いのちで読む般若心経

Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事·

判断、ということ

生命科学者の柳澤桂子さんが、人には癒やしという能力が備わっているが、傷ついた人を「助けよう」と思った瞬間にその能力は失われるのだと書かれていました。解説がないと理解しにくいお話です。

苦しむ人をそのままで受け入れ、どんな価値基準においても「判断」しないこと、この同じ宇宙の隣人同士という大きなスケールで相手を信頼するときに、我欲にとらわれない愛が生まれると言われるのです。判断というのは、つまりは自我の価値観ということですね。

その「判断」による、「かわいそう」「助けよう」は我欲というのです。

子どもたちのするささいなことに大人が「危ない」「汚い」と反応する光景を見ることがありますが、子どもたちのためというより、大人が安心していたいからではないか、そんな思いがよぎるときがあります。イライラ、ハラハラしたくない、きれいな服を汚されたくない・・・。

子どもたちに死を見せないために、子どもを葬儀や法要に連れていかないという親がいると聞きました。理解させることが難しい? 結果、親の判断が、子どもたちが「感じる」ことを奪っています。

話は多少ずれてしまいましたが、もとに戻って、柳澤さんのこんなエピソードを添えたいと思います。

「車イスで外出したとき、通りかかった同年配の女性に「お気の毒ですね」と言われました。「みじめだ」という目で見られているのか、という嫌な考えが、ふと頭をよぎりました。そして、少し車イスを進めてから、道端に止まって考え込み、あることに気が付いたのです。

 私がいなければ、この嫌な気持ちはないはずだ。あのご婦人は、かわいそうな人にやさしい言葉をかけて心地よかったであろう。私がいなければ、その心地よさしか存在しなかったのだ。自我さえなければ、苦しみも悲しみも存在しない。苦しみや悲しみを作りだしていたのは、私自身だったのです」。

 そのとき湧き上がったのは、身震いするほどの感動だったそうです。

「癒やす」とは一方的な行為ではなく、自らがまた「癒やされ」ている。互いが等しいときに成り立つのが癒やしという愛なのですね。

http://akashids.blog23.fc2.com/blog-entry-182.html 【生命科学者・柳澤桂子さんが読み解く般若心経の世界観】より

柳澤桂子さんは現在75歳。生命科学者、サイエンスライター、エッセイスト、歌人とたくさんの顔を持たれる才人です。この様に書くと才能のままに順風満帆の人生を歩まれた方の様に思えますが、それは人生の前半だけでした。

お茶の水女子大卒業後、60年代初頭にコロンビア大学大学院博士課程でPh.D.を取得し、帰国後慶応大医学部の助手になります。まさにエリートコースまっしぐらの人生でしたが、その6年後の31歳の時に原因不明の難病を発症し、以来月の半分しか起きていられない状態となりやむなく離職、2年間の闘病後いったんは研究者に復帰し主任研究員として世界的業績を残すも、6年後に再発し入退院を繰り返す闘病生活となり、ついに歩行困難になります。

しかし48歳の時に闘病生活のかたわらで始めたサイエンスライターとして頭角を現し、その後出版賞を多数受賞します。闘病しながらの著書はすでに40冊近くあると言います。

1999年NHKが制作した柳澤さんを取り上げたドキュメントは大きな反響を呼びましたが、僕は数年後の再放送を観て強い印象を受けました。そんな時に偶々(偶然はないので必然と言えるのですが)僕が本屋にいた時に本棚にあった黒い背表紙の薄くて小さな本が目に飛び込んで来ました。

それが柳澤桂子さんと日本画家の堀文子さんの共署「生きて死ぬ智慧」でした。この本は柳澤さんが生命科学者としての豊富な知識とご自身の長く辛く厳しい闘病生活の中で生きることの意味や人とは何かを模索する中で 般若心経に触れ、心で体得した事を「心訳」として現代的な解釈で書かれた作品です。

僕はこの本をその場で10分ほどで立ち読みで読み終え、その時にスーと心に入って来て総てを納得してしまいました。

仏教哲学の世界ではモノ事を「一元的」に見ます。一方人間は自己と他者、自分と他の物という様に「二元的」な考えに嵌り込んでいます。

その自分と対象物という二元的なモノの見方をするところに人の「執着」が生まれ、それが「欲」の原因となり、「苦しみ」が生じて来るのです。

ここで宇宙(世の中)を「一元的」に見るようになると風景が変わり出します。

僕たちは原子で出来ています。原子が自由に動き回わることで、この物質世界(「現象世界=色」ともいう)が成り立っているのです。そこで原子レベルの意識になって世界を眺めてみると、そこにはまったく別の風景が立ち上がって来るのです。

それはこんな具合です。

人も含めた総ての風景が原子の密度の濃いところと薄いところだけになるのです。人や物のあるところは密度が高いだけであり、その間を埋める空間は密度が薄い処と言えます。宇宙(世の中)を一元的に見るようになると「見渡す限りの原子が飛び交っている空間の中に、ところどころに原子の密度が濃い処がある。」というだけの世界になるのです。

もうその世界ではあなたも私もありません。けれどもそこにはこの世のすべてのモノが存在するのです。物は原子の濃淡でしかありませんから、物欲に捉われ固執することは意味が無いとなります。

一元的世界の方が物質世界の本質であり、僕たちの二つある脳すなわち「左脳と右脳」によるある種の錯覚によって確固たる物質の世界に生きていると信じ込まされているわけです。

この事はTVに例えるとよく分かります。皆さんも毎日TVを見ると思いますが、TVの画像は人にとって意味のある映像を映し出していますから見ていて面白いわけです。しかしTV画面の画像を非常に拡大しますと次第にただの光と色の粒子の集合体になり、人にとって意味の無い光の点滅に変わっていきます。

要は人の目と脳の画像解析能力がかなり荒いお陰で、光と色の粒子の集合体が人にとって意味のある画像に見えているだけなのです。もちろん脳は同時にグラフィック処理も行なっていますから、人にとっての意味のある形(例えば人を人型として認識すること)を識別して認識しているのですが、それでももし人の目や脳の画像解析能力が非常に高かったと仮定すれば、やはりTV画像はただの光と色の粒子の集合体にしか映らず人にとっては意味の無いただの光の点滅に成り下がってしまうのです。

このTVの例で分かる様に現実世界(現象世界)と入れ子のような関係にありその延長線にあるTV画像の本質は光と色の粒子の集合体であり、脳がその処理に拠って現実世界の出来事であるかのようにある種の錯覚映像として見せているだけなのです。

この事に目覚めて来ますと物事に執着するという事が段々少なくなり、何事も淡々と受け入れることが出来るようになると言います。(もちろん僕はまだまだですが・・・笑)

これがお釈迦様のいう悟りの世界観かも知れません。

以下に、柳沢さんの般若心経の心訳「生きて死ぬ智慧」から抜粋させて頂いた「般若心経の原文と心訳の対比文」を転記しますので、仏教哲学の一元論的世界観を堪能してみて下さい。ただし、個人的には般若心経を毎日唱えることは推奨しません。何故なら最後の「羯諦(ギャーテイ) 羯諦・・・」以降の箇所に、このお経の作者(歴史的にははっきりしていない)のある種の呪詛の雰囲気を感じるからです。

観自在菩薩  

すべてを知り 覚った方に謹んで申し上げます

行深般若波羅蜜多事

聖なる観音は求道者として 真理に対する正しい智慧の完成をめざしていたときに  

照見五蘊皆空

宇宙に存在するものには 五つの要素があることに気づきました

舎利子

お聞きなさい これらの構成要素は 実体をもたないのです

色不異空 空不異色

形のあるものは形がなく  形のないものは形があるのです

受想行識 亦復如是

感覚、表象、意志、知識も  すべて実体がないのです

舎利子 是諸法空相

お聞きなさい  彼はこれらの要素が「空」であって  生じることもなく

不生不滅 不垢不浄

無くなることもなく  汚れることもなく きれいになることもない と知ったのです

舎利子

お聞きなさい  私たちは  広大な宇宙のなかに  存在します

宇宙では  形という固定したものはありません  実体がないのです

宇宙は粒子に満ちています  粒子は自由に動き回って 形を変えて

おたがいの関係の  安定したところで静止します

色即是空            

お聞きなさい  形のあるもの  いいかえれば物質的存在を

私たちは現象としてとらえているのですが  現象というものは

時々刻々変化するものであって  変化しない実体というものはありません

空即是色

実体がないからこそ 形をつくれるのです

実体がなくて 変化するからこそ  物質であることができるのです

是諸法空相

お聞きなさい  あなたも 宇宙の中で 粒子でできています

宇宙のなかの  ほかの粒子と一つづきです  ですから宇宙も「空」です

あなたという実体はないのです  あなたと宇宙は一つです

不生不滅 不垢不浄 不増不滅        

宇宙は一つづきですから

生じたということもなく なくなるということもありません

きれいだとか 汚いだとかいうこともありません

増すこともなく 減ることもありません

「空」にはそのような  取るに足りないことは ないのです

是故空中

お聞きなさい だから  「空」という状態には

無受想行識

形もなく 感覚もなく 意志もなく 知識もありません

無眼耳鼻舌身意

眼もなく 耳もなく 鼻もなく 舌もなく 身体もなく 心もなく

無色声香味触法

形もなく 声もなく 香りもなく あなたをさわるものもなく

心の対象もありません

無眼界 無色 乃至無意識界 無受想行識

実体がないのですから  「空」には

物質的存在も 感覚も  感じた概念を構成する働きも

意志も 知識もありません

眼の領域から意識の領域に至るまで  すべてないのです

            

無無明 亦無無明尽 

真理に対する正しい智慧がないということもなく

それが尽きるということもありません

迷いもなく 迷いがなくなるということもありません  

それは「空」の心をもつ人は

迷いがあっても  迷いがないときとおなじ心でいられるからです

乃至無老死 亦無老死尽

こうしてついに 老いもなく 死もなく

老いと死がなくなるということもないという心に至るのです

老いと死が実際にあっても  それを恐れることがないのです

無苦集滅道 無智亦無得

苦しみも 苦しみの原因も 苦しみをおさえることも

苦しみをおさえる方法もない 知ることもなく 得るところもない

以無所得故 菩提薩垂

得るということがないから  永遠なるものを求めて 永遠に努力し

依般若波羅蜜多故

心を覆われることなく生きていけます

心無罫礙 無罫礙故

心を覆うものがないから

無有恐怖

恐れがなく 

遠離一切顛到夢想

道理をまちがえるということがないから 

究竟涅槃

永遠の平和に入っていけるのです

私たちが あらゆるものを  「空」とするために 削り取り

削り取ったことさえも削り取るとき  私たちは深い理性をもち

「空」なる智慧を身につけたものになれるのです

真理を求める人は  まちがった考えや 無理な要求をもちません

無常のなかで暮らしながら 楽園を発見し

永遠のいのちに目覚めているのです

永遠のいのちに目覚めた人は  苦のなかにいて 苦のままで

幸せに生きることができるのです

深い理性の智慧のおかげで 無常のほとけのこころ ほとけのいのちは

すべての人の胸に宿っていることを悟ることができました

三世諸仏

このように 過去・現在・未来の三世の人々と

依般若波羅蜜多故

三世のほとけとは永遠に存在しつづけます

得阿耨多羅三藐三菩提

深い理性の智慧もまた  永遠にわたって存在するということです

故知般若波羅蜜多

それゆえに ほとけの智慧は

大いなるまことの言葉です いっさいの智慧です

これ以上のまことの言葉はありません

能除一切苦 真実不虚

いっさいの苦を取りのぞく  真実で偽りのない言葉です

故説般若波羅蜜多呪

その真実の言葉は

即説呪曰

智慧の世界の完成において次のように説かれました

羯諦 羯諦

行くものよ  行くものよ

波羅羯諦

彼岸に行くものよ

波羅僧羯諦 

さとりよ 幸あれ

菩提薩婆訶 般若心経

これで  智慧の完成の言葉は 終わりました            

【生きて死ぬ智慧(心訳 般若心経) 理学博士 柳澤 桂子著より抜粋】


https://www.youtube.com/watch?v=tIdJEGeGVWo

https://www.youtube.com/watch?v=QUTcitiQHw0

https://www.youtube.com/watch?v=MwxDlc0ntYY&t=995s

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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