実盛の「執心」と武士の死生観

http://human.kanagawa-u.ac.jp/gakkai/student/pdf/i12/120319.pdf

【『平家物語』の「実盛」と謡曲「実盛」の比較―実盛の「執心」と武士の死生観―

外国語学部 国際文化交流学科 4 年高橋 夏葵】より

はじめに

 鎌倉時代に書かれた軍記物語として有名な『平家物語』の中に、年老いた武士が主人公の物語がある。

「実盛」という説を含むその物語は、老武者である実盛が主人公であり、彼が討死していくまでの様子を描いた物語である。更に、この『平家物語』の「実盛」を題材にした、世阿弥作の謡曲の中に「実盛」という物語がある。謡曲の「実盛」も、『平家物語』における「実盛」同様に、討死をする場面は変わらない。しかしながら、謡曲では、実盛はこの世をさまよう亡霊として登場する。『平家物語』の「実盛」を謡曲に書き換える際に、作者である世阿弥は、な

ぜ実盛の亡霊を出現させたのだろう。本論文では、『平家物語』の「実盛」と謡曲の「実盛」の相違点を比較しつつ、謡曲で実盛が亡霊として出現した理由を問題点として論じていく。

 そして、その武士である実盛が、死ぬことについてどのように考えていたのか。私たちが思う「死」と実盛が思う「死」はどのように違うのか。謡曲「実盛」と『平家物語』の「実盛」を比較し、世阿弥が「実盛」を通して伝えたかったことを考察していく。

1. それぞれのあらすじ

 まずはじめに、謡曲の「実盛」の原作となった『平家物語』の「実盛」について述べる。『平家物語』は鎌倉時代の軍記物語である。平家一門の興亡を中心にとらえ、仏教的無常観を基調に流麗な和漢混交文で描いている。琵琶法師によって語られ、後世の文学に大きな影響を与えたとされる。作者・成立年ともに未詳である。あらすじは以下の通りである。

 武蔵の国の住人長井斎藤別当実盛は、味方の軍が引き返す中ひとり敵に向かってゆく。その姿は赤地に錦の直垂、萌黄威の鎧を着、鍬形を打った甲の緒を締め、小金づくりの太刀をさし、切斑の矢を背負い、滋藤の弓を持ち、連銭葦毛の馬に、金覆輪の鞍を置いて乗っていた。実盛は、木曽義仲の軍勢の中で手塚太郎光盛を良い敵だとし、戦いを挑む。実盛は相手に名前を明かすことはせずに戦うが、戦には戦い疲れ、また老武者でもあったために、手塚の下に組み伏せられてしまい、首を郎等に取られ死をむかえる。首を取られた後、木曽殿の御前に首を持っていき事情を説明すると、その首は実盛の首であるだろうと答える。しかしながら、木曽が以前に見た実盛は白髪まじりであったが、そこにある顔の鬢や髭は黒い色をしている。そこで樋口次郎が呼ばれ、そのことについて尋ねると、樋口が涙を流しながら申すことには、実盛が戦で鬢や髭を黒く染めるのは、若い人たちと争って先駆けをするのもおとなげなく、また老武者であると人々にばかにされるのも悔しいという理由からであった。そこで髪を洗ってみると、白髪になったという。また、錦の直垂などの衣装を着ていた理由は、故郷には錦の直垂を着て帰る、という言葉のもとに実盛が大将にお願いして直垂を譲り受け、行ったということであった。しかしながら実盛は戦いに敗れ討死し、平家も滅亡へと向かっていくのであった。

 次に、謡曲の「実盛」について述べる。「実盛」は室町時代に世阿弥によって書かれた二番目物である。この謡曲は『平家物語』の「実盛」を原作としている。しかしながら、原作とは異なる部分も数多く存在している。あらすじは以下の通りである。

 篠原という場所で行われた遊行上人の説法の場に一人の老人が登場する。話を聞くと、その老人はかつて戦で命を落とした斎藤別当実盛の亡霊であった。亡霊の実盛は、この世に執心を残し、自分の肉体がこの世にとどまったままであるということを告げて姿を消してしまう。そこで、上人は実盛のことを篠原の者に尋ね、話を聞いた後、従僧たちと共に、実盛の亡霊を、踊念仏で弔うことを決める。すると、実盛の亡霊が再び現れる。再び現れた実盛は鎧兜に

身を着けていた。実盛は仏法をほめたてて随喜し、自分自身の懺悔の物語を語るのであった。そこで、懺悔の物語として、実盛の亡霊は、最後に手塚の太郎と組んで討死した模様を見せ、篠原の土となった身を弔ってほしいと願って消え失せ、物語は終わる。

2. 戦いから読み取る実盛の人物像

 はじめに、主人公である実盛がどのような人物であったのかについて分析していきたい。実盛は物語の中でどのような人物として描かれているのだろうか。ここでは主に謡曲の「実盛」をベースとして分析していく。時には『平家物語』の「実盛」とも比較しながらその人間性に迫る。

 あらすじでも述べたように、実盛の本名は斎藤別当実盛、平家の侍であり、武勇すぐれた老武者であった。謡曲の「実盛」の最初の場面で、実盛は篠原の合戦で敗れ、すでに死んでしまっていると設定されている。謡曲の「実盛」においても、『平家物語』の「実盛」においても、実盛が命を落とす最後の戦いの場面が描かれている。その描かれ方から実盛の人物像を読み取っていく。

 実盛は「このたび北国の御合戦に、ぜひとも討死あらうずる」(p.181)と思っており、次の戦いで自分が討死することを覚悟していた。

 この篠原の御合戦にも、平家方討ち御負けなされ、皆引き返し給ふなかにも実盛は、よき相手もがな、討死せんと取つて返し戦ひ給ふところに……。(p.181)

 実盛は討死することを覚悟していたためか、この篠原の戦いで、味方の平家が負けているという不利な状況で、皆が引き返す中にも関わらず敵へと向かっていく。他の仲間と逃げるようなことはせず、勇猛果敢な姿勢を読み取ることができる。

 また、実盛は自ら討死するのによい相手がいたら、という心持ちで戦おうとしており、死ぬ覚悟が十分備わっているのに加え、死に対して前向きな姿勢であるように考えられる。またこのほかに、戦いに真っ直ぐに向かっていく姿勢を表現した例として次の文がある。

 光盛こそ奇異の曲者と組んで首取つて候へ、大将かと見れば続く勢もなし、また侍かと思へば錦の直垂を着たり、名のれ名のれと責むれどもつひに名のらず、声は坂東声にて候ふと申す。(p.185)

 実盛と戦い、実盛の首を取った光盛によれば、実盛は相手に自分の名前を名のることはしなかったという。というのも、実盛の姿形は錦の直垂を着ており、見た目では老武者の実盛であることがわからない。ここで名前を相手に名のってしまえば、相手は老武者だと実盛を見くびり、正々堂々と戦いをしない可能性も出てくる。それを見越して実盛は名前を名のらないことを決めていたのだろう。この描写からも、実盛は自分の名を言わず、老武者であることを隠してでも良い相手と戦いたいという強い意志が読み取れる。また、錦の直垂という点に注目すると、さらに実盛の戦いに対する思いの表れが読み取れる。錦の直垂とは、錦織物の一種で、金や銀などの美しい模様をしており、また、直垂は衣服の一つだが、武家の礼服とされている。戦いに向かい、死ぬことを覚悟した武士が、見た目にこだわり、着飾った衣装で死へと向かっていく。どうせ死ぬのであるならば、死ぬその時ぐらいは美しい着飾った衣装で死にたいという気持ちの表れであったのではないかと考えられる。この錦の直垂についてはさらに詳しい記述がある。

 また実盛が、錦の直垂を着る事、私ならぬ望みなり。実盛都を出でし時、宗盛公に申すやう、故郷へは錦を着て、帰るといへる本文あり、実盛生国は、越前の者にて候ひしが、近年御領に付けられて、武蔵の長井に、居住仕り候ひき、このたび北国に、まかり下りて候はば、さだめて討死仕るべし、老後の思ひ出これに過ぎじ、御免あれと望みしかば、赤地の錦の、直垂を下し賜りぬ。(p.187)

 この文では、実盛が錦の直垂を着ているのは自分自身の意志だけではないことが述べられている。故郷には錦を着て帰るという古人の言葉を理由に、実盛は宗盛に錦の直垂を要求し、頂戴することができたのである。ここから読み取れるのは、実盛は戦いで勝利を収めて故郷に帰り、恩返しをしたいという強い気持ちを持っていたということである。

 また、あらすじでも述べたように、実盛は白髪の老武者であったが、それを隠すために鬢と髭を黒く染めていた。「実盛は抜群の老武者なれば、いかにも若く出立ち討死せんと、鬢髭を渋墨にて御染め候ふが、その墨がとけお顔が汚れて、見え分かなんだと申す」(p.181)とある。また、「鬚を洗ひて見れば、墨は流れ落ちて、もとの白髪となりにけり」(p.186)

とあり、取られた首を洗ってみると、白い鬢髭の年老いた実盛となったのである。

 以上挙げてきた部分から、実盛は、どんなに不利な状況においても死の覚悟をし、敵を恐れずに向かっていく勇敢な姿勢を持ち、良い敵と戦うための準備を怠らないことや、強い敵と戦いたいという意志を持った人物であることが読み取ることができる。

3. 他の登場人物から見た実盛の人物像

 1章で述べたように、死に対する恐れを見せず、また死へと向かうにも拘わらず、錦の直垂を着て自分自身を着飾ることに加えて、見た目も若くし、老武者に見られないよう工夫をしていた実盛。このような実盛の振る舞いは他の人の視点からはどのように捉えられていたのだろうか。これに関しては、次のような記述がある。

 樋口参りただ一目見て、涙をはらはらと流いて、あな無慚やな、斎藤別当にて候ひけるぞや、実盛常に申ししは、六十に余つて戦をせば、若殿原と争ひて、先を駆けんもおとなげなし、また老武者とて人々に、侮られんも口惜しかるべし、鬢髭を墨に染め、若やぎ討死すべきよし、常々申し候ひしが、まことに染めて候、洗はせて御覧候へと……。(p.186)

 この文によると、実盛は前々から、戦いに向かう際には、鬢髭を黒に染めようとしていたことがわかる。若い人々と争い、先駆けをするのも大人げないが、老武者だからといってあなどられるのも残念であるとし、黒染をすることによって若々しい姿で討死しようと決めていたのである。実盛は自分で決めたことを貫き通す芯の強い武士であった。この姿に樋口も涙を流さずにはいられなかったのである。

 さらに、この樋口の発言によって、まわりの人々も実盛に対して称賛の意を表している。「げに名を惜しむ弓取は、誰もかくこそあるべけれや、あらやさしやとて、皆感涙をぞ流しける」(p.186) とあるように、実盛は武士のお手本として讃えられて、人々は実盛の姿に感心をし、樋口と同様に涙を流すほどであったようだ。

 実盛が取った行動が人々に強い影響を与えたことは間違いない。他人の視点から見た実盛も、有言実行、強い意志を持った武士で、まわりからも尊敬される存在であったと考えられる。以上の2・3章で考察した実盛の戦い方、人物像は『平家物語』の「実盛」とほぼ同じである。

4. 実盛の亡霊の登場の理由

 ここまで実盛がどのような人物であり、どのような最後を遂げていったのかについて述べてきた。謡曲の原作となる、『平家物語』の「実盛」では、物語は実盛の最後の戦いだけで終わる。そこでは実盛の人物像が称賛され、死に対して「名」が残ったとされている。しかしながら謡曲の「実盛」においてはアレンジが加えられ、原作とは異なる設定、セリフ等がみられる。

 あらすじでも述べたように、篠原の合戦で命を落とした実盛が、謡曲では亡霊の実盛として登場するという部分に注目していく。討死を覚悟した、最後の戦いの時のような勇ましく敵に向かっていく老武者、実盛とは全く違った「老木」(p.179)のようなただの老人でしかない。また、亡霊である実盛は、仏法により救われたいという強い思いを抱いている。

 われ実盛が幽霊なるが、魂は冥途にありながら、魄はこの世に留まりて、なほ執心の程は経れども、二百余歳の程は経れども、浮びもやらで篠原の、池の徒波夜となく、昼とも分かで心の闇の、夢ともなく、現ともなき、思ひをのみ、篠原の、草葉83 49の霜の翁さび、草葉の霜の翁さび……。(p.179)

 これは、実盛が念仏を行う上人に対して、自分が実盛の幽霊であることを告白する一文である。実盛は「執心」が今もなおこの世に残っているため、夜も昼も、夢かも現実かもわからないような状態で、200年以上も心の闇に迷ってしまっているという。また、自分自身のことを草場に置く霜のような白髪の老人とも比喩している。戦いで堂々と討死していった生前の実盛とは比べ物にならないくらいの落ちぶれた印象が伝わってくる。篠原の戦いで、自分自身の望み通りに討死をし、満足する形で死んでいったように思われた実盛。しかしながら、実盛は

亡霊としてこの世を放浪している。それは、上の引用文にあるように、実盛が持ち続けている「執心」に原因があったのである。この執心、後悔の為に実盛は成仏することができずにいるのだ。では、その「執心」とは具体的にどのようなことであるのだろうか。これについては次の章で考察していく。

5. 実盛に残る「執心」の正体

 本章では、謡曲の実盛が成仏できない原因となっている「執心」について論じていく。この問題点を解決するためには、原作である『平家物語』の「実盛」との比較がポイントとなる。原作である『平家物語』においても、謡曲の「実盛」においても、最後の戦いの場面の描写はほとんど変わらず描かれている。どちらも鬢髭を黒に染め、また錦の直垂を着て、華やかな姿でひとり戦いに向かっていく。しかしながら、2つの作品を対比していくと、実盛が亡霊として登場する以外に、『平家物語』の中では語られることのなかった実盛の心情表現を読み取ることができる文がある。

 その執心による修羅の苦しみの世界が、めぐりめぐりてまたここに、木曽と組まんとたくみしを、手塚めに隔てられし、無念は今にあり……。(p.188)

 この文は、上人が実盛に対して、心を安らかにしてこの世の中に「執心」を残さないようにせよ、と言った際に実盛が述べた言葉である。ここでは、実盛は篠原の戦いで木曽義仲と戦おうと計画していたが、手塚太郎に間に入られてしまい、命を落としたことが悔しく思われ、今もなおその悔しさが消えていないということを告白する。

 『平家物語』の「実盛」では、実盛が自分自身の心の内を話す記述は存在しない。このように自分が木曽義仲を倒すことができなかったことが悔しいという心情の記述は謡曲の「実盛」だけで用いられているものである。この文から、実盛が亡霊としてこの世を200年もの間さまよってしまっていたのは、大将である木曽義仲を自分の手で倒すことができなかったこと ( =「執心」) によるものと考えられる。さらに物語の最後の締めの場面において、実盛は以下のようなことを述べている。

 老武者の悲しさは、戦にはし疲れたり、風にちぢめる、枯木の力も折れて、手塚が下になるところを、郎等は落ち合ひて、つひに首をば掻き落とされて、篠原の土となつて、影も形も亡き跡の、影も形も南無阿弥陀仏、弔ひて賜び給へ、跡とぶらひて賜び給へ……。(p.189)

 この文は先に述べたように、実盛が木曽を倒すことができず、手塚に打たれ死んでしまったことが「執心」となっていることを更に強調する文となっている。自分自身のことを、戦疲れし、風にいためつけられ、枯れ木のような力も尽きたようなものだと比喩し、手塚に打たれてしまった実盛は「悲しさ」を感じているのである。また、篠原の土となって影も形もないわが身を救ってほしいと願いを伝え、この物語は終わりを迎えるのであった。最後の最後まで実盛は手塚に打たれ死んだことが悔しかった、悲しかったと訴える。実盛は最後の戦いのことを「慚愧懺悔の物語」(p.185)と述べており、これは深く恥じていることを意味しており、心の底から、木曽義仲を討てなかったことを恥じており、悔しいという気持ちを感じているのであった。また、それだけ強い思いが「執心」として残っているために、その苦しみから救われたいという気持ちもとても強いことがわかる。自分が木曽を討てなかったことが実盛の心にいつまでも残り、その「執心」がこの世をさまようことに繋がっていると考えられる。

6. 武士の生き様と死生観

 ここまで実盛の人物像、そして謡曲のみで語られた実盛がこの世に残した「執心」について述べてきた。『平家物語』においては、実盛は有言実行を果たし、戦いで「名」を残して死に、満足したように思われた。しかしながら、謡曲の「実盛」においては、「執心」を引きずったまま、魂だけがこの世に残り、仏法に救われたいと思っているという描かれ方の違いがある。なぜ謡曲の作者である世阿弥は『平家物語』をこのような設定へと変更する必要があったのだろうか。

 謡曲で実盛が亡霊になり、持ち続けた「執心」は、大将である木曽義仲の首を取ることができなかったこと。実盛が生きていた時代は、武士が戦っては生き残り、また死んでいくような時代であった。『平家物語』に描かれている武士たちは、死を華々しいものとして捉え「名」の為に命を落とす。「生」よりも「死」に重きがおかれ、死ぬことを通して何かを達成しようとする姿が描かれている。『平家物語』はそのような死生観が表れていたが、謡曲の「実盛」はそれとは異なる死生観が表現されているのではないだろうか。

 暗からぬ、夜の錦の直垂に、夜の錦の直垂に、黄匂ひの鎧着て、金作りの太刀刀、今の身にてはそれとても、何か宝の、池の蓮の、台こそ宝なるべけれ……。(p.184)。

 この文は、わざわざ宗盛にお願いをしてまで頂戴した錦の直垂でさえも、死んでしまった自分の身には何の意味もないのだ、と実盛が述べたものである。

「池の蓮の、台こそ宝」とは、浄土での成仏を目指しているということであるが、それは「執心」を滅した先にある。つまり、実盛は心のどこか奥底では、本当は「生」きて思いを遂げたいと願っていたのではないかと考えられる。実盛が本当に目指していたものは「死」ではなく「生」であったのではないだろうか。「生」と「死」は表裏のようなものではあるが、自分自身を着飾り、自分に見合う強い相手と戦いたいとしていたのも、「死」に対する恐怖心を隠すためのものであったように考えられる。どんなにかっこよく死んだとしても、周りに称賛されて死んだとしても、「生きたい」と思う気持ちが死ぬことよりも勝っており、また死ぬことよりも生きることが大切であるとされる。武士たる者、死んで何かが完成するのではなく、生きることで、初めて武士として完成することができるということを世阿弥は伝えたかったのではないだろうか。そのことを伝えるために、世阿弥は、謡曲で実盛を亡霊として再び出現させたのではないだろうか。

 このように見ていくと、『平家物語』における「死」を大事にする姿勢は、私達が持っている生死観とは異なる。しかしながら、謡曲の「実盛」で見られる、実盛の大将を討って「生きたい」と強く思う気持ちは現代の私達にも共感することができる部分だと考えられる。現代の私達も「生」きることに重きを置き、いかによりよく「生」きるかを考え、追及している。それは実盛が大将の首をとり、「生」きつづけ、武士として完成することと同じではないだろうか。

おわりに

 今回の論文において、第2章では、最後の戦いから読み取れる、実盛の人物像について述べた。実盛は味方が引き返す中でも、ひとり果敢に敵に立ち向かっていき、またその装いはきらびやかに美しく着飾られており、討死する覚悟、意志を強く持っていることがわかる。

 第3章では、他の登場人物から実盛の人物像について述べた。実盛は以前からどのように討死をするか決めていたという。その決め事をきっちりと実盛は守っており、その姿に敵側である武士たちも、実盛こそが武士の手本となるべき人だと称賛の涙を流す。有言実行、意志を貫いた実盛はまわりの人からの評価も高かった。

 第4章では、『平家物語』の「実盛」では見られなかった、謡曲「実盛」での亡霊の実盛の登場の部分について注目した。自分の思うとおりに満足して討死していったかのように思われた実盛。しかしながら、実盛は亡霊の姿となって登場し、また戦いの時のような勇ましさはなく、枯れ木のような老人であった。亡霊の実盛は、この世に「執心」が残っているために成仏することができないのだと言う。

 第5章では、第4章で述べた「執心」について詳しく考察していった。実盛が抱えていた「執心」は、大将である木曽義仲を自分の手で討つことができなかったことであった。その悔しさが何年もの間、実盛の心残りとなっていたために、この世から離れることができなかったのである。

 第6章では、第5章まで論じてきたことをふまえ、当時の武士たちにおける死生観について考察した。

実盛が大将を討つことができなかったことをいつまでも悔やみ続ける姿から、本来武士というものは大将の首を取ることを目指しており、またそれは同時に生きることを目指していたと考える。

 最後に、昔も今も、「死」と「生」は私達の生活からは切り離すことができないものであると感じ、また武士であっても、武士ではない現代を生きる私達でも、思うことや目指しているものは同じであると考える。世阿弥が「実盛」を通して私達に伝えたかったことは、「死」に捉われるのではなく、「生」を大切にしろということだったではないだろうか。私達もいつかは死んでしまうわけだが、その死を迎えるまでに自分自身で決めたことを貫き通す姿勢を大切

にすることや、また「執心」が残ることがないように、自分の気持ちに正直に、一生懸命に生きろというメッセージを含んでいたのではないかと考える。

一般注

 謡曲「実盛」からの引用は、小山弘志・佐藤健一郎校注・訳『謡曲集①』

(小学館、1997年)に拠る。引用文はすべて項数のみの表記とする。

参考文献

市古貞次校注・訳『平家物語②』小学館、1994年

鎌田正・米山寅太郎著『新・漢語林』大修館書店、2004年12月

三角洋一・小町谷照彦編『最新全訳古語辞典』東京書籍、2006年1月

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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