https://www.ncctv.co.jp/news/article/15083596 【「訪れてみたい日本のアニメ聖地88」五島市が選定 「蒼の彼方のフォーリズム」の舞台】より
今年の「訪れてみたい日本のアニメ聖地88」に五島市が選ばれました。
「アニメ聖地88」は毎年、一般社団法人「アニメツーリズム協会」がファンからの投票で選んでいます。国内外の約11万人が投票した今年の88作品のひとつに五島市がモデルになったスポ魂恋愛アニメ「蒼の彼方のフォーリズム」が選ばれました。認定式でアニメツーリズム協会の鈴木則道専務理事から五島市文化観光課の竹中博基課長に認定プレートと御朱印スタンプが授与されました。
五島市では2019年にも「山本二三美術館」が選ばれていて、今回で2件目です。同じ地域で複数が選定されるのは九州では初だそうです。
五島市文化観光課・竹中博基課長:「ぜひ五島が舞台のアニメをより多くの方が見られて、実際五島をアニメの聖地ということで訪れて回っていただくことにつながればいいと思う」
贈られた認定プレートと御朱印は五島市の武家屋敷通りふるさと館に設置しています。
【富士噴火】
日本文化に疎い和多志は 「日本のヒミツとホントを語る」ワークショップに参加してきました。今回のテーマは日本の「聖地ネットワーク」でした。
天のライン、地のライン、人のラインの説明の後 伊勢、出雲を結ぶ富士山ラインの話があり フォッサマグマ上の聖地とそれをつなぐ天・地・人の網の目のようなネットワークが 神々の護国につながってきたが 祭儀が廃れ続けてきた今日、日本の未来に憂いを感じるとのこと。
(天・地)のネットワークは不動に近いが 人のラインは 実にもろく 昔の人の叡智も無視され続け 富士の噴火予測が象徴するように 亡国の危機さえ感じる。
聖地を行き来する巡礼こそ 人のラインをつなぐ祭りであり、みなさんが旅をする時 方位磁石を携えて 聖地ライン(日の出入りのライン)を意識し 護国の祈りをして欲しいという趣旨のものでした。
聖地ネットワークをまとめていたら 出雲と天照(北の大陸と南の大陸、陰と陽)の対立が富士の噴火をぶのではないか?と考えてしまいました。
理由その1
以前出雲巡礼の時 伊勢神宮に出雲の神も祀られたと聞いた記憶があります。
もしかしたら 出雲の神は 和歌山県の日前国かたす【(ひのくま国かたす)神宮:熊野三山がご神体】に祀られ 明治時代の国策により熊野詣が廃れたと考えられないでしょうか?
和歌山と出雲は深い関係にあったことは次に投稿する資料からも 考えられます。
その2
中央構造線は東アジア大陸と東南アジア大陸の 大断層で 出雲側は東大陸側のエネルギーの神、「コノハナヤサクヤヒメ」富士ライン側は東南アジアのエネルギーの神。
【鹿児島県の笠沙の岬(笠沙の岬の地名は「ニニギノミコト」(神武天皇の曽祖父)と「コノサクヤヒメ」の出会いの場で有名な地。)
四国の足摺岬、室戸岬の3岬をつなぐと朝熊ケ岳(あさまがだけ・伊勢神宮 奥の院)から富士(あさま大社)に至る。】
その3
地質も 出雲側は世界でまれな 墓石=花崗岩・御影石が埋もれた大地→黄泉の国支配
「コノハナヤサクヤヒメ」側は緑の蛇紋岩が産出。
大陸側は 最近まで裏日本といわれ 過疎化が憂われるほど。
その4
「鳥取の氷ノ山(氷ノ山)、蒜山(ひるせん)、大山(だいせん)→本来の修験道のメッカ
島根 出雲:出雲は熊野の日嗣(霊魂を継ぐ)空海は知りつつも 熊野巡礼よりも 四国を巡礼地として選んだとのことです。
その5
神無月の時も「エビスさんは 出雲にいらっしゃっていないから そう呼びたくない」という 話を 小耳にはさみました。神々が出雲に集まるという謂われは 廃れたのでしょうか?
二つの富士山ラインは 熊野詣・軽視から 陰陽のバランスを失い 富士山噴火の危機が訪れたと考えられないでしょうか?
<インターネット資料>
http://anou.mo-blog.jp/koan/2012/05/post_77c3.htmlより
熊野は、現在では和歌山県と三重県とにまたがっている。熊野三山はいずれも和歌山県に属しているが、熊野市は三重県の最南端の町である。
その熊野市有馬町には、『花の窟(いわや)』と呼ぶ奇岩があって、日本書紀によれば、イザナミの葬られたところと伝えている。
そしてここにも、神倉神社のゴトビキ岩と同じく岩塊がそそり立っている。道路を挟んですぐ隣は熊野灘である。
もともと神の寄りつく場所だったらしく、今も『お綱かけ』という神事が行なわれている。
これは、葬られているイザナミの『魂(みたま)を祭るには、花の時にはまた花を以(も)ちて祭る』。また鼓(つづみ)・吹(ふえ)・幡旗(はた)を用(も)ちて、歌ひ舞ひて祭る」という日本書紀の記事(第五段一書五)に基づいていると言い伝える。
熊野は異界と接触する土地である。その昔、秦の始皇帝に命じられた徐福(じょふく)が、永遠の命を手に入れるために蓬萊山めざして大海原に漕ぎ出した。
そしてたどり着いたのが熊野だったと伝えられ、いつのことか、新宮市に墓ができた。中世には、仏教における異界である補陀落(ふだらく)への渡海をめざす修行僧たちが集まるようになり、出入り口を塞いだ小舟に乗って太平洋に漕ぎ出していった。
那智駅の近くには補陀洛山寺があり、那智大社の隣りには青岸渡寺が建つ。
古事記の神話では、木の国(紀伊国)は、スサノオのいます根の国の堅州(かたす)の国につながっていた。
紀伊の国と出雲の国は、熊野という同じ地名があるということからも想像できるように、理由は明らかではないが、かかわりの深いところである。
中心としてのヤマトからみれば、どちらもクマ(隈)であり、だからこそ異界に接触できる場所なのだ」(三浦祐之「古事記を旅する」
文藝春秋) 再び「出雲国風土記」を振り返ってみよう。
建築様式だが、出雲大社は「大社造り」といって、伊勢神宮の「神明造り」との類似点が指摘されている。
けれども、どちらかといえば伊勢神宮の神明造りは南方系の要素が強いらしく、東南アジアの多くの地域で見られる高床式・高倉穀倉を原型とするようだ。
それに対して出雲大社の大社造りは大陸系に近いと言われる。
いずれにしても海を越えて輸入された外来の建築様式が、中央政権の創設と時期を同じくしながら少しづつ形式を整えていったに違いない。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
香取神宮は元旦の宮中祭祀で天皇が四方拝で遥拝する重要な神社で茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社と呼ばれています。
香取神宮の主祭神はフツヌシ(経津主神)ですが神統譜がなく日本書紀にのみ登場する神です。
物部氏の氏神であるフツノミタマ(布都御魂)と似ている名前です。
『古事記』でオオクニヌシ(大国主神)に国譲りをおこなわせたのは藤原氏の氏神となるタケミカヅチ(武甕槌神)ですが、『日本書紀』で交渉の中心はフツヌシ(経津主神)でタケミカヅチは脇役になっています。
フツヌシはオオクニヌシの前で剣を抜いて地面に突き刺し国を譲れと脅しをかけた猛々しい神です。
タケミカヅチ(武甕槌神)とフツヌシ(経津主神)は記紀で大活躍しますが国譲り以後に名前が出てくるのは一回だけであとは出てきません。
フツヌシ(経津主神)の名は古事記になく『常陸国風土記』にも記載されていません。フツヌシ(経津主神)はタケミカヅチ(武甕槌神)と同様に神統譜をもたない神でした。
香取神宮と伊勢神宮と住吉大社の「御田植祭」は、日本三大田植祭として有名です。ところが香取神宮のフツヌシは農耕の神ではなく武神と説明されています。このことからフツヌシに変わる前の香取神宮の神は稲の神・水の神の神格を持つ神を祀っていたのは明らかです。
香取神宮本殿のすぐ左手後方に匝瑳(そうさ)神社があります。フツヌシ大神の父母神が祀られているという説明がされています。
『続日本後紀』に5世紀末に物部小事(もののべのおごと)が下総国匝瑳郡を賜わったという記述が出てきます。以後、物部の子孫は匝瑳連(そうさむらじ)を名のりました。
香取神宮の神職大禰宜は代々物部氏の子孫の香取連(かとりのむらじ)が勤めていましたが34代の頃に中臣家が養子に入り祭祀権が物部から藤原氏(大中臣氏)にかわっています。
この時代はまだ物部氏に伝わるフツノミタマ(布都御魂大神)の伝承が色濃く残っていたので露骨にフツノミタマを消すわけにはいかないので日本書紀はフツノミタマの神格を受け継いだフツヌシ(経津主神)にしたのでしょう。
日本書紀第9段一書第二でフツヌシ(経津主神)は悪神(天津甕星アマツミカホシ)を処罰して日本列島を平定したと神として記されています。
悪神とは藤原氏以前に権力を握っていた有力豪族の祖先神です。権力構造が変わると主祭神の名前はすげ替えられました。
藤原不比等は春日大社を建立して四神の一柱としてフツヌシを氏神として取り込みました。
各地の物部氏の拠点の神社の祭神は藤原氏のフツヌシ(経津主神)と区別するためなのかモノノベフツノミコト(物部布津主命)としています。
古代メソポタミアのギルガメシュ叙事詩や聖書などの神話の構造を見ると、勝者の支配の正統性として新しく作られた神話の中にそれ以前の古い神話を借用して混合させることが行われてきました。
『古事記』『日本書紀』の時代は有力豪族だった物部・蘇我が衰退して藤原氏が台頭した時代です。
持統天皇五年(674年)に大神神社と石上神宮の古文書と有力古代豪族の伝記が書かれている墓記が没収されました。『日本書紀』以前の書は、いつのまにかすべて消えてしまいました。
誰にも読まれることなく400年の間、秘密に隠された文書の『古事記』と公文書となる『日本書紀』は性格が異なります。
そして日本書紀が編纂された和銅元年(708年)~和銅五年(712年)の間は不比等の長男武智麻呂が図書頭をしていました。藤原氏は日本書紀を都合の良いように書き換えることができました。
古代豪族の祖先神が落とされて藤原氏の祖先神が神話の中心で活躍するのは当然のことなのです。歴史を書き換えることで藤原氏の子孫が政治の権力を握る歴史的正当性が確保されたのです。
文武二年(698)に藤原姓を名乗れるのは藤原不比等の子孫に限られ、その他の藤原氏は旧姓である中臣姓に戻すよう文武天皇の命が出ます。
藤原氏が政治を行い、神事を司るのは中臣氏と分けられました。
摂政・関白の職は明治維新まで藤原氏の子孫たちが就きました。例外は秀吉ですが、それでも藤原氏の養子となってから関白に就いています。
こうして藤原氏の繁栄は1000年以上も続きました。
日本は母系社会の慣習を受け継いできたので天皇家の歴代の姻戚が権力を握ってきました。
歴代の天皇の妃は、藤原不比等を先祖とする近衛・鷹司・九条・二条・一条家の藤原氏嫡流の五摂家から選ばれるのが習わしとされていました。
藤原氏以外から選ばれた妃が、平成の美智子皇后です。
1300年ぶりに日本は新しい時代に入ったのです。
紀伊半島の和歌山県と三重県にまたがる熊野地方。世界遺産にもなっている熊野信仰の聖地は、1500万年まえの噴火に由来する熊野カルデラと重なり合っています。
巨大な火山活動とその後の風化作用によって形成された風景が、熊野信仰の背景にあることがいま、注目されはじめています。
『火山で読み解く古事記の謎』では、古事記における神武天皇の行軍ルートが、熊野から奈良県南部に至る太古の火山エリアと交わるという不思議を提示しています。
本のなかでは掲載できなかった場所もふくめて、熊野の火山がつくった神秘の風景を紹介します。
熊野カルデラ──紀伊半島における巨大噴火の痕跡
九州南部の火山群が活火山の典型であるとすれば、出雲エリアの火山群にはいわゆる「休火山・死火山」(死語ですが)としての特徴があります。
熊野の火山は風化作用によってその姿さえ消滅させており、もはや死火山とさえいえない〝火山の化石〟です。
紀伊半島で巨大な火山活動があったのは千五百万年ほどまえと考えられていますが、長年の風化によって、盆地状のカルデラ地形はうっすらと痕跡を残している程度です。
紀伊半島の巨大カルデラのひとつ熊野カルデラは四〇×二〇キロと推定されており、その規模は阿蘇のカルデラ(二五×一八キロ)をはるかに上回っています。
カルデラの大きさは噴火のとき噴出されたマグマの総量、すなわち火砕流、火山灰などとして地上に出たマグマの量によって決まります。
熊野におけるカルデア噴火は日本列島の歴史において最大の噴火だったのではないか──という議論があるのはこうした理由によるものです。
熊野在住の地質学者・後誠介氏らによる作図です。 地図は「み熊野ねっと」よりの転載。
紀伊半島の南東部には、三つのカルデラが確認されており、そのいちばん南、地図(左)でいえばA、Bが、熊野カルデラです。地図(右)はその拡大図です。
カルデラといっても、阿蘇のように明確な盆地状の地形が目に見えるわけではありません。
阿蘇が現在の地形になったのは、九万年まえの巨大噴火によるものです。
それに対し、熊野カルデラの形成は千五百万年まえ。
あまりにも遠い時代です。
風化作用によって、当初の盆地状の地形が不明瞭になっているカルデラを、コールドロンと呼び、区別することもあるそうです。
熊野カルデラは、熊野コールドロンとも呼ばれています。
カルデラと重なり合う熊野三社の聖なる風景
熊野カルデラは、紀伊半島南端から、那智勝浦町、新宮市、田辺市本宮町に至るエリアですが、熊野三社と称される熊野信仰の中核は熊野カルデラと完全に重なっています。
那智勝浦町には熊野那智大社、新宮市には熊野速玉大社、田辺市本宮町には熊野本宮大社が鎮座しています。
このカルデラ地帯には、太古の火山活動に由来する驚異の風景美があり、熊野信仰の背景となっているのです。
熊野那智大社は、滝がご神体のようなもの。
虹がかかって神々しい風景でした。
那智の滝の背景をなす岩は、ほぼ垂直に一三三メートルの高さで切り立って断崖絶壁をなし、何本もの石の柱が並んでいるように見えます。
いわゆる「柱状節理」です。火山の風景を代表する自然の造形です。
滝の背面をなす絶壁は、花崗斑岩と分類され、火山の地下にたくわえられたマグマが冷え固まった巨岩。冷却するときの収縮でタテに柱状の筋目ができるのです。
新宮市の神倉神社は熊野三社のひとつ速玉神社の摂社ですが、一〇〇メートルちょっとの小高い山につづく石段を登りきると、その頂きにバスが空間に浮かんでいるように見える巨石があり、注連縄を巻かれています。
那智の滝と同じく、火山のマグマが冷えてできた花崗斑岩です。
次の写真は、新宮駅から熊野本宮大社へと向かうバスから撮ったものです。
適当にシャッターを押したので、場所は不明ですが、これは柱状節理なのでしょうか。
緑めいた色をした熊野川は、温泉によって酸性を帯びているからでしょうか。
熊野三社で最も権威あるとされる熊野本宮大社。
その主祭神である家津御子大神は、出雲神の筆頭格スサノオと同一視されている──。
これも熊野信仰をめぐる大きな謎です。
なぜ、活火山のない紀伊半島に温泉があるのか
熊野信仰の基層にあるのは、温泉ではないかという説があります。
下の写真は、熊野本宮大社のすぐそばというわけではありませんが、本宮温泉と呼ばれる温泉地。
中世の説教節などで有名な小栗判官の伝説で知られるところです。
小栗判官は敵に殺されながら、熊野本宮温泉の霊威によって、もと通りの美丈夫によみがえります。
巨大なカルデラを生み出した紀伊半島の火山活動は、千五百万年まえのことですから、熊野火山は言葉のほんとうの意味で死火山であるはずです。
しかし、熊野火山はほんとうに死んだのでしょうか。
疑惑を生じるのは、熊野カルデラの外輪山跡に沿うように、湯の峰温泉、月野瀬温泉、勝浦温泉、湯川温泉、そして熊野信仰の中枢地である熊野本宮大社の近くに本宮温泉があるからです。八十度、九十度という高温の湯を出すところもあり、マグマ的なエネルギーの気配を漂わせています。
これも後誠介氏らによって作成された地図で、熊野地方における温泉の分布を示しています。
ピンク色の楕円形が、熊野カルデラの外輪山の跡ですから、そこに沿って温泉が点在していることがわかります。
活火山の存在しない紀伊半島の南端部で、なぜ、これほどの高温の温泉があるのかということについては、地質学における謎のひとつとなっています。
ひとつの説は、千五百万年まえの熊野カルデラを生んだ巨大噴火のマグマが冷え切らないまま、高熱の岩体として地下にあって、その熱に温められた水が温泉となってわいていると説明です。
近年、この説には否定的な論者が増えているそうで、太古の火山活動による割れ目があって、それが温泉の湧き出す道になっているという説明もあるそうです。
地下世界は、はるか何万光年先の宇宙よりも、観察が困難であるので、どうしても、「説」の要素がつよくなってしまうそうです。
ともあれ、活火山もないのに高温の湯を噴き出す「神の湯」が熊野信仰の基層にあることは興味深い事実です。
イザナミ、カグツチの墓標
熊野という地名はかなり広いエリアを指しており、和歌山県の南東部から三重県の一部をふくんでいます。
イザナミは火の神カグツチを出産したことによって絶命し、古事記はその墓所の所在地を出雲の比婆山としています。
ところが、日本書紀の諸伝のひとつでは、イザナミを「紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる」とあります。
その伝承地は三重県熊野市のはなのいわや花窟神社とされ、JR熊野市駅から歩いて十分くらいの行きやすい観光地ですが、その光景はこの世ならぬ不思議な気配を漂わせています。
高さ五〇メートルに近い白っぽい巨岩が海岸線のすぐ近くに切り立っており、その足元にイザナミの墓所であることを示す標識があり、玉垣で囲まれた一角があります。
そのすぐ近くに、火の神カグツチの墓が同じようなつくりで設けられています。
悲劇的な母子の墓標であるかのようにそびえ立つ巨石。この不思議な景観は千五百万年まえ、熊野カルデラのマグマが地上に噴き出し、火砕流となり固まったものです。流紋岩質火砕岩と呼ばれています。
熊野ジオパーク
熊野地方は、世界遺産の観光地として知られていますが、もうひとつのユネスコ事業である「ジオパーク」にも指定されています。
ジオパークとは、地球科学、地質学のうえで価値のあるエリアを指定し、教育や観光に役立てようという運動です。
そのなかでも熊野のジオパークは、熊野信仰という精神文化と地形・地質との結びつきが明瞭に示されており、古代からの精神文化や信仰に興味のある方には、とてつもなく面白い情報に満ちています。
『火山で読み解く古事記の謎』では紹介していませんが、紀伊半島最南端の駅・串本駅から歩いて三十分くらいのところにも、千五百万年まえの巨大な火山活動に由来する不思議な景観があります。
ジオパークのパネルや展示コーナーがあり、風景をまえに、地質学的なデータを知ることができます。
南紀熊野ジオパークのサイトには、詳しい情報が網羅されており、有益です。
https://goto.nagasaki-tabinet.com/spot/61657 【鬼岳おにだけ】より
登っても眺めても楽しい福江島のシンボル
鬼岳は2023年5月に「未来に残したい草原の里100選」へ選定されました。
標高315mの鬼岳は、その勇壮な名称とは反対に、丸みを帯びたやわらかな形状で古くから市民に親しまれています。この穏やかな姿からは、かつて噴火した火山とは想像しにくいですが、それがよくわかるバームクーヘンのような地層を、鬼岳の麓で見ることができます。
緩やかな斜面を登ると臼状の火口が広がり、季節の花が咲く尾根は気持ちのよい散策ルート。火口の尾根伝いを歩くと、眼下には福江の市街地や美しい海を望めます。芝に覆われた丘陵では、のんびり過ごす家族連れの姿も見られ、鬼岳を半周するトレッキングも楽しめます。
晩夏にはコオニユリ、秋にはリンドウなどが咲くほか、多種多様な草原植物は、春には一面緑色、秋には黄金色へと季節ごとに表情を変え、市民や観光客を喜ばせてくれます。
https://www.youtube.com/watch?v=nqeOeb7OkkM&t=10s
https://www.youtube.com/watch?v=x6KPdV5He24
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