https://suzuroyasyoko.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%96%A2%E4%BF%82/%E8%8A%AD%E8%95%89%E7%B4%80%E8%A1%8C%E6%96%87%E9%9B%86/%E9%87%8E%E3%81%96%E3%82%89%E3%81%97%E7%B4%80%E8%A1%8C-%E7%95%B0%E7%95%8C%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%97%85/ 【野ざらし紀行─異界への旅─】より
十八、秋風
芭蕉の時代の人々は、今日の我々のようなリアルな歴史意識をもっていたわけではない。今日であれば科学の力で、太古の人間の骨や石器も探れるし、人間が四十億年の生命の進化の上で生まれたことも、宇宙が百五十億年前のビッグバンによって生まれたこともたどることができる。しかし、こうした現実の時間をどこまでも遡ることは、我々の心理的な時間と時計で計測される客観的な時間との分離によって可能になったにすぎない。ごく素朴な意識の中では、過去とは追憶であり、記憶の中で果てしなく美化されて理想化されてゆくものなのである。
人は人間として天地自然の心をもって生まれてくるが、大きくなり現実に接するにつれ、悪に染まり人生の矛盾に打ちひしがれて、理想と現実がどんどん乖離していってしまう。歴史もまた同様に、かって理想の時代があったはずであり、それは人間の罪やどうしようもない運命によって引き裂かれ、今日に至っている。人は天の心を持って生まれながら、天を追放された流刑人であり、旅人である。
こうした時間の観念が、「四時(しいじ)」の循環のイメージに重なる。春に生じた生命は、夏には生命の過剰から互いに争い、荒れ果てた夏草の茂る蓬生となる。そして、秋風の声を聞き、やがて冬の死の世界へと帰ってゆく。人生も歴史も、こうした循環として捉えられる。それが芭蕉の時代の世界観だ。
王朝時代は現実の世界ではない。それは理想化された世界であり、かって存在したはずである真理の痕跡に他ならない。それらは今日では引き裂かれている。『平家物語』もまたそうした真理の分断をめぐる人間の原罪の物語だ。天地が引き裂かれ、天道の支配が終わったとき、そこの残っているのは「ただ秋の風」。-藤原良経が、
人すまぬふはの関屋のいたびさし
あれにし後はただ秋の風
と詠んだように。
古代三関の一つであった不破(ふわ)の関は、そうした王朝時代のかすかな痕跡であり、荒れ果てた関屋の姿は王朝時代崩壊の現実と、かっての理想との隙間に吹く風であった。
「やまとより山城を経て、近江路に入りて美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常盤(ときは)の塚有り。伊勢の守武(もりたけ)が云ける、よし朝(とも)殿に似たる秋風とは、いづれの所か似たりけん。我も又、
義朝の心に似たり秋の風
不破
秋風や薮も畠も不破の関」
常盤の塚は源義朝の愛妾、常盤御前の塚で、牛若丸(源義経)の母でもある。平治の乱で平清盛の軍に敗れて義朝は戦死し、常盤御前は清盛に今若丸、乙若丸、牛若丸の三人の子供の命乞いをし、その後清盛の妻となったといわれている。息子の命と引き換えに、仇敵に身を売った常盤御前を、義朝があの世でどう思ったかは知らない。その後、当時知られていた古浄瑠璃『山中常盤(やまなかときわ)』の物語によれば、常盤御前は義経が奥州藤原氏のもとに逃れたと聞くと、後を追って奥州に向い、途中賊に襲われてこの山中の地で死ぬ。そして、そのことを知った義経が仇を討ったという。
室町時代の末期に、俳諧の祖、荒木田守武(あらきだもりたけ)が、
月見てやときはの里へかかるらん
よしとも殿ににたる秋風
と詠んでいる。
連句は、上句と下句をつなげて、一首の和歌のように読み下す。つまり、この句(く)は、
月見てやときはの里へかかるらん
よしとも殿ににたる秋風
となる。これ自体が複雑な倒置文となっているため、これを解消して平常文にすると、
よしとも殿ににたる秋風は月見てはときはの里へかかるらむや
となる。
源義朝によく似た秋風が、月見たせいか、常盤の里に帰ってゆくよ、というのがこの句の意味。
秋風がどうして源義朝に似ているのか…その答えが今わかったような気がする。そう芭蕉は思ったのだろう。義朝の心が秋風に似ていたのだ。その秋風とは、藤原良経の言う不破の関に吹いていた、あの風だったのだ。
不破
秋風や薮も畠も不破の関
破れずと書くはずの不破の関も、今は破れてしまっている。「やぶ」れても「はだけ」ても不破の関。歴史とは皮肉なものである。
十九、旅寝の果て
美濃国大垣で船問屋を営む木因(ぼくいん)は、芭蕉のまだ貞徳門(ていとくもん)にあった頃からの友人で、山口素堂とともに初期の芭蕉の活動を支えてきた。天和二(一六八二)年には、
柳されて嵐に猫ヲ釣ル夜哉 木因
の句が榎本其角選の『虚栗(みなしぐり)』に載り、芭蕉もこの句を「その景色眼前(がんぜん)に覚え候。」と絶賛した。
こうした古くからの友人のもとに来ただけに、芭蕉はしばし我が家に戻ったような気がしたのだろう。この五年後にも木因邸は『奥の細道』の旅の終着点となる。
「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出る時、野ざらしを心に思ひて旅立ちければ、
しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮」
最後の句は、明らかに旅立ちの句、
野ざらしを心に風のしむ身哉
に呼応している。
あの時は「いつ死んで路傍の野ざらしの骸骨になろうとも」という悲壮な決意の旅立ちだったが、二ヶ月余の旅ですっかり旅に慣れてしまったのだろう。旅をせぬものにとって旅は非日常の世界であり、日常の「生」の空間に対し、旅の道筋は異界であり、「死」の空間である。芭蕉の江戸からの旅立ちは少なからずそのようなイメージで始まっていた。しかし、旅を日常の営みとする者にとって、こうした空間的な意味づけはもはや意味がない。その意味で芭蕉の旅は既に「死にもせぬ旅」となったのだ。
これにおいて本来の『野ざらし紀行』の異界への旅立ち、死の空間への旅立ちというテーマは終了する。つまり、『野ざらし紀行』はここで終わってもよかったのである。ここから先は全体的に見て、前書きの文章も短く、文と文との間の統一性もあまりない。単なる旅の一断面として、断片的な記述の連続の様相を呈してゆく。もちろんそこでは、
あけけぼのやしら魚しろきこと一寸
海くれて鴨)の声ほのかに白し
春なれや名もなき山の薄霞
山路来て何やらゆかしすみれ草
など数々の名吟を残し、翌年の夏、江戸に帰りつくまでの旅程が描かれてゆく。しかし、とりあえず貞享元年の秋の終わりをもって、「野ざらし」の旅は終わったのである。
後編、木枯しの旅
一、冬牡丹
今日のような温室のない時代にあって、冬は花に乏しい季節で、山茶花くらいが冬を代表する花だった。そんな中で冬に咲く牡丹は珍しい。今日でこそ、園芸用に改良された様々な華やかな花が花屋に並び、牡丹は片隅に押しやられてしまった観があるが、かっては花の中でも最も大きくど派手な花だった。
「桑名本統寺にて
冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす」
冬の牡丹というのは季節の情に合わせにくい難題ではあるが、千鳥を雪を抱いた郭公(ほととぎす)に例えることで切り抜けている。冬に似合わぬ牡丹の華やかさに、千鳥までが郭公に見えてくる。昔の人はこういう機知を楽しむ余裕があった。
今の俳句だと、冬牡丹、千鳥、雪、郭公と四つも季語を使うなど考えられぬことだろう。芭蕉の時代では、門によっては季重なりを禁じているところもあったようだが、一般的には、季重なりについてはあまりうるさくはなかった。中世の連歌では季重なりのほうが普通だったし、季語に対する考え方が根本的に違っていた。季語という言葉があって、それさえ入っていれば自動的にその季節の句になるというものではなく、あくまで句全体の情がどの季節のものかが問題だった。「冬牡丹‥‥」の句を夏の句だと思う人は誰もいない。意味を考えれば冬の句であることは明白である。そのような場合は、夏の季語を混ぜようが春の季語を混ぜようが一向に差し支えない。季重なりがいけないというのであれば、あの山口素堂の、
目には青葉山ほととぎす初鰹
の句も生まれなかっただろう。今日の俳句は季語を杓子定規に考えすぎる。季節の情が明白な場合は、季語は本来いくつでも使ってよかったのである。規則のために句を詠むのではない。
まあ、昔も今も才能のない作者ほど、どうでもいい規則の違反などを大げさに指摘して威厳を保とうとするだけのことで、無視すればいいことなのだが。
二、白魚一寸
同じ桑名でもう一句。
「草の枕に寝あきて、まだほのぐらきうちの浜のかたに出て、
あけぼのやしら魚しろきこと一寸」
白魚は、当時江戸では春先の風物だったが、桑名ではむしろ厳冬の風物だった。このことは『東海道名所図会』(寛政九年刊)にも見られる。
春の季題である「白魚」がここで旧暦の十一月頃に詠まれていることは、これまでもしばしば指摘されてきた。春の白魚は二寸で、ここではまだ一寸の白魚だから冬に詠んだという説。あるいは、死にもせぬ‥‥の句の後、芭蕉の死と再生の儀式として、あえてここに春の句を詠んだという説、などがある。
しかし、そのように難しく考えなくても、実際芭蕉が桑名を訪れ、そこで旬の白魚漁に立ち合ったという事実があるのだから、この句は白魚だけど冬の句ということでいいのではないかと思う。
この句は『桜下文集(おうかぶんしゅう)』では、
「海上に遊ぶ日にはてづから蛤を拾うて、白魚をすくふ。逍遥船にあまりて地蔵堂に書す
雪薄ししら魚しろきこと一寸」
とあり。これが初案だったと思われる。
霜月初め、白魚
明けぼのや白魚しろきこと一寸
という真蹟も残されている。
おそらく、芭蕉自身も季語の問題で迷ったのだろう。一方では「雪薄し」と冬の季語を補い、一方では前書きで「霜月」と記した。しかし、こうした細かい所で規則にこだわってしまうと、どうにも身動きがとれなくなってしまう。土芳の『三冊子』に「この句、はじめ、雪薄し、と五文字あるよし、無念の事也といへり」とあるのも、規則に縛られて無意味な苦労をしたことの無念と見るべきであろう。
「明けぼのや」も「雪薄し」もともに同じ連想から来ている。それは、今日では忘れ去られているものの、かって中世連歌を代表する付合だった
罪の報いもさもあらばあれ
月残る狩り場の雪の朝ぼらけ 救済(きゅうせい)
の句のイメージだ。
狩りも白魚漁とともに仏教的に言えば殺生には変りない。それは実際、結構楽しいのだが、ある時ふと対象となる動物の存在が気にかかる。長年狩りをしてきた老いた猟師が、ある時とても素晴しい獲物に巡り会って、さんざん追いかけ回した挙句確実にしとめられるというところで撃ちそんじる。そんなとき、はっと相手の動物に畏敬を感じる。そんなふうに、猟をしていてもまた、ふと雪の明けぼのの静寂の中で、我に帰ったように殺生の罪が気にかかる。「明けぼのや」にしろ「雪薄し」にしろ、そんな瞬間を暗示させようとしたのだ。
素堂は杜甫の「白小群分(はくしょうぐんぶん)の命。天然二寸魚(にすんのうお)。細微なるも水族を霑す。」を引いて「天然二寸の魚といひけんもこの魚にやあらむ」といっている。楽しい白魚漁も曙にはふとその小さな命に哀れを覚える。一寸というといかにも「ちょっと」という感じで、「一寸先は闇」だとか「一寸の虫にも五分の魂」とかいう諺が思い浮かぶ。
カルロス=カスタネダの『イクストランへの旅』の中にこのような一節がある。少々長いが引用しておこう。
「わたしの祖父が若いレグホンを数えていて、激恕したことからすべては始まった。それが確実に、しかもびっくりするような仕方でずっと減っていたのだ。彼は自分で計画して寝ずの番をしていた。数日後、彼はついに大きな白い鳥が若いレグホンを一羽ツメにひっかけて飛び去るのを目撃した。その鳥は早く、明らかにどう逃げたらよいかを知っていた。それは木のかげから急降下し、ひな鳥をひっかけると二本の枝のあいだを通って飛び去るのだ。それがあまりにもあっという間のできごとなので祖父は見とどけることはできなかったが、わたしにはわかったし、それがタカであるということもわかった。祖父は、それがタカだとすれば白変種にちがいないと言っていた。
わたしたちは白タカ退治をはじめ、落とした、と思ったことが二度あった。しかし、獲物を放しただけで逃げられてしまった。あまりにも早かったのだ。それはまた頭もよかった。二度と祖父の養鶏場へは現われなかったのだ。
もし祖父がその鳥を落とすことをそそのかさなかったら、わたしはその鳥のことなど忘れていただろう。二カ月のあいだ、わたしはその白タカを追って谷じゅうを歩きまわった。その習性を学び、それの飛ぶコースが直観的にわかるほどにまでなっていたが、それでもその早さと、現われるときの唐突さにはいつもだしぬかれていた。わたしは、出会うたびにそれが獲物を持ち去るのを阻止できたということは自慢できたが、ついに捕えることはできなかった。
二カ月にわたる白タカとの奇妙な戦いのあいだに、一度だけそれにまぢかに近づいたことがあった。わたしは一日じゅうそれを追いかけまわして、くたくただったので、ユーカリの木の下にすわりこんて眠ってしまった。突然のタカのなき声で目がさめた。からだを動かさずに目だけあけると、そのユーカリのてっぺんの枝に白い鳥がとまっているのが見えた。それが白タカだったのだ。追跡は終わった。しかし銃を撃つのはむずかしかった。というのも、わたしはあおむけになっており、その鳥もわたしに背を向けていたからだ。そのとき、急に風が吹き、わたしはその音にまぎれて二十二口径のライフルを取り、ねらいを定めた。撃ち損じないように、それが向きを変えるか枝を離れるかするまで待っていようと思った。しかしその白タカは身動きひとつしなかった。確実に撃つには姿勢を変える必要があったが、そんなことをすればあっという間に逃げられてしまう。待つことが最上だと思った。わたしは待った。長く果てしのない時間だった。わたしは動揺した。それは待つ時間の長さのせいか、あるいはその場の寂しさのせいだったかもしれない。急に背すじがゾクッとし、それまでにはしたこともなかったようにからだを動かして立ちあがり、その場を去った。そしてその鳥が飛び去ったかどうかふりかえって見ることさえしなかった。
わたしは白タカに対してとった態度を深く考えたことはなかった。しかしそのときに撃たなかったというのは、おそろしく不思議なことだった。それ以前には何十というタカを撃っているのだ。わたしの育てられた農場では鳥や動物を撃つのは当然のことだったのだ。(『イクストランへの旅』カルロス=カスタネダ、一九七四、二見書房、p.58~59)
このエピソードを、この本では「死が警告を与えた」と解釈する。白い鷹にカスタネダが忍び寄ったように、カスタネダにもいつも死が忍び寄っている。人は生きるために常に生き物を殺して食ったり、害獣を駆除したりする。しかし、その生存競争の連鎖は、結局人間自身にも帰ってくる。人もまた、戦争を繰り返し、生きるために殺しあってきた。食ったり食われたり、それが生きるということだ。しかし、それがふと悲しくなり、そこから解脱したいという気持ちが生じる。そこに、人間の良心の芽生えがある。
似たような話は日本の『吾妻鏡』にもある。
「去る三月七日熊野の那智浦より補陀落山に渡った者がおります。法号は智定房(ちじょうぼう)、実はこの者こそ下河辺六郎行秀法師でした。亡き頼朝殿が下野国の那須野で狩をなさったさい、大鹿一頭が勢子(せこ)の囲い込む中に臥したので、幕下より殊勝なる射手として行秀が召し出され、あれを射よ、と命じられたので厳命にしたがったが、彼の矢は当たりそこね、鹿は勢子の囲いの外へと逃げ去り、小山四郎左衛門尉朝政(ともまさ)がこれを射取りました。行秀は当の狩場で出家を遂げ、逐電し、それきり行方知れず。近年ようやく彼が熊野山で日夜「法花経(ほけきょう)」を読誦しているとの噂を耳にしていたのですが、とうとうかように補陀落(ふだらく)渡りを決行するに至り、憐れに思います。只今お見せしています書状は、彼が同門の僧に誂(あつら)えて、泰時に送り届けてくれよと言い置いていましたもの。今日、紀伊国の糸我庄(いとがのしょう)というところから到着いたしました。書面には、出家遁世してのちのことどもを、くわしく記しております」(『的と胞衣(えな)』横井清、一九九八、平凡社、p.25)
それまでたくさんの鹿を殺してきた行秀も、突如現われた大きな鹿の神々しい姿に一瞬躊躇が生じ、射損ねてしまったのだろう。行秀はこの時、一瞬にして悟りを開いたようだ。まさに「死が警告を与えた」と言にふさわしい。
同じようなテーマの句に、
おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉 芭蕉
という句がある。この句はこれより四年後の句であるが、その発想の原形は既にこの「明けぼのや‥‥」の句にあったといえよう。
なお、素堂も引用した杜甫の「白小」という詩を最後に掲げておこう。
白小 杜甫
白小羣分命 天然二寸魚
細微霑水族 風俗當園蔬
入肆銀花亂 傾筺雪片虚
生成猶捨卵 盡取義何如
白小という種に分かち与えられた命は、もとより二寸の魚として生きること。
微細な水棲動物に甘んじ、土地の習わしでは菜っ葉同様。
店に入荷すれば銀の花と咲き乱れ、籠を傾ければ雪の欠片と消えてゆくとも、
捨てた卵からまた生まれ育ち、取り尽くそうだなんてなんて無駄なこと。
三、熱田詣で
中世の神社仏閣は勧進(いわば寄付金集め)の名のもとに、様々な芸能でにぎわう場だった。平曲、曲舞、猿楽、田楽など、にわか仕立ての桟敷に大勢の人が押しかけ、お祭り騒ぎだった。また、こうした場所では連歌会(れんがえ)も盛んに行なわれ、熱田神宮でも『応永三十年熱田法楽百韻』などが残されている。(出版文化の未発達な時代には、こうした興行は寺社で行われ、境内に掲示されることで世俗に伝わっていったものと思われる。)
しかし、時代は変り、江戸時代に入ると、芸能は寺社の管轄から幕府じきじきの監視下に移され、神仏とは縁もゆかりもない場所に新たに芝居町を作り、そこへ移した。それは、神社仏閣を渡り歩く旅人だった芸人に常設舞台をあてがい、定住を促進する政策だった。もっとも、そういうとまだ聞こえがいいが、要するに芸能者を非人の身分に貶め、一種のゲットーに閉じ込めて、隔離しようとしたのだった。
徳川家の支配の下、芸能は片隅に追いやられ、隔離され、かつての自由に旅をする権利を奪われていった。それをふたたび取り戻すということが、芭蕉にとっての生涯のテーマであり、「旅」の意味だといってもいい。
熱田神宮も、そうした中で、時代から取り残され、荒れ果てていた。
「社頭(しゃとう)大イニ破れ、築地(ついぢ)はたふれて草村にかくる。かしこに縄をはりて小社の跡をしるし、爰に石をすえてその神と名のる。よもぎ、しのぶ、こころのままに生ひたるぞ、中なかにめでたきよりも心とどまりける。
しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉」
後醍醐天皇の御廟はまだしのぶ草に忍ぶことができた。しかし、かって道祖神のもとに繁栄を極めた中世の公界の芸能は、今やしのぶさえ枯れ果てている。ただ、夏に生い茂っていた蓬が蓬餅になって残っているだけ。芭蕉もまた中世の西行や宗祇の旅にあこがれて自ら旅に出たものの、茶店で餅をほおばりながら、時代の違いをしみじみと思ったのであろうか。桐葉(とうよう)はこの句に、
しのぶさへ枯れて餅かふやどり哉
皺(しわ)び伏したる根深(ねぶか)大根
と付けている。「皺(しわ)び」は「侘(わび)」に掛かっている。
芭蕉がしばしば荒れ果てた寺社や野ざらしの仏像などを題材にするのは、決して単なる「風情」からではない。よく「滅びの美学」なんて言葉も耳にするが、芭蕉自身は決してそれが亡ぶことなんか望んでなかった。
熱田神宮はこの二年後の貞享三(一六八六)年に修復が行なわれ、その翌年貞享四(一六八七)年の冬に『笈の小文』の旅でふたたび訪れた時には、新しくなった熱田神宮を喜び、
熱田御修覆
磨(とぎ)なをす鏡も清し雪の花
の句を詠んでいる。
芭蕉の祈りが天に通じたといってもいいだろう。つまり、芭蕉の句が多くの人の心を打ち、それが熱田神宮の修復への契機となった可能性は十分ある。古今集「仮名序」の「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし」とはこのことだ。
四、狂句木枯
名古屋は芭蕉にとって、この旅の中でも最も大きな収穫のあった場所だ。それは荷兮(かけい)・杜国(とこく)・重五(じゅうご)・野水(やすい)・越人(えつじん)など、名古屋周辺で活躍していた俳諧師たちとの出会いだった。
『野ざらし紀行』の中では、
「名護屋に入る道のほど風吟(ふうぎん)ス。
狂句木枯の身は竹斎(ちくさい)に似たる哉
草枕犬も時雨(しぐる)るかよるのこゑ」
とこれだけの記述しかないが、「狂句木枯‥‥」の句は、その出会いの記念すべき発句だった。このメンバーは、後に『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』といった撰集を編纂し、蕉風確立期の一時代を築いた。古池の句に代表される、芭蕉の一つの時代は、荷兮らとともにあった。
『冬の日』には、この「狂句木枯‥‥」の句で始まる歌仙(三十六句からなる俳諧連歌)が収められている。
「笠は長途(ちょうと)の雨にほころび、帋衣(かみこ)はとまりとまりのあらしにもめたり。侘びつくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。昔狂哥(きゃうか)の才子、此の国にたどりし事を、不図(ふと)おもひ出て申し侍る。
狂句木枯の身は竹斎に似たる哉 芭蕉
たそやとばしるかさの山茶花(さんざか) 野水
有明の主水(もんど)に酒屋つくらせて 荷兮
かしらの露をふるふあかむま 重五
朝鮮のほそりすすきのにほひなき 杜国
‥‥以下略‥‥」
こんな調子で、三十六句続く。
連歌は基本的に上句五七五と下句七七を合(あ)わせて一首の和歌を完成させる遊びで、俳諧も同様、
狂句木枯の身は竹斎に似たる哉
たそやとばしるかさの山茶花
有明の主水に酒屋つくらせて
たそやとばしるかさの山茶花
有明の主水に酒屋つくらせて
かしらの露をふるふあかむま
といったような狂歌を作っていくものと考えていい。
最初の発句は、いわば俳諧興行開始の季候の挨拶であり、そのため季題を入れる習慣になっている。今日の俳句に季語を入れるのは、その名残だ。
「狂句木枯」というのは、いわば芭蕉自身のキャッチフレーズのようなものだ。当時はまだ今でいう川柳なんかと同様に用いられる「狂句」(たとえば「薩摩狂句」のような)というジャンルはなく、ここでは自分の詠む句をへりくだってそう呼んでいる。「狂句を詠む木枯し」という意味の造語と見るべきである。
「狂句」を独立させて「狂句。木枯の‥‥」と読ませ、「この句は狂句ですよ」という前置きだとする解説が多いが、無理がある。素堂も「狂句木枯の竹斎、よく鼓をうつて人の心を舞しむ」と言っている。
木枯はかっての仮名草子の主人公「木枯の竹斎」によるものだ。竹斎などという三百年前のキャラクターは、今日では完全に忘れ去られ、芭蕉がこの句を詠まなかったらおそらく岩波文庫に加えられることもなかっただろうが、かっては誰でも知る人気者だったようだ。竹斎は「やぶくすし」で、にらみの介という従者を従えて、京都から江戸にむけて、東海道を旅する、いわば珍道中記の体裁をとっている。竹斎は薮医者で、薮だから竹の名前がある。従者の「にらみの介」も同様、薮だから「にらみ」という安直さでつけられている。医者の腕の方は怪しげだが、面白い頓智のきいた狂歌を詠んでみんなを楽しませていたようだ。いわば、道化師として、まさに素堂の言うような「よく鼓をうつて人の心を舞しむ」ような存在だった。「木枯の竹斎」というのは、これに吹かれればみんな散ってしまうという意味か。
当然、使う薬も怪しげなもので、フスマ(小麦の殻を砕いたもの、ブランとも呼ばれる。今日でも健康食とされている)ならぬ畳の黒焼などを持ち出して病人を治療する。中でも変なのが、「吸い膏薬」で、磁石山の石で作られたというこの強力な吸い取り薬は、一度は目に鉄屑の入った患者を見事に救うが、青梅が咽につかえた女に用い、梅は見事に吸い出したものの、ついでに目鼻も吸い寄せ、目玉が飛びだしてしまい、これが変な顔になってしまった。女は怒りだし、竹斎は慌てて逃げ帰り、そのとき、
目の玉の抜け上がるほど叱られて
この梅ほうしすごすごと行く
という狂歌を詠む。「梅干し」と「法師」を掛けている。
また、たまたま井戸に子供が落ちたところに通りかかり、助けようにもロープも梯子もないので、板戸に例の「吸い膏薬」を張り付け、井戸の口に蓋し、子供を吸い寄せようとしたが、いくら待っても子供は上がってこずに死んでしまい、ここでも袋叩きにあう。そこで一首、
筒井つの井筒に落ちし人の子の
とがをば我が負いにけらしな
この歌は、『伊勢物語』の、
筒井つの井筒にかけし麿がたけ
過ぎにけらしな妹見ざるまに
のパロディーになっている。
芭蕉が読んだのは、多分天和三年版の『竹斎』で、この本は挿絵が豊富で、今で言えば漫画のようなものだった。
それにしても、竹斎は何で自ら「天下一・やぶくすし・竹斎」と看板を掲げるのだろうか。許六(きょりく)編の『風俗文選(ふうぞくもんぜん)』によると、かって「やぶ」という名医がいたとのこと。ところが、その名声が世間に知られるにつれ、「やぶ」を名乗る偽医者がたくさん現われ、そのうち「やぶ」というのが偽医者の代名詞になったという。竹斎も、そういういかがわしい偽医者だったようだ。
竹斎は狂歌を詠むが、芭蕉が詠むのは歌ではなく句だ。それゆえ「狂句木枯」なのである。この句は、「狂句木枯」のこの私の身は竹斎のようなものです、という自己紹介の句だと思えばいい。それに対して、野水は「道理で笠に山茶花の花が飛び散ってるはずだ、誰かと思ったら竹斎のような狂句木枯ですか」と答える。(「とばしる」と一般に読まれているが、この時代は清濁の表記がなかったので、「飛ばしる」は「とは知る」と読むこともできる。誰だかは自ずと知れる、というニュアンスが込められている。)
この野水の脇句に、荷兮は、
有明の主水に酒屋つくらせて
と続ける。これで、
有明の主水に酒屋つくらせて
たそやとばしるかさの山茶花
という歌ができる。主水(もんど)というのは本来水を管理する役人のことで、人の名前によく使われた。主水(水の主)というくらいだから、さぞかしうまい酒ができるだろう。そんな計らいをするのは誰だろうか、笠に山茶花の花が飛び散っている洒落者だ、という意味になる。
今日、芭蕉というと発句ばかりが有名だが、本来俳諧というのは、大勢の連衆(れんじゅ)を集めてこうした俳諧の連歌を作るのを仕事としていた。大勢で談笑し、楽しい一時を演出し、社交の場を作り、御祝儀をもらうのが俳諧師の興行であり、それを本にしたりするのは、どちらかというと副産物だった。
江戸初期の貞門から談林にかけての俳諧の中心は、あくまで興行にあった。
しかし、興行は基本的には大勢のお客様を招待し、さらには遠くから高名な俳諧師を呼んだりしておもてなしをする関係上、決して庶民が気軽にというものではなかった。むしろ、裕福な武家や豪商の特権とでもいうべきものだった。もちろん、庶民もそうした席に呼ばれることはあっただろう。しかし、それはあくまで才能を見込まれてのことだった。芭蕉も藤堂家のの跡取り息子藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ)(蝉吟)の俳諧の席に呼ばれることで、俳諧と出会うことができた。
そのため、貨幣経済が発達し、本格的な町人文化の花開く元禄の世となると、文化の主体がこうした金持ちから一般庶民へと移ってゆく。そうなった時、金のかかる興行俳諧は次第に敬遠されるようになっていった。
元禄より前の談林俳諧の大流行した延宝の頃、出版メディアが急成長し、俳諧はこの頃から盛んに本になって、庶民に読まれるようになった。むしろ談林俳諧の最大の特徴は、興行の席でのその場の雰囲気から生れる笑いから、本になったときの不特定多数の読者を笑わせるものへと変わったことではなかったか。
談林は単なる連衆の笑いではなく、不特定多数の読者を意識した新らしい笑いの世界を展開した。これによって、人情ネタ、今日でいう「あるあるネタ」、突飛な発想によるシュールな笑い、古典のパロディーなど、今日の「お笑い」の基本がこの時期に確立されたといっても過言ではない。そして、日本のお笑いの基礎を作ったという点でも、延宝期の芭蕉の果たした役割は再評価されなくてはならないだろう。
しかし、貞享期に入ると、芭蕉は古典へと回帰する中で、ふたたび興行俳諧へと戻ってゆく。やはり芭蕉にとって終生忘れることができなかったのは、蝉吟の招きで俳諧興行に参加し、そこで身分の分け隔てなく談笑するあの空間だったのだろう。
しかし、時代は後戻りすることはなかった。江戸での俳諧の主流は、庶民が自分たちで巻いた俳諧一巻を師匠のもとへ持っていって、加点をしてもらい、高得点の作品を本にするという、新しい俳諧、いわゆる「点取り俳諧」へと流れていった。
点を付けるといっても、六十点とか七十点とかいうのではない。送られてきた句の上に、点者が良い句だと思ったものの上に点を打ち、点の付いた句の数を競うものだ。この点を付けることを、加点とも合点ともいう。「がってん」や「ガテン」の語源は俳諧用語だった。加点は中世の連歌でも行なわれていたが、庶民の作品を俳諧師匠が点賃を取って審査するという商売は、点取り俳諧に始まる。
やがて時代が下ると、一巻を審査するのではなく、前句を出題し、それに対する付け句だけを募集するようになる。そのほうが誰でも気軽に参加できるし、句もたくさん集められる。つまりそれだけ点賃が取れるということになる。こうして、やがて芭蕉の時代より百年後になると、柄井川柳(からいせんりゅう)によって、前句が「にぎやかなことにぎやかなこと」のようなものへと簡略化され、やがて前句もなくなり、ただ面白い五七五を募集するようになる。これがいわゆる「川柳」となった。
投句者がそのまま読者となり、投句者の数がそのまま本の販売部数につながるこの方法は、近代俳句が誕生する際、「ホトトギス」がそのまま五七五の「俳句」を募集し、それを選者が選んで本に載せるという形式で、新たな命が吹き込まれた。今日の俳句結社の同人誌は基本的にこの「ホトトギス」のスタイルを継承している。今日の俳句誌や新聞の投句欄は、点は打たないものの、基本的には入選順位や入選句数を競う「点取り俳諧」なのである。(ただ、今日ではメディアの中心が出版からネットへ移行しつつある。点取り俳諧の手法をそのままネットで行おうとしても、点料の徴収が難しいという問題があるのと、ホームページでもブログでもツイッターでも誰でも別に撰者を通さなくても作品が発表できるため、選者の権威が維持しにくいという問題がある。基本的に「俳句」は団塊世代以上の文化として高齢化する一方で、それに変る新しい流れは生まれていない。)
これに対し、芭蕉はあくまで興行俳諧の伝統を守ろうとした。
発句の心は挨拶である。しかめっ面して相手を睨みつけて挨拶をする人はいない。挨拶はあくまでも人間関係の緊張をほぐすためのもので、だからこそ気の利いたジョークの一つも求められる。しかし、俳諧を談笑だとする古い連衆の空間は、都会の生活の中ではすでに過去のものとなろうとしていた。おそらくその原因は、基本的に人間関係のわずらわしさにあったのだろう。人を招待するとなればお金も掛かるし、見栄も張らなくてはならない。そこではえてしてうわべだけの社交辞令に終始しがちになり、また閉鎖的な人間関係は排他的な価値観を生み出し、そこに参加するものの特権意識と大衆への侮蔑意識を生み出す。今日連句を復活させようとする試みがないではない。だが、そのとき一番障壁になるのは、やはりこの人間関係なのではないか。
江戸や大阪が談林俳諧の大流行に加え、出版メディアの確立によって、俳諧の大衆化が急速に進んだのに対し、名古屋はまだのんびりと連衆を集めて古典を肴に談笑する余裕が残っていたのだろう。荷兮らの作風は談林的なリアリズムを取り入れながらも、貞門の高雅な部分を残していた。そのへんもまた芭蕉の意図と一致したのだろう。しかし、結果的には蕉門は都会の俳諧師としては失敗した。元禄三年頃から芭蕉は「軽み」を唱え、点取り俳諧華やかなる都市部に食い込もうとするが、既に其角、嵐雪などの古い門人は芭蕉と距離をおくようになり、苦しい戦いを強いられた。芭蕉の死後、蕉門の中心は、むしろ近江、美濃、伊勢といった地域に移り、田舎俳諧の色彩が強くなっていった。
もう一つの名古屋での発句、
草枕犬も時雨るかよるのこゑ
の句は、興行の句ではなかったようだ。宗祇法師の、
世にふるもさらに時雨の宿り哉
のイメージによるものだろうか。旅の見知らぬ宿に雨露をしのいでいると、どこからか犬の遠吠えの声が聞こえてきたのだろう。犬というのは俳諧に縁が深い。室町時代に作られた『菟玖波集(つくばしゅう)』、『新撰菟玖波集』は連歌の撰集だが、それに習(なら)って作られた俳諧の最初の撰集は『犬菟玖波集』だった。
宗祇の「世にふるも‥‥」の句は連歌の発句だった。芭蕉は自らの俳諧師という立場を考えて、あえて「犬も時雨るか」と言ったのであろう。
五、市人よ!
「雪見にありきて
市人よ此の笠うらふ雪の傘」
「雪の笠」は連歌や俳諧特有の倒置法で、本来は「笠の雪」というべき所だろう。しかし、「雪の笠」とひっくり返して見ると、何となくそういう種類の「笠」が存在するかのような錯覚を与える。それを逆手にとって「市人よ、この笠売ろう。」と世俗に向かって呼びかける。言葉の上でだけで作り出された「ないもの」を売る。それが詩人という職業なのだ。名古屋で、自分を仮名草子の竹斎になぞらえた芭蕉は、ここでも自分を「ないものを売り歩く」いかがわしい商人に例えたのだ。RCサクセションの『不思議』という歌に、
俺は資本主義の豚で
ないものを売り歩く
とあるが、それと似たような心だろう。天和期の『虚栗(みなしぐり)』での榎本其角の発句にも、
詩あきんど年を貪ル酒債(さかて)哉
とある。
「雪見にありきて」という前書きは、雪を見ている間に、笠にこんなに雪が積もってしまった、ということだろうか。
芭蕉は単に卑下する気持ちだけでこのように自身の姿を描いているのではない。むしろ、芭蕉は市場にいるさまざまな卑賎視されてきた芸能の人々になみなみならぬ関心を持っていたようだ。
節季候(せきぞろ)の来れば風雅も師走哉
節季候を雀のわらふ出立(でた)ち哉
から鮭も空也(くうや)の痩せも寒の内
納豆きる音しばしまて鉢叩(はちたたき)
年々(としどし)や猿に着せたる猿の面
節季候(せきぞろ)、鉢叩(はちたた)き、空也念仏(くうやねんぶつ)、猿引(さるひ)き、これらは身分としては士農工商の外にいる人々で、いわば非人と同等に扱われている人達だった。これはおそらく、芭蕉の句を一貫して流れる、卑俗なものと古典風雅との一致の理想の中に、身分制社会への反発ということが底流にあったからではなかったか。卑賎ないかがわしい商人で何が悪い、という反骨精神が、笠の雪を売り歩く自身の姿となったのではなかったか。
実際、こうした卑賎な芸能者は、腹を膨らましてくれるわけではない。しかし彼らは過酷な生存競争の世の中にあって、笑いや涙をもたらし、ぎすぎすした緊張した関係を解きほぐし、人を和ませ平和な世界を作る。芸能の役割はまさに「軍縮」だ。争いをやめさせ、みんなで一緒に笑ったり泣いたりできる平和な世界を作るのがその最大の仕事だ。だから、徳川の武家政治はもとより、今も世界のいたるところにある軍事独裁国家はいずれも芸能を弾圧して止まない。
芭蕉も俳諧師として、「風雅」のもつ「たけきもののふをなぐさめ、力を入れずして天地を動かす」の理想を共有するものとして、こうした芸能者の姿を眺めていたのであろう。
年末の市場は忙しく、活気がみなぎっている。俳諧師としては特に用はないのだが、それでもその人々の息吹を感じたくて、市場に足を踏み入れる。
何に此の師走の市にゆくからす
という句もあるように、芭蕉は師走の市場の雰囲気が好きだったのだろう。用もないのに市場に出かけて行く自分を自嘲している。黒ずくめの僧形の芭蕉は、市場ではやや場違いな存在だ。
近代には、西田幾多郎も黄昏時の金沢の町の雑踏に、これが世界の真実の姿だと悟り、後の「純粋経験」の着想を得ている。雑然としていて、人々が笑い合ったり罵り合ったりしながら、それでいて何となく秩序が保たれている。そこはまさに「道」そのものの姿だ。陰と陽、相反する気が互いに交錯しながら、天地万物はつつがなく運行を続ける。「混沌は万物の母」とは老子の言葉だが、混沌とした市場の道の雑踏こそ、すべての人間の活力が生まれてくる。芭蕉は決して世俗と縁を切った人ではない。「帰俗」ということを唱える芭蕉は、自らも詩あきんどとなって市場に出て「俳諧」という雪の笠を売り続けるのだ。
果たしてこの笠は売れたのだろうか。「芭蕉」のブランドがあれば、結構法外な値で売れそうな気もするが、肝心な「もの」がないならやはりダメか。芭蕉は再び「雪の笠」をかぶりながら、とぼとぼと旅を続ける。
なお、この句は名古屋抱月亭での興行のさいの発句、
市人にいで是売らん笠の雪
の改作で、興行の時は市人に呼びかけるのではなく、これから市場に行って笠の雪でも売りにいきましょうか、という意味になっている。ここでは「雪の笠」とひっくり返さずに、そのまま「笠の雪」になっていてわかりやすい。抱月亭の主人、抱月はこの句にこう答える。
市人にいで是売らん笠の雪
酒の戸たたく鞭の枯れ梅
「笠の雪」などという要らないものを売りに行こうと誘いに来た人は一体誰だろう。そう思って外に出て見ると、酒屋の戸を叩いていたのは梅の枯れ枝だった。「笠の雪」を売る商人は幻だったか。
六、馬をさへ
「旅人をみる
馬をさへながむる雪の朝(あした)哉」
十二月、芭蕉(ばしょう)はふたたび熱田の桐葉のもとを訪れ、そこで興行する。寒い雪の朝、しばし旅を忘れ、火燵で外をゆく馬の姿でも見ようか、といったところか。桐葉の友人の閑水(かんすい)はこう和す。
馬をさへながむる雪の朝哉
木の葉に墨を吹きおこす鉢
それなら火鉢に火を起こしましょう、という意味だ。
こうした状況からすると、この句は宿から旅人を眺める句なのだが、それではあまり面白くない。芭蕉があえて「旅人を見る」という前書きを付けたのは、むしろ外を行く旅人に自分の姿を重ねたからではないか。つまりこれは自分もまた旅をしていて、すれちがう旅人に鏡に映る自分の姿を見たと解すべきではないか。
旅人も辛そうだが、朝もまだ薄暗いうちから凍り付くような雪の朝を重たい人を乗せて歩く馬はもっと辛そうだ。旅人もそうだが、つい馬の姿も眺めてしまう。
馬に乗った自画像は天和二(一六八二)年にも、
馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉
の句がある。夏の照りつける炎天下にわずかな笠で涼むだけの旅人と、凍てつくような冬の朝に雪の笠をかぶる旅人。辛さという点)では甲乙つけ難い。
七、鴨の声ほのかに白し
「海辺に日暮(ひくら)して
海くれて鴨の声ほのかに白し」
鴨の声に色があるというのは共感覚っぽい感じだが、「白し」は「いちじるしい」というときの「しるし」からきた言葉で、はっきりと、という意味がある。宗祇の『水無瀬三吟』の句に、
川風にひともと柳春みえて
船さす音もしるき明け方 宗祇
とあるが、この「しるき」と同じに考えればいい。海も日が暮れて薄暗くなれば、あたりもうすぼんやりとしてくる。そんな中で、鴨の声だけがかすかだがはっきりとあたりに響きわたる。「海辺に日暮して」は海辺での野営を思わせる。広大な海を前にしてのキャンプはいかにも豪快な感じで、赤々と灯るたき火にしばし寒さを忘れ、なごませられる。その雰囲気を読み取ってか、この句には、
海くれて鴨の声ほのかに白し
串に鯨をあぶる杯 桐葉
という脇が付けられている。
ところで余談だが、「みそか月なし千とせの杉を抱あらし」の句を嵐が杉を抱くと解すくらいならいいが、『奥の細道』の「田一枚植えて立ち去る柳哉」の句を柳の精が田を植えて立ち去るというトンデモ解釈を振り回す人がいたりする。こうした人の説によると、動詞連用形のあとに来る名詞は、その動詞の主語でないと日本語として不自然だそうだ。確かに「走る馬」といえば「馬が走る」のだし、「飛ぶ鳥」というのは「鳥が飛ぶ」のを言う。しかし、それなら、「明日見にいく柳は‥‥」といった場合はどうだろうか。柳が見にいくのではない。「一人寝る夜は‥‥」といった場合はどうだろうか。夜が一人で寝るのではない。こういう言い回しは日本語としてはありふれたもので、それからすれば、「抱く嵐」を「嵐が抱く」と取る必然性は何もない。もし、「みそか月なし千とせの杉を抱あらし」の句を嵐が杉を抱くと解さなければ日本語として不自然だ、「田一枚植えて立ち去る柳哉」の句を柳が田を植え立ち去ると解さなければ日本語として不自然だ、というのであれば、この「串に鯨をあぶる杯」という桐葉の句も「杯が鯨をあぶる」と解すべきなのだろうか。
八、歳暮
「爰に草鞋(わらじ)をとき、かしこに杖を捨て、旅寝ながらに年の暮ければ、
年暮れぬ笠きて草鞋はきながら」
山口素堂が波静本の序で「いづれの浦にてか笠着てぞうりはきながらの歳暮のことぐさ、これなん皆うきよの旅なることをしりがほにてしらざるを諷したるや」と言っているように、この句は「海くれて‥‥」の続きで、海辺での野宿の句である。しかし、この後に「といひいひも、山家(やまが)に年を越て」と続くところから、この句を故郷伊賀での句とし、芭蕉にとっては故郷も旅寝だとする説もある。しかし、私は素堂のように単純に海辺で草履をといて杖を捨てて年の暮れを過ごしたという解でいいように思える。「といひいひ‥‥」以下は正月の句が故郷での吟であることから急転を計ったもので、たとえ大晦日は故郷で過ごしたにせよ、年暮れぬの句は芭蕉の心の中ではどこかの浜辺なのである。
この句の面白いのは,「草鞋をとき」と前置きしながら「草鞋をはきながら」としている点だ。物質としての草鞋はといたが、心の中の草鞋をとくことはできない。人生は旅なのである。たとえ旅から帰ったとしても人生という旅は終わってはいない。そんな意味が「笠きて草鞋はきながら」の言葉に込められていて、素堂が「うきよの旅なることをしりがほにてしらざるを諷したるや」と言うのもそういう意味なのだろう。
この句をもって、芭蕉にとって大きな転換の年だった貞享元年が終わる。
九、丑の年の歳旦
結局、実際芭蕉は故郷の伊賀で新年を迎えることになった。
「といひいひも、山家に年を越して
誰が聟(むこ)ぞ歯朶(しだ)に餅おふうしの年」
「歯朶に餅おふ」は、新年に聟が舅の家へ鏡餅にシダを添えて送る風習によるものらしいが、詳しいことはよくわからない。シダは今日でいう裏白のことか。裏白は今でも鏡餅の下に敷くが、かつては正月のわらべ歌に、
お正月さん、どこまでござった。羊歯(しだ)を蓑に着て、つるの葉を笠に着て、門杭(かどくい)を杖について、お寺の下の柿の木に止まった。
というふうに歌われていたように、正月さんの蓑にも見立てられた。餅を背負って歩く牛の姿は、まさに正月さんの旅姿といえよう。
歳旦の句にその年の干支(えと)を折り込むのは、この頃より半世紀くらい前の貞門(松永貞徳門)の俳諧では、しばしば行なわれていた。
霞みさへまだらにたつやとらの年 貞徳
雪や先(さき)とけてみずのえねの今年 徳元
土芳の『三冊子』に「此句は、丑のとしの歳旦や。此古体に人のしらぬ悦(よろこび)ありと也。」とあるのは、そのことを指すのであろう。
インドの聖なる牛ではないが、普段農耕で酷使される牛も今日ばかりは晴れ姿。牛のようにゆっくりと確実に、今年も旅を始めよう。
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