野ざらし紀行─異界への旅─ ③


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十二、帰郷

 「廬牧亭」の句と千里(ちり)の故郷の句のような、陶淵明を彷彿させる隠士の句二句に挟まれると、芭蕉の帰郷の場面も、どこか官を辞して故郷へ帰ってきたかのような『帰去来辞』のおもかげが加わる。のどかな田舎に古びた旧家があり、あたりでは犬が遊び、鶏の声が聞こえてくる。しかし、その故郷もすっかり姿を変えていた。

 「長月(ながつき)の初め、古郷(こきゃう)に帰へりて、北堂の萱草も霜枯れ果てて、今は跡だになし。何事も昔に替はりて、はらからの鬢(びん)白く、眉皺寄りて、ただ命有りてとのみ云ひて言葉はなきに、このかみの守袋(まもりぶくろ)をほどきて、母の白髪おがめよ、浦島の子が玉手箱、汝がまゆもやや老いたりと、しばらくなきて、

 手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」

 北堂は母の住むところで、「萱草(かんぞう)」とは忘れ草のことだ。ユリ科の多年草で、『詩経』「衛風」の「伯兮(はっけい)」という詩に、

 焉得諼草 言樹之背

 愿言思伯 使我心痗

 どうにかして忘れ草(諼草)を手に入れて

 こうして家の裏に植えたい

 そう願いつつあなたを思えば

 私の心はとても暗い

とある。日本でも『万葉集』に、

 わすれ草わが紐に付く香具山の

     ふりにし里を忘れぬがため

                      大伴旅人 巻三、三三四

 わが宿の軒のしだ草生ひたれど

     恋忘れ草見るにいまだ生ひず

               柿本人麻呂歌集歌、巻十一、二四七五

といった歌が見られる。

 しかし、母の死からすでに一年が経過した今となって、もはやそれも必要ないくらい忘れさられてしまったのだろうか。「去るものは日々に疎し」という言葉の出典となった中国の『文選(もんぜん)』の古詩にも、

 去者日以疎 来者日以親

 出郭門直視 但見丘與墳

 古墓犂為田 松柏催為薪

 白楊多悲風 蕭蕭愁殺人

 思還故里閭 欲還道無因

 去って行った者は日毎に疎くなり、来る者だけが日毎に親しくなって行く。

 町はずれの城門を出て見渡してみても、ただ土をもった墓があるばかり。

 古い墓は耕されて田んぼになり、墓に植えてあった真木も伐採されて薪となる。

 境界の柳には悲しげな風ばかりが吹いて、ショウショウと葉を揺らす音が死にたいくらい物悲しい。

 故郷の入り口をくぐって帰ろうと思っても、そこで落ち着く手だてなどありはしない。

とある。

 思えば「秋十年却って江戸を指す故郷」といって江戸を離れた芭蕉だった。その句のとおり、ここはもはや帰るべき場所ではなかった。芭蕉の母も、また芭蕉自身も、もはやそこでは去っていった過去の人だった。そんな中での芭蕉は浦島太郎の心境そのものだった。

 手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜

 手に取ったなら消えてしまうだろう。涙だけが熱い秋の霜。

 秋の霜といえば、有名な李白の『秋浦の歌』が思い浮かぶ。

 白髪三千丈 縁愁似個長

 不知明鏡裏 何処得秋霜

 白髪は限りなく長く伸びている。

 尽きぬ悩みにこのように長くなってしまった。

 鏡の中の自分がもはや誰かもわからない。

 一体どこでこんな秋の霜をもらってしまったのか。

 秋の霜というのは白髪のことだ。浦島太郎が玉手箱をあけるような気持ちで母の形見の白髪を手に取った。あらためて母の死が現実のものとなる。形見の白髪は手の中にある。しかし、記憶の中の母の姿は「死」という現実の中で煙となって消え去ってゆく。それは本当につめたい、凍りつくような現実だ。その秋霜の冷たさは涙の暖かさと対比させることによって、より冷えさびたものになる。

 日本人は多分昭和初期の、感情や性が厳しく抑圧された日本のビクトリア時代を経ることによって、感情の表現が苦手になってしまったようだ。悲しくても能面のように表情を消し、うれしくても曖昧な微笑みを浮かべ、感情を抑え、他人を刺激しないように縮こまって生活しているところがある。しかし、芭蕉の時代の人は、悲しいときは大声で泣いた。塚も動くばかりに。秋霜の涙もまた何度も号泣しては、止めどもなく流れ落ちたにちがいない。

十三、伊賀での芭蕉

 芭蕉は正保元(一六四四)年、伊賀上野の赤坂で生まれた。父は与左衛門、母のほうは詳しいことがわかっていない。父の与左衛門は伊賀国柘植の松尾氏で、一族の祖は平宗清だと称していた。父与左衛門と松尾家とのつながりははっきりしない。松尾家は無足人という、村落に居住しながら名字・帯刀を許された特殊な農民の家柄だが、与左衛門はとっくにこの身分を失っており、小作人として生計を立てていた、いわゆる「水呑み百姓」だった。

 芭蕉は童名を金作といい、元服して藤七郎と改名、さらに忠右衛門宗房(むねふさ)と改名した。父の与左衛門は芭蕉が十三歳の時に亡くなり、芭蕉は藤堂新七郎家の料理人として奉公に出た。料理人という職業は食物のことに詳しい百姓出身者にはうってつけの仕事だっただろう。田中善信は『芭蕉二つの顔』(一九八八、講談社)のなかで、「大名家などの料理人は素人に毛のはえた程度」と書いているが、大名家といえば、京風の洗練された食文化にも接していただろうし、参勤交代によって江戸の食文化も入ってきていただろう。芭蕉の食への関心は、その後の作品の至る所で見ることができる。

 おそらく、最初は掃除や皿洗いに始まり、やがて調理場全体の指揮から仕入れ、帳簿つけ、お金の管理なども、一通りこなしたのだろう。また、芭蕉は藤堂家の跡取り息子藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ)の世話や遊び相手も勤めたという。それと料理人との時期が重なるのか、料理人になる前なのかは定かではない。いずれにせよ、良忠との出会いは芭蕉の将来を決定づけた。良忠は体が弱く、武道よりも文に秀で、京都の北村季吟(きたむらきぎん)に俳諧を学び、俳号を蝉吟(せんぎん)とした。芭蕉は良忠に俳諧を習い、しばしば俳諧の席に呼ばれるようになった。

 おそらく、当時少年忠右衛門だった芭蕉は、傍若無人に振る舞う武士達にぺこぺこ頭を下げながら、わずかな給料を母のもとに送り、辛い少年時代を過ごしたのだろう。そんな中で、唯一の救いが、蝉吟の誘いで俳諧の席に呼ばれたときではなかったか。俳諧の席では身分はない。五千石の旗本の倅も百姓の奉公人も、正好(まさよし)、一笑(いっしょう)、一以(いちい)といった商人も、対等の関係になれる。それが、芭蕉が俳諧の魔力に取り憑かれるきっかけではなかったか。晩年に芭蕉は、

 木の下に汁も膾(なます)も桜哉

 影清も花見の座には七兵衛(しちびょうえ)

といった発句を詠んでいる。芭蕉が俳諧に見た夢というのは、身分のない世界、尊き者も賤しき者も、同じ花の下で和気あいあいと談笑に耽る、そういう場ではなかったか。

 この頃の俳諧はまだ貞門の堅苦しい俳諧で、格式ばった権威主義)が横行していたかもしれない。しかし、本来俳諧はもとより、その元となった連歌も地下の連歌師たちが庶民の間に流行らせ、それがやがて武家や宮廷にまで波及していったもので、こうした中世に、寺社などを中心に公界に花咲いた芸能文化は、身分を超越する、という理想をもっていた。

 戦国大名たちが、茶道に惹かれていったのも、そうした身分から解放され、一人の人間に戻れる時間を大事にしたからではなかったか。身分社会は、下のものにとっても、絶対服従を強いられ、過酷なものであったが、上に立つ人とて、弱みを見せられず、いつも虚勢を張っていなくてはならないし、下のものは遠慮して意見を言ってくれないから、悩んだとき相談できる人もいない。そんな時、茶道や連歌は、欠くことのできない息抜きの場だった。豊臣秀吉が千利休に限りなく惹かれながらも、最後には殺さざるをえなかったのは、身分のない世界が安らぎであり、とてつもない快楽であることがわかっていたからこそ、それが社会全体の風潮として広がってゆくことを恐れたからではなかったか。

 芭蕉に俳諧の目を開かせてくれた蝉吟も、芭蕉が二十三の時、二十五歳の若さで世を去った。芭蕉にとって大きなショックだっただろう。それでも、芭蕉はすでに、貞門の選集『続山の井』(寛文七年、一六六七)に三十一句入集を果たし、伊賀だけでなく上方、江戸でも新進気鋭の作家として注目されるようになっていた。この頃の芭蕉の句に、晩年のさびしおりの境地など見るべくもないが、それでも、人の思い付かぬようなひらめきと豊かな想像力は人々の目を引いた。

 年は人にとらせていつも若恵比寿

 春風にふき出し笑う花も哉

    秋の吉野の山の遁世

 在明の影法師のみ友として

    憂さ積もる雪の肌(はだへ)を忘れかね

 氷る涙の冷たさよさて

さらに、こうした想像力は、芭蕉自身の貧しい生活の中で培われた現実の鋭い描写にも結び付いた。

    賤が寝ざまの寒さつらしな

 おだ巻のへそくりがねで酒かはん

    ひさしぶりにて訪ふ妹が許(もと)

 奉公の隙も余所目の隙とみつ

 豊かな想像力と確かな現実感覚との共存、それは、晩年に至るまで様々に作風を変化させても、芭蕉の作風の終始一貫した特徴だった。晩年の芭蕉の、さびしおりの世界とはまた一つ違うあの傑作、

 物言へば唇寒し秋の風

の句も、その一例と言えよう。

 芭蕉はやがて、寛文十二(一六七二)年二十九歳のとき、藤堂家の奉公をやめ、江戸に出ることとなった。理由の一つには俳諧の世界で自分の実力を試してみたい、ということもあっただろう。それに加えて、あまり知られていないが、芭蕉は実務面でも有能だったという。しかし、いくら能力があっても、狭い藤堂家にあっては身分の問題もあり、もうこれ以上の出世はないだろうという、「先が見えた」という感があったのではないかと思われる。

十四、僧朝顔

 二上山は飛鳥からちょうど真西に位置し、その名のとおり二つのピークを持つ山だ。二つの山の間はさながら西方浄土の門のようだ。古くは大津の皇子の処刑の地でもある。西は五行説によると金を表す方角で、金はまた刑罰をも意味する。そんな中に、斧で切り倒されることなく一本の松の大木が生きながらえていた。

 「二上山(ふたかみやま)当麻寺(たいまでら)に詣でて、庭上(ていじゃう)の松をみるに、およそちとせもへたるならむ、大イサ牛をかくすとも云ふべけむ。かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤(ふきん)の罪をまぬがれたるぞ、幸にしてたっとし。

 僧朝顔幾死にかへる法(のり)の松

 「大イサ牛を隠す」とは『荘子』人間世篇に見える「其の大いさ数千の牛を蔽う」という言葉からきている。匠石(しょうせき)という大工が斉の国の神木の巨大な櫟(くぬぎ)の木の所を通りがかったとき、弟子がこれなら舟も作れるし斧のふるいがいがあると言うと、匠石はこの木は舟にすれば沈み、棺桶にすればすぐに腐り、器にすればすぐ割れ、まったく役に立たない、だから誰も切り倒すことなく巨大に育ったのだ、と答えた故事による。いわゆる「無用の用」というやつだ。役に立たないが故に、天寿を全うすることができる。

 似たような話は『荘子』の逍遥遊篇にもある。ここでは恵子が荘子を批判して、「おまえの説は樗(ごんずい)の木の様なもので、大きいだけで幹は節だらけで線も引けないし、枝は曲がっていて物差しを当てることもできない」と言ったのに対し、荘子は「せせこましい知恵では結局権力争いに巻き込まれて命を落とす、何の役にも立たない大木だからこそ斧斤(ふきん)によって切り倒されることもなく、無可有(むかう)の郷で悠々としていられる」と答えたという話として登場する。「斧斤の罪をまぬがれたる」という言葉もここからきている。

 ただし、ここで芭蕉は、単に役に立たないから、というのではなく、「仏縁にひかれて」といっている。「無用の用」も「無可有の郷」も単に役に立たないというより、それが仏の教えにかなうからこそ生き存(ながら)えてきた、と解釈するのだ。二上山当麻寺の松は長年にわたって僧侶たちに守られてきて今日に至っているのである。

 僧朝顔幾死にかへる法の松

 僧朝顔(そうあさがお)は芭蕉の造語で、「僧は朝顔」を縮めたものだろう。連歌の発句だと「僧や朝顔」といった切れ字の使い方もする。いずれにせよ、僧は朝顔のように儚く、その幾死にかへる法の松、という意味になる。

 朝顔は朝に咲いて昼には萎む、木槿と同様、短いはかない花だ。しかし、一つの花は萎んでも、また次の花が咲く。次から次へと花は咲き、命は絶)えることがない。それは『荘子』養生主篇の「指は薪たるを窮むれども、火の伝わるやその尽くるを知らざるなり」の言葉を思い浮かべたのかもしれない。

 芭蕉の風雅は、自分の家や帰るべき故郷を持ち、生活の源となる田畑を所有するものの風雅ではない。むしろ、そこから追放されたものの風雅だ。

 有限な大地に常に生じてくる人口の増加の圧力、それによって不可避的に生じてくる捨て去られるべき人々、排除されるべき人々。その問題を解決)せずして「直耕」の理想を振り回し、俳諧師などの遊芸の徒を「不耕貪食」と罵っても何になるものでもない。(安藤昌益の自然世、万民直耕の理想、その夢は美しいが、もし現実の社会でそれを行なおうとすれば、都市の膨大な人間を強制移住させたり、虐殺したりということになる。ポルポトは本当にそれをやってしまった。)

 古くから中国には儒教と老荘思想との二つの流れがあるが、それはこうした立場の違いに関係がある。ともに易や陰陽五行の論理を取り入れたり、儒教自身も隠士を一つの制度として取り入れているが、儒教の血縁・序列の重視は老荘思想と相容れないし、老徒の極度の文明否定を儒者が受け入れることはない。これは、儒教が基本的に農耕社会を円滑に運営するための論理だったのに対し、老荘はそこから疎外されたものの論理だったからだ。それは「包丁解牛(ほうていかいぎゅう)」の職人や、身体障害者であるが故に戦争に行かずに長らえたものなどの寓話にも現れているし、老荘思想が道教へと受け継がれていったときに生じた「穀断ち」の思想もまた、農耕を否定し、木の実などの採集によって人間本来の自然な状態に戻し、不老長寿を得るといったものだった。

 こうした老荘思想が仏教の「出家」の思想と結びつくのは容易だった。むしろ、中国仏教はインド仏教を老荘の言葉で翻訳するところから始まったといっていい。そこには「木石往生」のような、本来のインド仏教にはないような観念も生じている。本来、インドでは成仏できるのは人間の特権だったのだが、中国で仏教が翻訳されていったとき、荘子の「万物斉同」の立場から、成仏は動物、昆虫はもとより、植物や岩石にまでも拡大された。こうした中国仏教の伝統は、人間の文明を積極的に発展させるというより、むしろその境界を、いわば限界を確定するという機能を持っていた。それは文明と自然、生と死、現世と来世の境界を支配するものであり、日本でいう「公界」という空間に結びついていた。

 中国や韓国では、詩の担い手がもっぱら科挙によって登用された高級官僚であったため、詩の根幹はあくまで儒教にあり、ただ満たされぬ政治への思いがあきらめに変わったとき、仏教や老荘思想への傾倒という形を取るにすぎなかった。これに対し、科挙が取り入れられなかった日本にあって、特に中世以後、文化は地下)の連歌師や猿楽師、絵師などの職人・芸能の人々に担われ、公界を中心に発達していった。隠士という形で士大夫としての身分を保ちつつ国家権力から独立した文化を作り上げたのではなく、身分を捨てることでもって自立した文化を作り上げていったのだ。

 このことによって、日本の文化は中国や韓国以上に老荘的であり、仏教的であり、公界に密着したものとなった。志の高い風刺詩は少なく、むしろ政治に背を向け、満たされない思いやこの世のはかなさを花鳥風月になぞらえて述べるスタイルが主流となっていった。西行・宗祇・芭蕉といった日本の風雅の巨匠たちも、決して命がけで社会の悪と戦うという姿勢は取らなかった。彼等は権力の内部で権力に立ち向かうのではなく、むしろ権力の及ぶか及ばぬかの境界すれすれの所をさまようことにより、権力を限界づけようとしたのだ。

 日本の文化をよく「農耕的」と言う人がいるが、私は本当の所「職人的」と言った方がいいのではないかと思う。芸能は人の腹を膨らますわけではない。それは役に立たないが故に「斧斤の罪をまぬがれた」木のようなものとして、代々受け継がれてきたのである。

 ところで、この松にはもう一つ、芭蕉も知らなかった一つの縁がある。(以下、『万葉集と漢文学』和漢比較文学叢書九、一九九三、汲古書院、所収の「大津皇子『臨終』詩群の解釈」濱政博司による)それは二上山で処刑された大津皇子が六八六年に詠んだとして『懐風藻』にも載っているこの詩だ。

 金烏臨西舎 鼓声催短命

 泉路無賓主 此夕誰家向

 黄金烏が棲むという太陽も西にある住まいへ沈もうとし、

 日没を告げる太鼓の声が短い命をせきたてる。

 黄泉の国への旅路は主人もいなければお客さんもいない。

 この夕暮れは一体誰が家に向かっているのだろう。

 この詩は実は大津皇子のオリジナルではない。とはいえ、別に大津皇子がぱくったということではなく、作者がよくわからないまま語り伝えられていた詩が、あまりいい詩なので、、大津皇子の作に凝らされていたのだろう。どのようにして日本に伝わったのかわからないが、これに似た詩は五八九年の中国の『浄名玄論略述』に見られる。それは、叔宝が囚人として長安に引き立てられるときに詠んだ詩で、

 鼓声推命役 日光向西斜

 黄泉無客主 今夜向誰家

 太鼓の声は賦役へとせきたて、

 日の光は西へと傾いて行く。

 黄泉の国には主人もいなければお客さんもいない。

 今夜は誰の家に向かうのというのだ。

というものだ。この詩はその後も度々刑死した人の作として人々の噂にのぼったようで、何度となく中国の書に登場する。この詩は韓国にも伝わっていて、韓国では成三問(ソンサムォン)(一四五六年没)の詩として親しまれている。それは、

 撃鼓催人命 回看日欲斜

 黄泉無一店 今夜宿誰家

 太鼓を打つ音は人の命運をせきたて、

 振り返って見れば日は傾こうとしている。

 黄泉の国には宿屋があるわけでもない。

 今夜は一体誰の家に泊ろう。

といったものだ。成三問は十五世紀、李朝の最も繁栄したといわれる世宗(セジョン)の時代に活躍した人で、ハングル文字を作った人でもある。しかし、その世宗(セジョン)の時代が終わったとき、跡継ぎをめぐって権力争いが起こり、太宗(テジョン)の強引な政権奪取に反対し、本来の王位継承者である端宗(タンジョン)を擁立しようとしたが、密告によって計画がばれてしまい、成三問を含む六人が、拷問の末に処刑された。韓国ではこの六人の忠誠を称え、『死六臣(シユクソン)』として語り継がれた。しかし、この詩も、成三問自身が詠んだという証拠は何もなく、後の伝説にすぎない。大津皇子の場合と同様の事情のようだ。

 この成三問にはこれとは別に、刑に臨むときに詠んだ時調(シジョ)(韓国の伝統的な三行詩)が残っている。

 이몸이 수거가서 무어시 뒬고하니

 蓬莢山 第一峰에 落落長松 되였다가

 白雪이 만건곤할제 独也青青 하리라

 この命が絶えたなら一体何になろうか

 蓬莢山の第一峰のひときわ高い松となり

 白い雪が乾坤を覆う時も独り青々としていよう

 二上山にも牛を隠すほどの大きな松の木があり、そこに芭蕉は、俗世を離れることで刑罰を免れた者の姿を思い浮かべた。そして、下から次々と花をつけてゆく朝顔の姿もまた、韓国の国花、木槿の心にも通じる。しかし、芭蕉が成三問のことを知る由もない。すべては偶然の縁なのである。

十五、吉野の秋

 吉野といえば春の千本桜。見渡す限り続く桜の林は、遠くから見ると雲のようにおぼろげに霞み、この雲が山を登り山頂へ消えて行くと、春は終り、郭公の鳴く夏がやってくる。そんな大宮人の季節感をよそに、またしても芭蕉は時期はずれの吉野にやってくる。とはいえ、桜の黄葉もまた、春にはない閑寂な中の華やかさがあり、無何有(むかう)の郷を求める芭蕉にはむしろそのほうがふさわしい。そこは『野ざらし紀行』の中でも随一の名所で、『奥の細道』でいえば松島・象潟に匹敵する。それだけに、ここでは三句も詠まれている。

 まず最初の句を見てみよう。

 「独よし野のおくにたどりけるに、まこと山ふかく、白雲(はくうん)峯に重なり、烟雨(えんう)谷を埋(うづ)ンで、山賤(やまがつ)の家處々にちいさく、西に木を伐音東にひびき、院々の鐘の声は心の底にこたふ。むかしよりこの山に入りて世を忘たる人の、おほくは詩にのがれ、歌にかくる。こでや唐土(もろこし)の廬山(ろざん)といはむもまたむべならずや。

   ある坊に一夜(ひとよ)をかりて

 碪(きぬた)打ちて我にきかせよ坊が妻」

 まずは水墨画を思わせるような山の景色の描写で始まる。このくだりは『野ざらし紀行』の中でも名文の一つといえよう。木を伐る音や鐘の声は山にこだまし、深い静寂を生みだす。中国に名山の数ある中で、廬山をもってくるあたりが渋い。

 慧遠(えおん)が白蓮社を興し、浄土宗を広めた廬山は、山水信仰と極楽浄土とが結びついた土地だ。そこには周続之(しゅうぞくし)、劉遺民(りゅういみん)、陶淵明(とうえんめい)といった尋陽(じんよう)の三隠が隠遁生活を送った地でもあった。さらには白楽天が草堂を結び,「廬山便是逃名地(廬山はすなわちこれ名を逃るる地)」という詩句も詠んでいる。

 さらに廬山は絵の題材としても定番となっていた。日本の画家たちもみんな、見たことのない中国の景色を想像し、廬山を描いていた。

 さて、この吉野での最初の発句だ。

 碪(きぬた)打ちて我にきかせよ坊が妻

 昔の人はよくこれだけで何のことかわかったものだ。度々登場する素堂の波静本の序にはこうある。

 「同じくふもとの坊にやどりて坊が妻に砧ををこのミけん。むかし、尋陽の江(こう)のほとりにて楽天をなかしむるハ、あき人の妻のしらべならずや。坊が妻の砧は、いかに打て翁をなぐさめしぞや。」

 廬山尋陽)と来れば陶淵明か白楽天。そこに妻に砧を聞かせよという場面が加わると、白楽天の『長恨歌』と並ぶ傑作『琵琶行』と来なくてはいけなかったのだ。

 今夜聞君琵琶語  如聴仙楽耳暫明

 莫辞更坐弾一曲  為君翻作琵琶行

 感我此言良久立  却坐促絃絃転急

 凄凄不似向前声  満座重聞皆掩泣

 座中泣下誰最多  江州司馬青衫濕

 今夜は君が琵琶を弾きながらする物語を聞くとしよう。

 仙楽を聴いているようで、耳は少しづつさえてくる。

 遠慮しないで坐ってもう一曲弾いてくれ。

 君のために「琵琶行」という詩に作り直してあげよう。

 私がそういうとしばらく立っていたが、

 再び坐り直すと絃を促し、激しくかき鳴らす。

 凄凄として今まで聞いたのと違う声となり、

 満座は重ねて聞いて、皆涙をおおう。

 座中で最もたくさんの涙を滴らせたのは、

 江州の司馬であった白楽天自身で、その青衫(せいさん)を濡らした。

 茶売の妻は昔都で華やかな暮らしをして、それが今はこの田舎でひっそりと暮らすことになった、その悲しい物語を切々と語って聞かせたのであろう。それが、左遷され、廬山・尋陽という昔から多くの人が隠棲した地に配転された白楽天自身の姿に重なったのであろう。芭蕉が泊まった坊の妻はどういう境遇だったのかわからないが、故郷を捨てた芭蕉にどこか共鳴するものがあったのであろう。

 秋深い吉野の山奥に日も暮るとなれば、そこはどこまでも寂しく、あたかも既に冥界にいるかのようだ。それは一種の感覚遮断だ。かってあれほど疎ましく苦しく思った都会の喧騒も、懐かしく思い出されてくる。憎しみ合ったこともあれば、愛し合うこともあった。そんないろいろな人との日々が、記憶の中で美化され、輝いて見えてくる。遠ざかれば遠ざかるほど思い出は追いかけてきて、俗世への執着を捨てたつもりなのにかえって俗世が恋しくなる。その寂しさに耐えたのが、かっての詩や歌に逃れた古人たちだった。

 ところで、なぜ琵琶ではなく砧なのだろうか。砧打つ音も古くから和歌・漢詩に詠まれている。都落ちし、遠い山里で聞く砧の音は悲しげで、旅人の涙をさそう。特に、吉野に砧といえば、藤原雅経(ふじわらのまさつね)の、

 み吉野の山の秋風さ夜ふけて

     ふるさと寒く衣打つなり

という歌もあり、土地柄からいって琵琶よりも砧のほうがふさわしかったのであろう。

十六、露とくとく

 さて、吉野で隠棲といえば、この人を忘れてはいけない。西行法師だ。

 西行は、平将門の乱を平定した俵藤太(藤原秀郷)の末裔で、元永元(一一一八)年に生れた。俗名は佐藤義清。しかし、武士の家に生まれながら武士にはならず、出家し、放浪生活をしながら歌を詠み、風雅の道に生きたその生き方が中世以来多くの人の共感を呼び、様々)な伝説が生れた。源平合戦の時代(じだい)に戦に行かず、愛を歌い続けた西行は、平和のヒーローだったのかもしれない。

 「西上人(さいしょうにん)の草の庵の跡は、奥の院より右のほう二町ばかりわけ入ほど、柴人(しばびと)のかよふ道のみわずかに有りて、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし、彼のとくとくの清水は昔にかはらずとみえて、今もとくとくと雫落ちける。

   露とくとく心みに浮世すすがばや」

 白洲正子の『西行』(一九八八、新潮社)によれば、出家後、西行は毎年のように吉野を訪れたらしく、西行が住んだという庵も一つではなかったらしいが、芭蕉がここを訪れ、句を詠んだことで、この「とくとくの清水」のある庵室が有名になり、今日西行庵と呼ばれるようになったという。

 露とくとく心みに浮世すすがばや

 この句は西行の、

 とくとくと落つる岩間の苔清水

   くみほすほどもなきすまひかな

の歌によるものだが、この歌は勅撰集にも『山家集』にもない。伝承されてきた歌だ。だから、これが本当に西行が詠んだ歌かどうかはわからない。

 「とくとく」というと、何となくウィスキーをグラスにそそぐときの音を連想してしまうが、多分かつてはもっと細い音だったのだろう。「とくとくと雫落ける」というように、トットットットッ…と間断なく雫が滴る程度で、もう少し細くなると、ピチャン、ピチャン、という音になりそうな、そんな状態ではなかったか。それは勢い良くほとばしるまでいかない、かすかな湧き水で、それすら汲み尽くすことのない、それで十分すぎるような山奥の庵住まいだというのが、この歌の意味なのだろう。岩間の水は立春の、

 岩間閉じし氷りも今朝は解け初(そ)めて

     苔の下水(したみず)道求むらん

               西行法師

の歌を思い起こさせる。それは不老長寿の「若水(わかみず)」だ。万物の命の源となる水だ。

 吉野といえば、古代にあっては道教思想と結び付いた神仙郷だった。それ柿本人麿も「とこ世」と呼び、『懐風藻』にも吉野を神仙郷として詠んだ詩がある。天武・持統帝は何度も吉野山に通い、吉野の山水の祭を行った。人麿の吉野行幸歌もまた、祭のさい山川の神に捧げられたものだった。そのへんの詳しいところは福永光司他による『日本の道教遺跡』を参照するといい。

 やがて古代の道教が廃れ、仏教にとって変わられていった時、神仙郷は生きながらにして永遠の命を得るというよりは、死後の極楽浄土を思わせる場所となった。元来、神仙郷にしても極楽浄土にしても、少なからずいろいろな人の臨死体験がもとになって描かれたものだろう。美しい山河に咲き乱れる花、なぜ死の前にそのようなものが見られるのかは謎だが、おそらくそれは脳内モルヒネによって引き出される至福感が映像化したもので、いつでも人の心にある永遠の生のイメージなのだろう。道教は生きながらそこへ行くと考え、仏教は死んでから行くと考えるが、行ったっきり二度と帰れないという点では、結局どちらも同じことだ。吉野の山の清水は、そんな永遠の生の不思議な力を感じさせるのだろう。それは、かすかな清水ではあるが、それを汲み干すこともなく生活するというのは何て豊かなことだろうか。

 芭蕉もまた「とくとくの清水」に神仙郷の水の魔力を感じていたようだ。それは西行法師の身の穢れを洗い流し、命を清めてなお余りある水だ。この水で私の人生の憂鬱も煩悩も洗い流してくれ-そんな祈りがこの句には込められている。素堂は「洗うにちりもなからましを」と言うが、塵の自覚こそ人間として大事なことなのである。

十七、御廟への思い

 「山を昇り坂を下るに、秋の日既に斜になれば、名ある所々み残して、まづ後醍醐帝の御廟を拝む

 御廟年経て忍ぶは何をしのぶ草」

 戦後はもとより、戦前の皇国史観の時代ですら、芭蕉の皇室崇拝と失われた王朝時代への思いについては、ほとんど注意を払われてこなかったように思われる。しかし、日が暮れかかり、時間のないときに、何を差し置いても後醍醐天皇の御廟を拝みに行くところなど、それ相応の情熱が感じられる。

 過去の記憶はしばしば美化される。過去がつらいものであればあるほど、その記憶がトラウマとなって心を痛め、行動に悪影響を及ぼすのを抑えるため、その防衛反応として、悪いことは次第に記憶から消され、美しい思い出だけが残ってゆくのはよくあることだ。

 過去の記憶の美化は、それが多くの人の共有するところのものになると、しばしば理想郷を形作る。古代のギリシャ人の夢見た「黄金時代」、儒教でいう「先王の治世」。日本でも失われた王朝時代は、天皇、すなわち天帝の支配のもと、あたかも平和そのもので、人々は自然と一体化し、自然のままに生きていたかのような追憶を形作る。そんな天道へのあこがれは、当時の知識人にはしばしば見られるもので、いわゆる「国学」なるものを支える原動力だったし、やがて明治の王政復古にもつながった。

 皇室崇拝は日本の特殊な問題として議論されがちだが、人間の考えることは世界中どこでもそんなに変わるものではない。天皇制を支えているのは、人間として常にありがちな感情、つまり「過去の美化」だ。現実の生活というのは決して楽しいことばかりではない。辛い労働、人間同士の絶えず生じる摩擦、衝突、人類が有史以来繰り返してきた戦争、自然破壊、搾取、略奪、そうしたものから逃れたいという気持ちは誰しもあるはずだ。

 現実には人は争いを繰り返しているが、やはり平和なほうがいい。現実には不自由で窮屈な生活を強いられているが、やはり自由なほうがいい。現状に甘んじるよりは、何とか今よりもよいものを求める気持ちは、人間として大切な美しい心だ。だが、我々凡人はもとより、世間で天才といわれる人達でも、現実の困難な問題を直視し、解決してゆくだけの強さをいつも持っているわけではない。悲惨な現実から逃れたい、理想を実現したいという超越への願望は、しばしば偽りのユートピアをでっち上げ、解決したふりをしてごまかしてしまう。

 過去だって、今と同じくらい悲惨な暮らしをしていたはずだ。しかし、その中の美しい思い出だけを切り離し、過去を美化する。原始時代、人間は自然そのもので、何一つ不自由のない生活をしていたのかもしれない‥‥。古代、聖人君主の下に人々は今よりも純朴で正直で、争いなどなかったかもしれない‥‥。昔は良かった、それに較べて今は‥‥。でも、それは本当なのだろうか。

 もちろん、何か大きな改革を行う時は、全く新しいことだと人は不安になり躊躇しがちになるが、「復古」という名目があればやりやすいのは事実だ。そのため、ノスタルジーを戦略的に使うという可能性はある。

 大人が「もう一度子供に戻りたい」というときには、きまって子供の頃いじめられたり、恐い兄さんに殴られたり、親や先生に自分をわかってもらえず傷ついたり、子供だからといって差別され、馬鹿にされ、自由が与えられず、屈辱的な目に合い、あの頃「早く大人になりたい」と思っていたことなど忘れているものだ。

 故郷は遠くにあれば美しい思い出だが、実際に帰ってみると、そこでの難しい人間関係、古くさい因習、価値観、そんなことで苦労することは目に見えている。それでも、思い出の中の過去は輝いていて、そこに帰りたいと願う。

 天皇制を支えてきたのは、そうした心の弱さが描き出す甘いノスタルジーだ。ノスタルジーは酒に似ている。適度に飲めば人生は楽しくなるが、依存症になってはいけない。

 近代の天皇制は、こうした理想上の過去と、現実の歴史とをごっちゃにして、おかしなものにしてしまった。あの頃、西洋列強の植民地主義の恐怖のなかで、西洋的な軍隊を作らなくては日本は消滅するという恐怖が常に支配していた。そこから日本の伝統文化を弱々しい軟弱なものとして卑下し、日本を西洋化させなくてはいけないという強迫観念に常に支配されてきた。

 そこから、日本の遅れた醜い封建的なものを、中国の文化のせいにし、日本は古代から、西洋近代文明を先取りしていたかのような幻想に酔いしれた。『万葉集』は近代写実主義の先駆であり、芭蕉の俳句もそういうものとして解釈されなければならなかった。

 今日でも、太平洋戦争や日中戦争はもとより、明治の軍国主義の対外拡張政策の際に起きた様々な都合の悪いことがすっかり忘却され、なかったことにされ、明治憲法の時代を懐かしむ声は多い。今、韓国や中国が主張していることには若干の誇張はあるものの、その多くは真実だったということは認めるべきであろう。借金だって、借りた方は都合よく早く忘れ、貸した方はいつまでも覚えているものだ。

 あの頃日本は必死だった。ロシアの南下政策の恐怖のなかで、朝鮮半島を日本の防波堤にする必要があった。一九三七年の南京進行の際には、補給のない過酷な行軍命令のなかで旧日本軍はモラル崩壊を起こした。特に中国軍の民間人を装った便衣兵の卑劣な攻撃には手を焼き、便衣兵と疑われる民間人を大量に処刑するのもやむを得ぬことだった。その後も軍のモラルの建て直しは難しく、戦地での強姦事件があとを絶たないため従軍慰安婦が必要とされた。

 こうした事件に天皇自らが積極的に関わることはなかったにしても、天皇に軍の統帥権を与え、シビリアンコントロールを無効にした明治憲法の欠陥は反省されなくてはならない。

 戦争の悲惨を自分の問題として受け止め、二度と悲惨な戦争を起こさないようにするにはどうすればいいか、それを自分で考える力がない。そこで、戦争の悪いことは他に押し付け、日本は正しかったと信じる。

 夢は夢であって、現実ではない。だからこそ、そこに時代を超えた永遠の輝きがある。それを安易に実際の過去の歴史と混同する。それは、天皇を崇拝しているようで、結局は天皇の「天」の超越性を卑俗化させ、堕落させているのではないか。

 逆説的だが、芭蕉の時代は天皇についてリアルな観念がほとんど存在しなかった。それだけに、まだ人間としての普遍的な理想を象徴することができた。その理想とは、軍隊(武家)が国を支配することない平和な時代であり、北畠親房(きたばたけちかふさ)の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』に言うような、軍隊などなくても神によって守られた「神国」の理想だったといってもいいだろう。

 慈円の『愚管抄』巻第三に、

 「保元以後のことは、みな乱世にて侍れば、わろき事にてのみあらんずるをはばかりて、人も申すをかぬにやと、おろかにおぼえて、ひとすじに世のうつりかはり、おとろえたることはりひとすぢを申さばやと思ひておもひつづくれば、まことにいはれてのみおぼゆるを、かくは人のをもはで、この道理にそむく心のみありて、いとど世もみだれ、をだしからぬ事にてのみ侍れば。これをおもひつづくるこころをも、やすめむとおもひてかきつけ侍る也。」

とあるように、当時は武家政権の誕とともに乱世が始まったと認識されていた。

 芭蕉にとって、王朝時代崩壊以来の歴史は長い五月雨のようなものだった。そして、芭蕉の旅は、五月雨の降る前の、あの輝いていた時代を探す旅でもあった。

 五月雨の降り残してや光堂

 五月雨や色紙へぎたる壁の跡

 それは性急な王政復古というよりは、あくまでも遠い過去の痕跡にすぎず、ただどこまでも心の中で美化されたイメージだった。そして、その失われた夢は無常感すら誘うものだった。

 「忍は何をしのぶ草」の句はあの順徳院の、

 ももしきや古き軒ばのしのぶにも

     なほあまりある昔なりけり

の歌を思わせる。忍ぶのは遥かな理想の痕跡なのである。風雅の道とは、かつての理想郷であった王朝時代の痕跡を伝える媒体(メディア)だったともいえよう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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