五感をひらいて

Facebook長谷川 淳史さん投稿記事

人間にとっていちばん寂しいのは、何を見ても、何を食べても、何の感動もしないこと。感動をしなくなったら、人間おしまいだと思うんですね。こんな寂しいことはないと思います。

     ―――高倉健


Facebookあまね 泉美さん投稿記事

もっと自然に近づこう​ ~子どもと外で遊ぶこと~​

草や木と同じで、​人間も太陽の光をいっぱい浴びて​自分のカラダで​五感をひらいて​

血の循環、気の循環、水の循環が​とても大切だ


Facebook西山 優子さん投稿記事  大地再生

はなちゃんちの田んぼづくり

草刈りから始め、みんなで自然地形をみながら、スコップや三本鍬、移植ゴテで

夕方まで種籾まいて できたどー! こどもたちは目一杯遊びきった!

水の流れをちゃんと理解してたよー 五感ひらいて生きていこう ああ、細胞から元気になった!


Facebook屋久島 森林ウェルネスプログラム・森林セラピーガイド by カレイドスコープ 投稿記事【参加してくださった方の振り返り】Voice from one of the participants

先日ご参加くださった方の一人で、様々な分野の人たちを対象に場づくりなどの講座をされているうーさんこと鵜川洋明さんから感想をいただきました。

とても丁寧に振り返っていただいて、嬉しくなりました。ご参加ありがとうございます!

<感想(一部紹介)>

森を五感で感じることを十分できたことが、何より一番でした!

また、たくさんの氣づきがありました!言葉になっているものをピックアップすると、

・森は大きく見れば緑と表現できるけど、足元にフォーカスしていくと実にカラフル

・森の音、匂い、味、触感、に感性をひらくとすごくにぎやかなことに氣づく

・森は風によって対話しダンスする。風って大事だな~

・森の中と日常とのあわゐを体験することで、両方がつながる

・ハンモック超氣持ちいい!

などなど

参加した後は、森のあり方というかあの佇まいが自分の内側の世界にしっかりとある感覚を感じています。そしてすがすがしい。

(このプログラムどんな人に向いているかというと)

場づくり講座というものをひらいていて、人の可能性がひらいてゆく場づくりができることを望んでみんな集まってくれています。その仲間たちと味わいたいというのが自分の思い

他に思い浮かべると、

・日常につかれている人→癒しが起こりそう

・人間関係に苦しんでいる人→特定の個への執着がやわらいで、みんな自然の一部って思えそう

・自分に自信が持てないと言っている人→いい意味で自分がちっぽけに見えて自信のあるなしとか別にどうでもよくなりそう

・自分のやりたいことがわからないと言っている人→自分のあるがままを生きたらいいって感覚になれそう

「今もし何かに悩んでいたり答えを出したいって思うことがあるなら来てみて。ことばで説明できないんだけど、こころとからだ、五感が必ず何かをキャッチするよ」と伝えます。


Facebook刀根 健 さん投稿記事「病気の原因」は何でしょうか?

僕は肺ガンになりました。

ガンと向き合っていた時は、原因のことなど考えたり探ったりする「ゆとり」はありませんでしたが、その体験を「通り抜けたとき」いろいろと「腑に落ちること」がありました。

病気の原因はもちろん「ひとつ」ではありませんし、多岐にわたっていると思います。

でも、その原因の中で大きなもののひとつが「こころの在り方」だと思います。

心の中で、どんなことが起こっているか?

つまり、無意識のうちに、こころのなかでどんなことを「しゃべって」(しゃべりまくって)いるか。

約2000年前に書かれた「維摩経」という経典があります。そこにズバリ!「病気の原因とは…」という部分があります。

この経典の内容というか、シチュエーションは、「ヴィマラキ-ルティ」という賢者(悟った人)が病気になり、ブッダがそれを聞いて弟子にお見舞いに行くように頼みますが、弟子たちはことごとく断ります。

なぜならブッダの弟子たちは過去にこの「ヴィマラキ-ルティ」と会って対談したことがあり、みんな全員(一人を除いて)が、自分の気づいていなかった様々な歪みや独りよがり、

いわゆる「エゴ」を指摘された経験があるので、話をしたくない、出来ません、というのです。

どんな隠れた「エゴ」を指摘されたのか、という部分も「解説」としての面白さですが、ほんとうに面白いのはここから。

唯一「ヴィマラキ-ルティ」と会ったことがなく、そして彼ならば対面しても大丈夫、と選ばれたのが「マンジュシリー菩薩」です。

ここから「ヴィマラキ-ルティ」と「マンジュシリー菩薩」の真理の丁々発止が始まります。

ちなみに「ヴィマラキ-ルティ」を漢字で表すと「維摩」、「マンジュシリー菩薩」は「文殊菩薩」になります。

維摩vs文殊菩薩 そのやりとりの中で、病気の原因の話が出てきます。(P177)

ちょっと原文を飛ばしながらですが、そのまま書きますと…

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(原文)

病気は、その病の原因から生じるものです。病気の原因は何でしょうか?それは、認識対象としての縁(えん)をとらえることを原因としています。認識対象としての縁をとらえるという原因がある限り、それだけで病気の原因があるのです。

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(刀根超訳)

認識対象の縁(えん)とは何でしょうか?

それは目の前に起こったことを、「五感(目・鼻・耳・口・体感覚)」でとらえ、それを「これってこいいうもんだ」と今までの自分の過去の経験からくる枠組み(モノの見方)に当てはめ、そして、それに従って頭の中で自動的にしゃべり始め、そのおしゃべりと並行して表情が変わったり、あるいは実際に行動が始まったりすること、と分解してとらえると分かりやすいです。この3次元世界で生きていれば、誰でも「認識対象の縁」にとらわれます。それは当たり前ですね。(さとりをひらいた人は別ですが)

見る世界、聴こえる世界、あるいは感じる世界が真実、あるいは事実と認識します。

でも、人は「自分の見たいところしか見ていない」ということが脳科学で分かっています。

全てを「認識」してしまうと、脳がオーバーフローしてしまうので、自分が焦点を合わせた部分しか意識上にのぼらせない、ということを自動的に行っています。

つまり僕たちは「見たいもの」や「聞きたい」「感じたい」ものだけ捉えていて、他は削除しているということなのです。自分という「サングラス」という偏った世界を「事実・真実」と認識(誤認識)しているのです。

維摩さん的に言うならば、さとりをひらいてすべてを「照らして」「見て」そしてそれがすべて「空」であることを「腹落ち」すれば、病気でも病気じゃなくても、おんなじことなんだから、気にすることはないじゃんか、あはは、なんですが(笑)

「我という、小さきものを捨ててみよ。三千世界がわが身となりける」(指月禅師)

でも凡人のぼくたちは、中々その領域に達することは難しくもあり。なので、その手前の段階としての段階的なポイントがあります。これは、このあとの維摩さんの言葉からです。

~~~~~~~~~~~~~~

(原文)

認識対象として何をとらえるのかというと、【欲界・色界・無色界】三界をとらえるということです。認識対象をとらえるということが病気の原因であることを知ることによって、そのひとにはどのような知が具(そな)わるのでしょうか。

それはすなわち、認識対象としての縁(えん)をとらえないということです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(刀根超訳)

三界とは…

①欲界はいわゆる「エゴ」の世界

②色界はエゴの執着からは自由になっているけれど、まだ私は「身体である」という認識から離れていない状態とのこと。

③無色界とは、さらにそこからも離れ、完全に意識のみの状態になっていることらしいです。

①→②→③まあ、つまるところ「エゴ」による幻想から自由になって「照見・五蘊・皆・空」という般若心経の境地に到達する順番みたいなものですね。

僕たちが住んでいるのは、ほぼ①の「欲界」です。病気の多くの原因は「欲界」の縁(えん)に捕まってしまう、ということなのです。では、欲界の縁とはいったい何でしょうか?

それは目の前に起こった何かの出来事に対して、頭の中でどんな解釈をして、どんなことをしゃべり、どんな反応をするか、という、さきほども書いた「同じこと」なんです。

これを僕が伝えている心理学/交流分析/TAのエリック・バーン博士はこう言っています。(エリックバーン・人生脚本の全て エリック・バーン著)

~~~~~~~~~

(原文まま)

人間の運命は、頭の外で出会った出来事に対して頭脳内で何が起こるかによって決まる。

人はそれぞれ、子ども時代の早期にどのように生き、どのように死ぬかのプランを立て、

そのプランを「すべきこと」「すべきでないこと」を告げる「親」の声の形で頭の中に持ち歩き、また、どのようになりたいかという自分の熱望を「こども」の映像の形で持ち運ぶ。それは脚本と呼ばれる。

脚本はコンピュータのプログラムのように働き、プログラムを書いた人がいなくなった後も、ずっとインプットされた順での反応を引き出す。

そして規定の結末に導いているのは自分だという幻想を抱きつつ、プログラムに沿って人生という題目を演じていくのである。

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そう、エゴの書いた「幻想」なのです。もし、このエゴのプログラムが「歪んで」いたら?

バーン博士はシナリオ(脚本)は3種類あり、そのひとつ「敗者の脚本」の最悪の行きつく先は ①病院(病気になる) ②刑務所 ③墓場と言っています。

僕は①から危うく③に行きそうになりました(笑)。

維摩さんと同じことを約2000年後にバーン博士が言っているわけですね。

維摩さんの話を現代的に分かりやすく翻訳を続けると…

自分のエゴのおしゃべりに「気づく」ということで、どんな「知」が得られるのでしょうか?

それは「エゴ」客観視して、そのおしゃべりに巻き込まれないようになる「可能性」が高まる、ということです。それが「自分を知ること」の「知」なのです。

縁(えん)をとらえない=気づいて、客観視して、流し、手放していく。

手放していくには、自分が何を「握りしめているか」を知って(認識して)いることが大切です。

そういう意味で「心理学」からの「自分のエゴを知る」というアプローチは欠かせないものだと、僕は思っています。

先週土曜日(17日)から心理学/TAを通じて徹底的にエゴを学ぶ「TAコンサルタント養成講座」が始まりました。

全8回、4か月に渡って、自分のエゴを仲間ともに学ぶ講座です。

4か月後、みなさんがどんな変化・変容を遂げているか、ほんとうに楽しみです。

そして、維摩さんの話はまだ続きます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(原文)

では、何を知覚しないのか?

それはひとつの見ることを知覚しないのです。

すなわち自己の内側を見ることと、自分の外のものを見ることです。

それが認識対象をとらえないことだと言われています。

まさにこのように、マンシュリー(文殊菩薩)よ、病気になったとき菩薩は、生老病死の【4苦】を断つために自分の心を観察すべきです。

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(刀根超訳)

見ることを知覚しない=その刺激に捕らわれない、執着しない、ひっかからない、いつかない、という事だと思います。

内側を知覚しない=自分の頭の中のエゴがしゃべることに「捕らわれない、執着しない、ひっかからない、いつかない」。

自分の外のもの=外側で起こる出来事に「捕らわれない、執着しない、ひっかからない、いつかない」。

内側にも、外側にも「捕らわれない、執着しない、ひっかからない、いつかない」。

病気になったら、まさにこのように「自分を知り」「観察し」そして流して「手放していく」ことが「病気を原因から解決」していく、という事なのではないでしょうか。

これは現代では「マインドフルネス」も同じですね。

まあ、そもそも「マインドフルネス」は仏教がルーツですから当たり前なんですが(笑)。

病気の原因=エゴ(世界のとらえ方・反応の仕方)の歪み

エゴの歪みを知る(認識の縁(えん))=自分を知ること

自分の中の歪んだ部分を知り、手放していくこと=内側にも外側にも、エゴのプログラムで反応しない

維摩さんとバーン博士は2000年の時を経て、同じようなことを言っていました。

(おふたりだけでなく、多くの方が同じこと、たくさん言葉で残されています)

ということで、今日は「病気の原因」のお話でした。

ではでは!!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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