないヤマト言葉とすれば、「ミサクチ」であろう。
とすれば、「境目」「裂け目」を畏怖して祀ったのが始まりではないか。
諏訪の神とは「地震の神」であろう。
それは、かつて大地が裂けて未曾有の大災害をもたらした時に、あまりにも多くの生命が失われた記憶に起因しているのだ。
日本の真ん中を横断するこの巨大な裂け目は、定期的に「血」や「贄」を捧げて鎮魂慰霊しなければ、ふたたび大きな口を開けて人々を呑み込むのではないか。
諏訪人たちはそう怖れて、繰り返し祀り祈ってきたのではないか。
それが諏訪信仰の本質であり真相ではないだろうか。』
(~戸矢学著 河出書房新社刊『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』より~)
かつては、人間を生け贄として捧げ、それが禁止されたので、代用として立てられたのが
「御柱」ではないかということです。これで辻褄が合ってきます。
別の人は諏訪湖について次のように言っています。
『北極老人曰く、「諏訪湖の霊的な働きは、龍神を生み出すこと」なのだと。
日本の神社に棲む龍の多くは、諏訪湖で生まれているのです。』(~羽賀ヒカル著 SBクリエイティブ刊『龍の神様と出会うたったひとつの方法』 より~)
ある龍はやはり信州で生まれたと言ってましたが、龍の生産地なのかもしれません。
諏訪の北には戸隠神社の奥社があり、そこには龍神界の超大物、「九頭龍大神」がいます。
戸隠の九頭龍大神と諏訪湖は関係があるのかもしれませんね。
Facebook清水 友邦さん投稿記事「東北夏祭り」
先住民の社会では危機に陥ったとき祭りをおこないます。火を焚きそのまわりで歌い踊って、エネルギーを発散させます。
祭という儀礼をおこなうことで不安や怒りを解消して、心身の危機を克服します。
祭にはストレスから身を守り、元気を回復する変容と統合とよばれる機能が、そなわっています。
ニーチェは近代合理主義をアポロン的と呼び、人間本来の生命力の豊かさや力強さを回復させるにはディオニュソス的な熱狂・興奮が必要なことを語っています。
人間は地(ガイア)へと帰すべき物質の身体と神の子ディオニュソスの神性を持っています。
ディオニュソスの狂乱は理性的な自我の壁を取り払うことで恍惚となり肉体から魂が解放され生命の根源である神と出会うことにありました。
ディオニュソスの密儀では酒と音楽と踊りによって恍惚となる死と再生の儀式を行っていました。
ディオニュソスの象徴は生を無条件に肯定して楽しむことでした。
そして、その歓びは苦しみと分ちがたく結びついていました。
死の恐怖と痛みに向き合わなければ再生は起きません。
この上ない至福や喜び、崇高な魂の世界は死の運命を受け入れ恐怖や苦悩を超えるところにありました。
現代人はピラミッド社会の底辺で機械人間にされ、神聖なものと繋がりが断たれて生命力を消耗しています。
自分が誰であるかすっかり忘れてしまっています。
祭りが本来の野生の姿を取り戻したとき、大地から上昇するエネルギーが魂を甦らせるでしょう。残念ですが今年の夏祭りは中止になりました。
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