日本の文化からのウエルビーイング

Facebook人の心に灯をともす 投稿記事

【銀メダリストのほうがその後の人生で成功しやすい】

予防医学研究者、石川善樹(よしき)氏の心に響く言葉より…

未来にワクワクする気持ちは、「何が起きるかわからない」という不確実性への期待、ときめきです。

象徴的な例として、オリンピックのメダリストで考えてみましょう。

オリンピックに出場する選手にとって、最上の結果は金メダルです。

4年に1度しかない世界的スポーツの祭典で、全力を発揮して世界のトップになる。

オリンピックでの金メダル獲得は、間違いなくアスリート人生における最高の到達点でしょう。

ところが、金メダルを取った選手よりも、銀メダルを取った選手のほうが実はその後の人生で成功しやすい、高収入を得ていたという研究結果が出ています。

アスリートとしての名誉、そして賞金や報奨金の額面においても銀メダリストよりも金メダリストのほうが格段に上です。

にもかかわらず、なぜそうなるのか?

それは金メダルを獲得することによって、人生の「予測不可能性」が下がってしまうからだと考えられます。

柔道で金メダルを取ると、多くの選手はその後も柔道の道に縛られ続けます。

自分 =柔道という思い込み、周囲からの期待の眼差しが強化され、柔道以外のキャリアが歩みづらくなるのです。

結果、その先の人生において何が起きるかわからないワクワク感やサプライズ感は必然的に薄れます。

対して、銀メダリストは金メダリストより区切りをつけやすい。

「次は違う分野で頑張ろう」と心を切り替え、セカンドキャリアの可能性を幅広く考えられる強みがあります。

メダリストの平均年齢層は20代後半。人生の早い段階で絶頂期を迎えると、 その先の予測不可能性が低下する側面があるのです。

《人生の早い段階での成功はマイナスにもなる》(吉田尚記)

年棒何十億円という収入を若いうちに得るNFL(アメリカンフットボール)選手の約8割が引退後に自己破産している、という報道がありました。

人生のピークが若いうちに来るのは危うさもありますよね。

『むかしむかし ウェルビーイングがありました』KADOKAWA

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世界保健機関(WHO)では、ウェルビーイングのことを、幸福で肉体的、精神的、社会的すべてにおいて、満たされた状態をいうそうです。

しかし、石川善樹氏は、ウェルビーイングという「幸せのかたち」は、一人ひとりでそれぞれ異なるものだと言います。

たとえば、運動嫌いでも長生きしている人もいれば、喫煙していても長生きする人もいます。

また、「飽(あ)きる」というのは日本ではネガティブに捉えられがちですが、実は「飽きる」のは一種の才能だと石川氏は言います。

なぜなら、飽きやすい人のほうが、圧倒的に「新しいこと」を始めやすいからです。

人間の脳は「予測不可能」、つまり何が起こるかわからない未来を好む傾向があるので、「新しいこと」にワクワクするのですね。

金メダリストより、銀メダリストのほうが、人生の「予測不可能性」が高まる…

何が起こるかわからない予測不可能な未来を、ワクワク・ドキドキしながら楽しみたいと思います。


https://ameblo.jp/kaze-no-nagare/entry-12732777653.html 【日本の文化からのウエルビーイング】より

ネコはワガママに見える。ネコは好奇心で動いてる。そこが私と似てるところ。

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杏の花が咲き始めました。雨の後の畑の菜花も鮮やかです。ウエルビーイングってあんまり心に響きませんでした。でも、ページをめくっていたら、ケーズデンキの経営のことが出てきて、読み進めました。

特に第二章、日本文化から見つけたウエルビーイングの章です。

昔ばなしや落語を通して、ゼロから上を目指す西洋と、又ゼロに戻る日本の文化の大きな違い。

おじいさん、おばあさんの名前が分からなくても、ちゃんと分かる。

熊さん八つあんがいつも出てくる。それで通じる世界です。

一番心に止まったのは、

幸(しあわせ)という日本語は、仕合う(しあう)からきているという文です。

幸という字は中国では「しん」か「こう」とい音になるでしょう。

その字に「しあわせ」と訓じたのは誰なんでしょう?逆にしあわせに中国字の幸を当てたのかな?最近これは日本語だと思う単語に敏感になってます。

波(なみ)も、木(き)も、空(そら)も、中国音ではないですね。

文字も、人間関係も、(為合う)日本の元々の文化です。

落語で、しようもないことばっかする与太郎を、叱ったり、教えたり、呆れたりしながらも、人間関係からはじき出さない世界は、ウエルビーイングといえるでしょう。

日本文化は生きてゆく上で、仕合わせ(幸)の大きな土台ではないか、遠くを見なくても、

大事なことはみんな近くにありました。

泉光院の旅にも出てきた、人々の、差し伸べる手と同じものが、見えたと思いました。

日本ではしあわせは個別ではなく、関係の中にあるって嬉しくなりました。午後から黒い雲がムクムク。

花に群雲、月に風。いろんな場面があっての人生だなぁ。


https://news.goo.ne.jp/article/newswitch/life/newswitch-32193.html 【現代日本人の「ウェルビーイング」を考えるヒントは“昔話”にあった】より

日本的「ウェルビーイング」に向けたヒント

近年、ビジネスの場で「ウェルビーイング(well-being)」が注目されている。この言葉は「心身共に健康で満足した状態」のことを指し、わかりやすく「幸福」と訳されることもある。

「幸福」は定性的で、どう感じるかには個人差もあり、これまで企業が指標にするには不向きとされてきた。最近になってそれが注目されている背景として、モノがあふれる現代では「心の充足」が求められること、コロナ禍で生活様式や価値観が変化し、個人の「生き方」が問い直されていることなどが指摘される。

ただ、そもそもウェルビーイングの概念はわかりにくい。どう目指していいのかもよくわからない。その点、日本的な感覚のウェルビーイングを大づかみできる好著が『むかしむかし あるところにウェルビーイングがありました』(KADOKAWA)だ。

著者は、予防医学研究者の石川善樹さんと、ニッポン放送アナウンサーの吉田尚記さんで、2人のポッドキャスト番組の対談がもとになっている。石川さんの学術的でありながら、平易でくだけた文体による解説に、吉田さんによる異なる視点やクスッと笑えるコメントが挟まるという構成。ウェルビーイングについて「学ぶ」ための肩肘張った本ではなく、生活や文化のそこここに落ちているウェルビーイングのヒントを拾い、「こんな感じ」と示してくれるような書だ。

「ゼロに戻る」思考に、日本人特有の「幸せのかたち」がある

ところで「ウェルビーイング」と一言でいっても、何に満足や幸福を感じるかは時代や文化によって異なる。キリスト教の影響が大きい西洋のモノサシでは、日本的なウェルビーイングは測り切れないのではないか。

では、日本的な幸福や満足の形はどこにあるのだろう。本書が示すヒントは「むかしむかし」で始まる日本の昔話だ。

西洋の昔話は、子どもが主人公であることが多く、冒険して宝物を見つけたり、最後に結婚して幸せになるような「立身出世」の展開が多い。これとは対照的に日本の昔話は、「おじいさんとおばあさん」がやたらと登場し、ハッピーエンドは少なく、物語のスタートとゴールに変化がない話も少なくない。たしかに、浦島太郎は竜宮城から戻ってきておじいさんになる(立身出世しない)し、かぐや姫は月に帰っておじいさんとおばあさんが残される(ゼロに戻る)。

心理学者の河合隼雄は、こうした違いを指摘し、日本の昔話が世界の物語の中でも特殊であることから、ここに「日本人の意識構造」があるのではないかと分析した。「上昇するほど幸せになれる」と信じる西洋的な思想に対し、「元に戻る」「ゼロに戻る」をよしとし、受け入れるのが日本の思想で、石川さんは、日本的ウェルビーイングの原型は「ゼロに戻る」にあると考えている。

そういえば、ディズニー映画では、白雪姫からアナとエルサに至るまで、「プリンセス」が主人公でハッピーエンドが定番だ。一方で、日本のスタジオジブリ作品を見ると、同じプリンセスでも、ナウシカやもののけ姫、かぐや姫と、いずれの物語も単純なハッピーエンドとはいいがたい。「千と千尋の神隠し」(宮崎駿監督)の主人公・千尋はどこにでもいる女の子で、湯屋で働いたのち、もとの世界、まさしく「ゼロ」に戻る。

こうした物語をよしとする価値観が、いまだ少なくない日本人の根底にあるのではないか。昨今のヒット漫画『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴作)も、主人公は一貫して、鬼になった妹を人間に「戻す」ことを試みている。

もちろん、明治以降、日本社会では西洋化が進んでいる。ビジネスについていえば、そもそも資本主義経済は基本的に成長を前提とするのだから、上を目指す心理が働くのは当然でもある。昇進や昇級を求めて頑張る生き方が「ウェルビーイング」につながるという人がいてもいい。ただ、改めて自身の「ウェルビーイング」が本当はどこにあるのか、思い込みを捨ててじっくりと考える機会を持つべきではないだろうか。

「連」と「号」に見るビジネスパーソンのウェルビーイング

石川さんは、他にもたくさんのウェルビーイングのヒントを紹介しているのだが、その中でも「連」と「号」の話はビジネスの現場でも応用できそうだ。昔話ではなく「和歌」がテーマである。

「万葉集」の時代から、日本人は歌を詠み続けてきた。やがて歌を詠み合うグループである「連」が生まれ、そこに集う人々は「号」という別名を持つようになった。江戸時代、多くの人が複数の号を持ち、いくつもの連を渡り歩いて人生を楽しんでいたという。ところが昨今は、公私にわたる首尾一貫性が求められ、息苦しい時代になっていると、石川さんは指摘する。

これに関連した、吉田さんの瀬戸内寂聴さんについてのコメントが興味深い。「毎日が楽しくない」と悩む人の相談に、寂聴さんが「秘密を持ちなさい」と助言したエピソードを紹介しているのだが、寂聴さんご自身が、紫式部にちなんだ「ぱーぷる」というペンネームで、密かにケータイ小説を書いていたことがあるのだとか。

有名作家が身元を隠し、こっそりケータイ小説として好きな物語を書く……。俗名の「晴美」に加えて「寂聴」「ぱーぷる」の“号”を持ち、さぞかし人生を謳歌され、ウェルビーイングでいらしただろう。

この話、ビジネスの世界でいえば、「副業」に通じるのではないかと思うのだ。職場によって異なる顔を持つことは、秘密とは限らないが、それに似た楽しみがある。「あなたらしくない」といった周囲の声にとらわれることなく「号」のような別名や、「連」のような居場所を使い分け、居心地のいい立ち位置を見つけることがウェルビーイングにつながる気がする。

他にも石川さんは、自分よりも大切な何か、すなわち「推し」をもつことや、旅をすることなど、ウェルビーイングを見つけるヒントをいくつかあげている。これらに通底するのは、「doing(すること)」ではなく「being(いること)」の感覚を大事にすることだ。

現代の私たちは、つねに何を「する」かを問い続けられ、「いる」を楽しむことや、「いる」だけでいいという価値観を忘れがちだ。その点、「推し」は「いて」くれるだけでいいし、旅先では素の自分で「いる」ことができる。

自分も相手も「いる」だけで十分。受け入れてくれる場所を見つけ、相手を受け入れる寛容さを持つことが、ウェルビーイングへの第一歩なのかもしれない。

(文=情報工場「SERENDIP」編集部 前田真織)


https://style.nikkei.com/article/DGXZQOKC0257S0S2A500C2000000/ 【「推し」が幸福への近道 日本的ウェルビーイングの本質】より

『むかしむかし あるところにウェルビーイングがありました』

いきなり若者言葉で恐縮だが、あなたには「推し」がいるだろうか。推しはアイドルに対して使われることが多く、ファンとして応援する対象を指す。尊敬する作家や歴史上の人物、あるいはわが子であっても構わない。自分以外の大切なもの、さらには「自分以上」に大切に思う対象が推しといえる。

推しを持つことが「ウェルビーイング(Well-being、心身の健康や幸福)」につながると指摘するのが本書『むかしむかし あるところにウェルビーイングがありました』だ。ウェルビーイングの定義はさまざまだが、本書には「『満足』と『幸福』が揃えばおおむねウェルビーイングといえる」との記述がある。

著者の石川善樹氏は予防医学研究者、医学博士。公益財団法人Wellbeing for Planet Earth代表理事を務める。吉田尚記氏はニッポン放送アナウンサー。本書は両氏が出演するポッドキャスト番組をもとにしており、昔話などの日本文化から、ウェルビーイングの本質を探っている。

変わる世界、価値観や社会を見定める力が大切

「する」よりも「いる」に価値を見いだす

推しがウェルビーイングにつながるとはどういうことか。石川氏は、それを説明する前に、『古事記』に登場する神々の中に、いてもいなくてもいいような神がいるという事実を持ち出す。例えば、天と地ができる時に出現するアメノミナカヌシという神は、最初に出てきただけでその後二度と現れず、何のための神なのかさっぱりわからない。

石川氏は、「いてもいなくてもいい」は裏返すと「いるだけで価値がある」ということだとして、日本人に「する(doing)」よりも「いる(being)」を優先する価値観があると指摘する。

現代のアイドルを推す人たちは、その対象が「いる」ことだけで満足する傾向にあるそうだ。アイドルグループを「卒業」したりすると推しを辞めてしまう人もいるが、それは推しがグループに「いる」ことに価値を見いだしていたからだろう。

ただ「いる」対象を推し、自分も「推す」行為をする主体として「いる」だけでいい。そのことに満足と幸福を見つけられれば、それがウェルビーイングの状態といえるのではないか。それが著者らの主張なのだと思う。

「もとの地点に戻る」のが昔話の特徴

本書では他にも、日本の昔話に、主人公が立身出世して幸せに暮らす、といったハッピーエンドが少なく、「もとの地点に戻る」話が多い傾向があることを指摘。例えば「うらしまたろう」は西洋の人から見ると奇異に思えるらしい。竜宮城で太郎がドラゴンと戦うのかと思いきや、飲み食いしてもとの場所に戻るだけだからだ。

著者らは、この「もとの地点に戻る」というのが日本的ウェルビーイングの原型であると仮説を立てる。それ故、旅に出て帰ってくることでウェルビーイングを実感できる、とのことだ。

「今、ここ」に集中する禅やマインドフルネスも、日本的ウェルビーイングに通じるものなのではないか。私も某アイドルグループの「推し」を続けながら、「いる」ことの価値をじっくり考えてみたい。


https://article.auone.jp/detail/1/3/6/7_6_r_20220215_1644919382412176  【「にほん昔話」から幸せの秘訣を見いだせる理由】より

2022年必須のテーマ「ウェルビーイング」は、あの「まんが日本昔ばなし」に描かれている

幸福で肉体的、精神的、社会的すべてにおいて満たされた状態を指す「ウェルビーイング」という言葉。持続可能な社会を目指すうえで重要となりつつあるキーワードですが、難解でとっつきにくいイメージを持つ人も少なくないでしょう。

しかし、実はその本質に迫るカギは、昔話をはじめとした古事記、アイドル、和歌などの日本文化に隠されていたとしたらどう思うでしょうか。

気鋭の予防医学研究者・石川善樹氏と、人気アナウンサー吉田尚記氏の共著『むかしむかし あるところにウェルビーイングがありました 日本文化から読み解く幸せのカタチ』から抜粋・再構成して紹介します。

ウェルビーイングの研究を進めていく中で私は、数年前に絶好の素材にめぐり逢いました。それが『まんが日本昔ばなし』です。

日本各地に伝わる昔話を映像化したこの国民的名作アニメは、1975年にテレビ放送が始まり、以来、再放送や特番などさまざまな形で放送されてきました。

『まんが日本昔ばなし』を毎晩見続けてわかったこと

私が『まんが日本昔ばなし』を毎晩見る生活に突入してから数年が経ちます。

これまでに数百話を見てきてまず気づいたのは、おじいさんとおばあさんが多数登場する点です。しかも彼らには名前がない。「かぐや姫」「桃太郎」のように名前がある主人公も登場しますが、おじいさんとおばあさんは徹底して無名の存在として描かれます。実は主人公ですら名前がついてない話も意外と多い。

「誰もが知っているあの人」ではなく、「誰も知らないとなりの人」=Nobоdyの話を日本人はずっと語り継いできた。それがはっきりと浮かび上がってきます。

次に気づいたのは主人公が成長しないこと。多くの登場人物は成長も変化もせず、欲深いおじいさんは欲深いままで終わる。だから救いがない悲惨な話も多数あります。

よくよく考えると、年老いたおじいさんとおばあさんが出てくる時点で、そこから成長したり上昇したりする展開って難しいですよね?(吉田氏)

成長も変化もしないということは、弱さや嫌な部分をあるがままに肯定するということでもあります。

例えば、『火男』という話。火男は「ひょっとこ」の語源で、あのお面がどうやってできたのかという昔話なのですが、これがもう天才的に面白い。「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがいました」というお決まりの冒頭から始まるのですが、「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に、まぁ……あまり行きませんでした」と意表を突いてくる。そこから欲深なおばあさんと善良なおじいさん、火男のあれこれが展開するのですが、結末を言ってしまうと欲深なおばあさんは、欲深なまま死んでいきます。変化も成長もしない人物像の典型例のような昔話です。

ちなみに、『火男』の演出を手掛けた杉井ギサブロー監督は「放送事故では?」と不安になるほど間をたっぷり取り、強い喜怒哀楽ではなく弱い感情をほろっと描く達人で、『まんが日本昔ばなし』の中では私が最も好きな監督です。

ものごとを肯定する『日本昔ばなし』

大酒飲みの男が主人公の『酒が足らんさけ』という話も、ウェルビーイングな人生とは何かを考えさせられた一作です。

日中は山で一生懸命に働くが、日が暮れると町に出て酒を浴びるほど飲まずにはいられない。そんな男が酒で死にかける目に遭いながらも、なんだかんだでまた「おれはやっぱり毎日一升酒を飲むんじゃ!」と決意して、再び大酒飲みに戻るが結局長生きした、というお話です。

『火男』も『酒が足らんさけ』も、他人に変化を期待しない、良い悪いで相手をジャッジしない市井の人々の姿が描かれている点が共通しています。

欲深でも酒飲みでも貧乏でもものぐさでも、その人のまるごとを肯定する。そして結局最後には、また始まりと同じ場所へと戻る。日本の昔話の王道ともいえるこのパターンをひもといていくと、つねにゼロ地点へ戻りたがる日本人の民族性が見いだせる気がします。

私たちはマイナスからゼロ、ゼロからプラスへ、という上昇志向を刷り込まれながら成長し、大人になっていきます。ゼロはプラスへ向かうまでの通過点であって、プラスを積み重ねていくことにこそ人生の価値がある。無意識のうちにこんなふうに考えている人は多いでしょう。

けれども、『まんが日本昔ばなし』を見ると、日本人はいつの間にかゼロの価値を過小評価するようになったのでは、と考えてしまいます。ゼロは通過点ではなく、ゼロこそがひとつのゴールと捉えることもできるはずなのに。

『まんが日本昔ばなし』のエンディングテーマを思い出してください。「にんげんっていいな」というタイトルのあの歌は、実は動物たちの目線から見た人間たちを描いたものです。では動物たちはどこを見て「にんげんっていいな」と思っているのか? それは「ごはん」や「おふろ」、「ふとんで眠る」ことをいいなと羨んでいるのです。

確かに、あれは動物から見た「にんげんっていいな」ですね。帰る住処は動物にもあるかもしれないけど、ごはんとお風呂、ふかふかの布団は人間だけが得られる快楽です。心の状態はいったん置いておいて、身体的ウェルビーイングの本質はこの3つで十分に事足りる気がします。(吉田氏)

『まんが日本昔ばなし』には、食べ物に関係する話も非常に多く登場しています。

『あにょどんのデコンじる』のように、「働いて空腹ならなんでもうまい!」という筋ともいえないお話も残っているくらいです。

その意味で、ごはん、お風呂、布団。このシンプルな3要素は日本人にとっての「ゼロ」とも言えるウェルビーイングの原型といってもいいかもしれません。

「上昇志向」そのものがバイアスの結果?

とはいえ、もちろん「ごはん、お風呂、布団」という生理的欲求のみで生きていけるほど、今の時代は単純ではありません。それでもあえてこの原則に立ち戻ったのは、「夢や目標を持ち、志をもっと高く!」という上昇志向の発想自体が、すでにある種のバイアスがかかった考え方であると気づくきっかけにもなるからです。

今よりもっと良い人生があるはずだ。そうした思考は確かに前へと進む足がかりにはなりますが、前や上ばかりを見ているとすぐ目の前、今日一日のことを人間はおろそかにしてしまいがちです。やりたいことが見えなくてもいい。今日という日を味わって過ごし、いつでもゼロに立ち戻っていける自分を積み重ねていく日々にも、十分に価値があるということを心に留めておくとよいのではないでしょうか。

再び昔話に戻りましょう。平凡な日常が続いていくゼロ地点は、馴染み深く安心できる場所です。けれどもほんの少しだけ、何かが起きる未来への期待が欲しい。そんな心理に応える装置としての側面も、昔話にはあったのでしょう。

いつも洗濯している川の向こうから、大きな桃が流れてくるかもしれない。亀を助けたら竜宮城へ連れて行ってもらえるかもしれない。そんなふうに、日常的な風景にいろんな夢を埋め込んだ装置としての役割も、かつての昔話は果たしていたのだと考えられます。

その文脈で考えると、今の時代の夢埋め込み装置はラノベやアニメでは? 空から少女が降ってきたり、異世界に転生してまったりスローライフを送ったりといったパターンの話がウケるのも、変化のない日常に夢想を詰め込んで癒やしを提供しているからでしょうね。(吉田氏)

日本の昔話は西洋のものとどう違う?

もうひとつ、日本の昔話や落語の人気噺を見て特徴的だと思うのが、「金持ちになりました、めでたしめでたし」で終わる話が西洋に比べると少ないことです。あるにはあるのですが、それよりはほのぼのした不思議な話のほうが日本では圧倒的に多い。これは、日本人はずっと昔から金持ちになることと、ウェルビーイングな人生を送ることは、別問題だと理解していたからだと考えます。

「ごはん、お風呂、布団」はお金で買えても、その先にある生きがいのようなものまでは買えません。そして日本の昔話のメインキャラともいうべき老人たちにとって、老い先短い人生で大金を手にしてもあまり意味がない。むしろ、何かを楽しみに待つ時間が奪われてしまうことだってあるでしょう。

年収がある水準を超えると、収入と幸福感は相関しなくなる、という研究結果が出ていることからもそれは明らかです。お金は生活に安定をもたらしますが、絶対の幸福までは約束してくれません。

だからこそ、いつの時代も人は無意識のうちに「何かを楽しみに待つ」時間を欲してきたのではないでしょうか。旅行前日の準備の時間が一番ワクワクするように、何かを楽しみに待つことは、それ自体がウェルビーイングな状態なのです。

(石川 善樹 : 予防医学研究者)

(吉田 尚記 : ニッポン放送アナウンサー)


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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