Facebook竹元 久了さん投稿記事 🔵大自然の気の流れ
気はエネルギーの流れで人体ばかりでなく大自然の中にも流れている。その気の流れを地理風水として科学的に分析した記事がありました。
生命現象と気
生命現象を科学すると、幼児は体内細胞のテラヘルツ波動が旺盛で、凝縮しています。老いていくと波動は衰え拡散していきます。老人は幼児と触れることでテラヘルツ波動と共鳴・共振でき、気が凝縮され、健康となります。
気とは、周波数がテラ=1秒間に1兆回の周波数、波動エネルギーを出しているというのがテラヘルツということです。
♦テラヘルツは故東北大学名葉教授 西嶋潤一先生が世界で初めて発見された。
また、私たち命あるものからも放射されており、大人より赤ちゃん、病人より健康な人からより多く放射されていると言われてい。
また自然界の樹木・植物等からも放射されています。修験者が山で修行する目的は、山の精(気)であるテラヘルツ波動と共鳴・共振させ、体内の気を凝縮している作法と思われます。実に科学的な修行です。
万物を巡るエネルギーである「気」が人間の体内をも流れており、「病気」とはその流れが阻害され身体のバランスが崩れた状態であると考える。
第5章 自然科学 地理風水の応用
風水の歴史ははっきりしないが、2000年以上前からあったというのは確かのようだ、清の時代、風水に関する書籍が残されている。山水の形勢から、その土地を判断する方法で、山に囲まれ、水に包まれた地は、大地の生気が旺盛である。また羅経(羅針盤)が発見されてから、地磁気との関係をもたらす自然地形を解析し、より科学的な地理形態により、地勢を判断する原理が確立され現在に至っている。
それは自然科学の地質、地形から十分に読みとることができる。また自然からの影響として、地磁気が重視されているが、これは測定器で地電流、マイナスイオン数値そして磁針の強弱から大地を探れば、地理風水が目指してきたものを、科学的に解析することが可能でないかと思っている。まだ初歩段階で独創的な面はありますが、少しでも地理風水の原理に近づければ思い、自然科学調査を行っている。
(略)
地理風水を現代流に説明すると、自然環境(山並みや水の流れなど)がつくり出すその土地の「地磁気、地電流、磁場、マイナスイオンそして放射線」といえる。これは、その状態にあった、都市や寺院、仏閣そして墓などをつくることにも応用されてきた。地理風水はそれを土地の良い、悪いを見分けるだけの学問ではなく、悪い土地をより良くし、良い土地をさらに良くするという還流設定の学問でもある。
地球史からみても、人間、動物達は地球がつくり出す、磁場の中で生きてきた。DNA(遺伝情報)、細胞もその磁場の中で育まれ進化してきた。NS極に流れる磁場という地球環境に生命体は適応してきた。
また地球上には、地質や地形などの影響で地磁場が乱れている場所がたくさんある。それはマイナスイオンにも乱れが生じることが分かっている。確かに毎日マイナスイオンを測定しているが、日によって測定値に大きな波動が発生する場合と場所が存在する。このマイナスイオンが生物の健康や天候そして地震活動等と深く関わっていることが分かってきている。こうした地磁気の乱れ、空中のマイナスイオンの乱れた場所は「気場」でいえば、邪気が高まっているところといえる。人間達の気を乱して心身の調子を悪化させるという。気の本から一部抜粋
風水で科学すると、宇宙の生命現象には磁場の波動に感応するパターンがあり、例えば雪は大気中で波動を受けて、様々な結晶現象がつくられる。砂鉄に、音楽を流すと共鳴したデザインを描く等、人も瞑想する事で結晶や渦巻き(マンダラ)を得ることができるらしい。更に人の健康状態は全体として完全性を意味し、均衡状態が秩序として保持した状態であるという。近い将来、人の健康状態を波動波形から心理診察する時がくるのではないでしょうか?。
その地球磁力はキリストが生誕した頃がピーク、現在の約1.5倍の強さをもっていたが、年々、弱くなっている。最も高い場所は、キリストとマホメットの聖地メッカです。断層湖、死海は大地震で崩壊した記録がある。仏陀が悟りを開いた聖地は、インド亜大陸移動で、ヒマラヤ山脈を押し上げるプレートの境界で、マントルから電導する磁場が最も高い場所です。日本でも中央構造線をはじめ大きな断層線上に神社、寺院があります。諏訪湖は断層湖(湖で温泉が噴出)近くに諏訪神社、永平寺、延暦寺、身延山寺、伊勢神宮等。山の斜面に建立されているのは片方の地盤が隆起し、斜面は崩れ安定し、断層線は斜面中程になるためか?未だ定かではない。なお古墳群や名城も線上にあります。
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
『天の叢雲剣・スサノオ』
忘れまいぞ 忘れまいぞ 喪われたものたちを あの嘆き あの苦しみを
傷を負い、朽ちるは、アメノムラクモノノツルギ 喪われたものたちの あの嘆き
あの苦しみに耐えかねて 鬼とは、異様異体のものになく 荒ぶる魂のことなれば
鬼とは、わがことなり。
悲しみを刻む剣なればこそ、やすらかなる世の礎にならんと、天へと奉る。
憎しみの連鎖を断ち切り 心の闇を斬り 鎮魂の祈願を込めた 神剣とならん
https://ameblo.jp/08780873/entry-12702363056.html 【【埼玉県・さいたま市】武蔵一宮氷川神社 ~2020年のお礼参り part2 (完)】より
2020年12月14日参拝。お礼参りに訪れた、武蔵一宮氷川神社神社のつづきです
【御祭神】須佐之男命 稲田姫命 大己貴命
今回の記事は、戸矢学氏の『スサノヲの正体 ~ヤマトに祟る荒ぶる神~』
のブックレビューのような記事です
【スサノオの罪=天津罪】
『古事記』の、スサノオが高天原のアマテラスに会いに行くシーンにこうあります。
「山川ことごとく動み、国土みな震りき。」
この一行により、スサノオは【荒ぶる神】と呼ばれることになりました。
アマテラスに、武装して警戒させるほどの脅威を与え、高天原の神々をも恐れさせました。
これはヤマトにとっての脅威を意味します。
しかし、なぜか両者は武力で衝突するのではなく、『誓約(うけい)』 を行います。
勝ったスサノオは高天原で乱行をはたらき、その結果与えられたのは【高天原追放】という比較的軽い罰でした
スサノオが高天原で犯した罪=農耕を妨害した罪=天津罪です。
【大祓詞】にある、『天津罪』=弥生人・稲作民族の原罪。『国津罪』=縄文人・狩猟民族の原罪。これらの罪を犯す者はヤマト民族ではなく、原罪を祓い清めることによってヤマト国家は成立したのです。
つまり、スサノオは【非日本的】であると示唆しています。
スサノオは、髭と爪を切った上で地上へと追放されました。
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(「ナジル人・スサノオ」を連想します
https://ameblo.jp/ranyokohama/entry-11911223561.html 【エデンの園の中央に植えられた禁断の木の実はリンゴ?いいえ葡萄】高天原はエデンの園 かもしれません
https://plaza.rakuten.co.jp/yfuse/diary/201506040000/ 【シュメル語の「エディン」は「エデンの園」となり、「葦原中国」となった】 より
大国主(オオナムヂ)に相当するドゥムジがどこで暮らしていたかについても言及しておきましょう。
ドゥムジは「エディン」に暮らしていたんです。「えっ、エディン!? エデンのこと?」って思いますよね。
実はそうなんです。『旧約聖書』の創世記に出てくる「エデンの園」のエデンは、シュメル語のエディンから来ているのではないかとする説が有力なんですね。
ただしシュメル語でエディンは空き地、草原、原っぱという意味です。またシュメル語でアンエディンナと言えば、「エディンの空」ということになり、すなわち広大な草原のように広がる大空という意味になるそうです。つまり「天の原」ですね。
天の原は広々とした大空がある場所でもあります。
そうすると、記紀神話に出てくる高天原とは、アンエディンナのことで、葦原中国はエディンのことであったかもしれませんね。記紀神話を読めば分かるように、高天原と葦原中国は非常に近い関係にあります。空には高天原、地上には葦原中国。ドゥムジがエディンにいたということは、オオナムヂが葦原中国にいたことと見事に呼応します。
オオナムヂとドゥムジの類似点はまだほかにもあります。
オオナムヂが幽界に引退(死去)したとき、約束通りに壮大な神殿(出雲大社)が建造され、豪華な食事を献上する火鑚(ひきり)の儀式が行われます。それと同じように冥界の連れ去られた(死去した)ドゥムジのために、毎年祭儀が行われるようになります。それがユダヤ暦にも残った「タンムズの月」ですね。同様に出雲大社では、一年に一度の「神在月」(陰暦の10月)に神在祭が開かれます。
このようにシュメル神話は間違いなくギリシャ神話に引き継がれ、その後日本の神話にも継承されたことがわかります。
まさにシュメル神話のドゥムジは、訛ってタンムズ(ヘブライ語、アラム語)となり、古代ギリシャではアドニスと呼ばれ、古代日本でオオナムヂとなって語り継がれたわけです。
(続く)
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これは魔力を封じる呪術で、このような罰則は後にも先にも全く見られません。文字通りの【天罰】です。
『誓約』で、なぜスサノオが勝ってアマテラスが負けたのか…。
アマテラスが勝ってしまうと、スサノオの「高天原への罪」を明示出来ないからです。
これが、ヤマト朝廷の第一の政策でした。ご本殿右手の神輿舎。【スサノオを氏神とする氏族】
高天原から追放された後、スサノオは「出雲神話」で英雄となりますが、スサノオ→オオクニヌシのリレーで語られる「出雲神話」は、『出雲國風土記』には書かれていません。
つまり、「出雲神話」は、スサノオに原罪を背負わせたヤマト朝廷によって加筆されたものなのではないでしょうか。
「出雲大社」の古名は、『天日隅宮』。アマテラスの威光から最も遠いところにある宮という意味です。
ヤマトがイズモを制圧する前提があり、アマテラスを中心とする天神に屈することで、スサノオは悪神から善神へと変身する、という編集方針だったのです。
スサノオの乱暴→岩戸隠れ→出雲建国→ヤマト朝廷への国譲りという流れです。
スサノオは、神話中には他の神とは比較にならないほど多彩な逸話があるのに、子孫や氏子が伝承する由来や縁起が全く存在しません。
つまり、どの氏族の氏神ともされていないのです。
「素鵞(すが・そが)神社」は、由緒ある古社でありながら式内社になっていないという冷遇を受けています。
「延喜式神名帳」選定は中臣氏。意に添わない神社は除外したのだと思われます。
中央からは冷遇されましたが、出雲では尊重された「素鵞神社」。素鵞(そが)=蘇我です。
蘇我氏の本来の氏神はスサノオなのです。素鵞(そが)→素盞(すさ)としたのは、言い換えによって、正体・系譜を隠そうとしたのだろうと推測出来ます。
【出雲神話は誰のため?】
「出雲大社」はオオクニヌシを鎮魂するために建てられ、それを監視しているかのように背後から見守る境内社の『素鵞社』は、怨霊化を封印する意味がありました。
オオクニヌシが多くの別名を持ち、実体が定まらない理由は、ヤマト朝廷によって創り出された、国津神(地祇)の象徴であり、スサノオの末裔たちの集合体であるから、かも知れません。
ヤマタノオロチは元々の出雲の主であり、天孫の手を汚さずに、スサノオに平定の役割を与えたのです。
スサノオが渡来の神であることへの、ヤマト政権の意思表示とも言えます。
出雲神話は出雲の神話ではありません。
『日本書紀』=ヤマト朝廷により、ヤマトのために書かれた。
『出雲國風土記』=出雲国造により、出雲族のために書かれた。
そして…『古事記』=誰かが、出雲族のものであるかのように装って、出雲のために書かれた。それをヤマトが追認・黙認したのかも知れません。鎮魂・慰霊する必要があったからです。『古事記』は本来、黙読するものではなく音読朗唱するもので、祝詞と同じ意味合いがあったのです。
【天叢雲剣が示すもの】
スサノオがヤマタノオロチを退治し、その体内にあった【天叢雲剣】をアマテラスに献上します。出雲は鉄の産地であり、優れた製鉄技術、鍛造技術をも生み出しました。
【天叢雲剣】は、その部族によって祀られていた宝剣・神剣だったのかも知れません。
つまり、ヤマタノオロチ退治は、スサノオが製鉄技術をこの地に伝えたという暗喩の可能性があります。
辺境の地を開拓し、独自の王国を建設した渡来のスサノオが、製鉄文化をもたらしたのかも知れないのです。ですが、その由来を謎めかす必要がありました。
高天原では追放されるほどの悪役だったのに、出雲では庶民の味方の英雄に変身を遂げたスサノオ。これにはどんな意図があったのでしょう?
スサノオの犯した「天つ罪」を出雲族の罪にすり替えて、『大祓詞』によりイズモを断罪しています。
まつろわぬ民の代表的存在がイズモなのです。
断罪した出雲の建国を、追放したスサノオに担わせることにより、従属関係を明確にしたのです。そして、宝剣をアマテラスに献上。これこそが目的の変身でした。
髭と爪を切られた=身削ぎ=禊。 宝剣の献上=払い=祓い。
禊祓の完成です乙女のトキメキ乙女のトキメキ乙女のトキメキ
【蘇我氏のための『古事記』】
古事記の主役はスサノオで、スサノオ=蘇我の祖神。
つまり、『古事記』は蘇我氏のために書かれたものなのではないでしょうか。
『日本書紀』には一書がたくさん存在しますが、『古事記』もそのうちの1つであり、蘇我氏の家伝のようなものなのかも知れません。
オオクニヌシの母は、2度もオオクニヌシを蘇生させていますが、医療ではなく呪術によるものです。
オオクニヌシ自身も闘わずして勝利し、勇猛な逸話がないのもこのためで、呪術や祭祀を本領としていたのでしょう。
古代出雲は、武力ではなく信仰による宗教国家だったのに、不比等がそのような「宗教的記述」をすべて削除させたのではないか、と推測されます。
【スサノオの王国】
「富士山本宮浅間大社」のある富士宮市は、大都市ではありません。
社会的にも経済的にも特別発展せず、どこまでも信仰の町です。
出雲も三輪もそうであるように、古代から信仰の拠点は、決して大都市にはならないのです。
富士宮で国家祭祀を行っていたのなら、『国』はどこか別の場所にあったはずです。
それが、日本の宗教と政治・経済の基本構造です。
「氷川神社」は、富士山、筑波山、浅間山、冬至の日の出の交点に位置します。
つまり、ここが古代の国の中心で、初代の王・建国の父が祀られていると考えられるのです。
ヤマト朝廷は、東国を支配統治するために氷川神社の威光を利用しましたが、それは「信仰」の力によるものだけではありません。
「見沼」一帯は、肥沃で交通の便もよく、大変繁栄していたのです。
信仰&経済の力です。
【四方拝のこと】
(略)
【最大の火山にふさわしい神】
「氷川神社」は、スサノオを御祭神として祀る神社では最多です。
※1位は「八坂神社」ですが、特殊(牛頭天王)なので除外。しかも、全国区ではなく武蔵国のみに集中しています。
他のスサノオを祀る神社にも偏りがあります。「須賀神社」=福岡県に集中。
「須佐之男神社」=愛知県に集中。
これは、同一の神ではなく、複数の神格を融合した複合神だからなのかも知れません。
スサノオは、ある偉大な王の神格化であるとともに、その子・王子たちの神格化をも合体したものである、ということです。
父は武蔵の、王子たちは筑紫や尾張の統治者となったのです。
前述した「氷川神社」の位置を見ると、天文地理風水にきわめて詳しい専門家が建国したと思われます。
「氷川神社」から冬至の日の出に向かう直線上に、「中山神社(簸王子社)」と「氷川女體神社」が並んでいます。
「氷川女體神社」は、氷川神の妃の墳墓と見られる広大な見沼を見渡す丘の上に鎮座しています。
それでは、氷川神の墳墓はどこにあるのでしょう?
古代中国の歴史書『史記』には、徐福の一団の消息について、「徐福は、平原広沢を得て彼の地にとどまり、みずから王となって戻らなかった。」とあります。
この【平原広沢】は、関東平野と見沼のことではないか、つまり、スサノオは、天文地理風水に詳しい「方士」であった徐福に比定されているのです。
辺境の地・出雲を開拓し、製鉄文化をもたらした後、息子イソタケルに後事を託し、再び船で伝説の蓬莱山(富士山)を目指したのです
徐福の墓所の選定は、「陰宅風水」によるものです。道教のことは全然知らないし、詳しくなろうとも思いませんが、家康の遺骸を1度久能山(久能山東照宮)に埋葬し、その後日光(日光東照宮)に改葬したのが「陰宅風水」だそうです 同じように、徐福は1度筑波山に埋葬され、それから富士山に改葬されたのかも知れません。
だとすると…富士大神=徐福=スサノオ。日本最大の火山にふさわしい神=荒ぶる神スサノオ。ということになります。
東門。摂社・門客人神社。【御祭神】足摩乳命 手摩乳命
元々はこの地の土着の神・アラハバキ神を祀る神社でした。
「客人神」とは、ヤマト政権が征服の過程で統合吸収した土着神に付けられる名称です。
「客人」扱いすることで、貶めることなく、しかし主体はヤマトだと告知する表現なのです。
さらに氷川神社では、「門客人」=門番の神という位置付けにして、主従関係を明らかにしています。
その後、埼玉地域を中心に「氷川神社」が分祀勧請される際、「門客人神社」もセットで勧請されるようになりました。
この日この後に参拝した「大谷場氷川神社」にも、境内に門客人神社がありました。
アラハバキ=「縄文の神」です。
他にも消された神はあったはずなのに、スサノオがこの土着神に着目した理由は何だったのか。
アラハバキを選んだのは神格がスサノオに通じるから。つまり、「鉄」由来ではないでしょうか。
【簸王子社のこと】
氷川神社は、中世には4社でした。男体社=岩井家 女体社=角井家 簸王子社=内倉家
門客人社=出水家
まず出水家が禁制を犯して追放され、次いで岩井家・内倉家の子孫が絶え、角井家が全ての祭主となって現代に至ります。
簸王子社=内倉家は、「簸王子社」が本社であると主張して繰り返し提訴していたが、病死したのです。
簸王子社=火王子社です。
「簸川」由来ではなく、火に縁のある神社炎なのです。
以前、「中山神社」の記事 にも書きましたが、中山神社=簸王子社の中心祭祀は【鎮火祭】であり、境内に【御火塚】を祀っています。
摂社・荒脛神社も、元々はカグツチを祀っていました。
東北の荒脛神社では、製鉄の神・カナヤマヒコを祀っているところもあります。
(略)
徐福については、なんだかしっくり来なくて今まで避けて来ましたが、最初にコノハナサクヤヒメを好きになり、いつからかスサノオもすごく気になって、今では2神とも我が家の神棚にいらっしゃいます
コノハナサクヤヒメさまがお仕えする富士大神=スサノオだとしたら、妙に納得せざるを得ません
だとしたら、ダンナさんのニニギは??やはり、天孫と国津神の娘との政略結婚ということなのですよね…
【参考文献】
●スサノヲの正体: ヤマトに祟る荒ぶる神 戸矢学 河出書房新社
https://www.homemate-research-religious-building.com/useful/shrine_buddha/jinja/jinja04/【仏閣神社に祀られている神様「第四回・ヤマタノオロチを退治スサノオ】より抜粋
荒神から英雄へ
まずスサノオは、クシナダヒメの姿を櫛に変え、自分の髪に挿すことに。そして、アシナヅチとテナヅチには8つの門を建てることと、強い酒を用意することを指示しました。スサノオは、その酒を8つの酒桶に入れ8つの門にそれぞれ配置し、ヤマタノオロチを待ち構えたのです。
スサノオの計画通り、やって来たヤマタノオロチは用意された酒を飲み干しすっかり酔っ払って寝てしまい、その隙に十拳剣(とつかのつるぎ)でヤマタノオロチを成敗することに成功。退治したヤマタノオロチの中からは剣が出てきたため、スサノオはこの剣をアマテラスへと献上しました。これはのちに「草那芸之大刀(くさなぎのたち)と呼ばれ、受け継がれていくことになります。
荒神から英雄へ
無事ヤマタノオロチを倒しクシナダヒメを守ったスサノオは、約束通りクシナダヒメと結婚をして出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地に宮処を定めました。さらに、スサノオはその地で「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(出雲には雲が盛んに湧き上がり、幾重もの垣を築くように八雲が立ちます。自分の妻を籠らせるために私は宮殿に何重もの垣を作ったが、ちょうどその八重垣を巡らしたようです)」という、日本初の和歌とされる歌を詠みます。
一時は乱暴な神として土地から追放されたこともあったスサノオですが、出雲の国に降りてからは心を入れ替えて幸せに暮らしたと伝えられています。
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