https://www.tojoshinbun.com/syoden/ 【木曽義仲を救った斎藤実盛が開創した妻沼・聖天山 きらびやかな本殿は国宝に指定】より
「聖天さま」で親しまれる、熊谷市妻沼の寺院、妻沼聖天山。平安時代末期に、斎藤実盛が開創した。斎藤実盛と言えば、大蔵館(現嵐山町)の戦いで父を殺された幼時の木曽義仲を救い、後に義仲軍に討たれた、悲劇の武将だ。日光東照宮と見間違うほどに壁面がきらびやかに装飾された本殿は、国宝に指定され、観光客も増えている。郷土史家の鈴木忍さん(妻沼公民館長)にお話をうかがった。
聖天山 本殿前
長井ノ庄の総鎮守に
―このお寺は、正式には何と呼べばよいのですか。
鈴木 聖天山長楽寺歓喜院(しょうでんざん・ちょうらくじ・かんぎいん)が正式名です。
―斎藤実盛が開いたのですか。
鈴木 斎藤別当実盛公が、開創したと伝えられています。当時ここは武蔵の国幡羅(はたら)郡長井ノ庄(36カ村、今の深谷市の東部、熊谷市の北西部、旧妻沼町と行田市の一部)と言っておりましたが、実盛公は庄司として当地を統括しておりました。ここには、その前から神社があったのですが、実盛公は自分の故郷(越前)から持ってきた大聖歓喜天という守り本尊を、ちょうど古希(70歳)になった時神社に奉納しました。大聖歓喜天は聖天さまですから、聖天宮と名前を変え、長井ノ庄の総鎮守にしたということです。
斎藤実盛像
―いつのことですか。
鈴木 治承3年(1179)とされています。平安時代末期です。
実盛は駒王丸(木曽義仲)を妻沼で7日預かる
―斎藤実盛の生涯でどういう時期にあたりますか。
鈴木 亡くなったのは73歳ですから、晩年です。
―すると木曽義仲を助けた大蔵合戦より後ですね。
鈴木 大蔵館の戦いは、久寿2年(1155年)ですから、聖天山開創よりかなり前になります。大蔵館の戦いで、木曽義仲(駒王丸)は当時2歳でした。義仲のお父さん、源義賢は甥の源義平(悪源太義平、頼朝の異母兄)にやられた。夜襲をかけて義賢を殺した時に、義仲は住まいが別にあったので助かった。「見つけ次第首をはねろ」と言い帰った。それをまず畠山庄の畠山重義(重忠の父)、が助け、隣の長井ノ庄の斎藤実盛に「かくまってくれ」と託した。
実盛は後に木曽義仲になる駒王丸を妻沼で約7日間預かったと言われています。その間、義平は鵜の目鷹の目で探しており、長く置いてもいずれ見つかると考え、実盛は木曽の知り合いである中原兼遠という武将に預けました。
―実盛は、後に自分が助けた義仲と戦うことになるわけですね。
鈴木 時が流れて、義仲は、頼朝より先に平家討伐の兵を挙げて、北陸道を攻め上がって行った。実盛は最初は源氏につき保元の乱にも源氏で出て、平治の乱でも源氏で出た。負けて故郷に帰ったら、京都から平家に組すれば身分、領土を安渡すると言われ、平家に移った。その時に、義仲が兵を挙げたので、平家側として戦わざるを得なかったわけです。実盛は、自分が2歳の時助けた木曽義仲の軍と戦い、義仲の家来に討ち取られます。それが歌舞伎とか能謡曲にうたわれています。
聖天宮を開創したのは、実盛が亡くなる3年前で、平家の身分だったわけです。
―実盛の館跡は残っているのですか。
鈴木 館の場所については、3カ所くらいの説があります。一番有力なのは、現在の妻沼小学校、大我井神社のあたりと言われています。
神仏分離で、神社を新設、お寺で残す
―聖天宮は元々神社だったのがお寺に変わったのですか。
鈴木 後に実盛公の次男、斎藤六実長が、坊さんになって、妻沼に帰ってきます。その頃、聖天宮は庇護する有力な武将もおらず、荒れていました。頼朝公がたまたま前の道を通り、その機会をとらえ、何とか修復したいと願い出ました。頼朝の許可を得て、修復すると同時に、聖天宮から南に200mのところに現在の長楽寺歓喜院を建てたのです。こうして、江戸時代にかけて、仏教も神道も両方をお祀りしていたのです。
―明治になってお寺になったのですか。
鈴木 明治になりますと、神仏分離令がおります。神様と仏様を分けるというより、天皇家は神道に近いので、廃仏毀釈という流れで、通常はお寺を廃し神社を残します。しかし、時の聖天さまのご住職が早く動きまして、28カ村の名主を集め、ここはお寺で残し、神様は道の向こう側に移すということにしたのです。それが大我井神社です。聖天さまはお寺で残し神社を新しく作ったという珍しい例です。建物は神社造りですが。
―仏教の宗派は何ですか。
鈴木 高野山真言宗です。位が高く、準別格本山となっています。今のご住職も、高野山東京別院のトップで主監を務めています。
縁結びの神
―縁結びの神として信仰されているのですね。
鈴木 聖天さまは、正式名が「聖天山長楽寺歓喜院」。「聖天」とは大聖歓喜天から2字をとっています。この大聖歓喜天は、象の頭をし人間の体をした、象頭人身で、ヒンズー教ではガネーシャと言いますが、仏教に帰依し大聖歓喜天になられた。大聖歓喜天は、単身と双身がありますが、妻沼の聖天さまのご本尊は双身で、男女が抱き合っています。抱き合って、長く楽しみ、歓喜すると、いうことでおめでたい名前なんです。それで大聖歓喜天は福徳と縁結びの神と言われています。
本殿は完成まで60年かかる
本殿
本殿
―国宝に指定された本殿の建設はいつですか。
鈴木 聖天さまは、長い歴史の中で何回か火災にあったり、建て替えられたりしていますが、今の本殿は江戸時代の中期に火災になり、69年間本殿がありませんでした。今の建物は、建て終わるまで約60年かかっています。実際は、建てようと発願して15年間は寄付を集め、着工してからでき上がるまでに25年。その時はこけら葺きの屋根で、銅板に葺き上がったのがさらに19年後の安永8年(1779)です。25年間の工事中、途中で利根川の大洪水があり、工事が11年間ストップした。そのため、奥殿から中殿の途中で止まり、後で拝殿を継ぎ足して完成いたしました。
―日光東照宮とよく似ています。
鈴木 日光に大猷院(家光廟)を建てた人の子孫と言われている、林兵庫正清という人物が棟梁でした。日光東照宮ができてから100年、大猷院ができてから63年後です。当然、日光を参考にしており、職人たちもほとんど日光の流れをくんでいます。
―これだけの建物が幕府でなく民間の力で建てられたのですね。
鈴木 平成24年に国宝に指定されましたが、指定の理由に、「江戸時代に発展した多様な装飾技法がおしみなく注がれた華麗な建物であり、技術的な頂点の一つをなしている。このような建物が庶民信仰によって実現したことは、宗教建築における装飾文化の普及の過程を示しており、我が国の文化史上、高い価値を有している」とあります。吉宗公の時代に享保の改革があり、ぜいたくをしてはいけないが、民間が自分でお金を出して幕府に申し出て許可を得れば建てられた。大工の棟梁が信州から江戸にいたるまで寄進を募って歩いた。その時のポスター(完成予想図)や勧進帳が残っています。聖天さまができてから、北関東にはバタバタと似たような建物が増えました。
本殿の壁面彫刻
大聖歓喜天は秘仏
―境内の見どころは。
鈴木 やはりご本殿を見ていただきたい。それ以外に30数棟の建物があり、最初の貴惣門、中門、仁王門、弘法大師堂、平和の塔、歓喜院本坊、などが見どころです。貴惣門と大聖歓喜天のご本尊は、国の重要文化財に指定されています。また今年9件の建物が登録有形文化財に指定されました。
貴惣門
―本尊の大聖歓喜天は拝観できるのですか。
鈴木 秘仏です。ご開帳がある時以外、見ることはできません。約15年に1回ほどです。
―実盛の子孫は地域にいるのですか。
鈴木 そうらしい方は妻沼や所沢などにおりますが、確かではありません。福井県の鯖江には実盛の生家が続いており、私はご当主にお会いしました。今の当主は実盛から数えて42代目にあたります。
―鈴木さんは歴史にお詳しい。
鈴木 私は元々サラリーマンでしたが、聖天さまの近くで生まれ育ち、地域の歴史に興味を持ちました。彩の国いきがい大学で、聖天さまと妻沼出身の荻野吟子(日本初の女性医師)の話を講義しています。聖天さまを案内するボランティアガイド「阿うんの会」の説明資料も、私が作りました。
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