芭蕉の見た天の川

http://www.jplnet.com/hoshikiko/hosi28.html 【芭蕉の見た天の川】より

銀河半天にかかりて星の輝き冴えわたる

 「荒海や佐渡に横たふ天河」1689年松尾芭蕉が出雲崎で詠んだこのあまりにも有名な句は、星空を題材にした数少ない句の一つとして、鮮烈なイメージと共に私達の心にしみわたります。しかし、その内容は星を見るものにとって難解であると、かつて少なからぬ天文学者や、理系の有識者がその解明を試みました。

 実際、芭蕉がこの句を詠んだ8月18日(新暦に換算)頃は天の川が佐渡に近く輝くのは朝方であり、しかも、天の川は佐渡に突き刺すように垂直に見えます。このことから、彼らは、芭蕉は本当は星空を見ていないに違いない、名句は芭蕉の心眼によってイメージされたものだと結論したのです。

 数年前、芭蕉生誕300年という記念の年を迎え、多くの文献が書店を飾る時期がありました。そこで、荒海や~の句と共に、芭蕉が残したとされる序文「銀河の序」に接し。私は、明解な答えを得たのです。

 それによれば、「日が沈んで月がほの暗く輝く頃に、天の川が半天(頭の真上)に輝き、星々がきらきらと冴えわたっていた」と。さらに、波が静かであったことも記されています。わたしは、その日の宵の時間をコンピューターで再現してみました。すると、まさに西の空には沈みかけた3日月が輝き、頭の真上付近には夏の天の川が日本海に平行に横たわっていました。

 他にも銀河の序は語っています。「朝廷に捕らえられ佐渡に流された政治犯のことを思うとかわいそうで腸がちぎれる思いがする--」と。これらの思いが、目の前に立ちはだかる日本海を荒海と表現させたのかもしれません。

 私も実際に出雲崎で向き、その地で佐渡島を望んでみました。佐渡と出雲崎の間にある海がまるで大河のように見えたのは、芭蕉も同じだったかもしれません。それが頭上の天の川に投影され、会うに会われぬ牽牛織女の七夕伝説とだぶったと考えるのは過ぎた詮索でしょうか。

   この句を思い出すとき、星空が人の心に与えた恩恵を感じることができます。人々の精神が周りの自然と融合し、豊かな感性を生み出していた時代に、学ぶことは少なくないようです。

https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20200302-464901.php 【【出雲崎~市振】<荒海や佐渡によこたふ天河><一家に遊女もねたり萩と月>】より

急に荒れ出した海の上を滑るように飛ぶ海鳥。日本海の上空はすっかり雲に覆われ佐渡の島影は見えない=新潟県柏崎市西山町大崎

 象潟の旅を終え「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)は終盤に入る。佐藤勝明和洋女子大教授は、物語の構成を舞楽・能楽の構成形式「序破急」に照らし、日本海沿いをたどり終着へ至る旅程を「急」のパートだという。言葉通り物語は加速する。

 『物語』一気に加速

 松尾芭蕉と河合曽良は、象潟から戻り酒田で7泊した後、1689(元禄2)年6月25日(陽暦8月10日)、いよいよ北陸道の旅に出た。しかし越後路の旅約300キロは、「ほそ道」では出羽と越後の境の鼠ケ関(ねずがせき)を越え越中(実は越後)市振(いちぶり)の関に至った―と、たった一文で終わる。芭蕉もやりすぎと思ったか「この間9日(実際は鼠ケ関―市振間は14日)は暑さと雨で疲れ、病気になり、メモも取らなかった」と記した。

 省略の理由は二ついわれる。一つは物語の速度を増す演出。もう一つは病気、俳諧の機会が少ない、新潟など各地で宿探しに苦労し、柏崎では不快な目に遭ったなど現実的な理由だ。

 ただ、締めの2句を読むと、そんなことはどうでもよくなる。〈文月(ふみづき)や六日も常(つね)の夜(よ)には似ず〉〈荒海(あらうみ)や佐渡(さど)によこたふ天河(あまのがわ)〉。1句目は「七夕を控えた七月六日ともなると、どこかいつもと違う気配である」。有名な2句目は「荒波が立つ海の彼方(かなた)、佐渡島にかけて天の川が横たわっている」の意(佐藤教授訳)。月山での一句と同様、広大無辺な宇宙の広がりを思わせる。

 「荒海や―」の句は、芭蕉が出雲崎に7月4日泊まった際、詩想が生まれた。今の新潟県出雲崎町は、漁港がある人口約4400人の町。記者は、市街地の小さな芭蕉園で、芭蕉像と石碑を見つけた。石碑は、芭蕉が「ほそ道」執筆の前に書いた句文「銀河の序」を刻んだものだ。この句文は、出雲崎宿泊時に見た、佐渡島の浮かぶ日本海と、銀河が浮かぶ夜空の、豊かで同時に寂寞(せきばく)とした情景が描かれ〈あら海や佐渡に横たふあまの川〉の句で締めくくられる。

 当時の新潟は著名な俳人もいない辺境だったろう。だが、辺境の空白でこそ芭蕉は、巨大な自然と、その中の人間の孤独を昇華させた。

 北陸道一の難所

 さて、芭蕉たちは親(おや)不知(しらず)・子(こ)不知(しらず)の難所を越え7月12日、越後・越中間の関がある市振宿(新潟県糸魚川市)に着いた。

 この場面は有名だ。締めの句〈一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月〉。自分と同じ宿に遊女も泊まっているのか。折しも庭の萩には月光が差している、の意(同)―が、艶っぽいからだろう。

 しかし市振を訪れると、記者の印象は一変した。曇り空もあるが、町並みが寂しい。この後、少し戻り北陸道一の難所、親不知を改めて望むと確信した。

 市振の場面で芭蕉が意図したのは艶ではなく、人生の無常、孤独である。伊勢参りへ向かう若い遊女2人が宿に居合わせ、心細いのでと、芭蕉たちに同行を求めるが、芭蕉たちは断る。彼女たちの境遇を考えると哀れだが、しかたない―。日本海の波とみぞれが打ち付ける断崖を前に記者は、この若い遊女たちが、この世の者ではなく思えてきたのだ。苦界を脱しようと旅に出ながら、難所で命を落とした...。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」で冥界を巡ったジョバンニとカンパネルラをふと連想した。日本海の銀河がイメージを導くのか。これも、みちのくの風流の一端だろう。


http://www.on.rim.or.jp/~mhiroshi/saredo/okuno.html 【佐渡に「横たわらぬ」天の川

-奥の細道300年- 斎藤文一(新潟大学)】より

芭蕉の『おくのほそ道』紀行(1689年)から早300年になるという.

毎日のようにここ新潟で,私は佐渡を眺めて暮らしている.そしていつだって,「荒波や佐渡に横たふ天の河」という名句がら逃れることはない.

芭蕉(1644-1694)は,あのアイザック・ニュートンやエドムンド・ハレーとまったく同時代の人である.ニュートン(1642-1727),ハレー(1656-1742)のほうは,よほど長く生きたが,みんなあの17世紀後半の,世界史的にずばらしい諸学興隆の時代を鮮やかに生きたのである.

ハレー彗皇の出現は1682年のことで,芭蕉は江戸深川の草庵時代であった.彗星などという「奇妙」なものは,そのころの元禄文化にとって,もちろん何ほどか意義のあるものでもなかったようだが,銀河に対してあれほどの熟考を寄せた芭蕉であってみれば,ハレー彗星が芭蕉の自我形成に,何らかの働きもなかったのかどうか,同じ天空の中なのに,そういう思いもするのである.

さて,銀河が佐渡の上に横たわることは,事実として,ない.ほんとうは銀河は佐渡に「つき立つ」のである.じつは私はそのことを写真に写そうと思っていたが,うまくいかないのだった.別に「真相はこうだ」などと言うつもりではない.

佐渡はほんとうに大きな島で,海のかなたに,ある時は山ひだもはっきりとあらわにしつつ横たわっているのだし,それが銀河の雄大な光の帯といっしょに写っていたら,さぞや見事なものだろうというほどのことであった.

いつか,そういう気持を天体写真家の沼沢茂美氏に話してみたことがある.氏は答えて,「それはむずかしい.季節や時間を選ばねぱならないし,それに夜の佐渡は暗い.銀河だってそんなに明るいものではない.どうやって街の光を避けるか.」とまあそんなぐあいであった.

さて例の句「荒海や」だが,ご存知のように,新潟県三島郡出雲崎町で所感を得た後,直江津の句会で発表されたと伝えられる.この時,同行した門人曽良の日記(『曽良旅日記』)によれぱ,7月4日(新暦8月18日)「出雲崎に着,宿す.夜中,雨強降」とあるから,おそらく二人は銀河も見なかったはずだ.

ついで5,6,7日とも天気悪く,直江津に泊まった7日などは,「夜中,風雨甚」というありさまだった.

だから同句にいう「天の河」は,芭蕉の心眼に映ったそれであった.もっとも,もし晴夜であって,銀河を眼のあたりにしていたとしたら,あの季節,「佐渡に横たふ」とも言えなかったろうが.

また,「横たふ」という表現も,本来,「横たはる」でなければならないものである.

そこで私は,佐渡を見ながらいつも思うのだが,このように大きい景観の中で,すでに「横たわっている」のは,当の佐渡自身ではなかったか!

そしてそこへ,天の川が,作者の心を心として懐きながら,ほとんどあやうく支えられるのをふりほどくようにして,さらに上から倒れるように「横たわろう」とする.それが「横たぷ」の胸裡であると思うのである.

そしてそのように思うには,わけがある.芭蕉には,同句に続けて有名な,市振での作,「一家に遊女もねたり萩と月」がある.このほうはわかりやすいので,萩は遊女で,月は作者芭蕉にほかならない.この句の結構はそっくり「荒海や」の佐渡と銀河にも移しかえてみられるわけである.もっとも,上のような解釈は,あまりに説明的にすぎるとも言えようが.

だがとにかく,芭蕉は,今ようやくにして,この歌枕にも乏しい越後路を踏みぬいで来たところで,このおそろいの二句がひびきあう世界に,旅愁と力業とをないまぜにしながら,ぴったりとおさまるのではなかろうか.

芭蕉が佐渡に寄せる共感はひとしおのものであったろう.それを拾い集めるつもりで,付図のようなものを作ってみた.この大きな島のあちこちの地理と歴史であるわけだが,そこをいくつか気ままに記してみたのである.

案内記というものではもちろんないし,また,ことの軽重などをあれこれ言えるものでもない.記事のいくつかは,説明が欲しいところもあるのだが,ここでは一切とりあげないことにする.遠く佐渡を望む,というようなふうに見てほしいのである.

ただ一言だけ佐渡について言えば,ここは天領の島であったことである.この地の文化的風土には,中央政庁や幕府から排された配流者の系譜を見おとすことはできない.

この図からでも,それがうかがえるわけだし,この島のそちこちに,そういう人々の落魄に心を寄せるものが,ごく親しく息づいているのだ.江戸の一俳諧師である芭蕉が,今,難所を行く決意と孤独の中で,佐渡に見たものも,またそこにあったと思う.

この記事は、「星の手帳」夏号(河出書房新社 刊1989年)から引用しました。

なお引用にあたり文と写真の一部を割愛させていただきました。


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