https://ameblo.jp/harun2019/entry-12568048844.html 【斉藤別当実盛公と妻沼聖天様】より
妻沼聖天様は、斎藤別当実盛公(さいとうべっとうさねもり)が当地の庄司として、ご本尊聖天さまを治承三年(1179)にお祀りしたのに創まります。
さいたま郷土資料館の書物参照
「平家物語」には、「実盛もと越前国の者で候、近年御領について武蔵の長井に居住せしめ候」とある。
実盛は当初源氏に仕え、源義賢(ヨシカタ)が甥の義平に討たれた 1155年8月大蔵合戦(嵐山町大蔵)では、義賢の子、2才の駒王丸(のちの義仲)を一時かくまい信濃国木曽へ逃がした。
保元・平治の乱では、源義朝にに従って活躍した。
義朝が敗北すると、平宗盛(清盛の三男)に仕えて武蔵長井庄別当となった。
1180年源頼朝が挙兵すると、武蔵武士たちがこぞって頼朝に従った。
が、斉藤実盛は荘官として召抱えてくれた平氏への恩義を忘れず、平氏に従った。
1183年倶利伽羅(クリカラ)峠の合戦で、平氏は源氏を迎え撃った。
この時実盛は、主君の宗盛に討死の覚悟を伝え、ふるさと越前に錦を飾るため、錦の直垂(ひたたれ)と拝領の甲冑を見につけ、老武士とみられることを恥じて白髪を染め大将を装って出陣した。
白髪を染める筆を持ち、鏡を見てる像 73才
果敢に義仲軍と戦い、壮絶な戦死を遂げたと語られる。 木曽義仲 29才
実盛の首を見聞した義仲は、かつてかくまってくれた恩人の首を前に涙したという。
このお話は、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎などで語り継がれている。
斉藤氏館跡 熊谷市西野442
土手の脇は川が流れてます。長井庄の中心がこの辺だった。
板碑は実盛公の者ではなく孫の長井馬入道殿直をその子孫が供養したもののようです。
尚、斉藤実盛の墓は、石川県、福井県など4カ所にあります。
貴惣門 3つの屋根の破風があります。日本では3つあってその中で1番大きいそうです。
中門 江戸時代初期の火災で焼け残った唯一の建物
仁王門の鰐口 南北朝時代の物で、埼玉県の指定文化財。
拝殿 斉藤実盛が開創してから、何度も修復再建され、江戸初期の火災で焼失し、江戸中期に再建された。
大工棟梁 林正清 彫刻棟梁 石原吟八郎 拝殿中殿奥殿は25年の歳月がかかった。
本殿
国宝になってから、奥殿は拝観料が必要です。
2回見学してるし、彫刻の本も購入してあるので今回はパス。
聖天山歓喜院本坊 こちらは初めてお参りしました。
妻沼聖天山 ホームページ
今回は斉藤別当実盛のことをメインにまとめてみました。
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