https://iippe-tochigi.com/archives/526 【宇都宮二荒山神社のオタリヤ】より
猿田彦を先頭に宇都宮二荒山神社に還御する。長い行列、神輿の巡業の様子が名物の神事
オタリヤは、1月15日と12月15日の年に2回行われる宇都宮二荒山神社の神事である。このうち1月は「春渡祭」、12月は「冬渡祭」と書き、どちらもオタリヤと呼ぶ。宇都宮を代表する祭りの一つで、一年の始まり(春渡祭)と終わり(冬渡祭)を告げるものとして知られている。
春渡祭、冬渡祭ともに行事の内容はほぼ同じで、神輿(みこし)の渡御(とぎょ)が中心となる。一説によると宇都宮二荒山神社の御祭神を下之宮(しものみや)がある荒尾崎から、現在の臼が峰に遷座したことが起源と言われ、弘化4年(1847)の「日光山大明神祭礼絵巻」には、宮島町の大提灯を先頭に猿田彦、御鉾、神馬、田楽舞、楽人、神楽巫、神楽人、社家人の行列に続いて、神輿が巡行している場面が描かれている。
日光山大明神祭礼絵巻(部分)。宇都宮の祭礼を描いた絵巻(個人蔵)。(※クリックで拡大します)
神輿が町中を巡業する神聖な一日
さらにその後方には日野町、池上町、鉄砲町など氏子町の名前が書かれた提灯(ちょうちん)が林立し、大勢の鉢巻きに褌(ふんどし)一丁の人々が見える。裸参りも行われていたようだ。絵巻には300を下らない人が描かれ、規模の大きな渡御であったことがわかる。
当時、神輿は夜の10時頃に裏門から出御し、御旅所(おたびしょ)で神事を行ってから市中を巡り、深夜の12時頃に表参道の階段を上って還御(かんぎょ)した。神社下では露天商や見世物小屋が店を構え、宇都宮近郷はもちろん、遠くは茨城や福島からも人々が集まり、神輿の還りを見守った。また、この日は風呂をたててはいけない、針仕事をしてはいけないなどの禁忌もあり、神聖な日とされた。
下之宮に安置された神輿。下之宮が再建された後は、御旅所ではなく、下之宮を通るルートにあらためられた。
中世を感じさせる優雅な芸能も見もの
今日、神輿は夕方の5時半頃に出御する。表参道の階段を下って下之宮に向かい、そこで神事を行ってから市中を巡る。往事の賑わいを見ることはできないが、太鼓の音が響くなか、天狗面を付けた猿田彦を先頭に神職や氏子に担がれた神輿が大通りを練り歩く様子は荘厳である。
下之宮では、神事に合わせて田楽舞が奉納される。田楽舞は五穀豊穣を祈念する舞で、平安時代から続く貴重な芸能である。宇都宮二荒山神社の御神領であった堀米地区の6軒の農家が舞を継承し、その大役を担ってきた。草履にたっつけ袴、頭に赤い布を垂らした丸笠を被った舞人が、ゆったりとした笛やササラの調べにあわせて踊る姿は優雅であり、中世の息吹を感じさせる。
市内を巡行する神輿。
五穀豊穣を祈念する田楽舞。
無病息災を祈ってお焚きあげを
オタリヤはお焚きあげの日としても知られている。神社に参拝に来た人々は、春渡祭は正月の注連(しめ)飾り、冬渡祭には古くなったお札や縁起物などを持ち寄り、無病息災の願いを込めて火中に入れた。このお焚きあげの火にあたると風邪をひかないという。
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🔵【カタカムナの謎】謎の古文書と超古代テクノロジー!
兵庫県六甲山中に、かつて超古代文明が存在していた。その名をカタカムナという。六甲山中にある金鳥山。楢崎皐月はこの山で平十字(ひらとうじ)と出会い、カタカムナ文明の残滓に触れた。ことのはじまりは昭和24年(1949)。楢崎皐月という電気技術者が、現在の神戸市東灘区にある金鳥山に入った。目的は植物の生育状態と大地を流れる電気の関係を調べること。地元の人から「金鳥山には蘆屋道満の墓ともいわれる狐塚という穴があるから、行ってみるといい」と勧められた楢崎は、この穴をベースに、山中に計測装置を置いて調査を開始する。
すると何日かすぎた夜、突然、その穴に鉄砲を手にしたひとりの猟師が訪れてきた。「変な仕掛けをされて、キツネたちが迷惑しているから取り外してくれ」猟師は怖い顔をしてそういった。翌日、楢崎が計測装置を外すと再び猟師がやってきて、自分はヒラトウジ(平十字)だと名乗った。楢崎が素直にいうことを聞いたので気をよくしたのか、猟師は父親が宮司をしていた「カタカムナ神社」のご神体だという、謎の古代文字が書かれた巻物を取りだし、楢崎に見せたのである。たしかに巻物には、渦巻きのような模様がたくさん書かれていた。それを見た瞬間、楢崎の頭にはある言葉が甦ってきた。
「八鏡化美津文字」それは第2次世界大戦中のことだった。楢崎は製鉄技術者として中国北東部の満州吉林にいた。ここには娘娘廟という道教寺院があり、楢崎はそこの老師から筆談で、八鏡化美津文字という古代の叡智を伝える文字の存在を聞かされていたのである。
●八鏡を見ただけで理を知るアシアの謎
「『噫示八(アィシーパー)』人、ただただ八鏡を観ず。やすやすと万理を弁ず。『八鏡化美津文字』で、理ことわりを弁じ・利便を生じ・名第を利し、命題を明らかにす」老師は楢崎に、そう伝えた。「アィシーパー」人は「八鏡」を見てすべての理を知り、「八鏡化美津文字」ですべての理を明らかにする、というのである。しかも老師は、「アィシーパー」人はかつて日本列島で暮らす古代人だったと説明した。楢崎には、「アィシーパー」が「アーシーヤー」=「アシヤ」と聞こえていたという。平十字の巻物を見た楢崎は、まさにこれが「八鏡化美津文字」ではないかと直観したのだ。
しかも平十字は、カタカムナの神を祀ったのはアシア族であり、その頭領はトウアンであると語った。アシアトウアンは遠い昔、天皇家を中心とした「天孫族」と戦って敗北したというのだ。
これらの一致は、とても偶然とは思えない。老師がいう世界の理を知る古代人とは、おそらくアシア族の叡智のことだろう。巻物の文字は、「カタカムナ図象文字」という。基本はどれも丸と十字(○と+)の組み合わせで、丸のふちには最大で8つの小円が並ぶ。楢崎は、これはきわめて抽象的・合理的な図象であり、理を弁ずるに最適な文字だと悟った。そこで平十字に、巻物を写しとらせてもらえないかと頼み、快諾されたのだ。これが『カタカムナ文献』である。
書き写した「ウタ」は80首。すべて渦巻き状に記されており、中央から外側に向かって読んでいくものと思われた。解読は苦難をきわめたが、楢崎はついに解読に成功。最初は次のような「ウタ」で始まっていた。
「カタカムナヒビキ マノスベシ アシアトウアン ウツシマツル カタカムナウタヒ」素直に読めば、アシアトウアンがカタカムナのウタヒを写しとった、となる。「カタカムナのウタヒ」とは何か? ひとことでいうならばそれは、今日でいう自然農法やフリーエネルギーの技術であり、エコロジー思想にも通じる万能の科学理論だったという。
●カタカムナ文明のすぐれた4つの技術
では、カタカムナ文明とは具体的に、どのようなものだったのだろうか。正直なところ、よくわかっていない。楢崎自身、解読したとはいうものの、難解な注釈をつけるだけで、内容についての解説はほとんどしていないからだ。だが楢崎は、『カタカムナ文献』をベースにしたと思われる著作『カムナガラノミチ』を残している。そこには、古代カタカムナ文明に通じる叡智の一端らしきものが紹介されているので、それを元に推測してみよう。
カタカムナ文字。渦巻き状に書かれた「ウタ」は80首あり、そのすべてが楢崎皐月により解読された。『カムナガラノミチ』では、以下の代表的な生産技法が取りあげられている。
1:イハカムナ(岩理)
2:タガラモリミチ(農業技法)
3:キメカムナ(木理)
4:カムヒルメ(製鉄法)
1のイハカムナ(岩理)は石の細工技術である。2は農業の技術であり、3は木工建築、4 は製鉄と冶や金きんの技術だ。ここから見るとカタカムナ人は、すぐれた石工の技術、農業技術、そして建築技法と製鉄技術を持っていたと推測できる。問題は年代で、「天孫族」と戦ったのが事実なら、少なくとも2000年近く昔ということになる。その時代に4つの技術を手にしていたグループがいたとすれば、まさに超古代文明と呼んで差し支えないだろう。とくに石工の技術で気になるのが、六甲山中に残されている古代遺跡と思しき巨石群だ。祭祀遺跡とされるこれらの巨石だが、もしかすると祭祀とは違う目的でそこに置かれ、使われていた可能性もある。一例を挙げるなら、巨石による大地のエネルギーの制御であり、あるいはエネルギーネットワークの構築である。また、六甲山中には大きな石の祠=石の宝殿が見られるし、同じ兵庫県高砂市の生石神社には、やはり「石の宝殿」と呼ばれるあたかも水面に浮かんでいるような巨石が切り出しの途中で放置されている。これらもまた、カタカムナ文明の残滓と見ることができるのではないだろうか。
ちなみに金鳥山の隣には、高級住宅地として有名な「芦屋」があり、陰陽師・安倍晴明のライバルとされる「蘆屋道満」の根拠地でもあった。奇妙なことにこの地域は、なぜか古代から呪術のメッカとされてきた。多くの陰陽師が播磨で呪術を学んだのである。そのルーツもまた、カタカムナの叡智につながる可能性は高い。
匿名
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