https://kakuyomu.jp/works/16816927862765095024/episodes/16817139558559491992 【第41話 インダス文明の崩壊】より
BC3000年からBC2000年にかけて、インダス文明には組織化された都市から成る広大なネットワークが存在し、メソポタミアや中央アジア地域と活発に交易しており、どの都市も繁栄していたようだ。やがて、BC1900年~BC1800年ごろにインダス文明は崩壊してしまい、その記憶すら失われた。崩壊の原因はよくわかっていない。
インダス文明の衰退原因については、これまでさまざまな研究者たちによる仮説が提唱されてきた。長田俊樹はそれらのうち代表的なものを8つ挙げ、その内容を検討した結果を以下のように示している。
1.アーリア人侵入破壊説
インダス文明衰退の年代はBC1900年ごろであり、アーリア人の侵入はBC1500年ごろからで、大きな年代の相違がある。モヘンジョ・ダロで発見された人骨に虐殺による外傷が見られない。また人骨は単一人種ではなく、多人種であり、人種的にアーリア人を特定することは困難である。さらに、根拠となっている「リグ・ヴェーダ」のBC1200年ごろという成立年代と、その内容がどこまで史実を反映しているのかについてコンセンサスは未だない。したがって、今日ではこの説は完全に否定されている。
2.メソポタミアの貿易停止説
BC2000年ごろにメソポタミアとの交易が途絶え、それによって経済的な打撃を受ける。それに加えて、地殻変動による河水の変化によって、ついには文明の衰退をもたらすというものである。メソポタミアでは、インダス文明地域は楔形文字文献において「メルッハ」と呼ばれている。メルッハが初めて登場するのはBC24世紀であリ、ほぼ完全に途絶えるのはBC1800年ごろとなる。その楔形文字文献の言語はシュメール語とアッカド語である。
3.社会的文化的変容説
災害など自然環境に起因する衰退説を一切否定し、社会的文化的変容がインダス文明の衰退原因だとするものである。但し、具体的な原因やプロセスについて明確に述べられていない。したがって、この説は説得力がない。
4.森林破壊大洪水説
レンガを焼くために大量の木が使用されたため森が失われ、大洪水が生じたというものだ。アーリア人侵入破壊説だけでは弱いため、複合的理由としてこの説を挙げているにすぎないことから、根拠がないといえる。
5.インダス川の河流変化説
インダス川の河流が変化することによって、モヘンジョ・ダロが放棄されたとする説は、初期の研究者が提唱している。モヘンジョ・ダロを放棄したので、ドミノ効果が起こり次々と都市を放棄して衰退していったというものである。しかし、なぜドミノ効果が起こったのか、その理由が示されていない。したがって、この説は説得力がない。
6.インダス川自然ダム水没説
この説は、モヘンジョ・ダロから下流で沖積物による自然発生したダムによって、広大な地域が水没したために、都市を放棄するに到ったというものである。しかし、水没地域がインダス文明全域に及ぶわけではないので、その点では説得力に欠ける。また、こうしたダムがはたしてできるかどうかについても反論がある。いずれにせよ、仮説としては弱い。
7.サラスヴァティー川消滅原因説
「リグ・ヴェーダ」に登場する神話伝説上の川である大河サラスヴァティー川がどこにあるのかという論議は古くからあった。サラスヴァティー川は現在のガッガル・ハークラー涸河床こかしょうにあたるとする説が今日では最も有力である。どちらの川もインド・パキスタンの国境付近の砂漠で水が涸れた涸床となっている。このガッガル・ハークラー川沿いにインダス文明の遺跡が分布している。そこで、このガッガル・ハークラー川が涸れたことと、この地域でのインダス文明の都市が放棄されたことが、何らかの関係があるのではないかという考えがこの仮説の基本を成す。この説には2つの問題がある。まず、はたしてガッガル・ハークラー川がインダス文明期に大河だったのかどうかという問題である。もう一つは、もし大河だったとして、その水が涸れて、この川沿いに広がるインダス文明が衰退したと仮定できたとしても、それがすべてのインダス文明の都市放棄とどうつながるかという問題である。
8.気候変動説
現在、最も議論が活発なトピックである。とりわけ、4200年前の気候イベント(4.2ka)による干ばつの影響でインダス文明の衰退を招いたというものである。
以上のうち、2.7.8.には可能性がある。しかし、こうした原因のどれか一つの原因だけでインダス文明全体が衰退したとみなすのには無理がある。インダス文明は中央集権的な古代王朝ではない。モヘンジョ・ダロのような大きな都市、すなわち首都が陥落したら雪崩現象のごとく王制が崩壊するといったシナリオは想定できない。
***
現在、インダス文明について次のようなことが判明している。
・インダス文明期には海面が現在より2メートル高かった。南部にある遺跡に住んでいた人びとは海上交易を行っていた海洋民だった。インダス印章がメソポタミア地域やペルシャ湾岸地域でも発見されている。一方、インドのグジャラート州のロータル遺跡やドーラヴィーラー遺跡からは、四角い形のインダス印章ではなく、丸型をしたペルシャ湾岸型の印章が発見されている。
・遺跡から出土した貴石類5万6350個を対象に、その原料となる石や鉱物を40種類に分け、それらがどこから運ばれてきたのかを追いかけた結果、インダス文明はネットワーク共同体として機能していたことが証明された。
・驚くべきことに、船はインダス印章に刻まれた姿で、また牛車は遺跡から出土したミニチュアさながらに今でも使用されている。つまり、インダス文明時代から脈々と続く文化伝統が南アジアに今も残っていることを示している。
・インダス文明とは、インダス川流域地域やインドのグジャラート州カッチ県周辺地域などの地域共同体が交易などを通じて作り上げた緩やかなネットワーク共同体なのである。
・インダス文明が衰退した後、その東部のガンジス川流域にも遺跡が拡がっている。インダス文明の農業は3つの地域、冬作地域、夏作地域、混合地域に分類される。インダス川流域はインダス川に依存する冬作地帯である。インダス文明後には、その冬作地帯での遺跡が激減し、モンスーンに依存する夏作地帯に遺跡が増えている。
・インダス文明期である盛期ハラッパー文化期(BC2600年~BC1900年)よりも、その後の後期ハラッパー文化期(BC1900年~BC1800年)の方が遺跡の数は増えている。但し、遺跡の平均的広さは約半分になっている。このことから、インダス文明の衰退といわれながらも人びとの活動が落ちたことを意味しないこと、そしてインダス文明衰退という現象はインダス都市の衰退やインダス印章の消滅を意味し、天災や人為的な戦争といった急激な転換が起きたのではないことをうかがわせる。
・西アジアではBC2200年ごろに突然干ばつが訪れ、それが300年間続いた。南アジアでもBC2200年ごろにインダス川からの流出量が急激に減っていることがわかっている。
以上のことからBC1900年~BC1800年ごろのインダス文明の崩壊とは、モヘンジョ・ダロやハラッパーのような高度に都市化した文化の中心地は放棄され、地方分散化へと変貌したことにあったと推測できる。その原因は気候変動であったようだ。そこでインダス地域の気候と農業についてより詳細に見てみる。
(気候とインダス文明)
インダス文明はちょうど夏モンスーンの影響を受ける地域と冬モンスーンの影響を受ける地域の両方に拡がっている。 したがって、冬モンスーンに焦点をあてたBC2200年(4200年前)の「4.2kaイベント」だけではうまく説明がつかない。
[4.2kaイベント]
BC2200年(4200年前)ごろ、地中海から西アジアにかけて冬モンスーンが弱かったため乾燥化を招き、冬作物であるコムギ、オオムギが大打撃を受けたといわれるが、それは事実である。それを気候学者は、4200年前(4.2kyears ago
)ということから「4.2kaイベント」と呼んでいる。
BC2300年(4300年前)ごろ、インダス地域ではモンスーンが弱かった。このデータの年代制度を考えると、これが「4.2kaイベント」に対応している可能性がある。但し、この時期にはインダス文明は衰退していない。しかし、BC1900年(3900年前)からBC1700年(3700年前)にかけては夏モンスーンの活動が激しかったことをデータは物語っている。一般に文明の衰退は湿潤化よりも乾燥化と結びつけられることが多い。しかし、インダス文明衰退時期が夏モンスーンの強度が強化されていく時期と対比できるとすると、乾燥化よりも洪水が起こった可能性の方がずっと高い。インダス文明の衰退といっても、その実態はインダス川流域の遺跡が激減し、遺跡の規模が縮小しただけで、全体の遺跡の数は逆に増えている。そのことを考えると、夏モンスーンの洪水によって、インダス川流域のインダス都市から人びとが他の地域へ移住していったことになる。
インダス川はチベット高原の氷河を源流とする大河である。その水は涸れることはないが、上流の雨によって洪水が起こる。モヘンジョ・ダロ周辺は年間雨量100ミリ以下の地域で、インダス川の水だけが頼りである。インダス川流域の大都市モヘンジョ・ダロにはさまざまな地域から人が出入りし、自分たちの土地で採れる冬作物だけでなく、他の地域から夏作物も運ばれていた。インダス川の洪水などに悩まされていた彼らは、モンスーンによる降雨で比較的安定した作物が得られる土地に移住していった結果、インダス文明ネットワークの均衡は保たれなくなり、市場としての機能を持った大都市は衰退し、交易のために必要だったインダス印章も使われなくなった。流動性が高く、国家や権力に固執するのではなく、多民族共生社会だったからこそ想定し得るインダス文明衰退のシナリオである。
[熱帯収束帯の気候変動]
モンスーンは気候学的には、明らかな季節的転換を伴う優勢な気流と定義される。南アジアにおける季節風とは、夏季の南西モンスーンと冬季の北東モンスーンの交替であり、大気大循環により地表面近くで南北から熱赤道付近に気流が集まってくるため熱帯収束帯が形成され、それが地軸の傾きに由来する季節変動により、南北に振動することに起因している。6月下旬に北回帰線付近で太陽が真上に来る北半球では、熱帯収束帯も北上し、南半球から吹き込む気流が東向きに転向するため、海水温が高いインド洋西部を通過して南アジアに湿った南西風をもたらす。これが夏季の南西モンスーンであり、南アジアを中心にインド洋から供給される水分と地形的効果によって、多量の降水がもたらされる。逆に12月下旬に南回帰線付近で太陽が真上に来る北半球の冬には、南下した熱帯収束帯に向かって高気圧が張り出したユーラシア大陸から冷たく乾いた北東風が吹き出す。これが冬季の北東モンスーンであり、冬季の冷涼化とベンガル湾を通過する気流は、インド南東部へ降水をもたらす。
熱帯収束帯が北方に移動すれば、インド洋のモンスーン循環はアラビア砂漠とサハラ砂漠に近づく、熱帯収束帯とモンスーンの雨季が南へ移動すれば、サハラは乾燥する。こうした変化は過去にはより劇的に起こった。2万年前~1万5000年前の氷河時代末期にはサハラは極めて乾燥しており、その末端は現代よりはるかに南まで延びていた。間氷期となった1万1000年前になってもまだ熱帯の高気圧地帯は北からの寒気に押されて熱帯収束帯の乾燥化の影響を及ぼし、モンスーンの雨季を弱めていた。赤道と北極の間の熱交換は急速に緩慢になり、高緯度のジェット気流を加速させ、熱帯地方の高気圧を強めた。その結果、大温暖化時代はサハラ砂漠では極端に乾燥した時代になった。3000年の間、砂漠に人類はほとんど誰も住んでいなかった。
インダス川はチベット高原西部に水源があり、西方からやってくる冬季の温帯低気圧による降水、インド洋からの夏季南西モンスーンによる降水、およびそれらの結果として形成されたヒマラヤやカラコルムの山岳氷河融氷水などを集めてアラビア海に注ぐ南アジア最大級の河川である。インダス文明はインダス川およびその周辺の諸河川から定期的にもたらされる水資源に強く依存しながら中緯度高圧帯の乾燥地域、いわゆるイエローベルトに展開した古代文明であり、環境変化が引き金となって衰退したと考える学者も多い。
インド亜大陸を乗せるインド・オーストラリアプレートは、ユーラシアプレートに対して年間5センチの速度で北進している。そのためプレート境界にあたるインド亜大陸の周縁は世界でも有数の地殻変動の激しい地域である。インダス文明が栄えたインダス・ガンジス平原北部、インダス川流域、グジャラート地方には、活断層が分布し、歴史時代にも内陸直下型大地震が発生している。残念ながら、インダス文明期にあたるBC2600年~BC1900年ごろの断層変位の有無に関するデータは得られておらず、インダス文明の盛衰とヒマラヤ前縁で発生する巨大地震との関係については不明である。但し、インダス文明の衰退の一つとして挙げられるインダス川の流路変更には活断層の活動が影響している可能性がある。この地域の活断層の多くが山麓沿いに発達する扇状地の頂部を変位させており、活断層が活動した場合、扇頂付近に連続的な断層崖や、強い震動による地滑りなどが発生することが予想され、それにより河川のせき止めが生じる可能性がある。扇状地は円弧状に拡がっているため、せき止めによって扇頂付近で流路が少し変わるだけでも、下流では流路が大きく変わる可能性があると考えられる。
(農耕とインダス文明)
盛期ハラッパー文化(BC2600年~BC1900年)のインダス文明は北西インドからパキスタンにわたって散在する1000近くの遺跡を含んでおり、その中には農村共同体や小さな町から、大人口を擁するよく発達した都市複合体までがあった。都市にはたいてい周壁があり、炉床や調理用具を持った家が建ち並ぶ、はっきりとわかる広い居住区が存在した。工芸品の生産と流通のシステムは高度に組織化されており、それは共同体間の結びつきを調べる手掛かりにもなる。物質文化に見られる共通要素から、統合と集中化のレベルは相当高かったことがわかるが、それでもなお、地域ごとに異なる様式の中に文化的多様性を見て取ることができる。一説によれば、インダス文明には6つの異なる文化圏が認められるという。
農業はインダス文明期の人びとの生存基盤として不可欠な要素だった。これまでに遺跡から40種近くの栽培作物が同定されているが、その大部分は穀類であり、続いてマメ類、野菜類、果実、ナッツ類、油糧種子、繊維作物、そしてスパイス類も含まれている。農耕は2つの主要な昨期に基づいていた。まず冬作は、秋に種が蒔かれ、冬の雨で育ち、春に収穫される作物を作っていた。ここにはオオムギ、コムギ、エンドウマメ、レンズマメ、ヒヨコマメ、ガラスマメ、亜麻および辛子などが含まれる。夏作は、夏に種が蒔かれ、夏の雨を利用し、秋に収穫される作物を作っていた。夏作物には、さまざまな雑穀、マングビーンやホースグラムなどの熱帯性マメ類、ゴマ、綿、ブドウがあり、イネもあったかもしれない。インダス文明の各地域は、この2つの昨期のどちらかに重点を置いており、これが互いに区別できる独自の農耕方式を生み出した。地域ごとの作物の選択は、利用可能な水の有無と量、温度、土壌、地形など多くの要因に基づいていた。各地域は異なる生態的条件に基づいてそれぞれ独自の農耕戦略を発達させていた。次に代表的な3つの地域を取り上げる。
1)インダス川南部シンド地域
歴史時代において、この地域の年間降水量は80㎜を超えなかった。インダス文明期においてもそこはやはり乾燥地であったことをあらゆる証拠が示している。この地域は曲がりくねったインダス川に中心を置いており、川の両側には広大な沖積平野があり、そのさらに外側には砂漠的な環境があった。モヘンジョ・ダロのような遺跡は川の低い堤防沿いに位置していた。この地域ではモンスーンによる雨はほとんど降らなかったが、大規模な洪水が起こることがあった。この地域の農耕は河川に依存していた可能性が高く、年1回の短い作期に基づいていた。冬作物に重点が置かれ、作物の多様性は小さかった。この地域の潜在的生産力が限定されたものであったことと、人口の多い都市が多くあったことを考え合わせると、この地域は食糧需要を満たすために他の地域に依存していただろうと考えられる。
2)インダス川北部パンジャブ地域
北部パンジャブ地域は南部シンド地域と好対照をなしている。気温はわずかに低い程度であるが、雨量はかなり多く、年間降水量は250㎜になる。降水量の75%近くは夏季に降る。この地域は丘陵地、台地、沖積平野に隔てられた多数の水系を持つ。インダス川支流のラーヴィー川を見下ろす高台にあるハラッパーはそのような場所にある遺跡である。高い土手、速い流れ、狭い河床はインダス川と著しい対照をなしている。夏季の洪水と河跡湖があるので、高い農業生産をあげるために灌漑はほとんど必要とされない。この地域では冬作物と夏作物の両方が栽培されていたことが、膨大な植物遺物からわかっている。多様な作物が栽培されていたが、冬作物と穀粒の大きいムギ類に重点が置かれていた。この地域は高い潜在生産能力があり、外部からの支援はほとんど必要としなかっただろう。
3)インダス川南東部グジャラート地域(カッチ湿原とサウラーシュトラ半島)
グジャラート地域の中央部に位置するサウラーシュトラ半島の環境は、上記2つとは全く異なるタイプに属する。この地域はアラビア海に面し、海洋性気候の下にある。湿原、湖、沖積平野が、多数の小河川とともにあった。年間降水量は700㎜を超え、雨量の95%以上は夏季に降る。結果として、夏のモンスーンのころには洪水の危険性が高まる。ドーラヴィーラー遺跡はカッチ湿原、ロータル遺跡はサウラーシュトラ半島の付け根部分に立地していた。この地域の植物遺物は多種多様な植物を含んでいるが、天水で栽培される夏作物に重点が置かれていたことは明らかである。この地域は高い生産性を持ち、他の地域から独立して存続する能力を持っていた。
これら3つの地域の例からもわかるように、インダス文明の時代を通して農耕は広範かつ集約的に行われていた。オオムギは出土する遺跡の数と出土数から見て最も重要な作物であり、コムギがこれに次ぎ、その次が雑穀類であった。さまざまな作物が栽培されたが、ほとんどの居住地域では穀類が主要な作物であったようだ。穀類は粒の大きさと重さによって大粒性と小粒性とに分けることができる。オオムギとコムギは大粒性、雑穀の多くは小粒性である。ある環境の下でどのような作物が栽培できるかには生態学的要因の影響がある一方、作物自体の特性は文化に影響を与える。インダス文明期において、穀粒の大きさは人口増加と都市化に影響を及ぼした。地下水があるところで耕作された土に種をまくと、より深い土層から発芽し、生存することができる大粒性作物が有利になる。大粒性穀類は大規模な集落が成立するための必要条件であった。大規模な遺跡は大粒性穀類が主体だったシンド地域とパンジャブ地域に見られ、小粒性の雑穀が主体だったサウラーシュトラ半島では大きな集落は見つかっていない。穀粒サイズは集落が大きくなって生産性を高める必要が生じたときに重要な問題となった。
次の地域は、インダス平原の縁辺部に位置し、そこは沖積平野部よりも乾燥した地域である。
4)西部バルチスタン
バルチスタン丘陵裾部はモンスーンの影響がほとんど及ばない地域で、バルチスタン中央部、現在のクエッタ市の年間降雨量は300㎜で、夏季の平均気温は35℃と高く、冬季は0℃にまで下がる。降雨量の少ないバルチスタン地方では、ガバルバンドと呼ばれる小規模な石造りのダム的施設を設けて、季節的に流れる小河川の水を溜めて利用したと考えられている。
5)西南部マクラーン海岸
この地域は年間降雨量200㎜以下の乾燥地帯で、農耕には適していない。この地域の遺跡はメソポタミアとの交易の寄港地として機能していた。なお、マクラーン海岸はインダス文明以後に起こった造陸運動の結果、往時の海岸線は10キロほど内陸に入っている。
***
(インダス文明の盛衰)
インダス文明初期、インダス地方には比較的多くの雨が降っており、多くの集落は生産性の高い土地を利用して成長できた。その後、南アジア北西部が乾燥し始め、地域による農業生産力の差が次第に大きくなっていくと、人びとは大きな中心都市あるいはより生産性の高い地域に移住したと思われる。このプロセスはより都会的な、おそらくより集権的で統合された社会をもたらした。
インダス文明の盛期、これは共同体レベルに重点を置いた食用穀物の生産、加工および貯蔵として現れた。しかし、乾燥化がさらに進むと、農耕の地域差が増大し、その行きつく先は都市化ではなく、統合されていない文明、すなわちインダス文明後期における地域的農耕への移行となった。
インダス文明の後期(BC1900年~BC1800年)は明らかな「変容と再編」の時代だった。この変化はある地域ではゆっくりと起こったことや、インダス文明に伝統的な多くの要素が存続していたことを考えると、インダス文明は破壊的に崩壊したのではなく、新たな諸条件に適応したものと思われる。生態条件の変化は確かに起こっており、統一された文化と都市化はBC1900年ごろに解体し始めた。変わって現れた地域的システムはもはや単一の観念形態や社会経済システムによって統合されておらず、大都市の放棄と集落数の増加をともなっていた。このような分断化された地域的文化は、広大な領域の統合を支えていた広範な交易ネットワークが崩壊し始めたころに現れた。インダス文明後期に見られるゆっくりとした再編劇の中で、地域的に異なるいくつもの文化が出現する。そこには新しい居住形態や土器の形式を明瞭に認めることができる。パンジャブ地域ではH墓地文化、シンド地域ではジューカル文化、サウラーシュトラ半島ではラングプル文化あるいは輝赤色土器文化の出現が、この時代の指標である。
このような脱集中化と地方化の理由についてはいまだに論争中であるが、移住や侵略、戦争を示す考古学的証拠が見つからないことから、気候変動や地殻隆起などに焦点が当たっている。例えば、過去5000年間に海岸線がかなり変化したという明らかな証拠がある。この隆起は海洋交易に影響を与えたはずであり、ひいては文明そのものに大きな影響を与えただろう。気候変動が農業に大きな影響を与えることを考えると、今後より詳細な検討が必要となる。
インダス文明全体を通して、気候が農耕の地域的多様性をもたらし、文明の成長と衰退に影響を与え続けたという明らかな証拠がある。これは気候だけでインダス文明の衰退が説明できるという意味ではない。はっきりしているのは、気候は安定していなかったということ、生態学的に多様な環境があったため、それぞれの地域の共同体が気候変動に対して異なる適応を示すことができたということである。地域的な作物の多様性がシステム全体の成功にとっての鍵であった。個々の地域がその環境に最も適した作物を作り続けたことによって、気候の変化に対処可能であった。
インダス文明の終末、BC1800年ごろの地層には、インダスの都市の炎上や略奪をうかがわせるような灰や破壊の跡をはっきり留めた層はない。インダス文明の衰退はどちらかと言えば長い時間をかけて進行したらしく、何十年にもわたって人口の流出や環境の悪化が続いた証拠がある。しかし、考古学的な証拠がないからといって、外部からの大規模な侵入がなかったということにはならない。1600年~1500年前のヨーロッパにおいて、ゲルマン民族大移動が起きて西ローマ帝国は崩壊したが、ローマの都市の破壊を示す考古学的な証拠はほとんどなく、詳細な文献記録があるだけだ。インダス文明の場合も、人口の流出があったように見えるものの、突然の変化をなかなか検出できないという考古学上の限界によって真相が見えにくくなっているのかもしれないということも考えなくてはならない。
http://gototakaamanohara.livedoor.blog/archives/18062212.html 【北緯33度 五島・高千穂・ハラッパー・バビロニア(メソポタミア)・ガリラヤ湖】
FacebookCCJ栃木投稿記事
今週も栃木支部から。先週に引き続き、五島高資さんのお話しです。
世界遺産の島、五島列島。そして、五島列島が高天原であるという説を探ります。
北緯33°線上にある五島列島ですが、世界の北緯33°線上にも世界的に重要な遺跡があります。
例えばキリストがキリスト教を広めた聖地と言われるガリラヤ湖。
シュメールがあったとされる場所。インダス文明のハラッパー。そしてモヘンジョダロ。
それは偶然なのか?そして、日本の北緯33°線上には何があるのか?
世界と日本の地理的な古い繋がりから、
世界と日本の繋がりについて想いを馳せてみませんか?
【CCJ栃木】高天原の五島列島の謎!北緯33度線に隠された秘密とは?五島高資氏に聞く
https://www.youtube.com/watch?v=zi-PNWC9X30
https://citizen-channel.com/archives/1198
https://hugkum.sho.jp/261803 【謎多きインダス文明の遺跡ハラッパー|モヘンジョダロもあわせて把握【親子で歴史を学ぶ】】より
世界には、はるか昔に栄え、滅びてしまった「古代文明」がいくつかあります。その一つ「インダス文明」は、「ハラッパー」の発掘調査によって、私たちの前に初めて姿を現しました。インダス文明を代表する遺跡、ハラッパーと「モヘンジョダロ」について解説します。
「ハラッパー」とは?
まずは、ハラッパーの発掘の歴史や、正確な場所をおさらいしましょう。インダス文明の基礎知識もあわせて紹介します。
インダス文明の都市遺跡
ハラッパーは、紀元前2300~1800年ごろに、インダス川中流にあった都市の遺跡です。れんが造りの建物と、大小の道路によって碁盤目状に区切られている整然とした街並みが特徴です。
近くを流れるラーヴィー川が氾濫(はんらん)し、多くの人が濁流に飲み込まれて命を落としました。このため、後世の人により、「食べられた」の意味を持つ言葉「ハラッパー」と名付けられます。
ハラッパーを本格的に発掘調査したのは、イギリス人考古学者「J.マーシャル」です。1920年代に彼が行った調査によって、「インダス文明」の存在が初めて明らかになりました。
インダス文明とは
インダス文明は、インダス川の流域で発展した古代文明です。インドの先住民・ドラヴィダ系民族がつくったといわれています。
インダス川は、ヒマラヤ山脈を源流とし、インドの北西部からパキスタンを通り、アラビア海に向かって流れる川です。ハラッパーを飲み込んだラーヴィー川をはじめ、たくさんの支流を持つ主要な大河の一つです。
インダス川(パキスタン)。長さ3180㎞におよぶパキスタン最長の河川。世界でもまれな海嘯(かいしょう)が起きることでも知られている。海嘯とは、潮津波ともいわれ、河口に入る潮波が垂直の壁となって河を逆流する現象をいう。アマゾン川やイギリスのセヴァーン川などでも起きる。
インダス文明の都市遺跡は、ハラッパーの他にも、いくつか見つかっています。
なかでも、インダス川下流域で発見されたモヘンジョダロは、ハラッパーに並ぶ規模を誇る重要な遺跡です。インダス川の恵みを利用して、古代の人々は壮大な都市国家を建設したのでしょう。
パキスタン東部に位置する
ハラッパーは、パキスタン北東部のパンジャーブ地方にあります。パンジャーブ地方は、インダス川の流域で見ると、上流~中流部分に該当します。
下流のモヘンジョダロとは、約600kmも離れていますが、当時は、川を利用した水上交通によって都市同士の往来があったようです。
日本でたとえると、東京から大阪までの距離に匹敵する長い道のりを、どのくらいかけて旅していたのか、想像してみると面白いかもしれません。
ハラッパーの遺跡発掘による影響
ハラッパーの遺跡発掘により、インダス文明の詳細は、どこまで明らかになったのでしょうか。発掘の影響や、実態について見ていきましょう。
インダス文明発見のきっかけに
ハラッパーの存在自体は、古くから知られていました。しかし、誰も古代文明の遺跡とは思わず、さほど重要視されていませんでした。
19世紀半ばには、インドの植民地化を進めていたイギリスが、ハラッパーから大量の「れんが」を掘り出して、鉄道工事に利用してしまいます。
マーシャルが本格的に発掘を始めたときには、すでに遺跡の大半が破壊されていたのです。
それでも残された部分からは、古代の都市遺跡であることを示す証拠が多く見つかり、インダス文明発見のきっかけとなりました。
ハラッパーの発掘は、現在も続いています。しかし、イギリスが鉄道を敷くよりもずっと前から、地元の人々は、ハラッパーのれんがで家や寺などを建て、生活の場としていました。
実際に住んでいる人がいるために、発掘できない場所も数多くあります。
当時の生活が分かる建物や土器などを発掘
ハラッパーからは、各種建造物の跡や生活用品、宝飾品などが発掘されています。都市は城塞(じょうさい)部分と市街地で構成され、城塞には政治や儀式に使う建物、穀物倉などがありました。
市街地では住宅・製粉場・墓地・ごみ捨て場など、人々の生活の跡が見つかっています。住宅には井戸と浴室があり、汚水を流す排水溝も整備されていました。
彩色土器や青銅器などの生活用品に加え、宝飾品や印章も出土しており、遠く「メソポタミア地方」の商人と交易していた様子もうかがえます。
なお、印章に刻まれた象形文字は「インダス文字」と呼ばれています。インダス文字は、いまだに解読できていませんが、インダス文明が文字を使う高度な文明だったことは明らかです。
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世界四大文明とは、現代文明に大きな影響を与えた古代文明のことです。それぞれの文明が起こった位置・年代・特徴について、おさらいしましょ...
ハラッパーに並ぶ遺跡「モヘンジョダロ」
インダス文明の遺跡としては、モヘンジョダロも有名です。モヘンジョダロの特徴を簡単に解説します。
モヘンジョダロの場所
モヘンジョダロは、パキスタン南部のシンド地方にあります。最盛期には3~4万人が住んでいたとされ、ハラッパーと並んでインダス文明を代表する重要な遺跡です。
モヘンジョダロも、後世の人が付けた名前です。「死の丘」を意味しており、1922年に発掘調査が始まるまで、地元の人は、決して近づいてはならない場所として恐れていたと伝わっています。
世界遺産に登録
大規模な都市の遺構が発見され、れんがや土器も、そのままの姿で残っていることが分かったモヘンジョダロは、インダス文明を象徴する遺跡として、1980年にユネスコの世界遺産に登録されました。
しかし、モヘンジョダロは、年々風化が進み、消失の危機にさらされています。
原因は、地下水に含まれる塩分です。モヘンジョダロ周辺では、農業用水確保のための灌漑(かんがい)が進み、水面が上昇したために、地下の塩分濃度が濃くなりました。
地下に埋まっていた「れんが」が、地下水から塩分を吸収したため、空気に触れると劣化してしまうのです。このためパキスタン政府とユネスコでは、共同でモヘンジョダロの保存活動を始めています。
ペルセポリス遺跡(イラン)。ペルセポリスは、インダス文明発祥の地であるアフガニスタンの隣国・イランに、紀元前550~前330年まで栄えたアケメネス朝ペルシア帝国が建設した都だった。1979年に、世界遺産登録。
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まだまだ謎の多いハラッパー
ハラッパーやモヘンジョダロが、インダス文明の遺跡として注目されるようになったのは、20世紀に入ってからです。どちらも保存状態が悪く、思うように調査が進んでいません。
インダス文字をはじめ、多くのことは謎に包まれたままです。4000年近くもの間、地下深くで静かに眠り続けたインダス文明について、子どもと一緒に想像を巡らせてみるのもよい勉強になるでしょう。
https://note.com/noruniru0826/n/ne8c3e1cb4b03 【【世界史】ざっくりインド史#2 インダス文明とヴァルナ制】より
インドの歴史がなぜ注目されているかというと、やはり文明がおこったからなんですね。それがインダス文明というものです。インダス文明の遺跡の分布をみても北西に偏っています。つまりインダス川流域に集中していることがわかります。
インダス文明を代表する遺跡にハラッパーやモヘンジョ=ダーロがあります。1922年にインドの考古学者が遺跡を発掘したところ、文字が刻まれた印章(ハンコのようなもの)が発見されたことによって、この遺跡の存在が明らかになったのです。未だ解読されていないインダス文字ですね。
モヘンジョ=ダーロの最大の特徴は計画的につくられた巨大都市です。
モヘンジョ=ダーロの発掘調査によると、1.6km四方と推定され、日干しレンガや焼きレンガを大量に用いて区画整理された街並みが特徴です。
また、立派な城塞や住宅、整備された下水道の遺構も発見され、高度な都市計画をもつ文明だったとされています。
洪水や放牧、樹木の伐採による環境破壊、塩害による農業衰退といった説がありますが、決定的な説は不明ですがインダス文明は衰退していきます。
ヴァルナ制
こうして高度な文明を築いたインダス文明も突如終わりを迎えます。理由はよくわかっていません(それだけインダス文明は謎が多いんです)
インダス文明が滅んだ後、北西からアーリア人がパンジャーブと言われる地方に進入してきます。インダス川の間にある地域です。
先住民はそんなアーリア人に押し出される形で南インドに移住します。
このアーリア人の侵入により、この後、ヴェーダ時代→小国分立の時代→仏教やジャイナ教の誕生と、アーリア人の進入により、インドの生活や宗教が変わったり誕生したりしますが、このあたりは割愛します。ざっくりがテーマですので…。ここでは、インダス文明後の流れをざっくり知っていただければオッケーです。
しかし、アーリア人の進入がすすみ、農業をはじめ、鉄器を使用したことにより農業生産力があがったことで、新たな秩序がうまれます。
それはヴァルナ制とよばれるものです。
これは先住民とアーリア人で肌の色の違いがあったがためにうまれた、身分的上下階級がヴァルナ制です。ここでは「色」ということが重要で、「ヴァルナ」とは「色」を意味します。
アーリア人の進入によって先住民と交じって農耕社会を築いた結果、アーリア人が定住し、生産が安定し豊かになってくると、大きく分けて「農業に専念する人」と「農業に専念しない人」に分けられ、特に「農業に専念しない人」が強い権力をもち、たちまち王となり人々を支配するようになります。その中でも宗教を司る「バラモン」(のちにバラモン教が誕生しますがここでは割愛)が宗教的権威としての力を高め、次第にはヴァルナ制におけるトップの地位に君臨するようになるのです。
基本的にアーリア人が上位階級に位置し、先住民はシュードラという隷属民に属していました。
これが長い年月を経て、この4つのヴァルナはそれぞれの職業ごとに細かく分け、生まれによってさらなる階級として「カースト」と呼ばれる制度に発展していきます。「カースト」とはポルトガル語由来で「血統」を意味します。
アーリア人が進入し、小国の分立、都市国家が乱立する時代が続きますが、これを一つにまとめ、インド史における初めての王朝、マウリヤ朝が誕生しますが、それはまた次回。
https://www.jw.org/ja/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC/%E9%9B%91%E8%AA%8C/g20000708/%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%B7%9D%E3%81%AB%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8F%E3%82%8B%E8%A9%B1/ 【二つの川にまつわる話】より
インド亜大陸の重要なライフラインである二つの川は,幾億もの人々の暮らしを支えています。どちらの川も源流は世界最高の山脈の氷河地帯にあり,互いにそれほど離れてはいません。その堂々たる流れはそれぞれ2,400㌔を超え,おもに二つの国を通って別々の海に注ぎます。どちらの川の流域も古代文明の発祥の地となり,主要な宗教の誕生の地ともなりました。人々はその恵みを感謝し,一方は今でも崇拝されています。その川の名は何でしょうか。インダス川とガンジス川です。ガンジス川はここインドにおいてはガンガー川と呼ばれています。
人類の生存と繁栄に水は欠かせません。そのため,初期の文明は河川の流域で発達しました。川は神格化されて男神や女神とみなされたこともあるため,初期の記録はしばしば神話に包まれています。インダス川や,インドでガンガー・マー(母なるガンガー)とも呼ばれるガンガー川の歴史についても確かにそう言えます。
ヒンズー教徒も仏教徒も,標高6,714㍍のカイラス山と近くのマナサロワール湖を神々の住まいとみなしています。その湖からは4本の大河が動物の口を通って流れ出ていると,長いあいだ信じられていました。ライオンの川がインダス川であり,クジャクの川がガンガー川であるというのです。
チベット人は外国人探検家を寄せつけようとしませんでしたが,1811年のこと,東インド会社に雇われたイギリス人の獣医がいろいろな姿に変装してその一帯を旅しました。その獣医によれば,マナサロワール湖に流れ込む谷川は確かに幾つかありましたが,そこから流れ出る川は一つもありませんでした。インダス川とガンガー川の源流が突き止められたのは,20世紀初頭になってからのことです。インダス川の水源はヒマラヤ山脈の北方のチベットにあり,ガンガー川はインド北部のヒマラヤ山脈の中腹にある氷穴に源を発しています。
古代文明が誕生した場所
インド亜大陸の最初の居住者となったのは,東方に旅をしてインダス川流域に移り住んだ人たちであると考えられています。考古学者はその地域のハラッパやモヘンジョダロなどで,高度に発達した文明の遺跡を発見しています。20世紀初めの何十年間に,そうした発見によって,インドの初期の定住者は原始的な遊牧民族であったという説が改められました。インダス文明は4,000年以上も昔に,メソポタミア文明に勝るとも劣らない発達を遂げていたのです。碁盤の目のように走る通り,集合住宅の区画や2階以上ある家々,優れた下水道や浄化槽の設備,巨大な穀物倉,寺院,儀式上の清めを行なうための沐浴場などはすべて,進んだ都市文明が存在したことを示しています。メソポタミアや中東と通商関係があり,インダス川が何百キロも内陸の地からアラビア海に至る交通路となっていたこともうかがえます。
何世紀もの間に,インダス川流域の都市文明は,地震や大規模な河川のはんらんといった自然災害によって衰えていったようです。そのため,中央アジアから何度も波のように侵入して来た,一般にアーリア人と呼ばれる遊牧民に抵抗する力はほとんどありませんでした。インダス川周辺の都市に住んでいた人々のほとんどは追いやられ,インダス川流域で発展した古代文化は南インド に移りました。今もその地方には,インドの主要な民族グループの一つであるドラビダ人が住んでいます。
アーリア人の中には,インドを通って東に移動し,ガンガー平野に定住するようになった部族もありました。こうして,インド亜大陸のアーリア人は,おもにガンガー川とつながりのある北インドで独特の文化を発展させました。今日でもその地域には,当時の文化がかなり残っています。
二つの川と二つの宗教
出土品を調べると,インダス川流域とメソポタミアの宗教に類似点のあることが分かります。長い間アーリア人の宗教とみなされてきたヒンズー教の遺物が,インダス川沿いの都市遺跡で発見されています。アーリア人の到来以前からあった神々や宗教信条とアーリア人の神々や宗教信条とが融合して,ヒンズー教が生まれました。アーリア人は最初のうちインダス川を聖なる川とみなしていましたが,東方に移動してガンガー川沿岸に落ち着くと,ガンガー川崇拝に乗り換えました。何世紀かたつうちに,ハリドワール,アラーハーバード,ワーラーナシーなどの都市がガンガー川沿いにヒンズー教を中心として発達しました。今日,幾百万という巡礼者がそのような中心地に集まり,いやしと清めをもたらすと考えられているガンガー川の水に身を浸しています。
ヒンズー教はインダス川周辺で始まりましたが,仏教のルーツはガンガー川の近くにあります。仏陀と呼ばれるガウタマ・シッダールタが最初に説法をしたのは,ワーラーナシーの近くのサルナートにおいてでした。79歳の時には,川幅の広いガンガー川を泳いで渡ったと言われています。
今の二つの川の姿
今日,川の水は,人々が生活の糧を得るためにインダス川とガンガー川の岸辺に集まった4,000年前よりも危機的な状態にあります。インド,パキスタン,バングラデシュに暮らす,おびただしい数の人々の生活を支えるには,川を注意深く管理しなければなりません。(16,17ページの地図をご覧ください。)どちらの川も国を越えて流れていますから,国際的な協定が必要となっています。パキスタンが建設した施設の一つは,幅3㌔,高さ143㍍ほどのかんがい用のタルベラ・ダムです。これは世界最大級のダムであり,1億4,850万立方㍍の土砂を盛ってできています。ガンガー川のファラッカ・ダムは,カルカッタ港付近の輸送量増加に見合った量の水を川に安定供給する役目を果たしています。
多くの川と同様,ガンガー川にとっても汚染は大きな問題です。そこでインド政府は,1984年にガンガー川行動計画という大掛かりな計画に乗り出しました。汚水を肥料や生物ガスに変え,下水が川に流れ込まないようにし,化学廃棄物の処理施設を建設することに注意が向けられました。
ところが,地球上の川に本来の美しさや清らかさを取り戻すという難題は人間の設ける機関の手に負えない,ということが明らかになっています。しかし,神はまもなく事態を改善してくださいます。神の王国の支配のもとで,全地はパラダイスとなり,『川も手をたたく』でしょう。―詩編 98:8。
[16,17ページの囲み記事/地図]
雄大なインダス川
インダス川には非常に多くの支流があるので,本当の水源の位置については様々な意見が唱えられてきました。しかし,この大河がヒマラヤ山脈の高地に源を発していることは確かです。インダス川は北西に向かって流れ,他の水の流れを集めながら,「世界の屋根」と呼ばれるチベット高原を約320㌔駆け抜けます。ラダック地方のインド国境に近づくと,山々の間を抜け,断崖の底を浸食してヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の間に水路を形成します。インド領内に入ると,560㌔ほど進む間に3,700㍍近くも下ります。川は北に向かって流れ下り,その後,急カーブを描いてヒマラヤ山脈の西端を回り,そこでヒンズークシ山脈からの大河ギルギット川の激流と合流します。その後,パキスタンを通って南下します。山々の間を縫って進み,猛烈な勢いで曲がりくねったり方向転換したりしながら,ついに平野にたどり着き,パンジャブ地方を潤します。パンジャブには「五つの川」という意味があります。それは5本の大きな支流 ― ベアーズ川,サトレジ川,ラービー川,ジェラム川,チェナーブ川 ― が巨大な手の指を広げたかのように流れているためです。インダス川はそれらの川と合流し,やがて約2,900㌔にわたる壮大な旅を終えます。
あがめられるガンガー川
ベンガル湾まで2,500㌔を超えるガンガー川の旅は,ヒマラヤ山脈にあるインダス川の水源の南100㌔ほどの所から始まります。ガンガー川の源流は,標高3,870㍍以上の氷河の突端からわき出ています。牛の口に似ているこの突端は,ヒンディー語でガウムクと呼ばれます。わき出た水はバギラティという川になり,源流から214㌔ほどのデバプラヤーグで,アラカンダという別の川と合流します。この二つの川が,マンダキニ川,ダウリガンガ川,ピンダール川と合流してガンガー川となるのです。
ガンガー川はインド亜大陸を南東へと進みながら,インドのアラーハーバードではヤムナー川と,バングラデシュでは大河ブラフマプトラと,というように,ほかの大きな川と合流していきます。ガンガー川とその支流は扇のように広がって,インドの総面積の4分の1にあたる肥沃なガンガー平野を潤します。流域面積は103万5,000平方㌔であり,現在10億を超えるインド人口の約3分の1の暮らしを支えています。この地域は世界でも有数の人口密集地帯です。バングラデシュでは内海のように川幅が広がり,あらゆる物品の運送路となっています。その後,ガンガー川は幾つかの大きな川と無数の細流に枝分かれし,世界最大級のデルタ地帯を形成します。
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