生き抜くためのヒント

https://ameblo.jp/yujyaku/entry-12496077342.html 【樹上より滝降るごとく山の藤】より

樹上より滝降るごとく山の藤

( じゅじょうより たきふるごとく やまのふじ )

藤の花は、4月中頃から咲きだしているはずだが、今年はまだしっかり見ていないと思っていたところ、先日あるお寺で、杉の大木から数多の藤の花房が滝のごとく垂れ下がっているのに出会った。

藤棚で咲いている藤の花はこれまで何度も見たことがあるが、そんな光景を見たことは初めてだったので、その壮大さに心が動かされた。

本日の掲句は、そんな光景をそのまま詠んだ句である。下五は、藤棚でなく山に自然に生育している藤ということで敢えて「山の藤」とした。「藤」は春の季語。

ところで、藤には、日本固有種として野田藤(のだふじ)と山藤(やまふじ)の2系があるとのこと。違いは、以下の通り。

【野田藤】

花房が20cm~60cmと長い。蔓の巻き方は時計回り(右巻き)。正面から見る\[バックスラッシュ]。小葉が11~19枚。一般に藤と言えばこの種を指す。

【山藤】

花房が短く10cm~20cm程度。蔓の巻き方は反時計回り(左巻き)。正面から見て/[スラッシュ]。葉はやや厚く、小葉は野田藤よりやや少なめの9~13枚。

尚、山藤=野生の藤、野田藤=園芸種というのは誤りで、野田藤も山野に自生している。ただ、俳句では、それほど厳密に区別する必要はなく、山に生えていれば山藤で十分通用するものと思う。

因みに、藤に関しては過去に以下の句を詠んでいる。

【関連句】

① 藤浪に戯れ遊ぶ熊ん蜂

② 白藤や白きは富士の残り雪

①藤浪(ふじなみ)に遊ぶ熊ん蜂を見て詠んだ句。花房に縋り付いたり潜ったりして密を吸っている様子が何とも楽しそう。

②は、白藤を富士山の残雪にたとえて詠んだ。紫の藤とはまた違った風情がある。

藤はマメ科フジ属の落葉蔓(つる)性高木である。日本、北アメリカ、東アジアなどに自生する。蔓は非常に強く、他の木などに巻きついて成長する。花は、4月から5月にかけて淡紫色または白色の花を房状に垂れ下げて咲かせる。

藤という名の由来は定かではないが、一説には「吹散(ふち)」で、花が吹き散る様子に由来すると言われている。漢字の「藤」は、日本語で言うところの「かずら」ほどの意味で、蔓性木の総称。

藤の花を詠んだ句は多く、本ブログでも何句か紹介したことがあるので、今回は特に「山の藤」「山藤」で詠んだ句を選んで以下に掲載した。

【山の藤等の参考句】

山藤の風すこし吹く盛りかな   (飯田蛇笏)

山の藤宿の二階のけしき哉    (滝井孝作)

清閑に山藤の房長々し       (藤田湘子)

山藤は山藤を吐きつづけおり   (五島高資)

山藤の大樹にゆだね咲きのぼる (藤本悦子)


Facebook船木 威徳さん投稿記事【 私にとっての「避難所」 】

中学、高校と、普段の授業や長期休暇の国語の宿題をほとんど提出しなかった私などが

「国語」、あるいは「ことば」について偉そうな話はできるわけもないのですが、

ただ、昨日、ふと、ある小説のことを想い出し、現在の社会のありように考えることがありました。

小学生のときに初めて読んだ、志賀直哉の「小僧の神様」。

大正9年。つまり、1920年ですからほぼ100年前の作品です。

小学生の私が、当時、なんとも言えない切なさ、悲しさ、やるせない想いを持ちました。

同時に「奉公」という、ある意味で努力してもなかなか報われるチャンスの乏しい立場で

自分が主人公なら、それから、いったい、どこに希望を持ち、どう生きていくだろうか?

そんな出口のない道にいるような、暗然たる想いに眠れなくなったのを覚えています。

それと同時に、100年前からすでに超高級食であった鮨についても、「いつか、自分も食べてみたい」と感じたものです。

社会人になってから、私が、医師になってから、さまざまな個人的な壁にぶつかり、あるいは、社会の弱者として生き、死んでゆく人たちを間近に見ながら、ときにその亡骸を触りながら、どこにぶつけるべきか、だれと話し合うべきなのか、どこに解決の糸口を見いだすべきなのか、まったく見当もつかない問題ががれきの山のように積み重なっているのを見てきました。

限りない力を得た龍のように社会を飲み込み、私を含む、ほとんどの人間たちを、足蹴にし、

踏みつけながら食い荒らしてゆく者たちの前に結局なすすべも無く、従うしかない。

そのとき、私が、自分の無力さに失望しながらも逃げこむ先となってくれた場所。

そこで、わずかでも力を得て、いつ尽きてしまうかさえ分からない希望を、それでも与えてくれた場所こそ私にとっては、若いときに親しんだ、「文学」でした。

いまの世は、だれがどうごまかそうが、人間の知性、感情、礼儀といったものを、徹底的に

破壊しようとして、休むことのない闘いを挑んでくる邪念に満ちた圧倒的な力に満ちた敵

(もはや人間性を失っている者たち)と、人間との対立が、そこここに満ちています。

人と人とが集まらないよう、敵が、あの手この手で私たちの関係を分断してくる目的は、最初から感染症の予防になどない、と私は考えています。

そうではなく、互いに励まし合い、互いに礼儀を尽くして、教え合い、支え合って「人間として生まれてきてよかった」と人間らしく感じられる人生。

限りある人生だからこそ、それぞれの立場でこの世がわずかでも「よい場所」になるよう、

努力し合い、学びあって、なにかを残せる人生。

そんな人生を創造する時間や場所を破壊すること、最初からそんな希望など、

持ち得ない世界にすることなのだと、私には感じられてなりません。

どんな立場の者たちにも忖度せずに、事実を、知性に基づいて分析し、先入観なしに、次の行動を決定するためにますます、(知性に基づいた判断による)勇気が必要とされています。

もしも、敵が、私たち一般の人間を分断し、その心も体も、権利や自由も制限し始めたら、

次にやることは間違いなく、「学べなくする」「読めなくする」ことでしょう。

正しい言葉遣いすらおぼつかず、品性、知性を失ったマスコミ報道など、可能な限り遠ざけ、

人間が人間らしく、自由に感じ、自由に発言し自由に生き、死んでゆくためには今こそ、私たちがどのようにことば巧みに自由や権利を奪われてきたのか 歴史に学び、芸術に慰めと力と、生き抜くためのヒントを得なければなりません。

人間は過去、何千年も同じようなことに悩み、同じような失敗を繰り返し、同じようにたくさんの命を失ってきました。

ことばを大切にし、ひとりひとりが今一度、文学や音楽、絵画を自分の避難場所として大切にし学び、味わい、そこに慰めを得る時間を持ち続ければ、私たちは、知性を失わないで、対立しないで生き抜く力を生み出せるはずだと信じています。

どこかの首長が、「エッセンシャル・ワーカー」などと発現していましたが、私はそこに、想像力の乏しさ、権力者のぶざまな不遜を感じずにはいられません。

そして、私は、共産主義やそこに至るプロセスにある社会主義を、心の底から憎んでいます。

現在の社会のあらゆる場所に、巧みにすり替えられた、これらの主義が巣くっている事実には反吐が出そうなくらいの不快を感じています。

残念ながら、徹底して学び続けなければ分かりません。

書物や音楽、優れた絵画や映画などの芸術こそ何があっても守らねばなりません。

それが、そのまま私たち自身を(愛や感動を知らない)ある意味で真の意味で「貧しい」敵たちから守り、私たちの子孫を守ることに繋がるのだと私は信じています。

~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり

2年前

この日の思い出を見る

船木 威徳

2019年4月26日 ·【 本当の「ゆとり教育」 】

私の知る限り、非常に多くの職場でいわゆる「ゆとり世代」の若い人たちと分かり合えない、どう関わり合えばいいのか分からず対処に困り果てている人たちがいます。

「ゆとり世代」とはゆとり教育を受けた世代のことであって「小中学校において2002年度施行(高校は2003年度)の学習指導要領による教育を受けた世代、すなわち1987年4月2日~2004年4月1日生まれ」の人たちを指すことが多い。今で言うと15歳から32歳の人。

現場での困りごとを聴いていると、「周囲が期待したとおりの行動をとってくれない」

というものが非常に多いように感じます。

私にしてみれば、「ゆとり教育」そのものはあまり関連せず、大昔から繰り返してきたように

「今の若い者は・・・」の繰り返しに見えます。

ただ、私がゆとり世代の人たちに、たびたび感じることがあります。

偉そうに聞えることは重々承知の上で言うなら生きてゆく、人間関係を作ってゆく、

仕事をしてゆく上での「基礎力」がすこし足りないのではないかというものです。

人は、コミュニケーションをとって生きてゆきます。確かに非言語のコミュニケーションもありますが通常は、他者とわかり合うために言語を使い、自己を表現するために言語を使います。

語彙の蓄積がなく、実用の方法論を知らなければ信頼に基づいた人間関係も作りにくくなります。

簡単に言えば、ことばを使いこなせないと、かなり損をします。

例えば、発熱を訴えてクリニックに来る若い人たちが、問診表に自分の症状の経過を

わかりやすく書けないことはしょっちゅうです。

問診表にある質問に対応した答えを書けない、そんな人もめずらしくありません。

もちろん口で話し合っても同じです。

私の母校に、非常に有名な国語の先生がおられたので、ご存じの方も多いかと思いますが、

その橋本武先生が著書のなかでこう言っています。

「国語の学習は人間生涯の問題であり、人間形成の原動力であります。そうして、中学・

高校の時期はその蓄積期であり、将来への期待が花開く時期でもありましょう。こういう考え方にもとづいて、私は諸君に対する国語教育に、出来る限りの幅の広さを導き入れようとしてきたし諸君のもつ力を、自らの手で啓発していくように指導してきたつもりです。」

(<銀の匙>の国語授業、岩波ジュニア新書)

その先生が、ゆとり教育についてもまた以下のように書いています。

「さて、私がめざしてきたのは『国語の基礎力をつくる」ということでした。すべての試みは

それと関わっています。受験に関していうなら、どの科目もそうですが、記述式の試験になると、基礎力の差はてきめんに出ます。

(中略)

私が言っていたのは、「受験が目的の勉強ではなく、この勉強をしていれば結果的に受験に有利になる」ということでした。だいたい大学への進学は人生の目的ではなく、ひとつの手段なのですから。

結局、これは本当の意味の「ゆとり教育」なんですね。

いま言われている「ゆとり教育」は遊び時間を増やすことなのかと思いたくなりますが、

そうじゃなくて、水準以上のことをやっているから心にゆとりが持てる、そうあるべきです。

もっとも先生が大変ですけど。」

(<銀の匙>の国語授業、岩波ジュニア新書)

決して、ゆとり世代の人たちに限らず私たちが生きてゆく上で相互理解を充分にはかり

楽しく、幸せな人間関係を構築してゆくには私は、言語を使った自己表現の手段をすこしでもたくさん身につけることが非常に重要だと考えています。

その能力を啓発するための練習方法として私が橋本先生の著書を通じて学び、出来る限り、実行しているのは「とにかく、見たこと、聞いたこと感じたこと、考えたこと、何でも、

文章にしてみること」です。

自分が書くことで読んだもの、見たものの批評鑑賞が徹底します。特に

①読後感を書くこと~簡単でいいので読後感を書くと読書が完成します。

②日記をつけること~毎日の思索が深度を増します。そもそも、私がFBを始めたのは自分の日記のためでした。

③詩や歌を作ること

文学作品でも演歌やポップ音楽の詩でも、感動した部分を書き出し、自分ならどんな表現をするかを競います。これを繰り返すと流暢な表現が得られるようになると言われます。

できる限り他者を理解し、自分自身を理解してもらう。

技術が発達しようと、どんな時代も、決して、すべての人と分かり合えることなど不可能です。

ゆとり世代の人たちをやり玉に挙げる前に、先輩たちが進んで、他者を深く理解しようと

努力する姿を見せることが(どんな場所・職場でも)なによりの教育だと思えてならないのです。

写真は#1 何度も読んだ橋本武先生の著作、

#2 作詞のしかたをときどき真剣に学んでいる教科書

#3 小学生の娘に、憶えたことわざを書き出させて、

私がおもしろい話を即興で作るネタにしているもの。

いきなり「親はなくとも子は育つ」って・・・。

~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり


Facebook近藤裕子さん投稿記事  🍀🍀大切な思いとわたし🍀🍀

「拳拳服膺」  けんけんふくよう  (礼記)

拳拳服膺(けんけんふくよう)

人の教えや言葉などを、心にしっかりと留めて決して忘れないことです。

「拳拳」は両手でうやうやしく捧げ持つ形容。「服膺」は、常に胸にとめて行うこと。

ゼラニウムの花が咲くとこの言葉を思い出します。

赤いゼラニウムの花言葉は「君ありて幸福」です。私にとって忘れられない人生の恩人があります。「一針療法」の創始者であり、「3-E針法」の発明者である温雪楓博士です。

中国名医の健康法―運動法、食事法、薬法、生活法 など 多岐にわたる講義を受ける機会に恵まれたのは27年前。(ご紹介くださいましたのは今は亡き 中山光雲先生)

先生はいつも「大丈夫!!」と励ましてくださいました。

また《あなた方が人より優れた何かを持ち合わせていたのなら、それを誰かの為に役立たせる道具にしなさい》と言われていました。そして私に『貴女は書で人に寄り添いなさい』と。

私には難しい課題でした。山積する日常の雑事に追われる中にも常に心にこの言葉がありました。元来教科書から学ぶことの苦手な私です。

日々の投稿の解説は 全て私の人生経験から得たことに基づいています。

未熟過ぎる投稿ですが 少しでも何かのお役に立てる事を願っています。


Facebook牟田 康治さん投稿記事·

古史古伝一覧

古伝四書

これらは、全文が「神代文字」で書かれているという体裁上の分類です(内容に基づく分類ではない)。同様の分類として「ヲシテ文献」というヲシテ(神代文字)で記述された五七調の長歌体の古文書を指す言葉があります。

『上記(ウエツフミ)』

・1837年(天保8年)に豊後国(現在の大分県)で発見され、神代文字の一種である豊国文字で記されている

・『上紀』、『上津文』、『上つ文』、『ウエツフミ』とも書き、『大友文献』、『大友文書』などともいう

・ウガヤフキアエズ王朝(豊国王朝)に始まる神武天皇以前の歴史の記載があるとされる

・そのほか、天文学、暦学、医学、農業・漁業・冶金等の産業技術、民話、民俗等についての記載もあるとされる

参考文献:解読上紀(うえつふみ)、ウガヤフキアエズ王朝実在論

『秀真伝(ホツマツタヱ)』

・ヲシテを使い、五七調の長歌体で記された日本の古典

・天地開闢(天地の初め)~人皇12代景行天皇(オシロワケ)までがヲシテで記載される

・「記紀神話」で消されたヒルコやツクヨミのついて詳しく記載される

・アマテラス(アマテル)が男神であり、廣田神社に祀られる向津姫がその妻として登場する

・和歌や節句に込められた意味や役割について記載されている

参考文献:ホツマツタエ、ほつまつたゑ解読ガイド

現代語訳:ホツマツタヱ・ミカサフミ 現代語訳

『ミカサフミ』

・ヲシテを使い、五七調の長歌体で記された日本の古典

・中臣氏の祖オオカシマ(クニナツ)によって編纂され、『ホツマツタヱ』と共に景行天皇に献上された

・『ホツマツタヱ』と同様に日本の古代の歴史について記載されているとされる

現代語訳:ホツマツタヱ・ミカサフミ 現代語訳

『カタカムナのウタヒ』

・縄文時代以前、旧石器時代末期に存在したとされる「カタカムナ文明」の実在を示しているとされる書物

・物理学者の楢崎皐月が金鳥山で調査中に出会った猟師によりもたらされた巻物に記されていたとされる

・ヲシテとは異なる神代文字「カタカムナ文字」によって記された80首の詩歌で構成されている

・文中に「アシアトウアン ウツシマツル」とあり、「アシアトウアン」という人物が写本を作成した可能性が高いとも

・この五感から、陰陽師の蘆屋道満との関連性を主張する説もある

古史四書

これらは、神代文字をも伝えてはいるものの、本文は漢字のみまたは漢字仮名まじり文で書かれたものの分類です(内容に基づく分類ではない)。

『竹内文書(たけうちもんじょ)』

・地球の歴史を壮大なスケールで描いている世界最古の文書であるとされる

・武内宿禰の孫・平群真鳥が、雄略天皇の命により原本の筆写を命じられたという

・その神代文字を漢字かな混じり文に翻訳した原本の写しと、皇祖皇太神社の神宝類を含む資料の総称を指す

・「神代の万国史」と称され、平群真鳥は武烈天皇の密旨によって、高天原の故地である越中に隠したとされる

 → ※雄略天皇と武烈天皇は『日本書紀』において悪い天皇として記され、武烈天皇以降は皇統が途切れている

・皇祖皇太神宮天津教の教典となっており、昭和5年に不敬罪で天津教の代表・竹内巨麿が逮捕された

・内容としては、『上記』と同様にウガヤフキアエズ王朝の存在が記載されている

・世界中に存在する菊家紋章は、日本を中心に世界を16分割し、世界を菊の花弁で表したシンボルとされる

・世界には黄・赤・青・黒・白の五色人が存在していたということが記される

・モーセ、マホメット、釈迦、孔子などは、来日して教えを学んだことが記される

・ムー大陸やアトランティス大陸を思わせる「ミヨイ」「タミアラ」が陥没したことが記される

・青森県の「キリストの墓」や石川県の「モーセの墓」、富山県の「皇祖皇大神宮」などのついて記載される

・幻の金属「ヒヒイロカネ」について記載される(皇祖皇大神宮の素材だったとされる)

・ピラミッドを思わせる神殿「アメトツチヒラミツト」について記載され、そこが「天の浮舟」の発着場であったとも

・日本は世界の雛形であり、世界は日本を模して造られたとされる

・古代の天皇は、「天の浮舟(UFO)」に乗って全世界を見守る「万国巡幸」を行ったとされる

 → ※UFOについては、「記紀神話」にも同様の「天鳥船」や「天磐船」が存在する

・竹内文書には二系統存在するとされる などなど

『九鬼文書(くかみもんじょ)』

・本丹波国綾部藩主・九鬼旧子爵家に伝わった歴史・神道・武道関係文書の総称とされる

・スサノオの姉と、スサノオの娘という二人のアマテラスの存在が挙げられているとされる

・天皇家は、その後者から発したとする系譜や、ウガヤフキアエズ王朝七十三第の存在が記されているとも

・日本の神々の子孫は海外まで広がっているとする記載がある

 ・スサノオの子孫として、ノア、モーゼ、イエスが存在するとされる

 ・ツキヨミの子孫として、釈迦が存在するとされる

『宮下文書(みやしたもんじょ)』

・富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見の旧家、宮下家に伝来する古記録・古文書の総称

・『富士古文書』『富士古文献』『徐福文書』とも言われる

・神武天皇が現れる遥か以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」の伝承が記載される

・内容の中核部分は、中国の秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられている

・文体は漢語と万葉仮名を併用した記紀風のものであるが、筆者・成立事情は不明とされる

『物部文書(もののべもんじょ)』

・秋田県の物部氏に伝わる古伝とされる(物部氏自体は全国各地に存在する)

・『物部文献』『物部秘史』とも言われる

・秋田県大仙市の唐松神社に伝わっているとされる

・ニギハヤヒが降臨した地が、東北地方の鳥見山(鳥海山)であったということが記されるとされる

 → ※先代旧事本紀では、ニギハヤヒは斑鳩峰(生駒山)に降臨したとされる

異録四書

これらは、古伝四書や古史四書に含まれないものをひとまとめにした分類です(いわゆる『その他』の分類)。

『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』

・古代における日本の東北地方の知られざる歴史が記された古文書

・青森県五所川原市在住の和田喜八郎が、自宅を改築中に発見したとされる

・編纂者は秋田孝季と和田長三郎吉次(喜八郎の祖先と称される人物)とされる

・情報量は数百冊にのぼるとされる

・古代の津軽地方には大和朝廷から弾圧された民族の文明が栄えていたという内容である

・アラハバキを「荒覇吐」と表記し、遮光器土偶の絵を載せている(アラハバキは実在する東北地方の民間信仰)

・神武東征時に死んだとされるナガスネヒコは、生きて兄・アビヒコと共に東北に逃げ込んだとされる

・その流れを汲んだ一族がアラハバキ族となり、後に奥州安倍氏になったとも

・十三湊は、安東氏政権(安東国)が蝦夷地(津軽・北海道・樺太など)に存在していた時の首都とされる

・十三湊は、満洲や中国・朝鮮・欧州・アラビア・東南アジアとの貿易で栄えていたとされる

・欧州人向けのカトリック教会があったとも

・中国人・インド人・アラビア人・欧州人などが多数の異人館を営んでいたとも

『但馬故事記(たじまこじき)』

・平安初期(814年)に嵯峨天皇の勅命によって編纂された「但馬国司文書(タジマノクニノツカサノフミ)」の一部

・ニギハヤヒの略歴について詳しく記載されているとされる

・ニギハヤヒは、天磐船に乗り真名井原(丹後半島)に天降ったことが記載されるとも

『忍日伝天孫記(おしひのつたえてんそんき)』

・自動書記(神懸かって)によって記された書とされる

『神道原典(しんとうげんてん)』

・霊界往来による霊感の書とされる

その他

『フトマニ』

・ヲシテを使って記された日本の古文書である

・『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』が「歴史書」であるのに対し、『フトマニ』は占術と関係の深い歌集とされる

・『フトマニ』によれば編集者はアマテルカミであるとされる(ただし、男神である)

・冒頭に「ミワノスヱトシ」の序文、続いて「モトアケ」(後述)、そして128首のワカ(和歌)が載せられている

 → ※太占(フトマニ)の語としては、『古事記』の中でも登場する

『天皇紀(てんのうき)』

・聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる文献。蘇我蝦夷が自殺した際に焼失したとされる

・『日本書紀』の推古天皇の条に記載されている

『国記(こっき、こくき、くにぶみ、くにつふみ)』

・『天皇紀』と同時期に編纂された文献。蘇我蝦夷の自殺時の火事から船史恵尺が拾い出したとされる

・『日本書紀』の推古天皇の条に記載されている

『先代旧事本紀大成経』 - 江戸時代?(七十二巻)

・『先代旧事本紀』を基に記されたとされる

・神儒仏三教調和の思想を元とした神道の根本大経であるとされる(物部神道の思想とされる)

・『神代皇代大成経(かんみよすめみよのおほひなるつねのり)』が正式な名称とされる

・一般には『旧事紀』『旧事本紀』『大成経』など様々呼ばれる

・伊雑宮が日神を祀る社であり内宮・外宮は星神・月神を祀るものであるという説を裏づけるような内容とされる

・江戸時代に幕府により偽書と断定され、焚書処分にされた(伊雑宮事件)

・『古事記』と『日本書紀』の足りない部分を埋め合わせることの出来るとされている

・また、歴代天皇の容姿についても詳しく記載されるという(内容は割愛する)

『天軸須弥金輪弥勒天皇下生本紀(てんじくしゅみこんりんみろくすめらみことげしゃうほんぎ)』

・大正~昭和初期にかけて偽作されたと見られている神道系の偽書

・古神道の超古代史観、仏教の弥勒信仰、ユダヤ・キリスト教の経典、ギリシャ神話などを併せた奇書

・世界(外八洲)は、稜威能赤丹摩尊(イザナギ、アダム)、妹伊波那美尊(イザナミ、エヴァ)から産まれたする

・オノゴロ島と南極大陸とし、地軸であり、地球の胎盤である無宇(むう)と呼ぶ

・日本列島は世界(外八州)に対する内八州であり、地の雛形であるとしている

・イザナミが桃を食べたために諸悪(カグツチ、九頭竜)が生まれ無宇が崩壊したとしている

・最終的に世界は天軸須弥金輪弥勒天皇(救世主、弥勒仏)によって統一され、永遠の王道楽土が建設されると説く

『日月神示(ひつきしんじ)』

・昭和初期、神典研究家で画家でもあった岡本天明に「国常立尊」が降り、自動書記によって記されたとされる書

・原文はほとんどが漢数字、独特の記号、そして、若干のかな文字の混じった文体で構成される

・原文を解読して漢字仮名交じりの文章に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれる

・第二次世界大戦時、東京大空襲や終戦を予言したとされる

・霊界と現界の関係性や、今後の予兆などを記載しているとされる

・古史古伝ではないが、日本版黙示録と呼ばれる文書であり、現在注目を集めている

参考文献:ひふみ神示データー、日月神示とは?(解説)

古史古伝には含まれない書物の分類

古典四書

これらは、異端とされる超古代文書に対する正統な神典として便宜上定義づけられた分類です。神典(しんてん)とは、神道において信仰の根拠とされる文献の総称であり、「神道における古典」を指します。

『古事記(こじき、ふることふみ)』 - 712年成立(全三巻)

・太安万侶(おおのやすまろ)により編纂され、元明天皇に献上された

・正史『日本書紀』よりも古く成立しているため、便宜上、日本最古の歴史書とされる

・天地開闢(天地の初め)~第33代推古天皇までの出来事が紀伝体で記載される

※現代語訳文はこちらを参照:【『古事記』による日本神話】

『日本書紀(にほんしょき)』 - 720年成立(全三十巻)

・天地開闢(天地の初め)~第41代持統天皇までを扱い、漢文・編年体で記載されている(~697年)

・日本に伝存する最古の正史とされている

・『古事記』と併せて「記紀神話」といわれる - 詳しくは「日本神話のススメ」を参照

※現代語訳文はこちらを参照:【『日本書紀』による日本神話】

『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』 - 成立年代不明(全十巻)

・『旧事紀(くじき)』、『旧事本紀(くじほんぎ)』ともいう

・推古天皇の命によって、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる(成立は600年代と推定される)

・天地開闢より登場する別天津神が異なり、それ以降の神々の系譜も「記紀」とはやや異なる

・神代の説話は、『古事記』と『日本書紀(異伝を含む)』を併せた内容であり、三貴子が何度か誕生する

・スサノオ以下の国津神や、ニギハヤヒ以下の氏族(尾張氏・物部氏)の系譜が記載される

・天孫降臨はニニギの兄にあたるニギハヤヒが先に天降ったとされる

・「十種神宝」と死者蘇生の言霊である「布瑠の言」について記載される

・神武東征で難波を譲ったのはニギハヤヒではなく、子のウマシマジであると記載される

・そのほか、天孫降臨から神武東征までの流れが「記紀」とはやや異なる

・時代は、天地開闢~第33代推古天皇まで

・各地の国造についてまとめて記載される(ただし、沖縄・東北・北海道の国造はなし)

※現代語訳文はこちらを参照:【『旧事紀』による日本神話】

『古語拾遺(こごしゅうい)』 - 807年編纂(全一巻)

・官人であった斎部広成によって編纂された平安時代の神道資料である

・天地開闢(天地の初め)~天平年間(729年-749年)までが記されているとされる

・斎部氏(忌部氏)目線の日本神話であり、記紀に比べて斎部氏の祖神の活躍しているとされる

・記紀には無い、斎部氏に伝わる伝承も記載されているようである

※現代語訳文はこちらを参照:【『古語拾遺』による日本神話】

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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