Facebook長堀 優さん投稿記事
今年の五月、高野誠鮮先生との対談で私は八戸を訪れました。
その際、橘央子さんのご案内で、義経北行伝説を今に伝える二つの神社⛩「小田八幡宮」と「龗(おがみ)神社」を参拝することができました。
写真は、「小田八幡宮」で、ご一緒した三木歩さんが撮られた写真です。
この小さな祠は「毘沙門堂」と呼ばれ、義経が鞍馬の毘沙門天の像を安置して崇拝したと伝わります。
この写真をよく見ると、中央上方から光が射し込んでいます。
さらによく眺めてみると、祠の右奥の林には、レンズ状の透明な光が浮かんでいるように見えます(拡大写真)。
この祠になにやら不思議な雰囲気を感じた私は、佐々木勝三氏の「義経と成吉思汗の謎」をもう一度読み返してみました。
すると、今回訪れた神社が、義経北行伝説を語るにあたり、とても重要なスポットであることがわかったのです。
「義経と成吉思汗の謎」の著者佐々木勝三氏は、義経伝説が色濃く残る岩手県宮古市で明治28年に生を受けており、当時としては珍しく米国留学を経験されています。
経済学者としての活躍が期待されていた佐々木氏ですが、八百年近く東北の各地で語り継がれてきた義経伝説に惹かれ、多大な時間をかけて探求していくことになるのです。
そして、三十数年に渡り義経北行コースを発掘し続け、ついには全路完全踏破を成し遂げられたのです。
その結果、衣川から北海道に至るまで、義経伝承やゆかりの史跡や社殿が驚くほどたくさん残っていることを明らかにしました(写真をご参照ください)。
そればかりか、史跡は衣川から蝦夷へと見事に一線につながります。
そして、どの伝承も、義経一党はその場所にとどまらずに立ち去った、というものばかりでした。
しかも、義経一党はどこでも深く慕われ、その伝承は近世に至るまで、敬意とともに大切に語り継がれてきたのです。
ここで話を冒頭の「小田八幡宮」に戻しましょう。
この神社には、藤原秀衡が亡くなる際、義経、後継の泰衡に向けその後の行動を細かく指南したとされる遺言書を伝える文書が残されています。
また、「小田八幡宮」の経庫に保管されている大きな唐櫃には、膨大な量の大般若経の写しが保管されています。
佐々木勝三氏は、別当の河村氏を通じ、実際にこれを確認しています。
唐櫃の中には経箱が五重ねずつ二列に納められ、各々の箱には経典の写しが十巻づつ入っていました。
「小田八幡宮」の古い縁起によれば、義経、弁慶一党が、大般若波羅蜜多経六百巻を書写して「毘沙門天」に向けて奉納したことが記されています。
佐々木氏は、義経が三年過ごしたとされる居城跡が残る宮古市黒森山で、同じ筆跡の書を見たと語ります。
唐櫃に納められていた巻物は、縁起が伝える写しの一部である可能性も否定はできないと思われます。
さて、この「小田八幡宮」とともに、今回参拝した古社「法霊山龗(おがみ)神社⛩」には、この地で亡くなったとされる義経の奥方、北の方が法霊大明神として祀られています。
法霊大明神は、後に御前(三崎)神社、さらには龗(おかみ、おがみ)神社と名称が変わっていきました。
"前"、"御前"は、常盤御前、静御前で知られるように、女性に対する尊称として使われています。
ですから、この神社の名称も、義経の北の方をお祀りしていることから御前大明神となり、"御前(おんまえ)"が"御前(みさき)"に、そしてさらに三崎神社へと変わってきたものと推測されます。
また、万葉集にも謳われている「於箇美(おかみ)」とは、岡または山にいて、その場の雨雪をつかさどる女性の神を表すとされています。
主婦のことを「おかみさん」と呼びますが、これは主婦に対する尊称であり、於箇美、龗に繋がる呼び名と言えるのでしょう。
ですから、龗神社という名称も、義経の大切な奥方を祀っていることに由来するのではないか、と考えられるのです。
八戸では、限られた時間にもかかわらず、私は、義経伝説関連のスポットを少しでも訪ねることができたら、と希望していました。このように、その望みは見事に叶えられたわけです。
しかも、是川縄文館に加え、これほど大切な神社をご案内いただくことができて、橘さんには本当に感謝しかありません。ありがとうございました❣️
ここで宣伝になってしまい恐縮ながら、八戸で行われた高野誠鮮先生との対談が十一月十九日に東京でも行われます。どうぞよろしくお願い致します。
https://facebook.com/events/s/%E9%AB%98%E9%87%8E%E8%AA%A0%E9%AE%AE%E9%95%B7%E5%A0%80%E5%84%AA%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%81%B8%E4%BB%8A%E7%A7%81%E9%81%94%E3%81%AF%E3%81%A8%E3%81%86%E8%A1%8C%E5%8B%95%E3%81%99%E3%81%B8%E3%81%8D%E3%81%8B/715784759494973/
義経北行伝説は、拙著を世に出すにあたりお世話になった「でくのぼう出版」の創業者、故山波言太郎先生が、生涯をかけ追い求めていたロマンでした。
私自身、母親が平泉から30キロほどの町の出身であるため、幼い頃、中尊寺、毛越寺など義経ゆかりの地を叔父に連れられ何度も訪れていました。
そんなこともあり、八戸から帰ってきて以来、義経伝説について今一度、じっくりと学びなおしてみたのです。
私の個人的な趣味の話ですので、どのくらいの方にご興味をもっていただけるものかわかりませんが、
○義経北行伝説が江戸期に注目を浴び始めることになったいきさつ
○奥州藤原氏と大陸との関係、
〇成吉思汗の名前に秘められた想い、
などについて、下記の書き込み欄に二部に分けてアップしています。
途中まででも結構です。もしお付き合いいただけましたらとても嬉しいです。
併せてよろしくお願い致します。
山波先生が、義経伝説を追いかけるために企画された特集号「ボルテ・チノ」です。全部で九巻あります。
ボルテ・チノとは、チンギスハンが自ら名乗ったとされる呼称です。
義経は、行く先々その地その場所の風習、言葉を尊重することを旨とする性格の持ち主でした。
彼がモンゴルの地に立った時、愛する「静」とは、この地では何というのか知りたくて身振り手振りで尋ねようとするのですが、静をどう表現すればよいのか、
この表現が難しくて困ってしまいました。
そこで一計を案じたのが静を、青と争に分けることでした。
空の青、水の青、衣服の青を指差したとき、現地の人はそれは「ボルテ(ブルー)」と言い、争う動物の仕草をしたら「チノ(狼)」との答えが返ってきたのです。
彼はその名がたいへん気に入り、大草原の彼方まで届けとばかりに叫んだのが「ボルテ・チノ」、
それを聞いた現地の人は、彼は自ら「蒼きオオカミ」と名乗ったと解釈したのです。・・・
私の大好きな逸話です。
1 徳川光圀公も疑念を呈した「義経自刃」
稀代の天才戦略家で勇猛な武将であった源義経は、衣川で藤原泰衡により襲撃され、あっけない最期を遂げた、、
これが現代に至るまで信じられている世の定説です。
その一番の拠り所は、鎌倉幕府が編纂したとされる正史「吾妻鏡」に義経自害が明記されていることです。
「吾妻鏡」は一般の人が記したものとは異なるので一級史料としての評判が高く、以後、現代にいたるまで、義経自刃は動かしがたい史実として受け入れられてきました。
しかしながら、蝦夷地の開拓が本格的に進み始めた江戸期になって、義経北行伝説が俄然注目を浴び始めます。
なぜかといえば、蝦夷地の開拓に伴い、アイヌの間に義経伝説が色濃く残っていることがわかり、義経、弁慶にちなんだ遺跡や地名も数多く発見されたからです。
と同時に、東北地方で密かに伝えられてきた多くの義経伝説も俄かに信憑性が増してきました。
その結果、義経は衣川で死なずに北へ逃亡したとの説が世に広まり、水戸の徳川光圀公、新井白石、さらにはシーボルトまでが言及するまでになったのです。
水戸の光圀公編纂による「大日本史」には次のような記述があります。
「世に伝う。義経、衣川の館に死せず、遁れて蝦夷に至ると。
・・・己未(つちのとひつじ 四月三十日)より辛丑(かのとうし 六月十三日)に至るまで相距たること四十三日。
天、時に暑熱の候なり。函して酒に浸したりといえども、いずくんぞ壊爛腐敗せざることを得ん。
だれかよくその真偽を弁ぜんや。しからばすなわち、義経死すと偽りて遁れ去りしか」
義経の首は、真夏に東北から鎌倉に運ばれ、しかも四十三日もかかった、さぞ腐敗していたであろう、正確な検証ができたのだろうか?
光圀公も義経自害に疑念を抱いていたのです。
近年、ホツマツタヱが古史古伝としてその評価を高めているのは、いときょう先生をはじめ多くの研究家の方々が、ホツマツタヱで語られる人名や地名が、現地の神社の社伝、御祭神や地名としてそのまま残っていることを明らかにしていることも理由の一つです。
古文書は捏造されやすく、為政者の思惑が反映されやすいことは確かであり、史跡の調査も古代史の研究には欠かせないはずです。
その意味からは、佐々木勝三氏の検証は大きな意味があると考えられます。
ここで、「吾妻鏡」では、実際に義経の"最後"をどう扱っているのか、「文治五年四月卅日」の項を見てみましょう。
「吾妻鏡」は、日記風の形式で記載されていますが、四月三十日は、義経が自害したまさにその日にあたります。
「今日、陸奥国において泰衡が源予州(伊予守であった義経の呼称)を襲う。・・・予州、持仏堂に入り、まず妻と子を害し、ついでに自殺す。」
遠隔の地で起きたその日の事件が、しれっとその日の日記に記されていますが、情報伝達の発達した現代ならともかく、八百年もの昔に、そのようなことが可能であったのでしょうか。
また、義経が平泉入りしたとされる文治三年春から、"自刃"した文治五年四月までは丸二年です。
その間、朝廷や鎌倉幕府の使者が幾度となく平泉を訪れ、義経を召し参らせよと命じていました。
天才の名をほしいままにした義経が、この二年間、何の策も立てずにぼうっと過ごしていたなんてことがありうるのでしょうか。
じつは、地元の数々の伝承によれば、文治5年を待つことなく、義経は、早々に衣川の館を抜け出していた可能性があるのです。
その一方、泰衡も、義経を生きたまま差し出せとの幕府からの命には一切従わず、義経の逃亡を助けるがごとく、二年もの間、のらくらと返事を先延ばしにしていました。
そして、最終的には"自害した"義経の館に放火までして、焼け首を鎌倉に送り、敢えて身元確認を困難にしているのです。
泰衡は、首を焼いたばかりではありませんでした。
「大日本史」でも指摘されていたように、早馬で飛ばせば数日で着くはずの距離なのに、ゆっくりと四十三日もかけて鎌倉に首桶を届けています。
到着した六月十三日は、現在の太陽暦では八月の初めにあたります。つまり真夏の炎天下です。義経の首は検証に耐えうるような状態であったのでしょうか。
泰衡は、義経を誅するどころか、おそらく二人は、秀衡の遺言を守り、結託して行動していたに違いないのです。
この時、腰越において、梶原景時、和田義盛により首桶が検証されています。
反義経とされる景時が難色を示したものの、和田義盛が、義経の首であると押し切り、藤沢に送り葬られたとされています。
しかし、そんな策略で、疑り深い頼朝が納得するはずがありません。「義経は生きて逃げたに違いない」そう思ったことでしょう。
実際に、頼朝は平泉を滅ぼした後も、執念深く義経追討軍を東北に差し向けているのです。
青森県の「源道」という土地の旧家に伝わる「先祖の由書」や、当地の神社の縁起によれば、追手の大将は畠山重忠でした。
重忠は、行き止まり道に嵌り、進退極まった義経に気づいたものの、わざと兵を南に留めて北方を空け、義経を見逃したとの言い伝えが残ります。
あくまでも伝承ではありますが、重忠と義経の変わらぬ厚い友情を感じさせ、胸が熱くなる逸話です。
何はともあれ、追討軍が義経を脅かしたのもそこまで、その先は、もはや頼朝の手も届くことはなくなったのです。
しかし、極寒のなか、人跡未踏の地を乗り越え逃亡しなければならなかった一党の旅は苦難の連続だったことでしょう。
2 義経、十三港から三厩、そして蝦夷へ
本州最北の義経遺跡は、津軽半島の三厩(みんまや)に残されています。
三厩の手前に十三湖という湖があります。
その湖口にある十三湊(とさみなと)遺跡は、大陸交易の窓口となった国際貿易港、十三港が津波で滅んだ跡とされています。
実際に十三湊遺跡からは、今でも大陸の陶磁器や京都系のかわらけなどが発掘されているのです。
この地の領主は、藤原秀衡の弟、秀栄でした。
その地に福島城を築き、十三港を通じて蝦夷や外国と金や特産品の交易を盛んに行い、莫大な財産を築きあげていました。
マルコ・ポーロは、東方見聞録において、フビライ・ハンから聞いたとされる黄金の国ジパング伝説を紹介しています。
その伝説は、奥州藤原氏の莫大な財力が築きあげた平泉の華麗な黄金文化が伝えられたもの、との指摘もありますが、あながち的外れではないと思われます。
義経の大陸進出に際しては、奥州藤原氏の財力と人脈は、大きな後ろ盾となったことでしょう。
十三港で英気を養った義経は、いよいよ蝦夷を目指し、三厩に向かったのです。
三厩とは、義経の三頭の馬を納めたという三つの洞窟にちなむとされ、今もその洞窟は残っています。
津軽海峡の浪は高く、この地において義経は、所持してきた観音像を岩に安置して安穏を祈りました。
その効験により風波もおさまり、海上に乗り出すことができたのです。
そして、義経一党は、秀衡の遺言通りに、蝦夷から大陸を目指すのです。
モンゴルにおける義経の足跡の追跡は、小谷部全一郎氏(日本軍の通訳として戦前満蒙で活躍)や、横田正二氏(陸軍の特務機関員として、満蒙を工作のために動き回る)などが、詳細に行なっています。
近年では、人気推理小説家の高木彬光氏も、小谷部全一郎氏の著作を元にして「成吉思汗の秘密」を上梓し、ベストセラーとなっています。
大陸でも、義経神社や笹竜胆が彫られた墓跡などが見つかっており、機会があれば、あらためてアップしたいと思います。
最後になりますが、「成吉思汗」という名前について、興味深い考察をご紹介しましょう。
これは古書や神社の縁起に残されているとかそのような類の話でなく、あくまでも推測に過ぎません。軽く読み流していただけたらと思います。
「成吉思汗」という名前について、高木彬光氏は、
"吉"野で交わした「また必ず会おう」という約束を"成"し遂げよう、
"汗"、つまり水干(白装束の衣、白拍子である静の象徴)を今でも私は"思"い続けているぞ、
と義経の静への変わらぬ深い愛が込められているのでは、と推測します。
しかも、高木氏は、この名前を世界に広め、義経はここにいるぞと日本にいる静に知らせたかったのではないか、
だからこそ世界的な大帝国を築くべく猛進していったのではないか、とも推察しているのです。
あくまでも空想に過ぎませんが、なんという壮大なロマンなのでしょうか、もしそうなのだとしたら、義経のあまりにも激しく、そして切ない恋心が、胸にグッと迫ります。
世界にこれ以上スケールの大きな恋物語はないのではないでしょうか。
さらに続けましょう。
「成吉思汗」、これは「なすよしもがな」と読めなくもありません。
「なすよしもがな」とは、鎌倉に連れてこられた静御前が、頼朝の前で、決死の覚悟で舞い歌いながら、義経への変わらぬ愛を貫き通した時の最後の一節です。
「しづやしづ
しづのをだまき繰り返し
昔を今に
なすよしもがな」
「静よ静よと繰り返し
私の名を呼んでくださった
あの昔のように、
懐かしい判官様の時めく世に
今一度したいものよ」
この劇的な場面は、頼朝を激怒させ、鎌倉でも話題になったといいますから、遠く平泉で身をひそめつつ鎌倉の様子を窺っていた義経にも、必ずや届いたことでしょう。
「成吉思汗」と「なすよしもがな」が似ているのは単なる偶然であってほしくはない、私の切なる願いです。
義経伝説は実に奥深いです。もう少し時間をかけて追いかけてみたいと思っています。
ここまでお付き合いいただき、本当に本当にありがとうございました。
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