野ざらし紀行─異界への旅─ ②

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七、小夜(さや)の中山

 富士川の捨て子や馬に食われた木槿を残し、芭蕉の旅は続く。

 馬上の吟でもって、芭蕉の旅が馬に乗っての旅だったということもわかった。芭蕉の旅がいくらハイペースだとしても、それは芭蕉が忍者で特別歩くのが早かったということではない。小夜の中山を越える日も早朝から馬に乗っての旅だった。小夜の中山といえば、西行法師の、

 年たけて又こゆべきと思いきや

     命なりけり小夜のなかやま

の歌で名高い。

 「二十日余(はつかあまり)のつきかすかに見えて、山の根際(ねぎは)いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴(けいめい)ならず。杜牧(とぼく)が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽(たちまち)驚く。

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」

 杜牧の『早行』という詩は、今日ではあまり聞かないし、漢詩の名詩撰のようなものにもほとんど取り上げられていないが、当時は有名だったのだろうか。それは、こういう詩だ。

   早行

 垂鞭信馬行  数里未鶏鳴

 林下帯残夢  葉飛時忽驚

 霜凝孤鶴迥  月暁遠山横

 僮僕休辞険  時平路復平

 鞭を下にたらし、ただ馬が行こうとするがままにまかせ、

 数里ほどやって来たのだが、未だ鶏鳴の刻には程遠い。

 林の下に明け方の夢の続きをぼんやりと漂わせていたのだが、

 落ち葉の飛び散る音にはっと驚き目がさめた。

 降りた霜がかちんかちんに固まり、ひとりぼっちの鶴がはるか彼方に見え、

 暁の月は遠い山の端に横たわる。

 召使の男はけわしい顔をして休もうと言う。

 それもいいだろう。時は平和そのもので、道もまた同じように平和そのものだ。

 これを読めば、「月かすかに見えて、山の根いとくらきに」は「月暁遠山横」、「馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず」は「垂鞭信馬行、数里未鶏鳴」、「早行の残夢」は「林下帯残夢」、「忽驚く」は「葉飛時忽驚」という具合に、この文章のほとんどが杜牧の詩からの引用だということがわかる。

 鶏鳴というのは鶏鳴の刻のことで、夜明けの前後を指す。この時刻は気流の関係で音が遠くに届きやすくなるため、鶏をはじめ無数の鳥が遠くの仲間に向けて声を発する。かって人はそうした鳥の声で自然に目が醒めていたのであろう。その鶏鳴を待たずして旅立つというのは、文字通り「早行」だ。長い距離を急がねばならない時は、そうしたのであろう。

 何やら切羽つまったあわただしい旅の中で昨日までの悪夢を思い起こしながら、ふと気がつくと静寂につつまれた自然の景色の中で、今までのことがみな迷いであり夢にすぎなかったことに気付く。 天地は人事にかかわりなく悠久の時を刻み、何も変わったことはない。天地自然の「道」はあくまで平かだ。

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり

 目覚めてみると、煩悩の残夢の月は遠く煙に霞み、静かに消えて行く。

 さて、この句は杜牧の「早行」の興を借りているとともに、当然芭蕉の敬愛してやまぬ西行法師の歌もふまえていたであろう。しかし、この句から直接西行の歌には結びつかない。むしろ、それよりも遥かに古い壬生忠峯(みぶのただみね)の歌の方が、この句に近そうだ。

 東路(あづまじ)やさやの中山さやかにも

     見えぬ雲居に世をや尽くさむ

               壬生忠峯

  峠というのは国と国の境であるとともに、生と死の境も暗示する。死出の山を越えてゆく際の、この世とあの世との境目だ。小夜の中山もまた、都を離れ、東国へ落ちてゆく異界の入り口だ。これからどうなるのかわからない異界で、一体どうやって暮らしていゆくのか、そんな不安の歌だ。

 西行法師もまた、若い頃に出家し、鈴鹿の山にうき世をふり捨て、小夜の中山を越え、関東から東北にかけて旅をして歩くこととなった。そんな若い頃のことを思い出しつつ、ふたたび年老いて小夜の中山を越える。その間に世の中はすっかり変わり、院政時代から平家の栄華と滅亡といっためまぐるしい時の流れを見てきた。数々の語り尽くせぬ悲劇を目のあたりにしながら、ふたたびこうして小夜の中山を東に下ってゆく。異界の入り口をかつて下ったはずなのに、またそこにやって来る。つまり生きていたのだ。

 「命なりけり」─それはここまで生きて来れてよかったという感激であると同時に、人は何度こうして生死の境界を越えて行くのか、という気持ちも込められているように思える。小夜の中山は一回限りの出来事ではなく、人はそれを永遠に反復するのだ。それは、永劫回帰といってもいいかもしれない。

 芭蕉もまた、そんな西行のことを思い浮かべながら、小夜の中山を越えて行く。秋十年(あきととせ)で既に故郷となった江戸を離れ、これから行く道は雲居ならぬ茶の煙にさやかに見えない異界だ。具体的にどこかは、この後を読めばすぐにわかる。

八、神風(かむかぜ)の伊勢

 旧暦の八月二十日頃に小夜の中山を越えた芭蕉は、その後一週間の道中を省略し、伊勢神宮の段に入る。小夜の中山が異界への入り口を暗示していたとすれば、これは当然だろう。芭蕉はここで現世と別れ、神々の国に入ったのだ。さて、その伊勢の下りを読んでみよう。

 「松葉屋風瀑(まつばやふうばく)が伊勢に有けるを尋ね音信(おとづれ)て、十日計(ばかり)足をとどむ。腰間(ようかん)に寸鐵(すんてつ)をおびず。襟に一嚢(いちのう)をかけて、手に十八の珠を携ふ。僧に似て塵有(ちりあり)。俗ににて髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠(ふと)の属にたぐへて、神前に入事(いること)をゆるさず。

 暮て外宮に詣で侍りけるに、一ノ華表(とりい)の陰ほのくらく、御燈(みあかし)処々に見えて、また上もなき峯の松風、身)にしむ計、ふかき心を起して

 みそか月なし千とせの杉を抱くあらし」

 伊勢といえば古くから「神風の伊勢」と呼ばれ、風だとか嵐だとかに縁がある。その伊勢の地で「松葉屋風瀑(まつばやふうばく)」を尋ねるというのも、随分できすぎた話だ。この風瀑が三か月前、江戸から伊勢へ帰る時、芭蕉はかって詠んだ自分の、

 命なりわずかの笠の下涼み

という句に掛けて、

 忘れずば小夜の中山にて涼め

という句を送っている。そして、そのすぐあと、芭蕉自身も小夜の中山を越えて、伊勢の地に行くこととなった。

 伊勢で「松風」といえば、西行法師の、

 深くいりて神路(かむぢ)の奥をたづねれば

     また上もなき峯の松風

という歌を思い起しておこう。神路(かむぢ)、つまり神道の奥義を尋ねれば、松を吹くシューシューという心細い無常感のただよう風の音で、仏教の真理にも通じるという、いわゆる「本地垂亦(ほんちすいじゃく)」を詠んだ歌だ。

 芭蕉もまた、腰の刀をささず、頭陀袋を襟の所に掛け、手には数珠を持ち、乞食僧のようないでたちをしてこの伊勢の地に現れる。

 「我僧にあらず」というのは、どこかの寺に所属している正式な僧ではない、という意味もあるだろうが、「僧に似て塵有」と言っているように、旅をするために俄仕立ての僧となったというのが真相だろう。ちょうど『奥の細道』の旅立ちの時、曾良(そら)こと岩波庄右衛門(いわなみしょうえもん)が俄に髪を剃ったように、一般の人がなかなか自由に旅のできなかった時代に諸国を遊び歩くには、僧になるのがもっともてっとり早い手段だった。

 貞享四(一六八七)年に鹿島根本寺(こんぽんじ)に月見に行った旅を描いた、『鹿島詣』でも、芭蕉は自分のことを、

 「いまひとりは、僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠の間に名を蝙蝠の、鳥なき島にも渡りぬべく」

と書いている。

 本当に修行をし、ちゃんとお経も読め、お勤めを果たせるようなきちんとした僧とは程遠い自分を多分に自嘲しているのであろう。僧になったおかげで旅をするのは楽だが、伊勢の内宮に入れてもらえないという欠点もあった。

 さて、この伊勢での発句を見てみよう。

 みそか月なし千とせの杉を抱あらし

 この句は一般に「嵐」が千歳の杉を抱くという解釈と、芭蕉が千歳の杉を抱くという解釈がある。

 しかし、前者のような嵐の擬人化した言い回しはやや近代的なように思える。

 芭蕉の時代には山口素堂による『野ざらし紀行』の波静本の序に、「ゆきゆきて、山田が原の神杉(かむすぎ)をいだき」とあるように、芭蕉が千歳の杉を抱くというふうに読まれていたようだ。

 今日の自然な文法的解釈でも、三百年前となれば当時も自然だったとは限らない。特に俳諧のような短く、ともするとどうとでも取れるような文芸には、特殊な省略の仕方がなされる。特に、主語がはっきりとしている場合にしばしば主語が省略されるのは、日本語の大きな特徴でもある。

 近代の人間は翻訳調の言い回しに慣れて、本来の日本語になかったような不自然な言い回しにすっかり慣れてしまっている。たとえば無生物主語構文というのは、本来日本語にない言い回しの代表格だったのだが、八十年代以降は「コンプレックスが私を強くした」だとか「季節が君を変えた」だとか、ちょっと気取った感じで盛んに使われるようになった。まして、比喩として無生物が人間のする動作をするいい回し、たとえば「夕陽が泣いている」「風が呼んでいる」のような言い回しは、近代の文学では普通に行われてきた。特に、昭和期のシュールレアリズムをくぐってきた後となっては、相当に奇抜な言い回しに関しても寛大になっている。しかし、本来、「嵐」は吹くものであり、「抱く」が人間の動作であることは自明だったのではなかったか。

 私は、この句は本来、三十日の月のない中で千歳の杉にすがり抱きしめた、そんな嵐の夜だった、というふうに読むべきものだったと考えている。今日では街の灯りのせいで夜の空と言えどもかなり明るいが、三百年前ともなれば月のない晩は漆黒の闇だ。神社の境内も夜ともなれば人影もなく、嵐が木々をゆさぶり悲しげな音を立てていれば生きた心地もしない。秋の深まり行く頃の嵐といえば、

 吹くからに秋の草木のしをるれば

     むべ山風を嵐といふらむ

                      文屋康秀(ぶんやのやすひで)

というくらいのもので、草木の枯れる様に暗示される死のイメージを呼び起こす。

 ここで芭蕉があえて「僧ににて塵有」と言ったもう一つの理由が見えてくる。この句は、死の恐怖を克服した仏法を悟りきった高僧の境地で詠んだ句ではない。死の影に悟りきれずに迷い戸惑う「無明(むみょう)」の心で詠んだ句だ。月のない闇夜はまさに「無明の闇」。そんな不安と心細さのなかで、芭蕉は「深き心」を起し、仏にすがるような思(おも)いで千歳の杉にすがりついたのだ。

 中世の連歌書である宗祇法師の『宗祇初心抄』に、「述懐(しゅっかい)連歌本意(ほい)をそむく事」という項目がある。そこには、

 「身は捨てつうき世に誰か残るらん

 人はまだ捨ぬ此世を我出て

 老たる人のさぞうかるらむ

か様(よう)の句にてあるべく候、述懐の本意と申すは、

 とどむべき人もなき世を捨かねて

 のがれぬる人もある世にわれ住て

 よそに見るにも老ぞかなしき

かやうにあるべく歟(か)、我はやすく捨て、憂世に誰か残るらんと云いたる心、驕慢(きゃうまん)の心にて候、さらに述懐にあらず、たとへば我が身老ずとも老たる人を見て、憐む心あるべきを、さはなくて色々驕慢の事、本意にそむく述懐に候なり、」

とある。芭蕉の句は述懐の句ではないが、およそ風雅の心というのはそういうものだ。

 大体、俺はもう悟りきったのだ、俗世の情を少しも持たないのだ、なんて高飛車な句は鼻もちならない傲慢な句にすぎない。人間である以上、誰でも心の弱さを持っていて当然であり、それがまったくないなんて自分で言っている人間は信用できるものではない。大嘘つきか、単なる鈍感な人間かどちらかだ。自分の罪深さを直視し、自分のなかの「無明」を率直に認めることができる、そうした人間のみ、本当に大きな理想に向かって救いを求めることができる。

 死は誰でも恐ろしい。無常は身の毛がよだつような経験だ、まして、月のない闇夜に聞く松風は身も凍りつかんばかりに切ない。芭蕉はそんな心細さのなかで、思わずこの千歳御神木にすがりついたのだ。それはまさに、西行法師の歌として当時一般に伝えられていた、

 何事のおはしますをば知らねども

     かたじけなさの涙こぼれて

の心境で、おそらく芭蕉もまた千歳の杉を抱きしめながら、とめどもなく涙が込み上げてきたに違いない。

九、西行ならば

 『新古今集』の仮名序にも、大和歌(やまとうた)は「色にふけり、心をのぶるなかだちとし」とあり、色好みの道だった。連歌や俳諧でも「一巻に恋なくばはしたもの」と言われるくらい、恋は連歌・俳諧の花とも言うべきものだ。それは単に読者へのサービスといったものではない。恋は人間が生きていく上で最も重要なテーマの一つだ。

 ところで、西行、宗祇を慕い、古典の風雅を継承しようとした芭蕉ではあるが、一つだけ十分受け継ぐことのできなかったのがこの「恋」だ。

 風雅が本来、煩悩を告白し公にすることによって発散させ、解脱を助けるためのものであるなら、その煩悩の中心ともいうべき恋、それも報われぬ恋の苦しみや人間のつきせぬ欲望こそ、真っ先に問題にされなくてはならない。ところが、芭蕉はどうもこのテーマが苦手だったようだ。

 もっとも、芭蕉は付け句の中では、数多くの恋句を詠んではいるし、『奥の細道』でも市振で、隣の部屋に泊った遊女を題材にして、

 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月

という思わせぶりな発句を詠んでいる。萩はその姿から、伏す、寝るに通じる。

 しかし、宗祇法師の『宗祇初心抄』の「恋連歌本意そむく事」に、

 「かならずといひつる人のけふは来で

 われをや人のおもひ出らん

 思ふかと別にしばしやすらひて

是皆恋の心に違(たが)ひ候、恋の本意と申すは、問はれぬを恨み、別るるをしたひ、待つ暮をうきと悲み、名の立をいとひ、忍はつるなどと、色々に心を盡すを恋の本意と申すべく候哉、我を人の思ふ顔なること葉、恋の本意にたがひ、候」

とあるように、「必ずと言ひつる人の今日は来で」のような、情のこもらない単なる客観描写は、本来恋の句とはいわなかった。もちろん、「我をや人の思ひ出らん」のような、自分は恋をせずに、女にもてて困っちゃうみたいなものは、今日でもラブソングとはいえない。恋の句というのは、今日のいわゆるラブソングもそうだが、たとえ想像上のものでも、自分自身が恋をしているかのように、その思いを述べ、切々とその心を伝えようとするのが、本来のものだった。

 しかし、これは芭蕉だけの責任ではないだろう。江戸時代の俳諧は、概してこうした中世的なラブソングとはかけ離れている。おそらく、江戸時代の儒教文化が、自らの恋の気持ちをあからさまに打ち明けることを恥とし、恋を遊郭などの風俗の一つとしてしまったのだろう。江戸時代の俳諧で恋の句というのは、大体は古典を題材にしても遊郭のことを詠むにしても恋を醒めた目で眺めるのがほとんどで、今日的な意味でのラブソングは皆無と言っていい。

 その意味では、『野ざらし紀行』でも一応恋の句が折り込まれている。それが西行谷の場面だ。

 「西行谷の麓に流れあり。をんなどもの芋あらふを見るに

 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ」

 藤原定家は、恋の歌を詠むときは在原業平になったようなつもりで詠めと言っているが、芭蕉も西行法師になったつもりでこの句を詠んだのであろうか。西行なら女を月にたとえて恋の歌を詠むところを、私は俳諧師にふさわしく、月に供える芋を洗っている君にこうして発句を詠み、一夜の宿を乞うてみようか、というわけだ。

 名月というと今では団子を供えるが、かっては里芋を供えるのが普通で、「芋名月」という言葉もある。それゆえ「芋」は秋の季題になる。

 とはいうものの、本気で女を口説こうというのであれば、「西行ならば」なんて言わず。自分の思いを歌うべきだろう。つまり、この句は本気で詠んだ恋句とはほど遠く、俳諧師としての冗談にしかなっていない。山口素堂が波静本の序で、

 「西行谷のほとりにて、いも洗ふ女にことよせにけるに、江口の君ならねバ、答もあらぬぞ口をしき。」

と言っているように、この歌は単なる片歌に終わっている。

 男が歌で口説き、女がそれに歌でもって答える習慣は、古くから祭のときの歌垣の中で行われていたもので、日本だけでなく、中国南部の少数民族の中にもしばしば見られる。江南系の農耕民族特有の習慣だったのだろう。和歌が色好みの道なのも、そうした歌の起源に根差したものなのだろう。

 西行法師が江口の君に詠んだ、

 世の中をいとふまでこそかたからめ

     仮のやどりをしむ君かな

に対して江口の遊女が、

 家をいづる人とし見れば仮のやどに

     心とむなと思ふばかりぞ

と答えたエピソードも、そうした伝統によるものだ。

 なお、『野ざらし紀行』の天理本の末尾には、次のような付合(つけあい)が記されている。

   「伊勢山田にて、芋洗ふと云ふ句を和(わ)す。

   宿まいらせむさいぎゃうならば秋の暮   雷枝(らいし)

 ばせをとこたふ風の破がさ          芭蕉」

 雷枝が女性なら面白いのだが、そうではなさそうだ。西行なら宿を貸しましょう。それに対し芭蕉)は答える。いや、こんなみすぼらしい私は西行)ではなく、芭蕉です。何とも他愛のないやり取りだ。

 それでも「西行ならば」の一言は当時の人々の間では、結構受けたのではなかったか。西行を慕っていながら、恋に関しては西行に似ても似つかぬ堅物な芭蕉のキャラクターからして、この一言は俳諧そのものだ。二年後の貞享三(一六八六)年の春に出た撰集『春の日』に、

   朝熊おるる出家ぼくぼく

 ほととぎす西行ならば歌詠まん  荷兮(かけい)

という句がある。「ぼくぼく」から芭蕉の、

 馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉

の句を連想し、伊勢の朝熊山から降りてきた出家僧を芭蕉に取りなしたのであろう。それでも「西行ならば」と言いながら恋を詠まず郭公を詠むほうがいかにも芭蕉らしい。ここでの「ほととぎす」は西行の、

 きかずともここを背にせんほととぎす

     山田の原の杉のむら立ち

という歌から来ている。芭蕉の恋句も結局は聞けなかった郭公の声のようなもの、と解するのはやや穿ちすぎか。

 連歌の式目には、特に恋の句を二句続けなくてはならないという決まりはないが、連歌でも俳諧でも、恋を一句で終わらせるのを野暮と考え、二句以上続けるのが習慣となっていた。この古くからの美風を破って、恋は一句で切り捨てても構わないとしたのも芭蕉だったが、『野ざらし紀行』ではまだ律儀に守ってくれている。

十、蘭の香

 「其の日のかへさ、ある茶店に立寄りけるに、てふと云ひけるをんな、あが名にほっくせよと云ひて、白ききぬ出しけるに書付(かきつけ)侍る。

 蘭の香やてふの翅(つばさ)にたき物す」

 この本文だけだと蝶という女に蘭の香がするというだけの句だが、これには隠れたエピソードがあったらしい。芭蕉の弟子の一人の土芳(どほう)の手による『三冊子(さんぞうし)』の中にこのように書かれている。

 「此の句ハ、ある茶店の片はらに道やすらひしてたたずみありしを、老翁を見知り侍るにや、内に請(しょう)じ、家女(かじょ)料紙(りょうし)持ち出て句を願ふ。其の女のいはく、我は此の家の遊女なりしを、今はあるじの妻となし侍)るなり。先のあるじも、鶴といふ遊女を妻とし、そのころ、難波の宗因、此処(このところ)にわたり給ふを見かけて、句をねがひ請いたるとなり。例(れい)おかしき事までいひ出て、しきりにのぞみ侍れば、いなみがたくて、かの難波の老人の句)に、葛の葉のおつるの恨夜の霜、とかいふ句を前書にしてこの句遣(つかは)し侍るとの物がたりなり。老人の例にまかせて書き捨てたり。さのことも侍らざればなしがたき事(こと)なりと云へり。」

 いくら有名人とはいえ、会う人ごとに句をねだられたのではたまったものではない。しかし、先代の妻が談林の祖、西山宗因に発句をもらったという縁であれば、芭蕉の心も動いたのであろう。いわば、日頃尊敬してやまぬ宗因との句合わせだ。

 芭蕉がまだ江戸に出てきて間もないころ、江戸にやってきた宗因に会い、それまでの貞徳門の風を一新し、談林調に傾倒していった。

 延宝三(一六七五)年、宗因の江戸本所大徳院での興行の百韻に、すでに芭蕉の本来の俳号である「桃青(とうせい)」の名が見られる。芭蕉はこのとき四句目を詠んでいる。

 いと涼し大徳くなりけり法(のり)の水     宗因

    軒を宗(むね)と因(ちな)む蓮池

 反橋(そりはし)のけしきに扇ひらき来て

    石壇よりも夕日こぼるる        桃青

 発句は大徳寺という興行場所に掛けて、それに「涼し」という季語を添えたもので、当時の発句はこうした景物や趣向によらずに言葉の縁で作ることが多かった。それに、大徳寺の住職の磫畫が、ゲストの宗因の名を詠み込み、発句の「涼しき水」を「蓮池」で受ける。こうした物付けも、当時の一般的なけ方だった。

 第三も「蓮池」に「反橋」という付き物)による物付けで、芭蕉の四句目も、「反橋」に「石壇」を付ける、当時の付け方に従っている。ちなみに、

    石壇よりも夕日こぼるる

 領境(りゃうさかひ)松に残して一時雨(ひとしぐれ)    信章(のぶあき)

という五句目を詠んだ信章は、後の山口素堂だった。

 芭蕉にとって、宗因はかけがえのない師だった。とはいえ、宗因は『西翁十百韻』恋俳諧「花で候」の巻のような、恋の句だけで百韻を作るほどの、恋句の達人であり(ただし江戸時代的な恋句で、中世的なラブソングではない)、この勝負は無謀ともいえる。

 葛の葉のおつるの恨夜の霜    宗因

 蘭の香やてふの翅にたき物す   芭蕉

 宗因の句は、「結婚こそ女の幸せ」と信じるものにとっては理解し難かったのか、なぜここで「恨み」を言わなければならなかったかわからないとする解説書が多い。しかし、発想を逆にしてほしい。つまり、遊女という仕事に誇りを持つ女性の立場に立つといい。江戸時代の遊女は、戦前の赤線の遊女や今日のソープ嬢ではなく、しっかりとした芸を身に着けていたし、客を選ぶこともできた。せっかく才気あふれる女性でありながら、よる年なみに勝てず、結局一人の男のもとに「落ちて」、枯れ果ててしまった、そんな遊女の生涯への共感がこの句の本意だったのである。

 これに対して、芭蕉の句は蘭の香によって「てふ」という女の翼が高貴な香になった、というものだ。蘭といえば山中にひっそりと暮らす君子の心で、遊女をやめて、ひっそりと操を守って暮らすことによって、花から花への浮気な蝶の羽も香ばしい香を漂(ただよ)わすというものだ。芭蕉の句は残念ながら遊女の境遇への共感というよりも、貞操を賛美する儒教道徳そのものだ。やはり芭蕉はただの堅物としか言いようがない。私ならこの句合わせを、このように判定(はんてい)する。

 ─蘭の香は尊くたぐひまれなれども、霜枯れの葛はまた哀れひとしほにて、幽玄の心を表はす。よりて右勝ち。

 芭蕉が「恋」を苦手としていたことに関して、巷にはホモ説なるものがある。これは江戸時代からある古い説で、芭蕉の寛文十二(一六七二)年刊の発句合『貝おほひ』のなかに「われもむかしは衆道ずきの」とあるのが根拠となり、伊賀時代の蝉吟や一緒に旅をした杜国(とこく)や曾良との関係を疑うものだ。

 確かに芭蕉は、幼少期から武家奉公をし、そこで武家の間に広がる衆道の影響を受けた可能性はある。しかし、衆道は武家や寺社などの女性との交わりを禁ずる社会での代償行為という色彩が強)く、衆道に染まっていたとしてもそれは一時的なものであり、それだけでホモ(真性同性愛者)ということにはならない。それに自分が何らかの形で特異な性癖を持つと自覚していたなら、むしろ、否応無しに世間の性観念と戦うかのように情熱的な句を詠んだであろう。性に関して凡庸な観念しか持てないのは、むしろノーマルで淡泊だったせいなのである。

 芭蕉に関しては、ロリコン説というのもあるが、これは『奥の細道』の「かさね」という少女が登場する場面で、同行した曾良が、

 かさねとは八重なでしこの名)なるべし

の句を詠んだのを、芭蕉の代作だと断定し、芭蕉自身のことだとする乱暴な説にすぎない。

 私はむしろ逆に、芭蕉の好みは熟女ではなかったかと思っている。ひとつには、芭蕉自筆の『甲子吟行画巻』のなかで、芭蕉みずから「芋洗う女」を描いているが、これが長い髪を結わずに伸ばした女性の姿で描かれていることである。芭蕉の時代は、江戸の遊郭を発信地として、一般人女性の間に島田髷(しまだまげ)が広がっていった時代で、男の月代(さかやき)と同様、江戸時代らしい風俗が確立されていった時代だった。長い髪を結わずにたらしているのは、それ以前の古風な女性のイメージであり、しかも「芋洗う」という労働する姿に惹かれるというのは、母親のイメージが抜けきれていない。十三歳の時に父親と死に別れ、母の手一つで育てられてきた芭蕉にとって、いつまでも女は母親のような存在でなければならなかったのだろう。芭蕉はマザコンの熟女好みであり、性的には未熟で、それを隠すために衆道を気取っていたのではなかったか。(そう考えると、むしろ智月との関係の方が疑わしい。)

 連歌というのは、前の句の情をいつまでも引きずってはならない。煩悩は言い捨てて次に進んでゆくことで、そのつど解脱していかなくてはならない。紀行文でも同じだ。芭蕉の恋もまた二句で去り、また別のテーマへと進んでゆくことになる。

十一、隠士の心

 芭蕉の時代といえば元禄文化が次第に花開いてゆく頃で、商才に長け、一代で巨万の富をなしたような新興商人が、金にまかせて贅沢の限りを尽くした時代だった。

 こうした文化の中心となったのが遊郭で、そこでもまた王朝時代の風雅が一つの贅沢の典型をなしていた。遊郭はまずお目当ての遊女を垣間見るところから始まり、一夜の契りにいたるまでの様々なプロセスは、王朝時代の恋をモデルにしたものだった。

 あるいは、五兵衛とかいう男は、遊女出羽の「萩の上で妻恋う鹿を見てみたい」の一言で一夜にして奥座敷を解体して萩を植え、雌雄つがいの鹿をつかまえに行かせ、庭に放したという。失われた王朝時代の貴族の趣味を金の力で再現してみせた、というわけだ。

 商人たちが金にものを言わせて作りものの風雅にばか騒ぎしている一方で、武士の生活は必ずしも良くはなかった。まして、この時代は大名のとりつぶしや改易(領地没収)が相次ぎ、二十万とも四十万ともいわれる浪人が街にあふれていたという。武士としての誇りを守り、清貧に耐えているものにとって、心の支えとなったのは中国の隠士たちの美学だった。芭蕉をスターにした原動力も、多分そこにあったのだろう。

 『野ざらし紀行』の濁子本の末尾で山口素堂はこう言う。

 「こがねは人の求めなれど、求むれば心静ならず。色は人のこのむ物から、このめば身をあやまつ。ただ心の友とかたりなぐさむよりたのしきはなし。ここに隠士あり、その名を芭蕉とよぶ。」

 一口に隠士といっても様々あって、国の要職にあっても職務はそこそこにやって、あとは趣味の世界に遊ぶような者から、左遷されて地方官に甘んじる者、官を辞して故郷に籠る者、寺に入る者、山に籠る者など様々だ。結局、君子のような志を持ちながら、それを国政に生かすことができずにいる者は、皆隠士といってもよいのだろう。

 隠士というと、何となく世間に背を向けた消極的な生き方のように聞こえるが、そうではない。それが消極的だというなら、今日政治に文句ばかり言いながらも決して政治家になろうとはしない無数の文化人は何だということにもなろう。それに比べて、かつての隠士というのはむしろ人一倍社会に関心を持ち、国を憂え、理想の実現に情熱を燃やす者のことなのだが、独裁的な政治形態のもとでは、その能力を発揮できなかったという場合が多い。そして何よりも、彼等は直接権力に関わらないことによって、文化を国家権力から独立させることに成功し、そして今日の政治家と文化人との分離の基礎を作っていたのだ。

 芭蕉が訪れた「閑人の茅舎」の主もまた、そうした隠士の心を持つ一人なのだろう。

   「閑人の茅舎をとひて

 蔦植ゑて竹四五本のあらし哉」

 竹を吹く風の音だけでも物悲しいというのに、それに加えて晩秋の風に色を変えてゆく蔦を植えるという茅舎の主人が、いかに閑寂を好む者か、推して知るべしといったところであろう。「植ゑずは聞かじ荻の上風(うはかぜ)」(文和千句第一百韻、賦何人連歌、長綱の句)といったところか。

 竹はまっすぐでありながら柔軟で、割っても腹に何もない所から、君子の徳を表わす。中国の隠士に好まれてきた植物だ。竹林の中で天地の道を語り、国の現状を嘆きあった阮籍(げんせき)、嵆康(けいこう)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、王戎(おうじゅう)といった「竹林の七賢」のことが思い浮かぶ。

 中国の歴史は地球規模での寒暖の変化に左右される。寒冷化の時代には北方や西方の民族が移動してきて、異民族による征服や国内の分断、戦乱、飢饉などの多発する冬の時代を迎える。漢と隋唐の間に挟まれた、三国・晋・南北朝の時代も、そんな冬の時代だった。隠士の文化が花開いたのもこの時代だった。

 竹はまた笛の材料にもなるように、風が吹くと音をたてる「籟(らい)」にも通じる。

 『荘子』逍遥遊編によると、木のうろに風が吹くと音が生じるように、万物はそれぞれ固有の穴をもっていて、目に見えぬ風のようなものの作用によって様々な現象を形作っているという。目に見える様々な自然現象は根源的な風によって生じた音にすぎないというわけだ。天地がそうであるように、人間もまた目に見えぬ風の動きによって、喜んだり悲しんだりする。自然の事物も人間の心情も、現われ方は違うけれど、ともに同じ風によって生じた音にすぎず、根底においては等しい。それが『荘子』の言う天籟・地籟・人籟だ。

 西洋では人を主体、自然を客体と分けて考え、主体の超越とロゴス〔言葉〕の優位を説くが、東洋ではむしろ人は自然の一部と考えられ、ともに同じ道に従うものと考えられてきた。そこに、自然を科学の対象として捉えるのではなく、直接的な共感の対象として捉える、独自の伝統が作られてきた。秋の景色が物悲しいのは、景色自体が悲しいからではないし、景色と無関係に自分が悲しいのでもない。様々な生命の衰えてゆく姿に共鳴することができるからであり、その根底にはすべての生命が等しいという認識が含まれている。

 書道のほうで有名な王羲之(おうぎし)は『蘭亭集詩』でこのように歌っている。

 仰視碧天際  俯瞰淥水濱

 寥闃無涯観  寓目理自陳

 大矣造化工  萬殊莫不均

 群籟雖参差  適我無非新

 青く澄んだ山際の空を見上げ、はるかな淥水の水際を見下ろす。

 見渡す限りの寂しげな景色の中に、天地の理は自ずと現われてくる。

 造化の工は偉大でどんな事物でも等しくないものはない。

 笙の笛の竹に長短があるようなもので、そのどれもがわたしにとって新鮮な音色を奏でる。

 寂しさは自分一人のものではない。天を突く岩峰も、果てしなく広がる湖も、その荒涼とした姿こそ自然の本当の姿なのだ。人間も山河も大小の違いはあるが、そこには同じ風が流れていて、一体を成している。

 大伴家持もまた、同じ風の音を聞いていたのだろうか。

 わが宿のいささ群竹吹く風の

     音のかそけきこの夕べかも

 わずかな竹のかそけき音にも、すべての生あるものの運命の寂しさを感じたのであろう。生あるものは皆生きるために争う。人もまた生きるために争う。それを寂しくも空しくも思えるのは、こうした現世の様々な現象の背後に、静かな風の音を聞くことができるからだ。どんなに異なる音をたて、互いに争っていても、その根源において本当は皆平等で、同じ風に吹かれて歌っているにすぎない。

 蔦植ゑて竹四五本のあらし哉

 芭蕉がこの句を送った「廬牧亭(ろぼくてい)」の主人も、きっと四五本の竹に風の音を聞いていたのであろう。

 なお、この少し後で芭蕉は、同行した千里の故郷を訪れることになる。

 「大和の国に行脚して、葛下(かつげ)の郡竹の内と云ふ処に、かのちりが旧里(ふるさと)なれば、日ごろとどまりて足を休む。

 わた弓や琵琶になぐさむ竹のおく」

 ここでもまた、竹林の隠士のイメージが用いられている。

 この句は、ともすると「綿弓と琵琶になぐさむ」と読んでしまいそうだが、そうではない。素堂の波静本の序に「わたゆみを琵琶になぐさみ」とあるように、この句は「綿弓を琵琶に聞いてなぐさむ竹の奥」という意味であり、綿弓を琵琶に見立てているのだ。

 芭蕉の時代は綿製品が次第に普及してゆく時代であり、それにともない、綿花もあちこちで栽培され始めていたのであろう。

 芭蕉の死後になる元禄十一(一六九八)年に出版された『続猿蓑』に、

 名月に麓の霧や田のくもり    芭蕉

 名月の花かと見えて綿畠     〃

という二句が並べられてあり、前者が不易体、後者が流行体の句と説明されている。綿畑はそれだけ当時としては新味を代表するような題材だった。

 おそらく、綿弓にしても、綿をほぐす時のぶんぶんいう音を琵琶に見立てるというのは、相当に斬新な趣向だったにちがいない。綿は秋に収穫するから秋の季題ではあるが、それにあたかも砧を打つ音のような寂しげな情を込めることによって、綿弓は単に流行の題材というだけでなく、古典に通じる不易の情を得ることになる。

 なお、この句に関しては、芭蕉が直接宿の主人に贈ったオリジナルが残ってい、その前書きにはこうある。

 「大和国竹内(たけのうち)と云ふ処に日比(ひごろ)とどまり侍るに、其の里の長(おさ)なりける人、朝夕問ひ来りて、旅の愁を慰みけらし。誠その人ハ尋常(よのつね)にあらず。心は高きに遊んで、身ハ芻蕘雉兎(すうじょうちと)の交りをなし、自ら鍬を荷なひて、淵明がそのに分け入り、牛を引きてハ箕山(きざん)の隠士を伴ふ。且(かつ)其の職を勤て職に倦まず。家は貧(まど)しきを悦びてまどしきに似たり。唯是(ただこれ)市中に閑を偸(ぬす)みて、閑を得たらん人は此の長ならん。」

 ここでは陶淵明が引き合いに出されている。「芻蕘(すうじょう)」は樵のことで「雉兎(ちと)」は猟師のことだ。そうした都の風雅とは程遠い人達と交わり、俗世に暮らしながらも、君子のような心を失わずにいる、そんな姿が陶淵明を彷彿させたのであろう。綿弓の俗な音も、そういう人にとっては琵琶の高雅な音色になる。そんな隠士の住まいを竹内(たけのうち)という地名に掛けて、竹林の七賢のイメージで詠んだのが「わた弓や‥‥」の一句だった。「わた弓を琵琶になぐさみ、竹四五本の嵐かなと隠家によせける。此の両句をとりわけ世人もてはやしけるとなり」と素堂が言っているように、こうした隠士の句は当時の人々に盛んにもてはやされていたようだ。


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