星の町仙台

https://www.touken-world.jp/edo-domain100/sendai/ 【仙台藩(せんだいはん)[宮城県] - 】より

260年続いた江戸時代において、約300近くの藩が全国各地に存在していました。

ここでは、主な江戸100藩のひとつである北海道・東北地方の「仙台藩」(せんだいはん)[宮城県]について、石高や居城、藩主といった藩の概要や歴史、治世などのエピソードを交えて解説します。

(略)

戊辰戦争で新政府軍を恐怖に陥れた鴉組

仙台藩が輩出した、後世に広く知られた人物と言えば、「独眼竜」との異名を持つ藩祖・伊達政宗。

伊達家17代当主として、「佐竹氏」(さたけし)や「蘆名氏」(あしなし)などとの勢力争いに打ち勝ち、豊臣秀吉や徳川家康と渡り合った姿は、まさしく奥州(おうしゅう:現在の福島県、宮城県、秋田県北東部、青森県、岩手県)の覇者でした。

その見識は広く、当時世界の最先端を走っていたスペインなどとも積極的に交流し、領内の金山開発などに活かしたことなどからも、優秀な領主であったことは言うまでもありません。

1600年(慶長5年)に、それまでの居城だった岩出山(いわでやま:現在の宮城県大崎市)から仙台に城を築き、14代にわたって仙台を治めました。仙台の開発には、述べ100万人が動員されたと伝えられています。表向きの石高は、仙台以外にも近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の1万石、常陸国(ひたちのくに:現在の茨城県)の1万石を加えて62万石ありましたが、実質の石高は100万石を超えていたのです。

仙台城大手門脇櫓

仙台藩では、それまで手付かずであった北上川(きたかみがわ)流域などの低湿地帯において、葛西氏(かさいし)や大崎氏(おおさきし)の遺臣達を積極的に召し抱え、40万石以上の新田開発を行ないました。さらに領内には金山もあったことから、江戸の人々からは、財政的には何の問題もない藩だと、細川家や上杉家と並んで評されていましたが、その内実は、違った物だったのです。

伊達家の家臣団は、陪臣まで含めると2万4,000人ほどになり、彼らへの扶持米などで60万石が必要で、藩の収入としての残りは40万石ほど。そのうちの約半分を江戸などへ輸出して利潤を得ていましたが、江戸時代中期以降に発生した飢饉や、幕府から命ぜられるお手伝い普請、さらには異国船から北海道を守るための警護などで、藩の借金は、一時期100万両まで膨らんだのです。

「町人孝見録」(ちょうにんこうけんろく)によれば、江戸で仙台藩の蔵元を務めていた商人「阿形宗珍」(あがたそうちん)が、仙台藩の抱えた借金を肩代わりしていたことから破産。これを申し訳ないと思った仙台藩が、宗珍を500石の藩士として召し抱えていたというようなことも起きています。

仙台藩は、財政状態が苦しいまま幕末を迎えることになり、多くの藩士を抱えていたものの、軍制改革にはほとんど手が付けられていませんでした。幕末になって甲冑(鎧兜)や日本刀が時代遅れとなり、銃や大砲が戦闘の主流となっていたのにもかかわらず、その変化に追い付くことができなかったのです。その背景には、仙台藩では武士においても厳しい身分制度があり、「銃を扱うのは下位の足軽などがすること。武士のすることではない」といった意識が、根強くあったためと考えられています。

幕末の仙台藩は、「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)の盟主でしたが、戦闘において旧態依然としていた藩兵は、まったく役に立ちませんでした。

戊辰戦争において唯一名が知られていたのは、50石で召し抱えられていた軽輩の士「細谷直英」(ほそやなおひで)が率いた「鴉組」(からすぐみ)です。鴉組は、博徒(ばくと:ばくち打ち)や猟師など、武士の身分ではない者達で構成されていました。黒装束をまとった彼らによる奇襲攻撃は、猟師による正確無比な射撃、博徒達の命をものともしない突撃など30回以上に及び、新政府軍を恐怖に陥れたと伝えられています。

鴉組は、このように健闘したものの、正規兵の立場にはなかったために評価されることはなく仙台藩は降伏し、明治維新を迎えることになりました。

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