http://www.ksky.ne.jp/~shouden/ 【歓喜尊天霊場】より
このページは妻沼聖天山公式サイトです。
聖天山は平家物語、源平盛衰記や謡曲実盛、歌舞伎実盛物語などに、武勇に優れた義理人情に厚い人柄が称えられております、斎藤別当実盛公(さいとうべっとうさねもり)が当地の庄司として、ご本尊聖天さまを治承三年(1179)にお祀りしたのに創まります。次いで実盛公の次男斎藤六実長(さねなが)[宗光(むねみつ)ともいう]が出家して阿請房良応(あしょうぼうりょうおう)となり建久八年(1197)に本坊の歓喜院を開創いたしました。
ご本尊聖天さまは、正しくは大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)と称せられ、福運厄除の神として信仰されております。ご本尊は錫杖の中央に祀られているので御正体錫杖頭(みしょうたいしゃくじょうとう)として国指定重要文化財でありますが、秘仏でもあります。
妻沼聖天さまは日本三大聖天さまの一つとして知られ、特に縁結びの霊験あらたかで、夫婦の縁はもちろんのこと、家内安全・商売繁盛・厄除け開運・交通安全・学業進学などのあらゆる良縁を結んでいただけるので、祈願を籠める信仰の寺院であります。
※ 聖天山、今月の写経会は中止となります。
大聖歓喜天祈祷霊場
関東八十八大師「第八十八番」
関東三十三観音「第十六番」
東国花の寺百ヶ寺「第二十七番」
彩の国武州路十二支霊場「午」
幡羅新四国「第十三番」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/188303 【歓喜院 聖天堂 かんぎいん しょうでんどう】より
解説
歓喜院は高野山真言宗に属し、治承3年(1179)の創建と伝わる。現在の聖天堂は、享保5年(1720)に歓喜院院主海算(かいさん)が再建を発願、民衆の寄進を募り、地元の大工林兵庫正清(まさきよ)によって建設されたものである。
奥殿、中殿、拝殿よりなる権現造の形式で、延享元年(1744)に奥殿と中殿の一部が完成し、宝暦10年(1760)までに中殿と拝殿が完成した。とくに奥殿は多彩な彫刻技法が駆使され、さらに色漆塗や金箔押などによる極彩色を施してきらびやかに飾る。また、拝殿正面を開放として参詣の便をはかるなど庶民信仰の隆盛を物語る建物である。
聖天堂は、江戸時代に発展した多様な建築装飾技法がおしみなく注がれた華麗な建物であり、技術的な頂点の一つをなしている。このような建物が庶民信仰によって実現したことは、宗教建築における装飾文化の普及の過程を示しており、我が国の文化史上、高い価値を有している。
https://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/midokoro/menumasyoudenzan/ 【聖天山周辺地区景観形成事業】より
妻沼聖天山の本殿「歓喜院聖天堂」は、宝暦10年(1760年)に再建されました。
日光東照宮を彷彿ほうふつさせる本格的装飾建築で、その精巧さゆえに「埼玉日光」と称され、国宝に指定されています。
250年の時の流れとともに生じた傷みや、剥落した彩色を、建立当時のように美しく蘇よみがえらせるため、平成15年10月から約7年間の歳月をかけ、「平成の大修理」が行われました。
そしてついに、平成23年6月1日から、保存修理の終了した聖天堂が一般公開が開始しました。現代に蘇った聖天堂の輝きを、ぜひその目に焼き付けてください。
妻沼聖天山めぬましょうでんざんは日本三大聖天の一つとして知られ、特に縁結びの霊験あらたかです。
夫婦の縁をはじめとし、家内安全・商売繁盛・厄除け開運・交通安全・学業進学などのあらゆる良縁を結んでいただけます。
http://muka4wo15.blog135.fc2.com/blog-entry-88.html?sp 【齋藤別当実盛と妻沼の聖天さん 国宝となった圧倒的の彫刻美】より
妻沼(めぬま)の聖天山歓喜院は、最近にわかに脚光を浴びています。ここの本堂が当時の様子に再現されてそれを機に、国宝に指定されたからです。実はその前から、日光に負けない、すごいのがあると云うことで寺院建築の専門家には名の通ったところだったようです。
縁起によると、治承三年(八百数十年前)この地方の庄司斎藤別当実盛公が本尊聖天さまを総鎮守としてお祀りし民衆の祈願所として開創されたのがこの聖天さんだといいます。
齋藤別当実盛は、寿永2(1183)年源義仲追討のために北国に発向し、加賀篠原で討死。老武者と侮られぬために白髪を黒く染め、また、故郷に錦を飾る故事を踏まえた逸話が『平家物語』にあり、「白髪染めの実盛さん」としてよく人に知られています。
能・「実盛」。前場のその詞章の一部を抜いてみます。
シテ・昔長井の斎藤別当実盛と申しし者は、この篠原の合戦に討たれて候、定めて聞こし召し及ばれてこそ候ふらめ
ワキ・それは平家の侍隠れなき弓取、いやその軍物語は無益、ただ翁の名を名宣り候ヘ
シテ・いやその実盛も、御前の池水にて鬢鬚を濯がれて候、執心残りけるか、今もこの辺の人には幻の如くに見え候ふ ぞとよ
この辺の人には、その弓取が「幻の如く見える」と云うこの翁、池のほとりにて姿は幻となりて失せてしまいます。
後場では、(幻の如く見えると云う)霊魂となった実盛が登場し、「鬢鬚白き老武者なれど、その出で立ちは花やかなる、よそほひ殊に曇りなき…」と弥陀則滅の台(うてな)に至りと結ばれます。
また、歌舞伎の「源平布引滝」の三段目切「九郎助住居の場」、この場を(通称:「実盛物語」)といいます。
これも同じく、この実盛の討ち死の話をもとに創られているなどあまりにも有名な人物なのですが、この妻沼の聖天さんのところで出てくるとは、まったく筆者にとって思いもかけないことでした。
長井の庄の庄司が実盛で、ここは、平家の領地。その長井の庄が現在の熊谷市妻沼ということで、唐突とも思われたその実盛公、ここで納得しました。
境内に銅像がありました。鏡と筆をもっているところです。
銅像の手前脇に戦前の小学唱歌の歌詞の胴版があり、スイッチを押せば歌が聴けます。歌詞は…
一、年は老ゆとも、しかすがに
弓矢の名をばくたさじと、
白き鬢鬚(びんひげ)墨にそめ、
若殿原と競ひつつ、
武勇の誉を末代まで
残しし君の雄々しさよ。
二、錦かざりて帰るとの
昔の例(ためし)ひき出でて、
望の如く乞ひ得つる
赤地錦の直垂(ひたたれ)を
故郷のいくさに輝しし
君が心のやさしさよ。
縁起によりますと、「本坊は実盛公の二男良応僧都が聖天行者の修行所として建立されました。
聖天さまは仏法の守護神であります。多くの密教寺院では、寺院を守るために祀られています。」とあります。
開創されてから何度も修復・再建されましたが、現在の建物は、江戸中期のものです。
国宝に指定されたポイントを「歓喜院聖天堂は、享保20年(1735)から宝暦10年(1760)に掛けて、林兵庫正清及び正信らによって建立されました。これまで知られていた彫刻技術の高さに加え、修理の過程で明らかになった漆の使い分けなどの高度な技術が駆使された近世装飾建築の頂点をなす建物であること、またそのような建物の建設が民衆の力によって成し遂げられた点が、文化史上高い価値を有すると評価されました。」
つづけて、「日光東照宮の創建から百年あまり後、装飾建築の成熟期となった時代に、棟梁の統率の下、東照宮の修復にも参加した職人たちによって、優れた技術が惜しみなくつぎ込まれた聖天堂は、「江戸時代建築の分水嶺」とも評価され、江戸後期装飾建築の代表例です。
この度の国宝指定は、本県の建造物として初の栄誉であり、昭和25年の文化財保護法の制定以降、熊谷市においては初めての国宝指定となります。」
平成24年7月9日官報にて告示があり国宝となました。
聖天さんには、もうひとつすごいものがあります。参拝の順路に従って順番に見ていきます。
武州妻沼・歓喜院霊場P1040822 (640x465)
ここから這入ります。奥に見えているものが貴惣門です。
貴惣門P1040823 (640x480)
「皆誉願満足」と書かれた扁額が架かっていますが是と云ってそう変ったものと思えませんが横から見てみます。
破風を三つの貴惣門・P1040833 (640x466)
破風を三つ持つ珍しい形。案内板があり
「聖天山貴惣門
国指定重要文化財建造物
平成十四年五月二十三日指定年月日」
「妻沼聖天山聖天堂の正門として建てられた雄大規模の八脚門で、側面(妻側)に破風を三つ重ねた類例の少ない奇抜な形式に特徴がある。
寛保二年(一七四二)幕命で、利根川大洪水の復旧工事に妻沼を訪ねた周防国(山口県)岩国吉川藩の作事棟梁長谷川重右衛門に聖天堂の大工棟梁林正清が設計を依頼
したもので、約百年後の嘉永四年(一八五一)正清の子孫林正道が棟梁となり完成した。
総欅造の精緻なつくりに多様な技法の彫物で要所を飾るなど、江戸末期の造形芸術の粋が発揮されている上、主要部材に寄進の名を残す等、郷民信仰の証を伝える貴
重な建造物である。」
全国に4例しかないといいいます。貴惣門は、木草門、奇想門とか。あとの三つは、、四天王寺東大門(大阪市)、豊楽寺仁王門(岡山市建部町)、誓願寺山門(弘前市)。誓願寺の破風は、鶴亀の懸魚がついているなどそれぞれいわくがありそうです。まさに奇想門のようです。
前にこの寺は、民衆の力によって造られたと云うことが書かれていましたが、その片鱗が貴惣門の柱の石に僅かに消えずに残っています。貴惣門・寄進者の名前が見えるP1040828 (640x480)
中門から本殿を望みます。
中門から本殿をP1040840 (640x470)
本殿前に石舞台があります。
本殿前の石舞台P1040844 (640x472)
いよいよ本殿、狛犬と本殿正面です。
狛犬と本堂P1040846 (640x480)
その正面(拝殿)の唐破風部の彫刻の画題は「琴棋書画(きんきしょが)」と登竜門の故事と呼ばれているものです。
正面アップ・琴棋書画・竜・鯉鯱P1040896 (640x445)
登竜門の故事、柱を挟んで右側が鯉。左側が鯱。
柱の左、鯱、右鯉P1040898 (640x471)
拝殿に向って右に行くと拝観の入口。中殿・奥殿の彫刻が見られます。
南面。拝殿、中殿、奥殿外観P1040873 (640x471)
権現造という配置。右から拝殿、中殿、奥殿。ここから中に這入ります。
奥殿と中殿の境目。階段が見えますがここから奥殿。
猿と鷲・南面・階段もP1040850 (640x465)
猿を救っている鷲ののように見えます。
猿が建物を支えているようです。
支える猿P1040863 (640x480)
支え猿親子P1040870 (475x640)
桃をもつ支え猿P1040879 (640x466)
庶民に親しい絵柄が沢山使われているようです。子孫繁栄を願う唐子…
北面・唐子が水をP1040860 (640x473)
下部、唐子鯨P1040868 (640x463)
東面下部、唐子の獅子舞P1040867 (640x465)
左手に双六で遊ぶ。右手は西王母の故事(仙桃をもっています)。
双六遊び・西王母アップP1040883 (640x479)
双六遊びの場面をアップ。先年の大河ドラマ「平清盛」で画面によく出ていた双六と同じようです。
双六のアップP1040871 (640x480)
囲碁をしている場面があります。「爛柯(らんか)」の故事を描いているのでしょうか。
囲碁図正面からP1040881 (640x479)
「爛柯(らんか)」とは、晋の時代木こりの王質は、4人の童子らが碁を打っているのをみていて時のたつのを忘れた。その間に斧の柯(え)が爛(くさ)り、帰ってみれば当時の人は誰もいなかったという故事。
よくよく見ていくといろいろの発見がありそうです。完全なものをつくると後は壊れていく。そのため、どこか手を抜いておくことがよく行われます。
南面、塗り残してある斗栱P1040878 (640x472)
入口入ってすぐの所、見上げた斗栱の一部に塗り残しがあるそうです。
塗りと云えばこの彫刻の全面、補修前の状態の彫面に和紙をちぎって貼り付けてその上に色を再現して塗ってあるそうで、この和紙をはがせば、補修前の姿に戻るそうです。国宝ならではの作業とか。
現在、雨風を防ぐ囲いのない野ざらし状態ですから早晩色あせてしまうことでしょう。
魅力ある建物がこんな田舎(しつれい!)にありました。
妻沼と云ったってどこ?
JR熊谷駅前から太田行きのバスで聖天堂前下車すぐです。行って見てください。
※かって熊谷から太田まで東武鉄道が鉄道を敷設する計画があり、一部熊谷妻沼間が開通し、電車が走っていたそうですが廃線。その面影は、ほとんど残っていないとか。その昔は、賑わった所だったのかもしれません。料理屋やおいしい菓子を売っている店があります。
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