古代史の謎

https://note.com/redtiger/n/n79aed4dc4231【【古代史の謎】カタカムナ神社は兵庫県の金鳥山にある保久良神社か? 楢崎皐月博士とは? アシア族とは? 蘆屋道満とは? カタカムナ文字とは? セーマンドーマンとは? サンカ、温羅、ツチグモ、鬼の正体は?】より

🟣漢字が中国より伝わるずっと以前から日本に古代文字があった可能性がある。

一般的には、漢字が伝来する以前の日本には固有の文字がなかったとされる。

そのため人々は神話や伝承などを暗記して口頭で語り継いでいたと言われる。

日本に漢字が伝来したのは4世紀後半の古墳時代だと考えられている。(弥生時代は紀元前10世紀または紀元前5世紀、紀元前4世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる。古墳時代は古墳時代は3世紀後半〜7世紀の時代。奈良時代は710年〜794年)

日本で出土した3世紀頃のものだと考えられる土器には漢字が書かれているが、その漢字が文字として当時の人々に認識されていたかどうかは不明だ。

縄文時代の始期と終期については多くの議論があるが、まず始期に関しては一般的に1万6000±100年前と考えられている。終期は、諸説あるが、概ね約3000年前 とされる。

なんと縄文時代は、1万3000年以上続いたことになる。

歴史は、勝者が敗者の歴史を書き換え都合の悪いものは消しさられていく。

ヤマト王権以前に存在していた各地の部族が、1万3000年と言う長きに渡る縄文時代から、その後の弥生時代にかけて独自の古代文字やその土地の歴史、文化を形成していったとしても何ら不思議はない。

3世紀後半~6世紀の日本に存在したとされる「ヤマト王権」が、日本各地に存在していたヤマト王権に従わない人たちを「ツチグモ」や「鬼」など様々な蔑称で呼び、征服していったのが今の天皇家に繋がる統一の歴史だ。自分たちの戦いを正当化する為に各地の有力者たちを悪者に仕立て上げる必要があった。

日本統一を進める大和朝廷に反抗する分子の話しは各地に残る。 

奈良県御所市にある一言主神社を訪れた際、参道の途中と神社の境内に、ツチグモの墓なるものが残っていた。これらは大和朝廷に従わず戦いを挑み敗れた葛城族だろう。

国譲りで有名な出雲には、出雲族がおり、国津神から天皇家となる天津神の天孫族に国が譲られた。

大和朝廷から東北地方へ派遣された坂上田村麻呂により蝦夷の首長 大武丸 (岩手県の鬼伝説がある)や岩手県奥州市で活動した蝦夷(えみし)の族長アルテイは征服された。

今の岡山県にあたる吉備国には、温羅(ウラ)と呼ばれる百済の王子の一族(鬼)が総社市の山頂近くに住んでいた。大和朝廷から派遣された四道将軍のひとり吉備津彦命によって温羅は退治された。これは、桃太郎伝承として語り継がれている。古代山城は高松市屋島山頂にもある(屋嶋の城)、ここの石積みも百済の民によるものだという説がある。

香川県には、吉備津彦命の異母弟にあたる稚武彦命が、瀬戸内海に浮かぶ女木島を住処とする鬼と呼ばれた海賊たちを退治した伝承が残る。

ちなみに、吉備津彦命、稚武彦命の異母姉にあたるのが、箸墓古墳に眠る卑弥呼説のある倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)であり、香川県東かがわ市の水主神社、袖掛神社、艣掛(ろかけ)神社と高松市の田村神社(香川県の一宮神社)には、幼少の頃、奈良県から派遣された倭迹迹日百襲姫の伝承が多く残る。

戦後まで日本に存在していたサンカ(山窩)は太古の縄文時代から日本にいた縄文人で、渡来系弥生人である大和朝廷側に屈することを良しとせず自分たちの生き方や独特の文化を戦後まで貫いた誇り高い人たちの集団かもしれない。

古代より大陸から多くの民族が海路と陸路を使い日本に渡ってきた。日本は東の端に位置し終着地のようなところだから、多くの民族が日本に定住するようになり融合していったと考えるのが自然だ。特に中国、朝鮮などの滅ぼされた側の王族や侍従者たちが平安の土地を求め日本に来ていただろう。

滋賀県の坂本に住む城の石垣積みのプロ集団 穴太衆の先祖は渡来人であるが、更に遡ればピラミッドの石垣を築いていた技能集団が、長い時間をかけてエジプトから中国に渡り、朝鮮を経て日本に渡ってきたのかもしれない。

宮内庁に籍を置く雅楽を受け継ぐ東儀家や京都の伏見稲荷神社、松尾大社など多くの神社を創建した秦氏は、渡来系の人たちだ。

丹羽哲郎さんの先祖も大陸から来た代々、医学を研究してきた丹波氏だ。

空海は、父方が讃岐の地方豪族 佐伯氏、母方の阿刀氏は渡来系であり、空海が遣唐使の予定20年を2年に短縮し、青龍寺の恵果和尚から学び、密教の経典を持ち帰ることができたのは、財力と中国語力があったからであろう。

蝦夷征服に活躍した坂上田村麻呂の父は坂上苅田麻呂。坂上氏は、前漢の高祖皇帝、後漢の光武帝や霊帝の流れを組む渡来人である阿知使主とその子都加使主の子孫を称し、坂上志拏のとき東漢氏より氏を改めたもの。田村麻呂登場以前は地方豪族や下級官人であった。

兵庫県の金鳥山で、楢崎皐月博士が、平十字から聞いた天皇家となる天孫族に敗れたアシア族は、約2万年前から独自の文字や文化を築いてきた優秀な種族だったかもしれない。

カタカムナ文献に関するものを読んでいると色々と想像力が掻き立てられる。

●盧有三老師が言った(書いた?)噫示八人のピン音は、Yī shì bā rén イーシィーバーレンと言う発音になる。楢崎皐月が、なぜこれを 噫示八「アィシーパー」人→「アーシーヤー」=「アシヤ」と聞こえたのかは謎だ。書かれたのなら噫は、音読みで、イやアイ、訓読みで、ああ、おくび と読まれるので アイと読んだのか?

●楢崎皐月によると、1948年頃から全国の電位分布実測調査を行ううち、兵庫県六甲山山系の金鳥山(俗称:狐塚付近)での生活中に平十字と出会ったとある。

1948年当時は既に保久良神社はあっただろうから、平十字に会ったのは狐塚付近、カタカムナ神社があったのは、保久良神社と特定しなかったのはなぜか?→カタカムナ神社は、保久良神社のことではなかったのか?

1948年当時、金鳥山のどこかに、蘆屋道満の墓と言われる狐塚と言う洞穴があったのだろう (地元のお年寄りの方ならこの狐塚のことを知っているのでは?) 。 しかしながら、2022年3月現在で、この狐塚の位置は特定されていない。

●カタカムナ文字は◯印の中に十字などが描かれているが、2万年前の紙がない時代に、岩に◯印を彫るのは大変だっただろう。だからくさび形文字に◯は見られない。或いは、カタカムナ文字は口頭伝承され、紙が出来てから実際に書かれたものなのか?

●2万年前に5-7調の歌が存在したのか?

●カタカムナ文献は、楢崎皐月博士が、満州で研究した製鉄法やアヘン栽培法、原子核などで秘密裏に研究された成果を後世に残し、守るための暗号だったのではないのか?

船井幸雄さんの書籍で読んだことがあるが、確か神坂新太郎さんも満洲で研究されていた。

🟣「武内宿禰が語るカタカムナと瀬織津姫」第七十三世武内宿禰と行く秘授口伝ツアーVol.14 神戸S

https://www.youtube.com/watch?v=biA0Hu6uVQg

🟣楢崎 皐月(ならさき さつき、或いは「ならさき こうげつ」とは?

1899年5月9日 – 1974年7月31日

日本の物理学者・電気技術者。

「カタカムナ文明」と称する超古代文明の存在を主張した。

●概要

1899年5月9日、山口県あるいは北海道で生まれた後、北海道札幌市で育った。

1917年、日本電子工業・電気学校で学んだ後、満州にて日本軍に関わる技術職に従事する。

終戦後、星製薬社長の星一の援助で、星製薬内に「重畳波研究所」を設立し、様々な研究を行う。

本人の主張によれば、1948年頃から全国の電位分布実測調査を行ううち、兵庫県六甲山山系の金鳥山(俗称:狐塚付近)での生活中に平十字と名乗る宮司と出会い、カタカムナ文字とされる巻物を大学ノートに書き写したとされ、その後20年ほど経過した後、著書に記述し始める。

平十字は、自分の父親が宮司をしていた「カタカムナ神社」のご神体だと言って、謎の古代文字が書かれた巻物を楢崎に見せたと言う。

平十字は、カタカムナの神を祀ったのはアシア族であり、その頭領はトウアンであると語った。アシアトウアンは遠い昔、天皇家を中心とした「天孫族」と戦って敗北したという。

●盧有三老師と八鏡化美津文字とアシア族

楢崎皐月は、第2次世界大戦中に製鉄技術者として中国北東部の満州吉林で働いていた。

ここには娘娘廟という道教寺院があり、楢崎皐月はそこの盧有三老師から筆談で、八鏡化美津文字という古代の叡智を伝える文字の存在を聞かされていた。

老師は、アシア族と言う種族が、2万年以上前に日本列島で暮らし高度な文明を持った古代人だったと説明した。

そして、そのアシア人は「八鏡」を見てすべての理を知り、「八鏡化美津文字」ですべての理を明らかにする、と言った。

この偶然の一致から楢崎は、平十字から巻物に書かれた渦巻状の図形を見せられたとき、直感的に巻物に書かれた図形と八鏡化美津文字が結びついた。

🟣金鳥山(きんちょうざん)とは?

兵庫県神戸市東灘区本山町にある六甲山系の標高338mの山。

●概要

鳥山は、高橋川支流風呂ノ川の谷(権現谷)と天上川の谷(八幡谷)に挟まれた、風吹岩付近より続く尾根の先端付近にある山。

明確な山頂標識等は存在せず、国土地理院による標高点338m付近一帯が山頂とされる。

この尾根上には、標高の高い側より本庄山(424.5m, 三等三角点)、金鳥山(338m, 標高点)、保久良山(185m, 標柱あり)と連なっている。

金鳥山の山頂付近の登山道脇にはベンチが置かれた休憩所があり、神戸市東灘区や灘区、中央区方向の眺望が良い。

金鳥山から南へ延びる尾根上の標高200から220m付近では、弥生時代中期から後期の高地性集落跡が見つかっており、金鳥山遺跡と呼ばれている。

山頂付近の植生は、アベマキ ー コナラ群集と外国産樹種植林(ニセアカシア群落)の境界付近となっている。

地質は丹波層群(砂岩・頁岩・ホルンフェルス)である。

●登山道

主な登山道は、保久良神社から風吹岩・六甲山最高峰方向に向かう道で、保久良神社の鳥居横の登山口からの所要時間は25分から30分、距離は1.0km(公衆トイレ脇の標識柱による)である。

金鳥山で、風吹岩方向への登り道と、八幡谷方向への下り道が分岐している。

🟣Googleアースで見る金鳥山、保久良神社。最寄駅は、阪急電車の岡本駅。近郊に甲南大学がある。

🟣保久良神社(ほくらじんじゃ)とは?

保久良神社(ほくらじんじゃ)は、兵庫県神戸市東灘区本山町の保久良山(金鳥山中腹)に鎮座する神社である。

式内社で、旧社格は村社。

須佐之男命、大国主命、大歳御祖命、椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を配祀する。

●歴史

創立に関する詳細は不明であるが、境内外に多数の磐座群が見られ古代祭祀の場であったと考えられる。

天照大神などの天孫族系の神でなく大国主命や椎根津彦命を祀っている。奈良県桜井市にある三輪神社の背後にある三輪山のように、国津神から天津神への国譲り以前からここでは古代祭祀が行われていたのだろう。その古代祭祀を執り行なっていたのがアシア族と呼ばれる人たちだったのだろうか?

境内外地より石器時代、青銅器時代、弥生時代後期の弥生式土器や石斧、石剣など種々の遺物、特に有名な物として約20cmの銅戈(重要文化財)が出土している。

その何れもが儀礼的用途をもつものと考証され、祝部土器、玻璃性勾玉も発見され祭祀は非常に古い時代から行われていたと考えられる。

保久良神社由緒書によると「社名の起因も、椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る、三韓役の戦利武器を収蔵するより」とあり、元来の主祭神は神武東征時速吸門(明石海峡)に現れて軍勢を先導した椎根津彦命である。

椎根津彦命は保久良神社の南に位置する神戸市東灘区の青木(おおぎ)の浜に青亀(おうぎ)の背に乗ってこの浜に漂着したという伝承があり、それが青木の地名の由来となった。

吉井良隆は当社を「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長であったとされ、西宮夷の奥夷社の元宮」と推測している。

また、「住吉大社神社記」には布久呂布山の名が見え、「攝津志」には建長二年重修の棟札を所持せる事が記載されている。

社頭の灯明台の神火は「灘の一つ火」と呼ばれる常夜灯である。

その言われは、日本武命が熊襲遠征の帰途、夜に航路がわからなくなった時、保久良神社の灯火が見え無事に難波へ帰りつけた事にあり、以来「沖の舟人 たよりに思う 灘の一つ火 ありがたや」の古謡通り、広く崇敬され、航海者の一針路となっていた。

🟣保久良神社の祭神 椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津日子(さおねつひこ、『古事記』)とは?

日本神話に登場する神。神武東征において登場する倭国造(倭直部)の祖。

●概要

天孫族系の神武天皇が東征において速吸門で出会った国津神で、船路の先導者となる。

このとき、『日本書紀』では曲浦(わだのうら)で魚釣するところを椎の棹を授けて御船に引き入れて名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津日子の名を賜ったという。

『日本書紀』ではその後、神武天皇に献策して兄磯城を挟み撃ちにより破る。

また神武天皇の即位後に褒賞として倭国造に任命された。

速吸門については諸説ある。『日本書紀』では豊予海峡を指すと考えられており、大分県大分市佐賀関には、椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある。

『古事記』では吉備国の児島湾口を指すと考えられる。

岡山県岡山市東区水門町には、珍彦(宇豆毘古命、うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩を祀る亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。

あるいは『古事記』が吉備の高島宮から浪速に行く間に速吸門を通ったとある点から、これを明石海峡とする考え方もある。

また、椎根津彦命を祭神とする神社には、兵庫県神戸市東灘区本山町の保久良神社がある。

保久良神社由緒書によると「社名の起因も 1、椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る 2、三韓役の戦利武器を収蔵するより」とあり、神武東征時速吸之門(明石海峡)に現れて軍勢を先導したとある。

椎根津彦命は保久良神社の南に位置する神戸市東灘区の青木(おうぎ)の浜に青亀(おうぎ)の背にのってこの浜に漂着したという伝承があり、それが青木(おうぎ)の地名の由来となった。

吉井良隆は保久良神社について「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長であったとされ、西宮夷(兵庫県西宮市西宮神社)の奥夷社の元宮」と推測している。

🟣カタカムナ文献とは?

カタカムナ文献(カタカムナぶんけん)とは、実在不明の神社「カタカムナ神社」のご神体とされた書物。

独自の文字で綴られた古史古伝の一つで、古代日本の科学技術や哲学を記した文書である。

他の古史古伝と異なる点は「公的な学会に認められた写本」が一切無い点。

発見時期が1949年と極めて新しい点である。

こういった点からカタカムナというもの自体が楢崎皐月(ならさきこうげつ)によって「自らの手によって」「突然」創作されたものに過ぎないと主張する者もいる。

公的な学術学会からは現段階においては認められていない。

別名『カタカムナノウタヒ』、『カタカムナのウタヒ』。

●カタカムナ文字

●成立

成立年代不明。

原本の所在も不明。

戦後、各地の電位測定調査をしていた楢崎皐月(ならさきこうげつ)が自らの手による写本を突然発表したことで、存在が世に知られるようになった。

この文書が世に出た経緯は『楢崎皐月のカタカムナ研究に見る原日本人像』によれば次の通り。

1949年に楢崎が六甲山系の金鳥山付近で64日間にわたる大地電気測定の研究を行っていた折、猟師の姿をした平十字(ひらとうじ)という人物から調査用に設置した機材について苦情を受けた。

楢崎が苦情に応じて直ちに機器を取りはずすと平十字から感謝され、お礼代わりに、平十字の父親が宮司をしていたカタカムナという神社のご神体であった巻物の書写を許されたという。

これが今に伝わるカタカムナ文献であるという。

平十字は、カタカムナの神を祀ったのはアシア族であり、その頭領はトウアンであると語った。アシアトウアンは遠い昔、天皇家を中心とした「天孫族」と戦って敗北したという。

原本成立の経緯が、楢崎が解読できたと主張する冒頭箇所に書かれているという説がある。

森克明の著書によると、楢崎が解読した冒頭には「アシアトウアン ヒビキマノスベシウツシフミ」と記載されており、アシアトウアンなる人物が元となる文書を写したように読めると主張する。

とはいえ、文献をご神体として祀る「カタカムナ神社」は現在の「保久良(ほくら)神社」であるとする説が有力であるが現在のところ不明であり、ご神体の巻物も同じく所在不明ではある。

●内容

カタカムナ文献の本文は、独自の図形文字が渦巻き状に並んだ、80首のウタヒ(歌)である。

楢崎が解読できた(もしくは解釈した)と主張するウタヒの内容は、歴史よりも科学面の叙述が多いことが特徴で、歌の中に「日本神話に登場する神々の名を、歌詞にして、”自然摂理”の意味を、歌意に織り込ん」でいるという。

楢崎の解釈によると、具体的には製鉄法、稲作農業、石器・木器製作、服織、医学、経済活動、哲学などについて記載されているという。

人や動植物を繁栄させるのに最適な土地「イヤシロチ」の見分け方や、土地の改良方法も記されていたという。

楢崎はカタカムナ文献の内容に基づく「直感物理学」を展開し、カタカムナ関連の著作として『「直感」一号』(著作時期不明)、『古事記の解読法』(1968年)を記している。

しかしながら、このような文化の存在を示す遺跡・遺構・文書などは、楢崎が書写したカタカムナ文献以外には存在していない。

また、森克明はカタカムナ文献が出現した経緯が不可解な上に、楢崎による解読が正しいかどうかの公的な検証もされていないと主張している。

🟣蘆屋道満(あしや どうまん)とは?

道摩法師(どうまほうし)は、平安時代の呪術師、非官人の陰陽師。生没年不詳。

(もしかすると、この道摩法師、蘆屋道満は竹内宿禰や大国主命のように太古の昔から存在した世襲制の名だったかもしれない)

一般的には、蘆屋道満(あしや どうまん)あるいは芦屋道満として知られるが、活躍したとされる時代の文献ではその名が不詳である。

また、道摩法師と道満は別人であるという説も存在するなど実像については不明な点が多い。

江戸時代の地誌『播磨鑑』によると播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とある。

また播磨国の民間陰陽師集団出身とも伝えられている。

江戸時代までの文献では、ほとんどにおいて安倍晴明のライバルとして登場し、「正義の晴明」に対して「悪の道満」という扱いをされる。

安倍晴明が伝説化されるのと軌を一にして、道満の伝説も拡散し、日本各地に「蘆屋塚」「道満塚」「道満井」の類が数多く残っている。

●道満伝説

『金烏玉兎集』 成立年代不明

●セーマンドーマン

🟣セーマンドーマンまたはドーマンセーマンとは、三重県志摩地方(現・鳥羽市と志摩市)の海女が身につける魔除けである。

●起源

陰陽道と関係するのではないか、ともいわれ、星形の印は安倍晴明判紋、格子状の印は九字紋と同じ形状である。

このセーマンは安倍晴明、ドーマンは蘆屋道満の名に由来するともいわれる。

伊勢志摩の神島地方の海女は、この両方をあわせて「セーメー」と呼称している。

安倍晴明判紋は晴明桔梗とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。

九字紋は横5本縦4本の線からなる格子形(九字護身法によってできる図形)をしている。

ただしドーマンの線数は必ずしも9本とは限らない。

🟣課題

●盧有三老師が言った(書いた?)噫示八人のピン音は、Yī shì bā rén イーシィーバーレンと言う発音になる。楢崎皐月が、なぜこれを 噫示八「アィシーパー」人→「アーシーヤー」=「アシヤ」と聞こえたのかは謎だ。書かれたのなら噫は、音読みで、イやアイ、訓読みで、ああ、おくび と読まれるので アイと読んだのか?

●楢崎皐月によると、1948年頃から全国の電位分布実測調査を行ううち、兵庫県六甲山山系の金鳥山(俗称:狐塚付近)での生活中に平十字と出会ったとある。

1948年当時は既に保久良神社はあっただろうから、平十字に会ったのは狐塚付近、カタカムナ神社があったのは、保久良神社と特定しなかったのはなぜか?→カタカムナ神社は、保久良神社のことではなかったのか?

当時、金鳥山のどこかに、蘆屋道満の墓と言われる狐塚と言う洞穴があったのだろう。しかしながら、2022年3月現在で、この狐塚の位置は特定されていない。この狐塚の穴は埋められたのか?

●カタカムナ文字は◯印の中に十字などが描かれているが、2万年前に岩に◯印を彫るのは大変だっただろう。だからくさび形文字に◯は見られない。カタカムナ文字は口頭伝承され、紙が出来てから実際に書かれたものなのか?

●2万年前に5-7調の歌が存在したのか?

●カタカムナ文献は、楢崎皐月博士が、満州で研究した製鉄法やアヘン栽培法、原子核など秘密裏に研究されたものを後世に残す暗号だったのではないのか?

https://xn--mnqu5jib741oy19b.xyz/category1/category7/entry10.html【太龍寺縁起】より

天長二年(825年)、教王護国寺の管長になっていた空海が、阿波国太龍寺の縁起を書いています。画像はその表紙と一文の抜粋。

そこには金剛遍照撰を修め、「阿波國那賀郡舎心山太龍寺天神七代之内六世面足尊煌根尊降居坐磯輪上秀真国是也」と書いてあります。

つまり、「磯輪上の秀真の国は阿波国なり」と書いているのです。

磯輪とは「磯の輪」、つまり海の中にある輪で「鳴門の渦潮」と解ければ、その上にある国は「阿波国」といえます。

また、秀真の国が阿波国ならば、「秀真伝(ほつまつたえ)」=「阿波伝」となり、これで秀真伝の研究家が秀真の国がどこであったかいろいろ説を出していますがこれで答えが簡単に解けるようになりますね。(^_?)?☆

太龍寺は、徳島県阿南市加茂町にある高野山真言宗の寺院。舎心山、常住院と号する。四国八十八箇所霊場の第二十一番札所。阿波秩父観音霊場の第十番札所。本尊は虚空蔵菩薩。

太龍寺についてはホームページの紹介文を引用しておきます。

太龍寺は徳島県鷲敷町の東北にそびえる海抜600mの太龍寺山の山頂近くにあり、古来より「西の高野」と呼ばれています。 延暦12年(793)19歳の弘法大師空海が、太龍嶽(舎心嶽)の上で百日間にわたり「虚空蔵求聞持法」を修法なされたことは、大師24歳の時に著された「三教指帰」の中に「阿国太龍嶽にのぼりよじ土州室戸崎に勤念す 谷響を惜しまず明星来影す」と記されています。

つまり、太龍寺と室戸岬は青年期の大師の思想形成に重要な役割を果した修行地であることがうかがわれます。

https://note.com/seigu2021/n/n8fc35dfedc6a 【「道は阿波より始まる」とは】より

 新しい年明け早々、海外在住の方から活動拠点の移転に関する相談を頂きました。以前から在留邦人のみならず、意外な方から口コミでしょうか相談が舞い込みます。

 その都度、翻訳をお願いしてるのですが、その文脈から、海外の方々は精神的なよりどころを求める事に強い関心をお持ちの方が多いようです。単に東洋的なものを求めているのではなく、精神性を追求するご様子が良く伝わってまいります。

 ようやく小正月も済み、節分を迎えて立春となりました。

 いわゆる今年の始まりです。明け方、東の空が白む時間が早くなってまいりました。冬至までに、来る年の運気に沿ったイメージを作ることをお勧めしましたが、その実現に踏み出すときです。

 世の中、多少の障害はつきものです。折れずに頑張っていただきたいと思います。

 さて、「道は阿波より始まる」阿波風土記伝承と磯上乃古事記、郷土史の研究を上梓された書籍に目を通し始めました。

 十数年前に、知人である徳島の神社の宮司さんから頂いて拝見した時よりだいぶ印象、受け取り方が違いました。もとより史学は素人です。それを良い事に、勝手な解釈を、他の郷土史を研究されてる方々の知識にお助けいただいて、楽しんでみようと思っております。知識をお借りした方々にはご容赦をお願いします。

 「道は阿波より始まる」については、ネット上で検索できます。あらすじはもとより、地元徳島の研究者の考え、古代史研究の方々の意見を知ることが出来ますのでぜひご覧ください。

 「道は阿波より始まる」は、古事記について書かれています。

 しかも、古事記と言わずに磯上乃古事記(いそがみのふることふみ)といっています。「磯上」とは古事記の「古」にかかる枕詞だそうです。

 天長2年(825年)に空海が「磯輪上乃秀真国之阿波国也」(しわがみのほつまのくにこれあわくになり)と断定したとあります。これはそのようです。

 ちなみに、「磯上」は石上とも書きます。また、秀真国とは立派な国というような意味です。

 この書の内容は、NPO阿波国古代研究所理事長の笹田さんの説をお借りすると、日本書紀や古事記の神話に登場する主な神々は徳島県内の神社に祭祀されている。さらに、魏志倭人伝の邪馬台国も阿波にあったと仰っている事です。

 ただし、お読みになるときは、著者が徳島県民、郷土の人々に語りかけて書かれているので、その点を理解されて読まなければなりません。

 我々は、徳島の方から郷土史をお借りしている精神が必要です。

 また、地理が分からないと把握が難しいところがあります。しかし、神々がいろいろな神社名で登場しますので、神社神明にご興味のある方には興味深いものとなりましょう。

 ただ、現在の観光地の壮麗な神社しかご存じない方には、物足りなさや興味をそそるものではないかもしれません。でも、阿波神代文字が付記されています。祝詞の分かる方は必見です。

 さらに、この著書を通して各地の郷土史に思いを馳せると、それぞれの熱き思いを思い起こさせてくれます。皆さんが個々に郷土史のパズルを組み合わせると歴史のロマンの独自の絵が描けるかもしれません。

 私は、美乃下鴨社の旧記録を改め、祭式を京都下鴨社式に改めさせられたと三野町史に記されているというくだりと、あとがきの「阿波で千年、京で千年」に惹かれました。何かに繋がるかも知れたいと思ったからです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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