グミの実が色付きました。
毎年小鳥たちがグミの実をついばみにやってきます。
我が家は甲山の麓にあり 朝小鳥のさえずりで目が覚めますが 庭で聞く小鳥のさえずりはまた格別です。
神社の聖域が始まる門を鳥居といいます。
鳥居は 「あま」と「うつしよ」を結ぶ「ま」である 二本の柱に 綱が渡されたものが原型だと言われます。
その綱に鳥がとまる様を見て 古人が名付けた名が鳥居だといわれます。
鳥が夜明けを告げる生き物であるためか エジプト神話では天地創造を司るベヌー鳥の話もあります。
レイチェル・カーソン『沈黙の春』 「自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちはどこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、死にかけていた。ぶるぶる.....(青樹簗一訳)
https://stone-c.net/log/3521 【須田郡司~聖なる石への旅「五島列島のドルメン・王位石(おえいし)」(長崎県小値賀町)】より
「五島列島の小島に巨大ドルメンがあり、そのドルメンは沖ノ神島神社のご神体である」
そんな話を巨石仲間から聞いて、私は長崎へと向かった。
その島は「野崎島」と呼ばれ、五島列島の東北端にある小値賀島の東方対岸にあった。佐世保港からフェリーに乗り3時間半で小値賀島へ、そこから野崎島行きの町営の小船に乗り換えると10分ほどで目の前に野崎島が現れた。島の中腹に何やら巨石らしき物体が見える(写真1)。まるでロケットのような形をした大きな石柱である。船は、40分ほどで野崎港に到着した。
寛政の時代(1789-1801年)に大村藩領のキリシタンが五島列島へ移住していった。その中に、野崎島に移住した家族が17世帯あり、それがこの地でのカトリック信仰の始まりだ。島民は最盛期には約650人いたが、高度経済成長期になると減少し、1971年に残っていたカトリック信徒6世帯31人が島を去り、2001年以降は無人島となった。
島の中心部に残る旧野首教会は、平成元年(1989)に長崎県指定有形文化財に指定され、ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の1つでもある(写真2)。教会近くの廃校は、野崎島自然学塾村として、おぢかアイランドツーリズムが管理している。
野崎島は周囲約19キロメートルの地塁山地で、沖ノ神島神社は島の北部山地にある。上陸後、さっそく沖ノ神島神社へと向かった。山道は次第に険しくなっていく(写真3)。それを駆けるように上ってゆくと、どこからか獣の鳴き声が聞こえた。やや物悲しい声の主は、野生の鹿の群れだ。
小道をさらに進んでゆくと森の中の所々に巨石が見えてきた。石段を上ると、沖ノ神島神社が鎮座していた(写真4)。神社をお参りして、背後に回ると、巨大な石柱が天に向かって伸びていた。その巨石を見上げながら、この光景は現実なのかと一瞬疑うほどの衝撃を感じた(写真5)。まるで神話の中にいるような、そんな錯覚に陥ってしまったのだ。神社の正面から海を望むと小値賀島が見えていた(写真6)。
沖ノ神島神社は慶雲元年(704)、小値賀島の地ノ神島(ちのこうじま)神社より奇魂(くしみたま)を分祀し、その沖津宮として創建されたといわれている。神社の後ろに悠々と聳える磐座が「王位石」と呼ばれる石だ。高さ約24メートル、途中から石柱状に2組に分かれて立ち、上にテーブル状の長さ約5メートル、幅約3メートルの平石が乗っている(写真7)。
私は興奮を抑えることができず、裏山に駆け上って王位石を裏から覗いてみた。その何とも絶妙なバランスに驚嘆するばかりだ(写真8)。この石は、王位石と書いて「おえいし」と呼び、年に米一粒ずつ大きくなるため「生石(おえいし)」ともいわれている。また、伝承に寄れば、この石は竜宮から献じた鳥居であるとか、平石の上に沖ノ神島神社大明神が出現したなどと、様々な伝承がある。
王位石は、かつて「野崎参り」とか「お山参り」といわれ、小値賀島の漁師の人々の信仰を集めていたという。参拝船には笹竹に取り付けた日の丸を旗めかせ、かけ声も勇ましく、野崎島に渡り、沖ノ神島神社で盛大なお祭りをした。その時、王位石の平石の上でお神楽を舞ったともいわれる。24メートルもの高さの平石を見上げると、ここでお神楽を舞ったとしたら、まさに命がけの奉納だ。
ただ、野崎島には、今では集団移住で村はなくなり、野生の鹿が生息するばかりだ。地ノ神島神社がある対岸の小値賀島の海辺には鳥居があり、その正面が沖ノ神島神社の方向を向いている(写真9)。
この島には、「龍燈」(りゅうとう)と呼ばれる不思議な現象があるという。陰暦の大晦日の夜、沖ノ神島神社の先にある海中の竜宮の門より、月光のごとき火が燃え出て、小値賀島にある地ノ神島神社に光が走るというのだ。実際に龍燈を見た、という報告もされているという。五島列島には、神秘なる世界が今も存在している。
※『月刊石材』2014年11月号より転載
◎All photos: (c) Gunji Suda
◎ 須田 郡司プロフィール
1962年、群馬県生まれ。島根県出雲市在住。巨石ハンター・フォトグラファー。日本国内や世界50カ国以上を訪ね、聖なる石や巨石を撮影。「石の語りべ」として全国を廻り、その魅力を伝えている。写真集『日本の巨石~イワクラの世界』(星雲社)、『日本石巡礼』、『世界石巡礼』(ともに日本経済新聞出版社)、『日本の聖なる石を訪ねて』(祥伝社)など。
http://sazanami217.blog.fc2.com/blog-entry-953.html 【王位石と沖神島神社の不思議な伝説】より
野崎島の王位石。(後述の資料館より)
王位石については、人工説と天然説があり、結論は出ていません。
しかし、風化と浸食で形成された奇岩は、花崗岩の方状節理であれ玄武岩の柱状節理であれ、同じ形状パターンは各地にあります。一定の条件下、一定の風土下では同じパターンの物理的変化を生じさせるのです。
しかし、王位石に似た天然の奇岩が日本にあるとは思えません。
下の継ぎ目をご覧ください。
風化や浸食で亀裂が生じたとは、とても思えません。明らかに最初から太さの違う岩を載せています。
次にこれは、笠石の支柱石(左側)です。
メインの支柱石では高低が出てしまって笠石が不安定になるため、補助的な支柱を挟んだようにも見えます。
結論として、少なくとも王位石の最上部は、人工的なものだと思います。
☆
では、王位石をご神体とする、沖神嶋神社とはどんなお社なのでしょうか?
下は、沖神嶋神社社務所の由緒書きです。
祭神三座
右 志々伎大明神 十城別王子(トウキワケオジ)
中 神嶋大明神 一速王子(イチハヤオジ)
左 七郎大権現 氏廣公
慶雲元甲辰年建立 紀元1364年
西暦 704年
祭神について、十城別王子と一速王子は、日本武尊の御子であり、神功皇后の「三韓征伐」の時に軍功があってここに祀られたと記されています。
これらは記紀神話を取り入れた後付けの話のような気がするのですが。
さらに興味深い話が書かれていました。
一基は此の山の北の方 海底に有りて 大潮干潮海上静なる時笠石の瀬見える〈すなわち阿瀬(あぜ)という〉
常に不知(しらず)して此の上を船過る(とおる)時は、忽ち変あり
つまり、この王位石と同じものがもう一つ、山の北の海底にあるとはっきり書かれているのです。
知らずにその上を通る船には「変」が起こり、干潮時には笠石が見えると、かなり具体的な記述です。
王位石そっくりではなくとも、未知の石組みが海底に沈んでいるのかもしれません。
さらに不思議な伝説が続きます。
毎年大晦日には、未知の岩組みが沈む阿瀬の海中より、月光のごとく光る龍燈が出て分散し、海上が照り渡るというのです。
神秘的な話ですね。
「毎年衆人是を拝す」とありますから、それを見たという人が何人もいたわけです(@_@;)
単なる伝説、共同幻想にすぎないかもしれませんが、この大晦日、対岸から望遠鏡でじっと眺めたい気がしてきます。
ひょっとすると、琵琶湖の水深数十メートルという湖底に縄文遺跡があるのと、同じ祭祀思想なのでしょうか??
☆
小値賀町歴史民俗資料館は、小さいながら充実したところです。
王位石の史料も展示されており、学芸員さんのご意見もうかがうことができます。
その展示物の中に、こんな絵図がありました。
よく見ると、王位石の上の方に、何かが描かれています。
祭神の古墳だとされているようで、巨石が並んでいるように見えます。
三輪山などの原始信仰の伝統を守るお社には、しばしば頂上の奥津磐座、中腹の中津磐座、山麓の辺津磐座の三点セットが見られますが、ここは山頂、中腹、海底に三点セットがあるのでしょうか?
ただし、これらについてお話を聞こうとしても、神社のご神職はおられません。
住民が離島したあと、なおこの島に残っていた宮司さん一家も、2001年(平成13年)には離島し、野崎島は無人島となったのです。
☆
実は、誰もいないはずの野崎港の待合室で、写真を掲示しようとされている方がおられました。
住民がまだ住んでいる時代から、この島の写真を撮って記録してこられた、「自然とへヴィ&ハードロック、芋焼酎をこよなく愛す動物写真家」の津田堅之介さんです。
気さくで優しい方で、昔の野崎島の話をいろいろ聞かせていただきました。
その中で驚いたのは、住民の言葉には、朝鮮語が時々入っているという話でした。
さらに、いろいろ親切にして下さった津田堅之介さんへお礼の気持ちを込めて、最終日の小値賀港売店で
『野崎島の四季 写真家 津田堅之介』
というDVDを買ったのですが、その中に廃校となった野崎小学校の校歌が映し出されていました。
気になったのは、その三番の歌詞。
西海の波とどろけば
大陸文化もとめたる古代の人の心つぎ
はげむ力のわいてくる
野崎 野崎 野崎 われらが母校
成田や関空では、さまざまな国の言葉が飛び交います。
同じように古代の小値賀島、野崎島では、日本語だけでなく中国語や朝鮮語なども飛び交っていたのかもしれません。
また風土記には南九州の風俗と似ていると書かれたり、遺跡からタイ国産の陶磁器が出土したりと、古代からグローバルな地域であったようです。
ちなみに私が衝撃的に感じたのは、小値賀島に関わる『肥前国風土記』の内容です。
「この島の白水郎(あま)は容貌が隼人に似て、常に騎に乗って弓を射ることを好み、その言語は世人と違っている」
もし王位石と同じような巨石遺構があるとしたら、それは日本国内ではなく、韓国南岸の多島海地域から、東南アジアの沿岸部に至る、ひなびた海岸沿いにひっそりと残っているのではないか・・・・
単なる空想ですが、そんな気がしています。
https://www.japanese-wiki-corpus.org/jp/culture/%E9%BE%8D%E7%87%88.html 【龍燈 (Dragon lantern (ryuto).)】より
龍燈、龍灯、竜灯(りゅうとう)とは、日本各地に伝わる怪火。
主に海中より出現するもので、海上に浮かんでいくつもの火が連なったり、海岸の木などに留まるとされる。
概要
主に竜の住処といわれる海や河川の淵から現れる怪火。
龍神の灯す火の意味で龍燈と呼ばれ、神聖視されている。
日本各地で見られるが、特に広島県の厳島神社から見えたという龍燈がよく知られる。
旧暦の元旦から6日頃まで、静かな夜に社前の海上に現れたというもので、最初に1個現れた火が次第に数を増して50個ほどになり、それらが集まってまた1個に戻り、明け方に消え去るという。
厳島には夜に多くの人がこれを見物し、特に島の最高峰である弥山 (広島県)からよく見えたという。
龍燈の名は、厳島神社で祀られている厳島明神が海神のために龍宮にちなんで名づけられたともいう。
また磐城国(現・福島県)も出没地として知られている。
磐城国の閼伽岳山頂の寺から東を見ると、4,5里(約16-20キロメートル)の彼方に海が見え、日暮れの頃、海上の高さ約1丈(約3メートル)の空中に提灯か花火の玉のような赤い怪火の出没する様子がよく見えるという。
毎晩7,8個現れるが、必ず2個ずつ対になって現れる。
1個目の龍燈が現れて3,4町(約327-436メートル)ほど宙を漂った後、2個目の龍燈が現れ、1個目の軌跡を沿って宙を漂うという。
寛保時代の雑書『諸国里人談』では、他にも龍燈が寺に火を献じる例が紹介されている。
周防国(現・山口県)上庄熊野権現には大晦日に龍燈が現れるという。
丹後国(現・京都府北部)の天橋立には文殊堂に「龍灯の松」と呼ばれる一本松があり、毎月16日の夜中、沖から龍燈が飛来してこの松に神火を灯すという。
龍燈の灯るとされる松や杉の伝承は日本各地に存在する。
橘南谿による江戸時代の紀行文『東遊記』によれば、越中国(現・富山県)では中新川郡の眼目山立山寺という寺で毎年7月13日、立山の頂上と海中から1つずつ龍燈が飛来して梢に火を灯すといい、これを山灯竜灯と称するという。
その昔、道元の弟子の1人・大徹禅師がこの寺を開いた際、山の神と龍神が協力して神火を寺に献じることになったといわれるもので、極めて稀なものとされている。
ほかの地方の多くの松や杉についても、龍神が寺社に神火を献じているといわれる。
大阪府では沖龍灯と呼ばれ、魚たちが龍を祀るために灯す火と言われている。
新潟県佐渡島新穂村(現・佐渡市)の伝説では、根本寺の梅の木に毎晩のように龍燈が飛来しており、ある者が弓矢で射たところ、正体はサギであったという。
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