http://toshoshimbun.com/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3527&syosekino=15582 【現代権力論――病原ウイルスとしての「アベ政治」⑯】より
No.3527 ・ 2022年01月22日
■「唯一、生き残るのは変化できる者である」とは進化論の有名なテーゼだが、岸田政権の変わり身の速さは、朝令暮改という言葉がこの政権のためにあるのではないかと思えるほどだ。10万円給付もそう、海外からの入国制限についてもそうであるように、何らかの政策案を決定しても批判が多く寄せられればすぐにそれを取り下げて、そうした世論に折り合いをつけようとする姿勢をみせる。
思ったよりも案外いい政権なんじゃないかと受け止めた向きも多かったと見えて、政権発足後、内閣支持率も特段さがってはいない。だが、肝要な部分での病根体質をいぜん温存させている事実を、私たちはけっして忘れてはならないのだ。
森友問題をめぐって、岸田総理は自殺した近畿財務局の元職員について「遺族の気持ちを考えると痛恨の極み」と語り、「政府として、この問題に真摯に向き合っていきたい」と昨年12月の参院予算委員会で答弁していた。その舌の根も乾かぬうちに、元職員の妻が真相究明を訴えていた民事裁判にだした答えが、「認諾」という実質的な裁判そのものの終結宣言だった。こんなところでもその変わり身の速さを披露している。
悪辣な政治権力者の犯罪的行為によって、無辜の人間がひとり死んでいるのである。事件の本質はそこなのだ。この重みは地球よりも重いと言わなければならない。元総理がふかく関与していたのは誰の眼にもあきらかだろう。「王様は裸だ」となぜその一言が言えないのか。元職員の妻が「ふざけるな」と叫んだ憤慨は、まちがいなく多くの国民の声でもある。一方でその当事者は党内最大派閥の長におさまり、やれ三度目の政権復帰だやれ次世代のキングメーカーだと能天気に狙っているというのだから、これが「ふざけるな」と言わずして何と言うのか。
オミクロン株の感染が爆発的に広がっているのは、その遺伝子変異の多様さによる。だが、過度の変異は弱体化への一本道であることも、また真理なのだ。
(つづく)
http://toshoshimbun.com/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3531&syosekino=15680 【現代権力論――病原ウイルスとしての「アベ政治」⑰】より
No.3531 ・ 2022年02月19日
■NHKスペシャル「証言ドキュメント 永田町・権力の興亡 コロナ禍の首相交代劇」(1月16日放映)を視聴して、まっさきにやってきたのは“いったいこれは何なのだ”という戸惑いのいりまじった猜疑の感情だった。
菅義偉から岸田文雄に総理大臣が交代してから半年もたっていないこのタイミングで、直近の首相交代劇の内幕を知る自民党の重鎮をはじめとし、総裁選を戦った対抗候補の議員や他党の代表までをも登場させ、それぞれの証言を編集するかたちで、昨年夏の総理交代劇の真相にせまるという構成だが、私には違和感ばかりがさきだった。
政権中枢の有力者たちをすべて単独取材したことに、世の中では驚きの声も聞かれるようだが、発言内容がほんとうに彼等の本心なのか視聴者側に検証する術がない以上、情報は一方的に送り手側に有利に流されたと考えるしかない。当事者本人が語っているから、それが真実の情報だということには決してならないからだ。
確かなことがひとつだけある。この番組内容の編集権は制作したNHKの側が持っていたであろうことである。ということは、この番組じたいが、NHKによる2021年夏の政権交代劇のストーリー化であり、他局にここまでの取材力をもって番組制作ができるだけの体力がなかった以上、これはNHKだけに許された権力者群像の記述、しかも批判的な検証にいっさい曝されていない一元的歴史化の産物だと断ずるしかあるまい。
安倍晋三にもっとも食いこんだといわれる同局の女性記者Iの名前が、今回も登場していた。だが誤解してならぬのは、取材対象にもっとも肉迫することが、その真実の姿を解き明かすことと必ずしも一致しないことである。今回の番組で明らかにされた事実関係があったことは認めるとしても、しかしその一方で見えなくされた不都合な側面も間違いなくあったように思う。自分に何のメリットもない取材番組に、権力を保持する側の政治家が出演することなど百パーセントあり得ないことだからだ。
(つづく)
http://toshoshimbun.com/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3535&syosekino=15776 【現代権力論――病原ウイルスとしての「アベ政治」⑱】より
No.3535 ・ 2022年03月19日
■安倍元首相が「日本の誇り」と題した連載を夕刊フジ紙上で始めているが、その第一回目「ウクライナ危機に迫る」(2月19日)を読んで、つよい眩暈に襲われた。この人の場合、言うこととやることの言行不一致はいまに始まったことではないが、それにしてもこれはさすがに寒すぎる。
「まず、武力行使を含む、他国への侵攻は決して許されない。これは明確に指摘しておきたい」のだと彼はきりだす。おい、ちょっと待ってくれ。あんたがそれを言うか? 2014年の解釈改憲の閣議決定を取り仕切ったのはあんただろう? そこでいったい何を決めたんだっけ?
「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」を「武力行使の新三要件」と位置づけ、集団的自衛権の行使容認を、憲法九条の規定を完全に無視するかたちで決定しましたよね?
折しも、ロシアによるウクライナへの武力攻撃が開始されたとの第一報が入ってきたばかりだった。プーチン大統領のやり方はじつに巧妙で、まずウクライナ国内の二つの州の中にある親ロシア派の勢力版図を新しく国家として独立させた。そして一方的に独立を承認したそれらの国から、対ウクライナへの武力行使をロシア側が要請されたことにして、自国軍のウクライナ侵攻を平和維持のためと正当化したのである。つまりこの行為は、ロシアによる集団的自衛権の行使という架空の大義に則った、ウクライナへの重大な主権侵害いがいの何物でもない。
わが国の「武力行使の新三要件」とも完全に重なる軍事的シナリオが、今回のロシアによるウクライナ侵攻ではそのまま実践されたことになる。そういう碌でもない枠組みをつくった張本人が、「他国への侵攻は決して許されない」などといくら語ったところで、何の説得力も持たないのは断るまでもない。
(つづく)
http://toshoshimbun.com/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3539&syosekino=15865 【現代権力論――病原ウイルスとしての「アベ政治」⑲】より
No.3539 ・ 2022年04月16日
■ロシアはウクライナ侵攻を開始した当初から、核兵器の使用をちらつかせてきた。ほとんどの人は、それを単なる恫喝つまりコケ脅しだと信じようとした。まさか、本気で使うことはないだろうと。
だがウクライナでの戦況はロシア軍にとって不利な方向に動いているようだ。もし仮にロシア軍つまり侵攻した側が逆に追いつめられるような事態になった場合、一発逆転を狙って本当に核のボタンが押されることがないのか、懸念は尽きない。
そのような中で、安倍元首相がいきなり「核シェアリング」の議論をすべきだ、などと言い出している。ただの思いつきにしても、冗談が過ぎる。この時期のこのタイミングで、こういうことを言い出す神経が分からない。
「核シェアリング」とは「日本の領域に米国の核兵器を配備し共同で運用する」という考え方だ。つまり、核兵器をなくしていくとか使わないように縛りをかけていくという議論ではなくて、核をより使いやすくするための積極的な方法論に関わることである。国内でもさっそくこれに同調する動きが出ていることを看過すべきではない。というのも、ウクライナは核を持っていなかったから簡単に侵略を許してしまった、核を保有していれば侵攻されることはなかった、などという雑駁な議論が一部で起こってきているからだ。
国家の安全保障の問題を、単純に軍事力のバランスだけに矮小化してはならないと考える。同時に、核兵器の持つ異次元の残虐さを肌で知っているはずの日本の、それも元首相だった人物が臆面もなくこうした内容の発言を軽々しく発することが、そもそも私には許せない。
「議論するのは当然だ」と安倍は言う。議論さえしないというのでは、それは「思考停止」ではないかとも。たしか憲法第九条の改正を言い出した時も、安倍はこれとおなじ論法を使っていた。議論しておくことはたしかに必要なことかもしれない。ただ、あなたにだけは絶対に頼みたくないだけである。
(つづく)
http://toshoshimbun.com/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3543&syosekino=15951 【評者◆添田馨 現代権力論――病原ウイルスとしての「アベ政治」⑳】より
No.3543 ・ 2022年05月21日
■私が「アベ政治」なるものへ批判的に対峙するようになって、かれこれ十年が過ぎようとしている。その間をふりかえってつくづく思うのは、言葉をまったく信じていない人間を政治家にしては絶対に駄目だということだった。言葉を信じていないから嘘も平気でつける。言葉を信じていないから憲法も簡単に改正できると考える。
安倍氏はこのところさまざまな機会を捉えては、憲法改正の必要を相も変わらず説きまわっているようだ。4月17日に福島県郡山市でおこなった講演では、戦時下のウクライナ情勢を引き合いに出しながら「戦い抜く人たちには誇りが必要だ」と述べ、改めて憲法に自衛隊を明記する必要性を訴えた。「自衛隊」の三文字が憲法に明記されていないから、自衛隊員が「誇り」を持てないという理屈だ。
私は自衛隊員ではないが、内心でわが国の自衛隊にはつよい信頼感を抱いている。大災害にあった被災現場に駆けつけ、困難な救助にあたるその頼もしい姿に、これまでどんなに勇気づけられてきたか分からない。それだけではない。自衛隊は創設されてから今日まで、ただの一度も自国民に銃を向けたことがない。そして、今後もそうであり続けるものと確信する。この事実は私のなかでとてつもなく大きい。
自衛隊員ではない私が思うことだが、国民からひろく信頼され頼りにもされる相互の関係性がより太く保たれることで、自衛隊員としての「誇り」もごく自然に育ってくるのではないのだろうか。
いったい憲法に「自衛隊」の三文字を書き加えるだけで国を守る「誇り」が生まれると本気で思っているのか。言葉をすこしだけ弄れば現実のほうも都合よく変わってくれると発想することじたい、浅はかなこと極まりない。言葉の重みを知らないからこそ、こういう愚にもつかない説法しかできないのである。
政治家の言葉は、現実に人を殺す道具にもなるのだ。言葉をはなから信じていない愚鈍な者にそれを使わせては絶対に駄目だ。
(つづく)
http://toshoshimbun.com/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3546&syosekino=16022 【現代権力論――病原ウイルスとしての「アベ政治」㉑】より
No.3546 ・ 2022年06月11日
■逢坂冬馬の小説『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房)を読みながら、無意識にそれを現在のウクライナ情勢に重ねあわせて読んでいる自分がいた。小説中で描かれるかつての侵略者・ナチスは、現在のロシア軍の姿にすっぽりと重なる。
ところで、わが国の憲法9条が明確に禁じているものが、いまロシアのプーチンが行っているような「特別軍事作戦」つまり「国際紛争を解決する手段」としての“戦争”であることは言を俟たない。そしてリアルタイムで伝わってくるウクライナでの“戦争”の現実は、私たちが憲法9条の存在意義を新たに見つめ直すまたとない好機にもなっていると思う。
もしもロシアが自国の憲法のなかに「9条」と同様の規定を持っていたなら、それによってもっとも手厚く守られたであろう存在とはいったい誰なのだろうか、という問いを立ててみる。
その答えは間違いなく、みずからの意に反して戦線に投入され、十分な兵站補給も受けられぬまま略奪などを繰り返し、無防備な一般市民の殺戮といった戦争犯罪に手を染めたあげく、敵の反撃にあって負傷し、あるいは捕虜となり、あるいは落命するまでに至った、数えきれない末端のロシア軍兵士たちに他ならない。
そのように考えると、わが国の憲法9条は、国民のなかに誰ひとりとして、そうした不幸な存在を生みださぬよう、法の保護のもとに包みこんでいる気高い条項なのだということが改めて実感される。なぜなら「国の交戦権は、これを認めない」とあるように、私たちが国家の意志によって戦闘の犠牲や戦争犯罪の片棒かつぎをさせられる不遇の事態を、それはもっとも高い法のレベルで明確に禁じているからである。
安倍氏など保守派の改憲論者は、わが国を戦争のできる国にしたがっている。しかしそれは、自国民をこうした法の保護のもとから放逐する危険な道でもあるのだ。憲法が守るべき対象は国家ではなく、あくまで国民なのだということを忘れてはならない。
(つづく)
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