https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E5%BD%93 【別当】より
別当(べっとう)は、本来、律令制において本官を持つ者が他の官司の職務全体を統括・監督する地位に就いた時に補任される地位。後に官司の長官一般を指すようになり、このことから転じて、以下のような複数の意味を持つ。
官司
令外官
律令制度の下で、令外官として設置された検非違使庁や蔵人所などの責任者。機関の統括責任者ではあるが、所内部の実務については直接関与しなかった(例えば、検非違使別当の場合、検非違使庁そのものは統括するが検非違使ではなく、同様に蔵人所別当も蔵人所を統括するが実務の責任者は蔵人頭であり蔵人としての職務は行わなかった)。対外的な責任者であるとともに、天皇・太政官との連絡にあたった。後には一部の寮・司にも別当が設置された。
代表的なものを挙げていくと、蔵人所別当は通常一上(多くは左大臣)が任命され、蔵人頭以下の補任及び天皇家の家政機関的な「所」の人事に関与した。検非違使別当は衛門督または兵衛督を兼ねる中納言・参議が任じられ、その命令である別当宣は内外に対して勅に匹敵する法的効果を有した。太政官厨家別当は少納言・弁官・外記・史からそれぞれ1名ずつが任じられ、毎年2月から1年交替で諸国から太政官に納められる公田収入を管理した。
また、奈良時代の造寺司の設置された写経所・造仏所などの長として別当が置かれ、判官・主典級の官人が補任された。
地方官司
大宰府のあった筑前国では、大宰府が同国の統治を行った時期があり国司が別途設置されたり、廃止されたりの繰り返しであったが、大同3年(808年)に大宰府の官人から1名を太政官符によって筑前国別当に任じて国司の職務を行わせたが、翌年には別当に代わって筑前国司の常設が開始されている。
また、畿内においても5ヶ国を統括する公卿兼任の別当が設置される場合があり、寛平7年(895年)に寛平の治の一環として源能有が任ぜられた五畿内諸国別当は著名である。
また、各地に設置された勅旨牧の現地責任者として牧監がかれていたが、武蔵国のみは別当と称している。
10世紀に入ると、遥任している在京国司が自己の家司を現地に派遣して在庁官人を指揮させることが行われるようになるが、その家司を目代・別当と称した。
家政機関
平安時代以降の院、女院、親王家、摂関家以下の公卿の家政を担当する院司・家司の上首(長官)のこと、後にそれらの家に設置された政所 、侍所などの家政機関の長に対しても用いられた。
院司や家司は本来、別の官職を持つ貴族・官人であったが、設置者との私的なつながりによって任命された。延暦23年(804年)に無品親王家に別当設置が認められ、嵯峨天皇の譲位後に自己の後院である冷然院に別当を配置した(南淵永河・安倍安仁、院司の始まり)。10世紀には諸院・諸家が政所以下の家政機関を持つようになった。『西宮記』には院司の別当には公卿及び天皇在位時の蔵人頭が任じられる慣例になっていたことが記されている。平安時代初期の院司は1・2名であったが、院政期には数十名、江戸時代でも10名前後の院司別当が設置され、別当の中でも筆頭格の執事・執権や実務の中心となる年預、また院庁支配下の諸所別当などが置かれ、また身分によって「公卿別当」「四位別当」などの格付けが定められた。また、摂関家でも政所のみならず、摂関(藤氏長者)が統括する御厨や勧学院を始めとした大学別曹にも別当が設置された。親王家の場合には特に天皇によって任じられた勅別当が置かれる場合があった。
なお、鎌倉幕府の行政機関である政所、侍所などの長官を「別当」と称するのも、それらの機関が初代将軍源頼朝の家政機関が転じて鎌倉幕府の行政機関になったことに由来している。
民間
寺
東大寺、興福寺、四天王寺などの諸大寺で、寺務を統括する長官に相当する僧職。ただし、寺院によっては「別当」以外の役職名を用いているものもあった。延暦寺の「座主」、東寺の「長者」などはその典型である。また、公卿など僧侶ではない者が別当に就任した場合には「俗別当(ぞくべっとう)」と呼ぶ。
仏教に関する公的機関である僧綱の一員としての資格を持つ者が有力な官寺の長を兼ねた場合には某寺別当と称せられ、その寺の三綱(上座・寺主・都維那)などを統轄指揮して仏法の振興・伽藍などの施設の修繕など寺院の経営などにあたった。別当は任期4年とされ、任期満了時その他欠員発生の際には、寺内の五師や大衆によって推挙された候補者が僧綱・講読師による審査を受けた後に太政官が任命したが、特定氏族とのつながりが深い寺院(藤原氏の興福寺など)では、当該氏族による簡定・推挙によって候補者が選ばれた。また、貞観12年(870年)以後は、退任時に地方の国司と同様に解由の手続の適用を受けた。平安時代中期には有力な院家(東大寺なら東南院・尊勝院など、興福寺なら一乗院・大乗院など)の主である門跡から別当に選ばれるようになった。また、別当(正別当・大別当)の下に僧侶の統率について補佐する小別当や、修繕などについて補佐する権別当なども設置され、度牒や試度などに関する庶務や朝廷など外部との交渉にあたる俗別当も設けられるようになった。
最初に別当が置かれたのは東大寺であるとされ、『東大寺要録』では天平勝宝4年(752年)に良弁が東大寺の別当に任じられたのが初任とされている。神護景雲元年(767年)には、実忠が別当として頭塔の造営を命じている[1]。天平勝宝9年(757年)に慈訓が興福寺の初代別当に任じられている。別の説では、東大寺で最初に別当の存在が確認されるのは延暦23年(804年)のことで、興福寺などの別当設置もそれ以後のことと考えられている[要出典][誰によって?]。以後、都などの大寺院や定額寺、地方の著名な寺院などに設置され、造寺司の機能の一部を吸収した。また、神仏習合の進展とともに神宮寺が設置されるとその寺務を司るものも別当と称し、検校に次ぐ地位を持った。熊野別当・箱根別当、鶴岡八幡宮の若宮別当(後に雪下殿と称する)はその典型である。更に別当が居住した神宮寺の一部を別当寺とも称し、それを指す場合もあった。
https://www.minamikaga.com/yoshitsune/mono_sane.html 【実盛物語】より
武士の意地か、老木の花か。篠原に散った斉藤別当実盛。
『老木に花の咲かんが如し』
『老木に花の咲かんが如し』、世阿弥があらわした能の奥義であり、まさに実盛の姿でもある。
平維盛が木曽義仲に破れた篠原の合戦で、老武者・実盛は退却もせず、ただ一騎奮戦するも、木曽方の手塚太郎光盛と組み、討死【うちじに】。
大将かと見れば続く軍勢もなく、侍かと思えば錦の直垂【ひたたれ】(錦は金糸銀糸で模様を織り出した絹織物。錦の直垂は大将軍の装い)を着け、決して名を明かさない。不思議な武者と思った光盛は義仲に首を差し出す。
実盛を知る樋口次郎は、ただ一目みて「あなむざんや」。白髪まじりの髪を染め、前主君・源義朝に拝領した兜を付け、現主君・平宗盛に許された出で立ちで故郷に錦を飾った実盛。かつて命を助けた義仲の情にすがらぬ、けなげな最期に芭蕉も嘆く。
斎藤実盛【さいとうさねもり】(?~1183)
代々越前に住んだが、武蔵国長井(現・埼玉県大里郡妻沼町)に移り、源為義、義朝に、後に平維盛に仕えた。維盛に従って義仲を討つ折、鬢髪を黒く染めて奮戦し手塚光盛に討たれたという。別当とは役職の名称。
むざんやな 甲の下の きりぎりす
芭蕉句碑小松市多太神社の芭蕉句碑
「奥の細道」で芭蕉も詠嘆。白髪を染めて実盛、討死する。
実盛の首を確かめた樋口次郎は、ただ一目みて「あなむざんや、斎藤別当で候ひけり」と涙はらはら。実盛の討死【うちじに】から500年後、芭蕉が訪れ「むざんやな」の句を詠む。
多太神社に残る実盛の兜多太神社に残る実盛の兜(国重文)。高さ15.2cm、鉢廻り71.2cm、総体廻り139.4cm、重さ4.4kg。木曽義仲が願状を添えて実盛の遺品を奉納したと伝えられています。現在は兜、袖、臑当(すねあて)を見ることができます。なかでも兜は精緻で気品があり、芭蕉も[奥の細道]で詳しく紹介しています。
小松市多太【ただ】神社が収蔵する木曽義仲奉納の実盛の兜は820年の時を超え、色あざやかに堂々と、その姿を保っている。宝物館の扉を開けば、暗闇に眠る兜が光を受け、往時の輝きを見せる。
『目庇【まびさし】(兜の鉢のひさし)より吹返【ふきがえ】し(兜の耳の部分)まで、菊のから草のほりもの金をちりばめ、竜頭【たつがしら】(竜の全容を兜の鉢の前方から頂辺にとりつけて飾りにするもの)に鍬形【くはがた】(兜の前立物)打たり』と芭蕉が賛美した。中央には八幡大菩薩の神号が浮かびあがる。
兜はかつて仕えた源義朝より拝領の品。平宗盛【むねもり】に許された錦の直垂【ひたたれ】姿(故郷へは錦を着て帰れという史記・項羽本記によるもの)も華やかに、死出の旅へと赴いた。
吉本達人【よしもとたつと】小松市・多太神社神社総代、実盛之兜保存会会長
一枚の絵から広がる歴史の夢、義経の旅の姿。
吉本達人【よしもとたつと】小松市・多太神社神社総代、実盛之兜保存会会長実盛の武勇、芭蕉の名句が時代を超えて呼応する。
兜の重さは約4.4キロ。かなり重いですね。実戦用というより飾り兜といって、大将のしるしに陣屋に飾るものだったようです。実盛が亡くなって820年、その500年後に芭蕉が訪れています。時代を超え、二人の魂は呼応し、素晴しい句となって結実しました。
毎年7月の第4土曜日曜には「かぶとまつり」を開催し、実盛の詩舞、吟詠、謡を能舞台で奉納。ふるさと縁りの文化財をもとに、源平の歴史を未来にもつないでいきたいと思います。
※兜を収蔵する宝物館見学ご希望 の方は、あらかじめ予約が必要です。連絡先/0761(21)1707(兜保存会)
実盛の首洗池
実盛の首洗池。池のほとりには芭蕉の句碑、また洗った実盛の首を前に嘆き悲しむ木曽義仲等の像があります。池の周辺は手塚山公園と名付けられ、歴史に思いを馳せる静かなひとときを楽しむことができます。
実盛は元はといえば源氏方。保元、平治の乱では義経の父・義朝の家臣として活躍、義朝亡き後は一転して平家に仕える。時代を読み、強者の庇護のもとへ。これは当時はよくあること。当主はこうして一族や領地を守ってきた。
京に上る木曽義仲に攻められ、北陸の平家ももはやこれまで。平維盛【これもり】等みな後退するなかにあって、赤地の錦の直垂に、萌黄縅【もえぎおどし】(若葉のような薄緑色の紐糸で札(さね)をとじたもの)の鎧【よろい】着て、鍬形打ったる甲の緒をしめた一騎の武者が篠原にいた。
その雄姿に感服した手塚太郎光盛が「なのらせ給へ」と言葉をかけるが、決して名乗らない。身分の低い侍かと見れば高貴な衣装、大将軍かと思えば続く者もいない。
討ち取った光盛はその首を義仲に見せる。義仲は、あっぱれ、これは実盛と知る。けれども義仲が幼い時に会った実盛は、すでに白髪まじり。鬢【びん】や髭【ひげ】が黒いのはおかしなこと、実盛と親しかった樋口次郎を呼び、確かめるが、やはり実盛の首に間違いない。かつて実盛は日頃から樋口次郎に語っていた。年老いて戦場に赴くときは、若者にあなどられないよう黒く染めようと。
首を洗ってみれば、確かに白髪の実盛。越前国(福井県)に生まれた実盛にとって、北陸はふるさと。故郷に錦を飾るの言葉どおり、平宗盛に許しを得た覚悟の出で立ちで、七三歳の老武者は最後の戦いにその名を残した。
実盛の意気地を語る塚の黒松。老松堂々、武士の誇り。
塚の黒松実盛の墓と伝えられる実盛塚。時宗の14世遊行上人が篠原古戦場近くの道場で布教している時、実盛の亡霊に会い卒都婆を書いて霊を慰めたという。これが世阿弥の謡曲「実盛」のモチーフになりました。その後、代々の遊行上人が加賀を訪れた時は決まって実盛塚を訪ね供養したといわれています。
実盛があえて名乗らなかったのには、もうひとつの理由があった。
義仲の父、義賢【よしかた】が殺された時、預かった二歳の義仲を殺すに忍びなく、木曽の中原兼遠にはるばる送り届けた。義仲が今生きてあるのは、みな実盛の温情あればこそ。養父ともいうべき実盛の白髪姿に、義仲はさめざめと泣いた。実盛と名乗れば、たとえ平家軍の武将でも義仲は命を助けただろう。
けれども実盛は名乗らなかった。名乗らぬことで、名を残した。武士の誇りを全うした。白髪の老人だとて同情は無用、武士として対等に戦いたい。かつて助けた義仲の情にすがることなく、武士の名誉とともに死出の旅を選んだ。
実盛の最後にふさわしい加賀市篠原古戦場跡の実盛塚。生け垣を歩めば、突然視界は開け、堂々とした黒松が、すっくと立つ。まるで能舞台の鏡板に描かれた老松である。謡曲「実盛」(世阿弥作の修羅物。実盛の霊が遊行上人の説法を聴聞したという伝説と、篠原の戦いの物語を脚色)の舞台にふさわしい幽玄の世界。実盛が戦い、そして永遠に眠る松林を渡る風は無常を語り、彼方に聞こえる海鳴は世のはかなさを伝える。
実盛塚から汐見橋を手前に右折、柴山潟から日本海へと注ぐ新堀川に沿って一キロあまり。首洗池がある。うっそうと草々繁る水面は、まるで時を忘れたかのように止まったまま。池に注ぐかすかな水音が、静かな幻想の世界から現実へと引き戻す。
芭蕉が嘆き、世阿弥は謡曲「実盛」で哀れんだ。けれども実盛には光がある。みずからの意志を貫き、名誉を全うした潔さ。人生の最期に咲かせた一輪の花、実盛の老木の花こそ誠の花である。
松下奏【まつしたすすむ】加賀市・片山津温泉うきうきガイド
静かな篠原古戦場跡に立ち、実盛の武勇に思いを馳せる。
松下奏【まつしたすすむ】加賀市・片山津温泉うきうきガイド実盛といえば稲を食い荒らす害虫や虫送りにその名が残っていますが、実盛の最後は潔く、素晴しい人物だったと私は思っています。
その実盛塚の前で、これで17年ほどになりますが、毎年8月20日からの[片山津温泉湯のまつり]の時に供養祭をし、地元の女子中学生が白装束で「篠原慕情」を踊ります。
加賀の誇り、実盛の姿を地元で語り伝えるとともに、全国の方々にも広めていきたいと思います。
※加賀市・片山津温泉うきうきガイドは、加賀市の観光ボランティアガイドのひとつ。片山津温泉街および周辺を案内する。連絡先 0761-74-1123 (片山津温泉観光協会)
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