野ざらし紀行─異界への旅─ ⑤

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十、江戸での芭蕉

 寛文十二(一六七二)年、芭蕉は二十八歳の若さで藤堂藩をやめ、江戸に出ることとなった。おそらく、貧農の出である芭蕉に身分社会の壁は厚く、もうこれ以上の出世もないと見切りをつけたのだろう。

 しかし、元来文才があり、書に長け、帳簿にも通じていた芭蕉は、俳諧で得た人脈を手がかりに、江戸でもたちどころに成功を収めた。江戸に出てきた芭蕉は、まず季吟門のつてで、日本橋本船町(ほんふなちょう)の名主、小沢太郎兵衛得入(とくにゅう)の家の帳簿付けをやった。田中善信の『芭蕉二つの顔』によれば、町名主は相当の激務で、業務を代行する町代(まちだい)を雇う名主が多かったという。芭蕉が江戸に出た頃は、まだ「町代」という名はなかったが、似たような業務を担当していたと思われる。今でいえば町長の秘書といったところか。かなりの要職であった。

 さらに、延宝期に入ると、小石川の神田上水の浚渫作業がそれまで町人に割り当てられて、重労働を強いられていたのに目を付け、人足を集めて作業を代行する新商売を思いついた。こうして、延宝期の芭蕉は延宝五(一六七七)年の俳諧師匠としての立机とも相成って、まさにこの世の春を迎えていた。

 この頃一世を風靡していたのが談林の俳諧だった。連歌師西山宗因(梅翁ともいう)の老いのすさびで始めたこの俳諧は、とにかく型破りで、古典の趣向に囚われず、庶民の日常生活をリアルに描き出していった。それが、上方・江戸の都会っ子にバカ受けで、芭蕉も延宝三(一六七五)年、宗因が江戸に来た際、それまでの貞門(季吟門)をやめ、談林の俳諧師となった。元来実務派のリアリストだった芭蕉にとって、このムーブメントは渡に舟だった。しかも、芭蕉の場合は、さらにそれに奇抜な空想を加え、人々を驚かせていった。しかし、芭蕉の俳諧は次第にシュールとも言える大胆な言葉の取りなしや表記の実験などを加えてゆき、マニアックなものになっていった。

   双六の菩薩もここに伊達姿

 衆生の銭をすくいとらるる

   雲助のたなびく空に来にけらし

 幽霊となって娑婆の小盗み

   よしなき    千万

 夢なれや    夢なれや

 宗因や井原西鶴などの本来の談林誹諧は、庶民の風俗や人情などを巧みに描いたが、芭蕉の誹諧は菩薩が博打打ちになって金儲けしていたり、雲助が空から来たのを文字どおり幽霊と取りなし、この世に舞い戻っても盗みを働いていたり、突飛な空想を楽しむ方向に向かっていった。また、伏せ字を使って当時としては危ない話題に触れたりもしていた。伏せ字部分を補うと、

   よしなき謀反笑止千万

 夢なれや由井正雪夢なれや

となる。

 そんな芭蕉に延宝八(一六八〇)年、突然転機が訪れた。芭蕉は急にそれまでの仕事をすべて投げ捨てて深川に隠棲し、仏頂和尚のもとを尋ね、仏道に傾倒していった。芭蕉の身に何が起こったのか、芭蕉自身も芭蕉の弟子たちも黙して語らない。作品も、それまでの都会的で華やかなものから、急に貧乏臭くなる。

 この時本当に何が起こったのかは、ほとんど何もわかっていない。たいていの研究者は無常感に駆られての発心という精神的な問題として捉えている。しかし、田中善信は、ここに一つの大胆な仮定をしている。それによると、芭蕉には寿貞という妻がいた。もちろん正式の妻ではない。正式の妻ということになると、家同士の関係が生じ、また身分が釣り合わないやら何やらで問題が起こりやすい。そこで実質的には妻であっても、表向き奉公人の形態をとる、いわば愛人契約にする場合がしばしばあったという。こうして寿貞と仲睦まじく暮らしていた芭蕉が、たまたま余裕もできたということで、甥の桃印を伊賀から呼び寄せたところ、桃印が寿貞と駆け落ちしてしまい、いわば芭蕉が寝取られた形になってしまった。当時不倫は死罪だったが、血縁のものということで殺すにもしのびず、芭蕉は一計を案じた。延宝八年に起きた火災は芭蕉の棲んでいる日本橋小田原町のすぐそばにまで迫り、もう少しでという所のものだった。そこで芭蕉はこの火事で桃印が死んだことにし、伊賀藤堂藩に死亡届けを出し、桃印はこれで戸籍を失ったものの命は助かるということになった。さらに、桃印のことで噂が広まることを恐れ、芭蕉は深川隠棲を余儀なくされた、というものだ。

 この説は週刊誌の三面記事のようで面白いのだが、面白すぎるのがむしろ欠点といえよう。当代きっての俳諧師が三角関係ということになれば、いくら抑えても噂にならないはずはない。それこそ後々まで芝居のネタにできそうな話だ。しかも、寿貞が芭蕉の妻だったという話は百年たった後に多賀庵風律が老いた野坡から昔に聞いたことを書いたもので、信憑性に乏しい。芭蕉に妻がいたということでさえ、当時の人々の好奇心を刺激しただろうから、それについて百年間誰も語らなかったというのは不自然だ。

 当時は一般に結婚の年齢も早く、元服したらすぐに嫁を取ることも多く、子供ができるのも早かった。だから、たとえ二十歳でやっと最初の子が生れたとしても、四十になる頃にはもはや孫がいてもおかしくなかった。世代の交代が今よりはるかに早かった。そのため、当時は四十過ぎれば「初老」と呼ばれ、家督を息子に譲って隠居することも珍しくはなかった。芭蕉の深川隠棲も三十六歳とやや早いがそういう年齢だったと言えばそれまでだ。

 しかし、芭蕉にとってこの隠棲は新たな一つのチャンスにもなった。この頃既に一世を風靡した談林俳諧も衰退ムードにあり、芭蕉の隠棲はそういう時期だけに、むしろ世間の目にはいさぎよく映っただろう。そして、仏頂禅師の下で参禅して、坊主になるつもりかと世間の人もうわさしただろう。さらに、天和の新風を小出しにすることで、芭蕉は何か次の俳諧をたくらんでる、と期待を集めることもできた。芭蕉庵の焼失も不運な出来事ではあったが、そうした事件があったからこそ、『野ざらし紀行』の旅を数々の苦難を乗り越えてのドラマチックなものとして世間に印象づけ、翌貞享三年春の『蛙合』興行で古池の句を発表し、蕉風確立を不動のものとした。

 ところで、寿貞が妻でないとすると、一体芭蕉は若き日の性の欲望をどのように発散させていたのだろうか。そのあたりの疑問から、芭蕉には昔からホモ説が絶えない。この場合、芭蕉がまだ伊賀にいた頃に書いた『貝おほひ』に「われもむかしは衆道ずきの」とあるのが、最も有力な証拠とされている。衆道というのは男色のことだからだ。そこから、芭蕉と蝉吟との関係が疑われるし、この『野ざらし紀行』で出会う杜国との関係もいろいろ噂された。しかし、『貝おほひ』の文は単に句合わせを盛り上げるための冗談と取れないこともない。確かにホモ説でもないことには、芭蕉という人間はあまりに色気がなさすぎる。だから、ホモ説をむきになって否定するのではなく、むしろ灰色のままにしておいたほうが、芭蕉への世間の興味をつなぐという意味で必要なことかもしれない。

 私としては、むしろ芭蕉は病弱だったのではないか、と考えている。芭蕉というと忍者説まであるように、旅での健脚ぶりが強調されてきた。しかし、その旅の大半は馬に乗っていたとすれば、果たして健脚だったかどうか疑ってみる価値はある。馬といっても、武士のように愛馬にまたがって颯爽とというわけではない。街道で営業している馬子の馬に乗って、歩く早さでゆっくりボクボク歩いていただけだ。ちょうど遊園地のポニーに乗るような状態を、延々何時間も過ごすようなものだ。しかも、許六の描く『芭蕉行脚図』を見ればわかるように、芭蕉は笠だけを手にし、旅の荷物は全部曾良が背負っている。これは従来、「当時の師弟関係はこのような厳格なものだった」と説明されているが、芭蕉の体が弱かったとしたら、これは当然だろう。芭蕉が一人旅に旅の理想を求めているにもかかわらず、実際の旅は常に門人が同行していた。これも芭蕉の体が弱かったとしたら当然だ。

 芭蕉には持病があった。延宝九年七月二十五日付けの木因宛の手紙に、すでに「拙者夜前は大に持病指発(さしおこ)り、昨昼之気のつかれ、夜中ふせり申さず候う間」とあり、この頃すでに「持病」だったのだから、この病はこの時が初めてではない。つまり、芭蕉は延宝期、働き盛りのときから既にしばしば病に苦しめられていたのだ。そして、破笠の語るところによると、貞享期に初めて会った芭蕉は四十一、二歳なのに「六十有余の老人」に見えたという。これを、深川移住以降の貧しさや仏道の影響による質素な食生活のせいと見る人もいるが、もっと前から、延宝期から病気がちだったせいではないか。そうなると、深川移住の動機の一つにも、あるいは仏道に心を寄せるようになった動機の一つにも、健康状態の悪化があったのかもしれない。

 病弱ということになると、この『野ざらし紀行』の読み方も多少違ってくる。たとえば、「野ざらしを心に風のしむ身かな」の旅に死ぬのではないかという不安はもっと現実的なものだったのかもしれないし、「芋洗う女‥‥」の句も、西行のように健康だったなら、というニュアンスなのかもしれない。

 芭蕉の病弱が疑われるもう一つの根拠は、やはり五十一歳の若さで死んだことであろう。当時「人生五十年」と言われていたとはいえ、みんながみんな五十くらいで死んでいたわけではない。中世でも西行は七十三、定家は八十、中世の連歌師宗祇は八十二、肖柏は八十五、宗長も八十五、俳諧の祖の宗鑑(そうかん)は八十九、荒木田守武は七十七、貞門を開いた松永貞徳は八十三、そのほか世阿弥も八十一、一休宗純も八十八、雪舟も八十七で、みんな長生きている。芭蕉の周辺でも、宗因は七十七、曾良は六十一、任口は八十一、季吟は八十二、素堂は七十五、杉風は八十五まで生きた。もっとも、其角は四十七、嵐雪は五十四、去来五十四、丈草四十五といった若くして死んでいる人も少なくない。其角、嵐雪は大酒飲みで遊廓に入り浸たる不健康な生活をしていたし、丈草ははっきりと病弱で、そのため仏道に入っていた。芭蕉は途中からベジタリアンになるなど、あれほど生真面目で節度ある健康的な生活をして短命だったのは、やはり芭蕉も病弱だったと考えられるのではないか。

 西行については、文覚という武士の出で武芸に長けた法師が、西行は頓世の身なのに歌など詠んで遊んでいてけしからん、「いづくにても見合ひたらば、かしらを打ちわるべきよし、つねのあらましにて、有けり」と言っていたが、実際に会ってみると、これなら頭をかち割るどころか逆にやられてしまうと思ったという話が『井蛙抄(せいあしょう)』に記されている。それほど屈強な男だったからこそ、あの乱世の世を長生きできた。もし芭蕉が西行なみの肉体の持ち主だったなら、蝦夷や琉球はもとよりオランダまでも旅をし、行く先々で恋をし、夢はチューリップ畑を駆け巡っていたかもしれない。

十一、春なれや‥‥

 故郷伊賀で正月を過ごした後、芭蕉は再び奈良へと向かう。

   「奈良に出(いづ)る道のほど

 春なれや名もなき山の薄霞」

 奈良には春日山、三輪山、生駒山、葛城山、など数々の名山があり、中でも天の香具山の霞は後鳥羽院の、

 ほのぼのと春こそ空に来にけらし

   天の香具山霞たなびく

の歌で有名だ。

 そんな美しい、まさに日本武尊皇が「国のまほろば」といった、青垣山隠(あおがきやまこも)れる奈良盆地を思い浮かべながら、芭蕉は伊賀を後にしたのだろう。

 心が天の香具山にあれば、道筋の名もなき山の霞でも、どことなく神々しく思えてくる。名山名所はそれだけで高貴なものであるが、名もなきものに春が来ないというわけではない。春は貴賤を問わず天下あまねくやってくる。香具山の霞は連歌の世界、そして、名もなき山の霞の風雅─それこそが俳諧なのである。

 宗祇法師は『筑紫道記(つくしみちのき)』のなかで、海辺の景色に目を止めながらも「名所ならねばしひて心とまらず」と言った。宗祇の真意は金子金次郎によれば、その後の「やまと言の葉の道も、その家の人、又は大家などにあらずば甲斐なかるべし」とあわせて、自分も歌を詠んではみたものの、勅撰集入集など夢の夢だろうという嘆きにあり、それを名もない景色の美しさに例えたのだという。いわば、歌が身分によって評価される現実を逆説的に述べたものらしい。題材に貴賤をとやかく言うのは、芭蕉の時代にも普通のことだった。

 写生は西洋の絵画であれ、近代俳句であれ、少なからず貴族趣味からの脱却の中で起こってきた。近代の市民が自分たちの身近な世界を解放し、独自の美を発見しようとする中で、何でもない風景の美しさが描かれてきた。しかし、こうした卑俗なものの美を解放する試みも、古い権威との拮抗の中でこそ輝くのであり、ひとたび写生が体制の側のものとなってしまうと、あとは平凡な風景の羅列となる。それこそ何でも作者が美しいと言えば美しいことになってしまうし、およそこの世にあるもの、明日は死んでもう見られなくなると思えば何だって美しいものなのだ。こうして写生句は際限なく増殖して行く。すべての景色が平等であり、等価であるなら、結局、あとはただ描写の奇抜さや題材の珍しさの勝負となる。

 談林の俳諧は既にその傾向をもっていた。風俗の描写は確かに庶民の生き生きとした世界を解放した。しかし、芭蕉はそこにとどまらず、普遍的な価値とリアルな描写の両立を目指す。名もなき山の霞も、結局は香具山の霞を心においてこそ特別な意味を持つのだ。

十二、氷りの僧?

     「二月堂に籠りて

 水とりや氷の僧の沓(くつ)の音」

 この句はよほど難解だったのか、蝶夢(ちょうむ)編の『芭蕉翁発句集』(安永三年刊)では「水とりやこもりの僧の沓の音」とあり、また、『芭蕉句選』(元文四年刊)では「水鳥や氷の僧の沓の音」誤って書かれていたという。「氷の僧」というのが何のことか分からなかったのだろう。

 「こもりの僧」なら確かに分かりやすい。お水取りで二月堂に籠っていた僧が姿を表わし、その沓の音が聞こえるという、そのままの意味だ。しかし、これだとあまりに平凡すぎる。かといって「水鳥や‥‥」だと意味が通らない。

 近世の人が首をひねったこの句も、近代人はほとんど悩むことがなかった。「氷の僧」─面白いレトリックじゃないか、それですんでいた。近代になり、西洋から象徴詩の手法が入ってくると、しばしば隠喩の省略的な言い方が行われるようになる。たとえば『海潮音』の、カール・ブッセ作上田敏訳の、

 山のあなたの空遠く

 「幸(さいはひ)」住むと人のいふ

は、

 山のあなたの空遠く行くが如く

 「幸」住むと人は言う

の略なのだが、俳諧の伝統的な語法だとこれは、

 幸や山のあなたの空遠く

で済む。つまり、「幸住すむ」という断定を避けて、「や」や「かな」のような疑問とも詠嘆とも取れる曖昧な言い切りや体言止め、連用形などで後に何か省略されていることを匂わす言い回しをする。隠喩を断定的に語るというのは、その点では近代詩特有の言い回しなのである。たとえば、

 水枕がばりと寒い海がある   三鬼

の句は「海がある」と断定するところが近代的なのであり、

 水枕がばりと海の寒さかな

であれば俳諧なのである。

 氷の如き僧を「氷の僧」とすることは、現代詩であれば別に問題はない。しかし、芭蕉の時代にこの言い回しが成立したかどうか。弟子たちの混乱ぶりからすると、かなり無理があったのではなかったか。

 「水とりや‥‥」の句にはもっと簡単な解釈が可能なのではないか。氷の僧が「こもりの僧」の間違いでないとすれば、むしろ私は「氷の」の「の」がどこに掛かるのかを見直すべきだったと思う。「氷の僧」というのは、言い回しとして不自然だし、最初からありえなかったのではなかったか。それなら「氷の沓」はというと、これもありそうにない。残るのは「氷の音」だ。この句は、氷の、僧の沓の、音、というふうに掛かっていたもので、本来なら「僧沓の氷の音」となるところを五七五のリズムになるように並びかえただけではなかったか。

 旧暦の二月といえば今日で言う三月だが、深夜のお水取りともなればまだ寒く、氷の張ることもあったのだろう。その氷を僧が沓で踏み割っている姿に芭蕉は目を止めたのではなかったか。氷の割れる音は、

 袖ひちてむすびし水のこほれるを

   春立つけふの風やとくらん

                     紀貫之

 谷風にとくる氷のひまごとに

   打ち出づるなみや春のはつ花

                     源当純(みなもとのまさずみ)

といった古歌を連想させ、春の訪れのめでたさを表わしている。それが芭蕉の本来の狙いではなかったか。この句は頭の文字をたどってゆけば、「水」「氷」「沓」と水のつく字が並んでいる。ここにもさりげなく、水が一度凍り、日が昇るとともに溶けて水に戻るかのような、細かい演出がなされている。

十三、三井秋風の花林園にて

 奈良から京に登り、鳴瀧(なるたき)の三井秋風(みついしゅうふう)の別墅、花林園を尋ねる。

 「京にのぼりて、三井秋風が鳴瀧の山家(やまが)をとふ。

   梅林

 梅白し昨日や鶴を盗まれし

 樫の木の花にかまはぬ姿かな」

 三井といえば「現金掛け値なし」という新商法で繁盛した越後屋呉服店のあの三井の一族で、初代三井の三井高利(その名のとおり金貸しだった)の甥に当たるという。越後屋の江戸進出は延宝元(一六七三)年で、芭蕉が江戸に登る三年前のことだった。その後天和二(一六八二)年の八百屋お七の大火で焼け出されたりしながらも苦労して勝ち取った栄光は、業種が違うとはいえ、芭蕉の姿にも重なるものがある。越後屋の発展を見ながら、俺も頑張ろう、と思った地方出身者もたくさんいたことだろう。

 三井秋風も当然金持ちで、鳴瀧の花林園もさぞかし立派で、広い庭園には今を盛りと梅が咲き誇っていたのだろう。三井秋風があまりに有名な金持ちだったため、芭蕉のこの句を追従の句だと揶揄する人がいたようで、去来が『去来抄』の中で「秋風ハ洛陽の富家に生れ、市中を去り、山家に閑居して詩歌を楽しみ、騒人を愛するとききて、かれにむかへられ、実に主を風騒隠逸の人とおもひ給へる上の作有」と弁護している。「騒人(そうじん)」というのは別に騒がしい人ではない。騒といのは屈原(くつげん)の『離騒(りそう)』という詩から来たもので、騒には憂いとか悲哀という意味がある。そこから屈原のような隠逸の詩人を騒人と呼んでいた。三井秋風は金持ちでも心は隠士だから尋ねたのであって、金に媚びたのではない。

 しかし、このような金持ちでも、何の悩みもないかといえばそうでもない。はじめ北村季吟に師事し、貞門の俳諧師だった秋風は、後に西山宗因や田中常矩(たなかつねのり)とともに談林俳諧の一翼を担うこととなった。

 柳短ク梅一輪竹門(たけもん)誰がために青き

 歌よまず詩作らず自然と夜着に雪を聴ク

といった破調の句がある。

 しかし、天和二年(ねん)に宗因、常矩と相次いで失い、談林の俳諧も急速に衰退してゆくこととなった。宗因の死は芭蕉にとっても大きなショックで、この『野ざらし紀行』の旅もまた、宗因の面影を追い求めて旅に出たようなものだった。まして宗因、常矩と親しかった秋風にとっては、ぽっかり穴のあいたようなもので、どうも三年たった今でも、まだショックから立ち直ってなかったようだ。この句はそんな芭蕉からの秋風へのなぐさめの言葉だった。

 梅白し昨日や鶴を盗まれし

 梅には赤いのも白いのもあるが、「白」を強調したのは弔意を込めてのことだろう。鶴は渡り鳥だから春には北へ帰っていくもので、それは自然の摂理、運命だから仕方がない。それを「盗まれた」と表現することで、何とか秋風から笑顔を引き出したかったのであろう。秋風はこう答える。

   梅白し昨日や鶴を盗れし

 杉菜に身擦(みす)る牛二ツ馬一ツ

 杉菜とは、過ぎし菜のことだろうか、それとも風流を好むという意味の「数寄(すき)」の菜のことだろうか。庭園には似つかわしくない雑草に身をすり付けている牛の様なものですよ、という謙虚な答えだ。牛二ツとは、かって梅翁(宗因の別名)が江戸に来た時芭蕉の詠んだ、

 この梅に牛も初音と鳴きつべし    芭蕉(当時は桃青)

の句を思い起こしたものか。となると、牛二ツは芭蕉と秋風のことだろうか。ならば馬一ツは誰だろう。いや、脇句はあくまで挨拶だから、自らは謙遜して牛といっても、やはり馬は芭蕉のことなのだろう。旅人という意味も込めて。そうなるともう一人の牛は誰だろうか、このあと尋ねる任口上人(にんこうしょうにん)だろうか。

 素堂は「洛陽に至り、三井氏秋風子の梅林をたづね、きのふや鶴をぬすまれしと、西湖にすむ人の鶴を子とし、梅を妻とせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげの句のしもにたたんことかたかるべし。」と言い、「道のべの木槿」や「山路来て何やらゆかし」の句にも匹敵する名吟として評価している。

 鶴を宗因・常矩と思い、偲ぶ心と、「盗まれし」で見せるユーモアとの微妙なバランス、古池や木槿を詠むだけが芭蕉(じゃない、といったところか。

 「西湖にすむ人」とは林逋(りんぽ)(九六七~一〇二八)のことで、生涯独身で「梅妻鶴子(梅は妻、鶴は子)」と呼ばれた。林和靖(りんなせい)とも呼ばれている。代表作は「山園小梅」。

   山園小梅

 衆芳揺落独嬋妍 占尽風情向小園

 疎影横斜水清浅 暗香浮動月黄昏

 霜禽欲下先偸眼 粉蝶如知合断魂

 幸有微吟可相狎 不須檀板共金樽

 多くの芳しき花ははらはらと散るも一人研ぎ澄まされたように美しく、

 小さな庭はその趣ですっかり満たされ、

 まばらな影が斜めに横たわる水は清く浅く、

 ひそかな匂いが水面に漂い月は黄昏。

 霜を得た鳥が降りようとしてはまず人目を盗み、

 春の紋白蝶がそれを知ったなら悔しさに魂も引きちぎられ、

 それでも幸い小声で吟じる暮らしに慣れているから、

 拍子木や黄金の酒樽なんてどっちも要らねー。

 政治のライバルたちがみんな政争に明け暮れ散ってゆく中で、俺は一人凛としていて、狡猾な鳥が仲間に誘おうとやってこようが、あとで聖人君子が現われ俺のことを惜しもうが、そんなのは知ったことじゃない。俺は一人静かに吟じるだけで、太鼓持ちはいらないし、接待の酒なんて飲みたくもない。そんな寓意のある詩だ。

 花林園でのもう一つの句、

 樫の木の花にかまはぬ姿かな

の花は、前の句とのつながりで見れば、梅の花を詠んだものだろう。無理に桜に結びつける必要はない。「花」とだけあれば当然桜でなければばらぬというのは理屈だが、そのへんの規則の細かい所にいちいちこだわらないのが談林の作風だ。樫の木は文字通り「堅い」木で、周囲が花で浮かれていても、頑として動じない。あなたも我路を行けばいいじゃないですか、というメッセージを込めたものだろう。

 京都はまだ北村季吟が健在で、貞門の古風が生きている。季吟は、芭蕉がまだ伊賀にいた頃俳諧の手ほどきを受けた蝉吟の師匠でもある。季吟から見れば芭蕉は孫弟子にすぎないわけだ。今回の旅で芭蕉が季吟の所へ行ってないのは、このへんの格の違いからか。もっとも、季吟の古風は、今の芭蕉の求めるものでないのも確かだ。芭蕉が会うのは、むしろ宗因とともに貞門を離れた談林の俳諧師だった

十四、伏見の桃

 伏見西岸寺の住職、任口(にんこう)もまた、宗因と親交があった。

   「伏見西岸寺任口上人に逢て

 我がきぬにふしみの桃の雫せよ」

 久しぶりに会うこの八十歳の老僧は、任口と名乗るだけあって、口に任せてよく喋る、剽軽な人柄だったのだろう(これはあくまで推測)。伏見は桃の名産地。桃で作った酒は不老長寿の仙薬にもなる。元気で濶達なこの老人を見て、私にもその長生きの薬を分けてください、と言ったのだろう。この老人も翌年には世を去ることになる。

 伏見といえば、豊臣秀吉が桃山城を立てて一度は栄えたが、徳川の世では秀吉は悪者。かつての繁栄も虚しく、荒れ果てていった。井原西鶴の『日本永代蔵』巻三「世は抜取り観音の眼」に、当時の伏見の様子が描かれている。

 「その時の繁盛に変り、屋形の跡は芋畠となり、見るに寂しき桃林に、花咲く春は人も住むかと思はれける。常は昼も蝙蝠(かうふり)飛んで、螢も出づべき風情なり。京街道は昔残りて、見世(みせ)の付きたる家もあり。片脇は崩れ次第に、人倫絶えて、一町に三所(みところ)ばかり、かすかなる朝夕の煙、蚊屋なしの夏の夜、蒲団持たずの冬を漸(やうや)うに送りぬ。」

 江戸中期になると伏見も酒の町として甦ることになる。

十五、何やらゆかし

 奈良で名もなき山に目を止め、二月堂で僧の靴の音の響に風流を見い出し、京都の秋風の別墅で主人をなぐさめた芭蕉は、奈良から大津に向かう道で、あの有名な句を詠むことになる。

   「大津にでる道、山路を越えて

 山路来て何やらゆかしすみれ草」

 「ゆかしい」というと、今日では品のある、控えめなという意味が強いが、本来は「行く」から来た言葉で、行ってみたくなる、惹きつけられる、という意味だった。山奥にひっそりと咲く蘭の花は君子の心だが、すみれは野にもどこにもありふれている。それでも何だかわからないが引き寄せられる。すみれは澄んでいるとでもいうのか、それとも墨染めの僧の衣を連想させるからだろうか。深く考えるほどのこともあるまい。理由もなく惹きつけられる─そんなこともあるのだ。和歌ではすみれは野に咲くすみれを詠むべきものだったが、そんな言葉の縁とも関係なくこの花に引き寄せられ、しばし旅の足を止める。

 芭蕉は『笈の小文』で「像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし、心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化(ぞうか)にしたがひ、造化にかへれとなり」つまり、人間らしさを月や花を愛で四季の移り変わりを愛するところに求めている。馬からすれば木槿は単なる食物にすぎないが、人間は木槿の花に様々な心を求める。花が美しいのは、それが単なる物理現象ではなく、花を見る人の心があるからなのである。しかし、人間だっていつも「心)」を求めているわけにはいかず、食うに困っては捨て子をしたり、人も殺せば戦争も起こす。生きてゆくために生存競争を逃れることはできない。しかし、それを悲しいと思い、そこからの解放を、いわば解脱を求めるところに人間らしさがある。それは理屈ではない。捨て子を見れば惻隠(そくいん)の情が生じるように、山路のすみれに理屈抜きに引き寄せられる。

 山路のすみれはともするとお構いなしにふんづけて歩いてしまうが、それに目を止め、ふときれいだと思う時、人はしばし食うか食われるかの天の掟を忘れ、自由と幸福を感じることができる。

 山口素堂は「山路きてのすみれ、道ばたのむくげこそ、この吟行の秀逸なるべけれ」と、この句を「道のべの木槿」の句と並べて評価している。この二句はともに「道」の句だ。一つは花)の悲しみを、一つは喜びを見い出す。花の咲)くのを喜び、散るのを悲しむ。それが「造化」に従うということなのだろう。

 もちろん今日では「夷狄」という表現はふさわしくない。地球上どこでも花を愛さぬ民族など存在しない。しかし、ここで芭蕉が「夷狄」をどう捉えていたか、振り返ってみるのも無駄ではあるまい。「夷狄」とは元来「中華」に対しての夷狄であり、「中華思想)」と密接に結)びついた言葉だ。中華思想というと、どうしてもユダヤの選民思想のようなものと誤解されやすいが、実際はそうではない。中華というのはむしろ文明のある所という意味で、文明の中心の地に対して、そこから隔たった辺縁が夷狄となる。それを担うのは必ずしも漢民族でなくてもいい。

 だから中国がモンゴル人(元のように)や満州人(清のように)に支配されたとしても、中国文明の継承者であれば中華なのである。実際、近世の東アジアの華夷秩序は、中国、朝鮮(チョソン)、日本、ベトナムなどがそれぞれ自らの国を中心にして、朝貢や互市関係を結び、維持されてきた。中華は文明の中心地であり、日本には日本の中華があり、日本にとっての夷狄が可能なのであり、こうして各国がそれぞれミニ中華を形成(けいせい)していくことによってお互いに相対化されてゆく性格を持っていた。そして、こうした華夷秩序は国境によって国と国が明確に区切られるというよりは、むしろ文明の及ぶ度合によって徐々に辺縁部に移行し、どちらの文明からも等距離になるようなボーダレスな空間、たとえば対馬や琉球のような交易の中心地を生み出す。国境というのは西洋の列強がアジアに侵略してきたさいに大慌てで定められたもので、それ以前には北方領土だの、竹島だの、尖閣諸島だのといった領有権問題は生じなかった。(竹島、尖閣は先に近代化した日本が、先に領有権を宣言しただけのものであり、武力によって侵略したのではない。)

 芭蕉にとって、中華とはまさに「花(華)」を意味するものだった。花が咲くのを喜び花が散るのを悲しむ、それが文明であり、花の心を知らぬというのが「夷狄」だった。心に花があれば、そこはいつでも「中華」であり、花がない時は「夷狄」なのである。花はまた同時に失われ、記憶の中で理想化された花への思いでもある。時間的には先王の治世、失われた王朝への思い、空間的には花の都を追われた旅人の都への思いでもある。花の心はまさに「みやび」であり、みやこの心で、たとえ遠いひなの長路を歩む流刑人であっても、花の心を失わないなら心は夷狄にあらず、なのである。

十六、松の朧

 生あるものは死に、栄えるものは滅ぶ。それは仏教の理(ことわり)だ。春に万物を生じ、秋には死に向かい、生死は永遠に反復される。それは朱子学が教える所だ。春の花の盛りもはかなく散っていくのだが、それは個人にとっては一回限りのことでも、人は延々とそれを反復してゆく。我身のはかなさを嘆くのか、はかなさの中で力強くそれを反復しようと決意するのか、そのあたりの揺れ動きが芭蕉の作品に幅をもたせているのだが、それでも芭蕉はやや前者に傾く傾向がある。

 芭蕉の恋句のつまらなさも、今の恋愛感情に対する真剣さが欠落し、恋も結局終わりがあり、若い日もあっという間に過ぎ去り、みんな歳をとってしまうのだ、というあきらめが先に来てしまうせいだろう。人生の果てることのない争いをはかないと看做すのも解脱なら、はかなさを自覚しながらもその運命と戦い力強く生きるのも解脱なのだが‥‥芭蕉に花の朧は似あわない。

   「湖水の眺望

 辛崎の松は花より朧にて」

 滋賀辛崎(しがからさき)といえば柿本人麿の「近江荒都歌」以来、天智天皇によって造営された大津京の跡形もなく消え去った、その恨みの地となっている。

 さざなみの志賀の辛崎さきくあれど

   大宮人の船待ちかねつ

                  柿本人麿

 さざなみの国つ御神のうらさびて

   荒れたる京(みやこ)見れば悲しも

                  高市古人(たけちのふるひと)

 それは壬申の乱で敗北した天智天皇の御霊を鎮める歌だったのだろう。後々、このはかなく消えた幻の都は、ぱっと咲いてぱっと散る桜のイメージと重なり、桜の名所として歌に詠まれるようになった。『千載集』の、

 さざなみや志賀の都は荒れにしを

   昔ながらの山桜かな

の歌は、『平家物語』で平忠度(たいらのただのり)が都落ちする際に俊成卿に託したエピソードでも有名で、消えた志賀の都のイメージは、平家の滅亡のイメージにも重なる。

 芭蕉の句は一種の謎かけだ。花が朧なのはわかる。桜の花は美しいが、それはほんの一瞬の夢のような光景で、手にいれることなく消えていってしまう。しかし、松が朧とはこれ如何に。そういう問いかけが「にて」という語尾になっている。答は少し考えればわかることだ。松の常緑は永遠の命のように見えるが、万葉の頃からの長い歴史の中で見れば桜の花のようにはかない。したがって松は花より朧なのである。もちろん、春の琵琶湖の湖水の上にたなびく霞が、松の姿をぼんやりとおぼろげなものにしている、そうした景色に掛けての「花より朧」だ。「松」はもちろん伝統的に「待つ」に掛けて用いられる。大宮人の船を待っている「まつ」も、今では跡形もない、すべてこの世の出来事、この世での思いははかなく消えてゆく。

 辛崎の松は三井寺(みいでら)にあった一本松で、芭蕉の『甲子吟行画巻』にも琵琶湖にかかる一本の松の木が描かれている。三井寺は能の『三井寺』でかつては有名で、物語では愛児と生き別れた母親が、夢に三井寺に来れば我が子に逢えるというお告げを聞いてやってくる。その時にも、「志賀─辛崎のひとつ松、緑子の類ならば、松風に言問はむ」と、別れた我が子を待つ姿と松の木のイメージが重ねられている。能では無事我が子との再開を果たしたこの母親は、故郷に帰りお金持ちになり、めでたしめでたしで終わる。

 しかし現実には、そんな幸福も一時で、最後は誰にでも同じように死が訪れる。子を探し、狂った女の一人三井寺の松の木に立つ姿も、やはり花より朧なものなのだろうか。

 この句の初案は、

  辛崎の松は小町が身の朧

だったららしく、『鎌倉海道』(千梅編、享保十年刊)にそのことが書かれている。小町といってもここでいう小町は若くて美しい小町ではない。謡曲『卒塔婆小町』に出てくるような、老いて落ちぶれ果てた小町の姿だ。美貌と才能を兼ね備えた小町も、老いは避けられない。そんな老婆の姿を辛崎の松に重ねたのであろう。小町といえば、むしろ『猿蓑』に収められている、

   さまざまに品かはりたる恋をして

 浮世の果ては皆小町なり     芭蕉

の句がかつては有名だったようだ。

 確かにすべては終わってゆくのだろう。今日では宇宙がビッグバンで始まり、加速度的に膨張し続けることを知っている。地球環境をいくら守っても生物をいくら絶滅から救っても、やがて長い年月の間には太陽に飲み込まれ、地球そのものが消滅する運命にある。そんな中でわれわれの存在なんてものは、ある詩人の言葉を借りれば「スナアメ」にすぎないのかもしれない。だからと言って、今のこの生活が、心のときめきが、変るということはない。今為すべきことを為すのみなのである。美しい女性や、身も悶えるような恋も、やがて老いぼれていって、墓を残すのみとなる。だが、そういったことを想起できたからといって、今の眼前の景色は変ることはない。

 人間の欲望は争いを生み出し、時には悲惨な歴史の結果となる。だから、欲望のはかなさを知り、自ら抑制することは大事なことではある。限界を知ることは大事だ。しかし、その内側で「生きていかなくてはいけない」ことも確かだ。松は春の霞に朦朧として見える。湖水の向こう岸は見えず、水は永遠に続くかのように見える。先のことは誰もわからない。常緑の松がたとえ花のようにはかないとしても、それでいい。ただ行くしかない。旅はまだ続く。

 なお、「て」留めの発句は既に前の年の名古屋での風吟の時、荷兮(かけい)が、

 霜月や鸛(かう)の彳々(つくつく)ならびゐて

という発句を詠んでいる。辛崎の句の「にて」留めも、これにヒントを得たものだろう。ただ、芭蕉の方の句はいわゆる切れ字がはいってない。もっともこれも目新らしいことではない。一句完結し、中途半端に文が切れているような違和感さえなければ、切れ字は使わなくてもいい。そういう考え方は連歌の時代からあったことだ。中世の梵灯(ぼうんとう)による連歌論書『長短抄』によると、「大廻し」「三体発句」など、切れ字がなくても切れてる句の例が掲げられている。

 もっとも、芭蕉としてもこれはあくまで実験的な作例だったのではないかと思われる。その後の芭蕉の句にも、芭蕉の門人の句でも、「にて」留めの発句が乱発されるようなことはなかった。

十七、我ら桜の民

 「やまと」とは「やまびと」のことであり、山人は「仙」に通じる。東の海の向こうにある蓬莱・瀛州・方丈の三神山、黄金の島、不老不死の玉の枝のある神仙郷、それが「やまと」だ。「やまと」は「大和」と書き、そこは道教の理想である「太和(たいわ)」の国でもあった。その「大和」の国に住む我々は、中国の古い言葉で言う「倭人(わじん)」であり、かっては長江下流域の会稽山(かいけいさん)のふもとに住んでいたという。彼らこそおそらく最古の稲作遺跡を残す江西省の万年県の仙人洞遺跡と吊桶環(ちょうとうかん)遺跡の担い手で、その後長江流域に一大文明を築いた民族ではなかったか。

 しかし、漢の南下政策によってこの倭人は四散し、その一部は南へ逃れ、混血してベトナム人の元となり、西へ逃れた一部は、雲南省からラオス、タイ、ビルマ北部の少数民族(ワ族、ラワー族など「倭」の名称を残す民族もいる)に紛れ込み、本来の倭族の言語は消滅した。そして、一部は伝説の蓬莱の島を目指して船で漕ぎ出て、津島海流に乗り、北九州から百済にかけての地域に漂着し、日本に弥生文化をもたらした。この倭人は、やがてアイヌ・琉球と同系だった縄文人と混血し、今の日本人となった。その縄文人も、古くから江南方面の長江文明の影響を受け、土器や漆の使用、焼畑稲作農業など、当時としては高度な文明を誇っていた。

 倭人の起源ははっきりしないが、おそらく照葉樹林帯に適応した農耕民族で、緋寒桜とともに生きてきたのであろう。入れ墨をし、貫頭衣を着、自然を神と崇め、宇宙は男女のセックスから生まれたと信じ、酒と恋を好むこの好色の民は、明らかに中国人や韓国人などと気質を異にする。

 古くから長江文明を身に付け、半ば職人化したこの民は、血縁よりも師弟関係のような擬制の血縁を重視し、理屈や議論を嫌い直接情を動かすものに身を任せる傾向を持ち、良いにつけ悪いにつけ日本人を特異なものにしている。それは、一つの技術を徹底的に極める過程で、極端に技術を身体化し、技術の伝達を困難にした結果だった。

 今日でも我々は高度の技術力を持ちながら、技術を理論化したり伝達したりということを苦手とし、相互に交流のない「縦割り社会」に陥っている。もっと伝達に気を配れば、世界からの日本に対する誤解も減らせるだろうし、もっと技術力を最大限に生かしきることもできるようになるだろう。

 芭蕉が水口(みなくち)で出会った土芳(どほう)は後に『三冊子』を書き表し、去来、許六とともに、芭蕉の俳諧の理論を伝える貴重な門人の一人となった。その同じ伊賀の藤堂藩士だった土芳は、この頃芭蕉に傾倒し、俳諧師への道を決意する。この句はそうした土芳への餞別だったのだろう。

   「水口にて二十年を経て、故人に逢ふ

 命二つの中に生たる桜哉」

ともにこの桜の花咲く国に生まれてきたことを喜ぼうというのだった。

 桜の花の命は短く、ほんの一週間かそこらのうちに一斉に咲いて一斉に散ってゆく。まさに宗長法師の句にあるように、

   咲く花もおもはざらめや春の夢

 さくらといへば山風ぞふく    宗長

のことわりの通りだ。しかし、このはかない桜も、また春がめぐってくれば花をつける。

 桜の花は単に命のはかなさだけを表すのではなかった。花は若い頃の夢のようにはかなく消えてゆくが、その思いの中にある真実は決して消えやしない。花はなくても木は生きているように、人間の「若さ」という表面上の花は消えても心の花は散ることがない。花の心は子々孫々受け継がれ、脈々と生き続けるのである。

 日本の桜の文化は、韓国の木槿、中国の桃の文化と比較することもできよう。木槿の花もまたはかない。しかし木槿は一つの花は散っても下から上へ次々と花をつけてゆき、容易に根だやしにできないしぶとさを持っている。桜や木槿のはかなさに比べ、中国の桃は、むしろ永遠の春、永遠の生命への憧れを含んでいる。ただ、これも現実の花のはかなさの裏返しともいえよう。いずれにせよ花の命は短い。しかし花は繰り返し咲き続けることによって永遠の命となる。ただ、日本ではそれが、一斉に盛り上がっては沈んでゆく情念のうねりとして捉えられ、韓国では次々に連続してゆく血脈として捉えられ、中国では永遠の天地万物の理として捉えられていく傾向にあったのであろう。

十八、芭蕉の『甲子吟行画巻』

 この『野ざらし紀行』は他の芭蕉の紀行文と比べても全般的に文章が短く断片的な印象を与える。実はそれには理由がある。芭蕉は『野ざらし紀行』を決して純粋なテキストだけで表現しようとしたのではなく、絵巻の形で発表しようとしていたのだ。『甲子吟行画巻』と呼ばれている絵巻は芭蕉自身が『野ざらし紀行』の全文に自筆の絵を添えた形で描かれている。おそらくこの方が本当の『野ざらし紀行』なのだろう。

 芭蕉というと、古文の教科書に載っている文字だけの作品のイメージがあるが、実際は『奥の細道』も蕪村によってイラストが挿入されたり、蝶夢の編纂によって『芭蕉翁絵詞伝(ばしょうおうえことばでん)』にまとめられたり、何度となくビジュアル化されてきたし、『野ざらし紀行』に至っては、芭蕉自身が挿絵を描いて絵巻物にした『甲子吟行画巻(かっしぎんこうがかん)』が残されている。芭蕉のみならず、芭蕉の弟子の杉風、許六なども絵が達者で、むしろ、句と文と絵と書を融合してトータルな作品を生み出すところに「蕉門」の俳諧の大きな特色がある。今日でいえばマルチメディア感覚というべきか。

 かって東洋の絵は、絵の横に辞や賛や詩や語を書き添えたりすることが多かった。文字を書けば、そこにテキストの意味だけでなく、字そのものの美しさも問題になる。しかし、近代化の中で、特に「純粋芸術」を追及するあまりに、この伝統は否定され、絵は純粋に絵だけ、文章は純粋なテキストだけ、書は独立した書道として分離していった。

 芭蕉の紀行文は、確かにテキストだけを取り出して、純粋な文学として鑑賞することもできる。ただ、当時の人は決してそうした鑑賞法にこだわってはいなかった。俳諧は「風雅に遊ぶ」もので、もっと気楽に遊び感覚で眺められてもよかったはずだ。そうした遊び心から、蕪村も芭蕉の作品に絵を書き加え、後に俳画と呼ばれる独自なジャンルを生み出している。そして、ある意味でそれは、中世絵巻と近代の漫画とをつなぐミッシングリングなのかもしれない。

 芭蕉の絵は英一蝶(はなぶさいっちょう)に学んだものとされている。英一蝶は承応元(一六五二)年に京都で生まれ、十五の時に江戸に下り、狩野安信に絵を学んだ。狩野安信は幕府の御用絵師として不動の地位を築いた狩野探幽の末弟で、元和九(一六二三)年に狩野家の宗家後目を相続していた。当時の狩野派は既に寛永期の完成された画風の時代を終り、急速に大和絵化しゆく寛文様式といわれる吉祥画中心の時代にあった。その後、延宝年間(一六七三~八一)に入ると、二つのものが英一蝶の絵を大きく変えてゆくことになった。ちょうど折しも江戸上方で町人文化が花開ことしていたとき、江戸でも大流行した西山宗因を軸とする談林の俳諧、それに挿絵画家から浮世絵を確立していった菱川師宣(ひしかわもろのぶ)との出合いだった。こによって英一蝶は古典の心を通俗的な題材を通して表現する風俗画へと向かうこととなった。これは、古典の風雅の心を雅語ではなく俗語で表現しようとした俳諧の精神にも通じるものだった。

 談林の俳諧に傾倒し、自らも暁雲の名で句を詠んでいた英一蝶は、当時まだ談林の俳諧師の一人だった芭蕉とも知り合うことになった。

 芭蕉の絵は英一蝶と出会ったところから始まったといってもいい。現存する最も古い芭蕉の絵は『枯れ枝からす、笠やどり』自画賛で、天和元(一六八一)年の冬のものとされている。絵は左右に分かれ、右には「枯枝にからすのとまりたるや秋の暮」の発句とともに赤い蔦の葉の絡まった枯れ木と二十七羽の烏が描かれている。たくさんの烏が群れ飛ぶ姿はあたかも死の臭いを嗅ぎつけたかのようで、象徴的な中に写生にも近いリアリティーがある。単に烏を死の象徴として扱うなら、烏は一羽でもよかっただろう。群れ飛ぶ烏は向きもそれぞれ異なり、枝に止まっている烏もそれぞれの仕草をしている。このリアリティーこそ宗因から学んだ談林の精神ではなかったか。

 しかし、その後芭蕉の絵はこのようなリアリティーの追及には向かわない。むしろ省略や絵とテキストとの巧みな配置で独自な表現を生み出してゆく方向に向かう。蕉風確立と平行して芭蕉の絵が写生から離れてゆくのは、決して奇妙な現象ではない。それは芭蕉の「俳句」が「写生」と結び付けて語られるようになったのが正岡子規以降のことで、芭蕉の蕉風確立は本来「写生」とは無関係なものだったからだ。

 芭蕉の『甲子吟行画巻』は、たとえば後に蕪村が描いた『野ざらし紀行屏風』がもっぱら人物に焦点を当てて描いているのに対し、山河の描写が中心となっているところに特徴がある。むしろ文字を近景として、絵は背景を添えるだけであるかのようにすら見える。蕪村は絵の部分と字の部分をはっきり分けて書くが、芭蕉の場合、文字はしばしば絵に重ねて書かれ、文字も絵の一部になっている。芭蕉にとって、主人公や登場人物は句と文によって構成され、その背景となる旅の景色を、時間とともに変化する連続したものとして、絵でもって描き出そうとしている。ここに芭蕉の絵巻に対する独自な考え方が現われている。

 芭蕉が英一蝶から受けた影響は、朝日や夕日の書き方にも表われている。芭蕉の『甲子吟行画巻』の桑名の「地蔵浜の日の出」と英一蝶の『朝瞰曳馬図(ちょうとんえいばず)』の朝日の描き方はよく似ている。半円形で海から登る朝日が表現されているが、水平線にしてはかなり画面の高い位置に描かれている。元来、東洋の伝統絵画で水平線が描かれることはまずない。それは「斜投象」という空間構成法によるためだ。  西洋絵画を中心に考える人は、しばしば斜投象で描かれた絵を遠近法の狂った稚拙な描き方とみなすことがあるが、そうではない。斜投象は設計図にも使われる空間表現の方法で、本来三次元のものの形を正確に表現するのに適した描き方だ。しかも、西洋の遠近法は一箇所に視点を固定して描くため、描ける範囲が限られるし、ものの正確な形を再現するには見る位置も正面の一点に絞られる。斜め横から見た遠近法の絵は、どうしようもないくらい歪んでしまう。これに対し、斜投象は紙面が許す限り無限の空間を描き出すことができる。

 こうしたメリットがあるのに加え、運動視差に基づく遠近感の表現は生理的にも無理がない。「運動視差」は自分が移動して行く際に、近くのものは早く動き、遠くのものがゆっくり動いて見える所から距離を判断する仕方で、ジェームス・ギブソンによれば、世界の三次元認識のほとんどはこの運動視差によるものだという。片目の見えない人でも日常生活にほとんど支障がないのはこのためだ。斜投象は遠くにあるものの持つ運動視差的な「遅れ」を表現する立派な「遠近法」の一つだ。そのため、ルネッサンス期以降の西洋を別にすれば、世界中あらゆる所に斜投象による空間表現は普遍的に見られる。

 ちなみに英一蝶の『朝瞰曳馬図』での水面に写る人と馬の影が若干後方に描かれているのも、運動視差によって遠くの影が遅れて見えることを表現するもので、十分合理的な描き方なのである。

 斜投象は無限の空間を表示できる。そのため消失点が存在しない。そのため水平線は生じない。画面は上に行けば上に行くほど距離が無限に後退してゆく。そのため水平線の朝日を表現するには、画面の上のほうに描くということでその距離感を表現するしかない。英一蝶は背景としてそれを描いたが、芭蕉は「あけぼのや白魚しろきこと一寸」の句を表現するために、近景の浜辺と遠景の朝日を左右に引きはなし、その間に文を挟み込むことで、そこに浜辺と朝日との心理的な距離を生じさせている。これによって、朝日が実際の紙面の位置以上に上のほうにあるように感じられる。岡田利兵衛もこの「地蔵浜の日の出」をこの画巻の「もっともすぐれた画面」と評価している。芭蕉が水平線をこのような紙面の高い位置に描くというのは、斜投象の性質をよく理解している印だ。そして、文を間に挿入することでさらに心理的な距離感を加えるのは、俳画ならではのやり方だ。

 絵に限らず、芸術には大ざっぱにいって二つの効果がある。一つは見たことのないものを見せる効果、もう一つは見たことのある記憶を引き戻す効果。前者の方向に進む芸術は、作者が見せたいと思うものをいかに正確に描写するかという技術が要求される。後者であれば、むしろ簡単な刺激を与えれば用を足す場合がある。人々が心の奥にしまっている大切な思い出、それを引き出すキーワードを探し出せばいい。俳諧という短い言葉の文芸においては、常にこの描写かキーワードかという問題に直面することになる。近代俳句は「写生」を説き、描写を重視しているかのように見えるが、実際のところ、写生句の代表として高く評価されている高浜虚子の「遠山に日のあたりたる枯野かな」の句にしても、それが喚起するノスタルジーと切り離して評価することは難しい。むしろ、こうしたノスタルジーの喚起は単純で曖昧な表現だからこそ大きな効果を上げる。というのも、遠山がどこどこの山でどれぐらいの高さで、どんな形でという所まで詳しく描写してしまうと、かえって「それは俺の故郷とはちがう」ということになってしまうだろう。一人一人がそれぞれ自分の故郷を懐かしく思い出すには、「遠山」という単純な表現が必要になる。

 芭蕉の俳画もまた、記憶を喚起できる最低限の絵という方向に進んでいった。初期の天和期の画風はまだ狩野派の緻密さを残していた。枯れ枝の烏を二十七羽も書き込むというのは、確かに芭蕉にとって一つの心象風景だったのだろう。

 記憶というのは見たもの聞いたものをそのままの形で保存するのではない。それはいくつもの構成要素に分解され、モジュールとして保管される。そして、記憶を再生するときにはそれを再びプログラムに沿って組み立て直し、イメージとして現前させる。それゆえ、記憶は常に単純化される。心理学で行われる実験で、バケツに顔の書いてある図形を見せて、あとから思い出させるという実験があるが、「これはバケツだ」という暗示を与えられた人はバケツに書かれていた顔のパーツを忘れて単純なバケツだけを再生し、「これは顔だ」という暗示を与えられた人は顔の部分だけを再生してバケツについていた取っ手などを忘れる。それゆえ、記憶を引き出すには単純な刺激でいい。何十年ぶりの同窓会で、みんなすっかり大人になり、年をとってしまっても、昔のクラスメイトの顔を同定することができるのは、顔そのものを覚えているのではなく、ある単純な特徴だけで覚えているからだ。山藤章二の似顔絵塾の作品で、時折極度に抽象化された作品が読者の笑いを誘うのも、そのためだ。

 そのため、記憶を引き出す装置として絵を描く場合、決して精密に描き出す必要はない。むしろ、記憶の中で構造化されるさいの、その単純な図形に近いものを与えてやればいい。俳画の単純さはそうした中で生まれたのではなかったか。芭蕉は俳諧師という職業柄、人々の記憶を呼び覚ますにはくだくだとした描写は必要なく、単純なキーワードだけでいいということを知っていた。それを絵に応用するところから俳画が誕生したのではなかったか。

 芭蕉の俳画論は一言で言えばこういうことだろう。

 朝顔は下手のかくさへ哀也    芭蕉

 朝顔の哀れさを描くのに朝顔を緻密な描写で再現する必要はない。朝に咲き昼には萎む朝顔そのものが哀れなのであり、絵はそのことを思い出させることができればいいのである。

 芭蕉と狩野派の関わりは思いのほか深い。談林時代からの芭蕉のパトロン的存在といわれている鯉屋杉風を始めとして、百里、不角といった門人も、狩野安信の弟子の狩野昌運に絵を習っている。また、芭蕉が晩年(元禄五年頃)に絵を習ったという彦根藩士森川許六も、狩野安信に絵を習っている。これは単に当時いかに狩野派の勢力が強かったかというだけの問題ではなく、むしろ蕉門の俳諧と狩野派の絵画との位相の近さを物語るものだろう。同時代、大和絵の画系から菱川師宣が浮世絵への道を切り開いていたが、芭蕉の俳諧はその方向に行くものではなかった。浮世絵-歌舞伎-点取り俳諧という江戸時代を代表する町人文化の流れとは一線を画したところに、むしろ狩野派-謡曲(能)-蕉門俳諧というラインが形成されていたといってもいいのではないか。

 確かに狩野派というのは近代の美術評論家の間では、評判がよくない。徳川家の権力と結び付いていただとか、粉本主義に陥り絵を形骸化させた、という批判は何度となく繰り返されてきた。確かに、絵が画家の自由な自己表現であるべきだから表現を拘束する一切のものは悪だという種の、この手の批判は一見もっともらしい。しかし、絵は自己表現であると同時に、見る人に理解できるものでなくてはならない。ちょうど文章でいえば、日常の話し言葉で、一部の世代にしかわからないような俗語や一部の地域の人しかわからない方言を交えて書いたなら、その伝達範囲は極めて限られたものになる。それよりは標準語で書いた方がより多くの人に伝達できるし、英語で書けばもっと多くの国の人に伝達可能になる。しかし、普遍的な言葉になればなるほど、自分自身の生の肉声からは遠のいてゆく。より自分自身を忠実に表現しようとしたら、世代や地域へのアイデンティティーを主張しようとしたら、俗語・方言を使わざるをえなくなる。文学はその両者のバランスの中にしかない。絵にしても同じバランスが存在する。自己表現か普遍的な伝達か、すべての芸術はその二つの狭間に立たされている。

 絵をわかりやすくするには、絵が共通の記号として認識されなくてはならない。絵は見るものであると同時に読まれるべきものでもある。ある画像は何らかの意味を持ったものとして読み取られ、その意味を読み取るための一種の文法を生じる。いわば絵を描いたり読んだりする際の共通の約束ごとだ。そして、こうした意味や文法の体系、つまり記号の体系を共有する所に一つの文化圏が生まれる。

 たとえば、ルネッサンス期の西洋絵画は人物や建物など写実的に丹念に描かれてはいるものの、均整のとれた肉体の描写はいくぶん理想化されているし、理想化された人物像は聖書の物語の中に組み込まれ、単なる視覚映像には還元できない意味論的な世界を持っている。

 今日我々が雪舟の絵や狩野派の絵を見ても、その良さがダイレクトに伝わってこないとしたら、それは絵が悪いのではなく、我々がその絵の持つ記号を共有できない、たとえば山水や瀟湘八景、李白観瀑、寒山拾得、四君子といった画題の持つ意味空間や信仰、精神文化を共有していない、ということだ。

 それはあるいは今日のお年寄りが若者の読む漫画を見て、どこがいいのかわからないのにも似ている。おそらく、漫画を読む習慣のないものにとって、漫画の絵の暗黙のうちに了解されている規則、文法を理解することはかなり困難で、見ているだけで疲れてしまうだろう。少年漫画で育った私が初めて少女漫画を読んだ時にも、それは経験できた。絵が単にある種の視覚映像の再現であれば、確かにこうしたギャップは存在しないだろう。しかし、絵に何らかの意味を求める限り、そこに暗黙の規則が生じることは避けられない。

 芭蕉の絵は、その意味では狩野派の絵画の持つ記号性を共有する範囲内にある。それは芭蕉の俳諧が西行、宗祇の中世文学の規則の中で作られているのと同様である。その上で、絵の簡略化は絵の記号性をより際立たせてゆく。狩野派の絵は中国絵画の影響を受けた緻密なもので、緻密な中に記号性を持ち、完成された様式を生み出していった。それに対し、狩野派の絵の具象性を捨て去り、記号的な要素だけを抽出するところに芭蕉の俳画が生まれたといってもいいかもしれない。

 とにかく、せっかく芭蕉自ら絵を描いているのだから、特に『野ざらし紀行』については絵と文章を合わせた鑑賞というのをもっと広めてもいいのではないか。

十九、大顛和尚の訃報

 さて、苦しいけど楽しい、数々の貴重な出会いのあったこの旅も、いつまでも続くわけではなかった。ここに訃報が一つ届いた。円覚寺の大顛和尚(だいてんおしょう)だった。

 ことのいきさつは、旅の途中に出会った一人の行脚の僧(後に弟子の一人となる路通)との出会いで、

 「伊豆の国蛭(ひる)が小嶋の桑門、これも去年の秋より行脚しけるに我が名を聞て草の枕の道づれにもと、尾張の国まで跡をしたひ来りければ、

 いざともに穂麦喰はん草枕」

というものだった。

 旅の良き道連れとして、一緒に粗末な麦飯を食べながら旅をしようといったまではよかったが、話を聞いていくうちに、榎本其角が『詩経』や漢文学を学び、芭蕉もお世話になった大顛法師の死を知らされたのだった。

 「此の僧予に告げていはく、圓覚寺の大顛和尚今年睦月の初、せん化(げ)し給ふよし。まことや夢の心地せらるるに、先ず道より其角が許へ申遣(まうしつかは)しける。

 梅こひて卯の花拝むなみだ哉」

 この時の書簡は今日でも伝えられている。

 「草枕月をかさねて、露命(ろめい)恙(つつが)もなく、今ほど帰庵に趣き、尾陽熱田(びようあつた)に足を休る間、ある人我に告て、円覚寺大巓和尚、ことし睦月のはじめ、月もまだほのぐらきほど、梅のにほひに和して遷化したまふよし、こまやかにきこえ待る。旅といひ、無常といひ、かなしさいふかぎりなく、折節のたよりにまかせ、先一翰投机右而已(まずいっかんきゆうにとうずるのみ)。

 梅恋て卯花拝ムなみだかな   はせを

四月五日

其角雅生」

 卯の花はちょうど花祭の頃に咲き、お釈迦様の花とされていた。大顛和尚もまた高僧にふさわしく、梅の香に誘われて、白い卯の花へと転生したのであろう。輪廻を絶ち、解脱し、仏様となることも、やはりこの世を去ると思えば悲しい。一月の死を四月に知ったためこのような哀傷の句となった。季重なりなどと野暮なことは言うなかれ。

二十、別れ

 大顛和尚の死が直接の原因ではないにせよ、旅の疲れ、無常への思いが、芭蕉に暫しの休息を必要とさせたのであろう。芭蕉は楽しかった名古屋の門人との交友を終わりにし、江戸への帰路につくことになる。既にすっかりうち解け合った杜国とも、暫しの別れとなる。

   「杜国におくる

 白げしにはねもぐ蝶の形見哉」

 蝶が自分の羽をもいで形見にするというのはどこからきた発想か。とにかく悲痛な気持が伝わってくる。

 そしてもう一人、名古屋での宿を提供してくれた桐葉とも別れなくてはならない。

 「ふたたび桐葉子(とうようし)がもとに有て、今や東(あずま)に下らんとするに、

 牡丹蕊(しべ)深く分け出る蜂の名残哉」

 大きな牡丹の花の中で蜜を吸っていた蜂のように、至れり尽せりのもてなしをしてくれた桐葉のもとを離れるのは名残惜しい。これに対し桐葉は答える。

 憂きは藜(あかざ)の葉を摘みし跡の独りかな

 藜(あかざ)は野草だが、昔は食用としても重要だったのだろう。牡丹の蜜どころか、粗末なあかざの味噌汁程度のものしかもてなしできませんでしたが、それでも明日から独りと思うと淋しい限りです、といったところだろう。そんなやり取りをしたあと、後ろ髪を引かれるような思いで、芭蕉は江戸へと向かった。帰り道については多くのことは語らない。ただ、途中で甲斐の国に寄っている。

 「甲斐の山中に立よりて、

 行駒(ゆくこま)の麦に慰むやどり哉」

 天和二年の大火のときに焼け出された時に世話になった人へ、もう一度挨拶に立ち寄ったのだろう。

二十一、虱とともに

 さて、八ヵ月に及ぶ芭蕉の旅もいよいよエンディングとなる。エンディングといっても、当時の芝居の一般的な考え方に「序・破・急」というのがあり、エンディングは未練を残さずにあっさりと終わらせるのを良しとした。

 「卯月の末、庵に帰りて旅のつかれをはらすほどに、

 夏衣いまだ虱(しらみ)をとりつくさず」

 いそがしい旅の最中といえば、なかなか虱を潰している暇もない。ようやくわが家に帰り、見つけ次第親の仇のように「しらみつぶし」にしていたのだろうが、それでも虱はあとからあとから湧いてくる。

 いつのまにか我々はそのような経験をしなくなってしまった。自然は現代の生活の中では、もはや失われた過去の追憶の中で、果てしなく美化されてゆく。ラッセンの絵のように、生臭さのない、整然とした予定調和の世界に。でも何かが違うのでは。

 かって人間の体というのは、様々な虫や寄生虫や細菌の共存する一つの生態系だった。その中には確かに人間を病気にする恐ろしいものもいただろう。しかし、こうした生態系全体からすると、病気というのは明らかに生態系そのものの危機だ。人間が死ねば人間に寄生していたすべての生命もまた死滅することになるからだ。だから、病原菌というのは実のところ「適応」に失敗した生物だともいえるだろう。その他の無数の生物は、人間を殺さぬ程度に人間の余剰の養分を吸い続け、生活していた。もちろん、その人間もまた、自然界の動植物を亡ぼさぬ程度に、その余剰の生産物を手にして生活していた。

人間と自然との「共生」ということが言われて久しいが、「共生」は決してきれいごとではない。人間が蚤や虱と心を通わせ、愛しあって共存することができないように、人間が他の野性生物と平和共存などできることではない。せいぜいイルカやゴリラのような人間に近いものだけを特例として「準人間」として扱うことができる程度だ。我々にできるのは、ただ自らの存亡のために、地球全体を病気にし生態系そのものを死滅させないように努力するだけだ。取りすぎぬよう、汚しすぎぬよう、何事も節度というのが大事だ。それができないなら、人間も地球にとっては病原体であり、虱にも劣ることになる。

 結局、どんな生物も有限な地球上の資源を分けあって暮しているにすぎない。どこかの国が栄えればどこかの国が飢餓に苦しむし、人類が栄えればその分他の生物の生きる場がなくなる。それが道理というものだ。地球上のすべての問題は、結局は単純なのだ。ただ配分の問題があるのみだ。

 「再生可能」が今やキーワードとなっている。虱にとって人間を殺さぬ程度に血を吸うことが「再生可能」の条件であるように、人間もまた地球を破壊せぬ程度に有限な資源を利用しなくてはならない。虱にできて、人間に解決できない問題はない。

 無限の命を求めるなかれ。すべては限度があるのだ。物事にはすべて境界線があり、ただその中で精一杯生きればよい。旅人はその境界線を守るために境界線をさまよい歩く、境界線の番人だったのだ。(完)

あとがき

 本書は平成十二(二〇〇〇)年に東京図書出版会から共同出版した『野ざらし紀行─異界への旅─』を一部加筆修正したもので、あれから十二年たったとはいえ、句の解釈などの基本的な部分はほとんど変えてはいない。ただ、社会情勢などは随分変ったので、書き改めた部分のほとんどはそれに関わる部分だった。

 「俳句を解説した本はこれまでも数多くあるが、その大半は俳句の作者、いわゆる『俳人』によって書かれたものだ。」と以前に前書きで書いたが、その状況は今でも何も変ってないと思う。大学の研究者とはいえ、やはり何らかの形で俳人と交流し、俳句の指導を受けたり、結社に所属したりしていて、実質的には「俳人」と何ら変わりない。彼らのにとって大事なのは、今の自分達の俳句をいかに正当化するかであり、そのための研究だけが粛々と進められている。

 作者と研究者と結社、それにその結社の背後となる政治団体、それは「俳句村」といってもいい。古典俳諧にしても近代俳句にしても、自由な研究はこうした俳句村の外から行なわれなくてはならない。また、従来の結社の論理にとらわれない新しい古典の読解こそが、むしろ俳句の創作の方でも新たな可能性を切り開くのではないかと思う。

 今日では俳句の世界は高齢化が進み、その権威も世間に与える影響力もかなり弱まっている。芭蕉に関しても、一見研究され尽くされたかのように見えるが、むしろ本当の研究はこれから始まるのではないかと思っている。本書もそのきっかけになれば幸である。

参考文献

芭蕉関係

 『芭蕉紀行文集』中村俊定校注、1971、岩波文庫

 『おくのほそ道』萩原恭男校注、1979、岩波文庫

 『芭蕉七部集』中村俊定校注、1966、岩波文庫

 『芭蕉俳句集』中村俊定校注、1970、岩波文庫

 『芭蕉書簡集』萩原恭男校注、1976、岩波文庫

 『蕉門名家句選』(上下)堀切実編注、1989、岩波文庫

 『去来抄・三冊子・旅寝論』穎原退蔵校訂、1939、岩波文庫

 『芭蕉俳諧論集』小宮豊隆、横沢三郎編、1939、岩波文庫

 『風俗文選』伊藤松宇校訂、1928、岩波文庫

 『俳諧問答』横澤三郎校注、1954、岩波文庫

 『松尾芭蕉』尾形仂、1989、ちくま文庫

 『歌仙の世界』尾形仂、1989、講談社学術文庫

 『芭蕉百五十句』安東次男、1989、文春文庫

 『芭蕉三百句』山本健吉、1988、河出文庫

 『奥の細道ノート』荻原井泉水、1956、新潮文庫

 『文芸読本、松尾芭蕉』1978、河出書房新社

 『芭蕉の書と画』岡田利兵衛著作集Ⅰ、1997、八木書店

 『芭蕉年譜大成』今栄蔵、1994、角川書店

 『芭蕉庵桃青の生涯』高橋庄次、1993、春秋社

 『松尾芭蕉』宮本三郎、今栄蔵、1967、桜風社

 『芭蕉論』上野洋三、1986、筑摩書房

 『芭蕉二つの顔』田中善信、1998、講談社

 『芭蕉とその方法』井本農一、1993、角川書店

 『芭蕉の狂』玉城徹、1989、角川書店

 『芭蕉の世界』山下一海、1985、角川書店

 『芭蕉のうちなる西行』目崎徳衛、1991、角川書店

 『笑いと謎』復本一郎、1984、角川書店

 『芭蕉古池伝説』復本一郎、1988、大修館書店

 『俳句を楽しむ』復本一郎、1990、雄山閣

 『芭蕉歳時記』乾裕幸、1991、富士見書房

 『芭蕉句々』清水杏芽、1988、洋々社

 『芭蕉俳諧における詩的表現形態の研究』四戸宗城、1980、桜楓社

 『芭蕉の俳諧』(上下)暉峻康隆、1981、中公新書

 『芭蕉さんの俳諧』中尾青宵、1996、編集工房ノア

 『奥の細道』山本健吉、1989、講談社

 『旅人曾良と芭蕉』岡田喜秋、1991、河出書房新社

 『芭蕉』白石悌三、1988、花神社

 『元禄俳諧集』新日本古典文学大系71、大内初夫校注、1994、岩波書店

 『芭蕉の門人』堀切実、1991、岩波新書

俳諧関係

 『談林叢談』野間光辰、1989、岩波書店

 『俳諧の系譜』鈴木棠三、1989、中公新書

 『宗因独吟俳諧百韻評釈』中村幸彦、1989、富士見書房

 『俳諧史の研究』穎原退蔵、1948、星野書店

 『近世俳句俳文集』日本古典文学大系、阿部貴三男、麻生磯次校注1964、岩波書店

 『連歌俳諧集』日本古典文学全集、金子金次郎、暉峻康隆、中村俊定注解、1974、小学館

 『俳家奇人談、続俳家奇人談』竹内玄玄一、1987、岩波文庫

 『西鶴と元禄メディア』中島隆、1994、日本放送出版協会

連歌関係

 『連歌文学の研究』福井久蔵、1948、喜久屋書店

 『連歌論集』(上下)伊地知鉄男編、1956、岩波文庫

 『宗祇』奥田勲、1998、吉川弘文館

 『宗祇の生活と作品』金子金治郎、1983、桜風社

 『宗祇と箱根』金子金治郎、1993、神奈川新聞社

 『連歌師宗祇』島津忠夫、1991、岩波書店

 『宗祇』荒木良雄、1941、創元社

 『宗祇』小西甚一、1971、筑摩書房

 『心敬』篠田一士、1987、筑摩書房

その他

 『元禄時代』日本の歴史16、児玉幸多、1984、中央公論社

 『元禄文化-遊芸・悪所・芝居』守屋毅、1987、弘文堂

 『的と胞衣』横井清、1998、平凡社

 『無縁・公界・楽』網野善彦、1978、平凡社

 『異形の王権』網野善彦、1986、平凡社

 『日本論の視座』網野善彦、1990、小学館

 『竹斎』守随憲治校訂、1942、岩波文庫

 『万葉集と漢文学』和漢比較文学叢書9、1993、汲古書院

 『道教と古代日本』福永光司、1987、人文書院

 『日本史を彩る道教の謎』高橋徹、千田稔、1991、日本文芸者

 『日本の道教遺跡』福永光司、千田稔、高橋徹、1987、朝日新聞社

 『近代日本と東アジア』加藤祐三編、1995、筑摩書房

 『倭族から日本人へ』鳥越憲三郎、1985、弘文堂

 『日本の古代1-倭人の登場』森浩一編、1985、中央公論社

 『韓国の古典短歌-古時調のいぶき-』裴成煥、1986、国書刊行会

 『朝鮮の詩ごころ』尹学準、1992、講談社学術文庫

 『江戸の少年』氏家幹人、1989、平凡社

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