縄文時代

Facebook清水 友邦さんtoukoukiji 「よみがえる女神 増刷]

嬉しいお知らせです。

拙著『 よみがえる女神 』が品切れになっていましたが増刷が決定しました。

6月には新刊と同じ扱いで全国の書店で店頭に並ぶそうです。日本人には戦いを好まない縄文人のDNAが流れています。日本の再生、地球の再生は、日本人の心の古層にある縄文の心

-自然を畏怖し、神々や精霊との関係性を大切にして自然と調和してきた心を、もう一度取り戻すことにあるのではないかと思います。

(「まえがき」より)

歴史家でもない私がなぜ日本についての本を書いたのか不思議に思った人がいました。

「書かせられたのですね」と言ってきた人もいました。あながち間違っているともいえないかもしれません。「よみがえる女神」が誕生するまでにはシンクロニシティともいうべき偶然の一致が多発していたからでした。

出版不況の時代に売れるかどうかわからないマイナーな本を赤字覚悟で出してくれる出版社はいないと思います。

私も本を出すことは考えていませんでしたが、きっかけは出版社の社長との雑談の中でたまたま日本について書いて見ませんかという一言からです。

その間も不思議な出来事が色々あったので、目に見えない力が働いたとしかいいようがありません。人間の意識はマインドだけでなくスピリットも含まれています。

一人でできないことでもたくさんの人が協力することで達成できることがあります。

マインドを超えるとそこには無限の広がりをもった目に見えない世界があります。

数えていませんが本が出る前の2年間で神社を200ヶ所以上回っています。

初代神武天皇の生まれた場所、九州を出発した場所、戦った場所、熊野に流れ着いた場所、即位した場所をいつのまにかまわっていました。別系統のニギハヤヒの神社も全国を廻っています。一人では到底周りきれません。

ありがたいことに全国のたくさんの方々にご案内していただきました。

神社を巡って気がついたのですが、神社は目に目えない世界との接続を促すインターフェースの働きをしていたことです。

正確にいうと神社の建物がなくとも大地のエネルギーが通常とは異なる場所がたくさんありました。神社でなくお寺や縄文時代の遺跡だったこともあります。

身体感覚が鈍くなってしまった人間の都合で神社の移動や統廃合が行われているので役割をはたせなくなった神社もたくさんあります。

聖なる場所で瞑想すると意識が広がるのでわかります。

「よみがえる女神」に200枚以上写真を載せていますが撮った写真はその何倍もあります。その中には鳥居も朽ちてしまい忘れ去られた神社もあります。

官費の神社は税金が投入されたので立派ですがそれ以外の土地の産土の神社は危機的状況にあります。高度成長の時代になって経済が神になると神社を支える地域の共同体が崩壊していきました。土地に住む人々も自らのルーツを忘れてしまっています。

日本がこれからどうなるかの運命は神社の荒廃が暗示しています。

歴史が抹殺されて、別の神話と歴史を教えこまれた民族は滅んでいます。

問題は建物を立派にすれば良いのではなく聖地を大切にしているかどうかです。

古代の集落の中心にいたのはミコ(巫女)とサニワ(沙庭・審神者)でした。

男性のサニワは後に、祭祀と政治の場でミコト(神命)を実現する、スメラミコトとなりました。スメラミコトとは、スベ(統べ)、オサメル(治める)ということです。

統御する役割を持っている人がスメラミコトです。

誰でもこの世にお役目(ミコト)をもって生まれてきています。

誰もが役目をもってきているので、それを果たそうとする人は誰でもミコトになるわけです。

ヒミコ(卑弥呼)の時代は女性の姉妹がリーダー(ヒメ・トベ)で男性の兄弟が政治と軍事を司っていました。

青銅器・鉄器・古墳時代と時代が下がると軍事リーダーの男性が祭祀と政治の両方を独占するようになったのです。

室町時代までに徐々に女性の地位は低下して、女性が祭祀をおこなっていた聖地は女人禁制となりました。それが現代まで引き継がれています。

男性性は結果を求めて競争し相手を打ち負かそうとします。女性性は協力、調和、共生、融合、受け入れることにあります。男性性が強すぎると分裂して争い始めます。

肉体の性差ではないので男女どちらの性も女性性と男性性を持っています。

今の危機状況は男性原理に傾きすぎているのです。

思考の囚われに気がつくとあらゆる命は一つにつながっている一体感が生まれます。

男性性と女性性のバランスが取れると意見が異なった相手でも一方的に非難することはありません。

女性がリーダー(スメラミコト)になって男性がサブに回れる柔軟さが生まれます。

男性性と女性性は相補的なので状況に応じて入れ替わることができます。

縄文時代は誰も支配しない(ヘテラルキー)平等な社会でしたが

現代社会は権力が少数者に集中している支配体制(ヒエラルキー)なっています。

昭和の時代から令和の時代になって男性皇族が少なくなって女性皇族が多くなっています。

危機を乗り越えるには女性性を優位にして男性性に傾いたバランスを取り戻すことを

暗示しているのかもしれません。女神はやさしく静かにいまも見守っています。


https://www.yamanashibank.co.jp/fuji_note/culture/jyomon-jidai.html 【山梨の縄文遺跡から知る、縄文時代という長大安定期。】より

三内丸山遺跡の大型竪穴建物(復元)内写真は三内丸山遺跡の大型竪穴建物(復元)内(三内丸山遺跡センター所蔵、許可を得て掲載)

縄文時代。

聞き慣れた言葉なのでついつい分かった気になってしまいますが、実は1万3,000年以上も穏やかな時代が続いた長大安定期。縄文遺跡の中には、6,000年以上も同じ場所で生活が継続した驚異の集落もあります。

大きな戦争はありませんでした。狩猟採集時代にこれほど長期間にわたり定住を行った例は世界でも縄文時代だけと言われています。

そんな縄文時代の日常や文化とはどのようなものだったのでしょうか?山梨県の遺跡や全国的に有名な遺跡を例に迫ります。

縄文時代の暮らしや価値観を、山梨の遺跡や全国の遺跡を例にご紹介します。

縄文時代とは

諸説ありますが、縄文時代は今から約16,000年前から約3,000年前までの間、実に13,000年ほど続いた時代です。

狩猟採集社会で、「森や海の恩恵を受けながら土器を使って煮炊きした時代」と定義されます。つまり、土器を使って煮炊きすることで食べられるものや保存できるものが増えたのが特徴です。

縄文時代は長大な安定期〜なんと6,000年間続いた集落も

縄文時代には天候に左右される不安定な狩猟採集生活で移動を繰り返すイメージが以前はありました。ところが、近年の研究でそのイメージは大きく変わりました。

縄文時代の遺跡の調査により、1,000年以上集落が継続した長期定住集落遺跡が多くあり(青森、三内丸山遺跡など)、なかにはなんと4,000年間(石川、真脇遺跡)、6,000年間(北海道、垣ノ島遺跡)も、同じ場所で集落が継続した例もあります。

もしも食べ物が不安定だったり争いが絶えなかったら、同じ場所で何千年も住み続けることは到底できないはずです。このことからも、縄文時代が平穏で持続的な社会であったと考えられています。

弥生時代以降とは根本的に違った縄文時代の社会構造

縄文時代は弥生時代とどう違うのでしょうか。違いは稲作の開始と言われますが、それが社会構造にどう影響を与えたのでしょうか?

縄文時代は、食べ物を協力して得て、獲ったものや育てたものをみんなで処理したり保存する共同生活でした。リーダー(長老など)がいる助け合いの社会で身分や貧富の差はあまりなく、弱い者は生活の助力を得ていたと考えられています。

一方、弥生時代には水田で米を作る者と作らせる者が生まれ、お米という富を蓄える人が現れます。すると、水を引くための戦いや土地の奪い合いが起こるようになります。実際に、弥生時代の遺跡からは、額にやじりが刺さった人の骨や殴られて殺された人の骨が出土するようになります。縄文時代には殺傷目的の武器は出土せず、戦争という概念は存在しなかったと専門家は指摘しています。縄文遺跡は前述のとおり数千年続くことも珍しくなかったのが、弥生時代に入ると遺跡は長くても数百年しか続かなくなります。

このように、縄文時代が弥生時代と大きく違うのは、その平穏さと持続性ということになります。

交易は広範囲

縄文時代の交易

縄文時代には日本の広範囲で交易が行われていた

縄文時代、日本列島の多くが森や湿地に覆われていました。そのため集落は閉鎖的で、周りとの交流も疎遠だったと思うかもしれませんが、実際にはかなり交易が盛んに行われていたようです。

例えば、新潟県糸魚川産のヒスイが遠く離れた青森や沖縄諸島から見つかっています。また、当時、狩りのマストアイテムだった黒曜石も、長野産のものが仙台や北海道、関東からたくさん見つかっています。

当時すでに海路や陸路が確立していて、日本列島全体でものの行き来が起こっていたようです。

土偶というものづくり〜釈迦堂遺跡から

縄文時代と言えば真っ先に思い浮かぶ土偶。

乳房やお腹、臀部を誇張した女性像の土偶が多く出土するため安産や豊作などを祈った、片方の足を故意に破損した土偶も多く、ゴミ捨て場に捨てられていることが多いため病気の回復や厄災払いを祈った、呪術や子供のお守りとして使われた、など土偶の目的にはいろいろな説があります。

山梨県の釈迦堂遺跡は大量の土偶が出土した遺跡として有名で、計1,116個体の土偶が出土しています。これは全国の7%程度を占める数と言われています。

釈迦堂遺跡の土偶

釈迦堂遺跡の土偶(撮影:塚原明生、所蔵:釈迦堂遺跡博物館。許可を得て掲載)

山梨は今はジュエリー・アクセサリー加工などで有名な地ですが、当時もあったであろう富士山や八ヶ岳の風景が造形ごころに火をつけたのでしょうか?

縄文時代の『柱』というキーワード

石川県の真脇遺跡から、円形に配置された巨大なクリの柱の列の跡が出土しました(環状木柱列)。同様の遺構は石川県や富山県を中心に約20遺跡で見つかっています。用途は不明です。

真脇遺跡の環状木柱列(復元)

真脇遺跡の環状木柱列(復元)(真脇遺跡縄文館より許可を得て転載)

また、石川県から遠く離れた青森県の三内丸山遺跡でも、巨大なクリの柱を6本立てた遺構が出土しています。専門家の意見は「建物説」と「柱説」に分かれ、目的も用途も最新科学をもってしてもいまだ不明です。

三内丸山遺跡

三内丸山遺跡の大型堀立柱建物(復元)と大型竪穴建物(復元)(三内丸山遺跡センター所蔵、許可を得て掲載)

三内丸山遺跡

三内丸山遺跡の大型掘立柱建物跡調査風景(三内丸山遺跡センター所蔵、許可を得て掲載)

このように、柱を建てた遺構が縄文時代の遺跡からたびたび見つかる理由はよく分かっていません。真脇遺跡の場合、円の中から人骨や火を使った跡は見つかっていないため、お墓や炊事場ではなく、祭事や儀式などの役目を持つ場所であった可能性があります。この集落は古くからイルカ猟をやっていたため、漁に感謝するための祭壇だったと考える研究者もいるようです。

柱の構造物は実は現代にも多く見い出せます。たとえば、神社の鳥居や出雲大社本殿の巨大柱構造物(最近発見された)、諏訪の御柱祭り(おんばしらまつり)などです。山の斜面に巨木を落とす木落しで有名な御柱祭りですが、運ばれた御柱は諏訪大社境内の本殿四隅に建てられます。縄文遺跡に見られる巨木を建てる風習に妙に符号するのです。

哲学者の梅原猛は、ハシラの意味を縄文文化を色濃く残すアイヌ語を交えて考察し、縄文時代から高く大きな柱を立ててこれを崇め、お祈りする風習があったと指摘します。

縄文時代の動物飼育・ペット

縄文時代、犬が猟犬として飼われていたことが分かっています。大切に埋葬されているケースも見つかっているので、家族として生活をともにしていたと考えられます。 猫はどうでしょう。猫派としては気になるところです。

実は縄文時代当時、オオヤマネコが本州にも生息し、縄文時代の遺跡からまれに骨が出土します。とはいえ犬ほどは縄文人の生活に身近ではなかったようで、狩猟対象動物だったと見られています。それでもオオヤマネコの歯に穴を開けた装飾品も出土しているため、高い狩猟能力を誇示するアクセサリーとして、あるいは謎多き洗練された動物を象徴的に扱う呪術的な道具として用いられていたのかもしれません。

さらに、こんなかわいい土製品も出土しています。

ネコ形土製品

ネコ形土製品(福島県郡山市町B遺跡出土)

(縄文時代中期~晩期)(郡山市教育委員会所蔵、許可を得て掲載)

これはどう見ても猫に見えますが、実際にネコを表現したかどうかは不明だそうです。この土製品を見ていると、当時も今も、かわいいのセンスは同じと思えてしまいます。

森の動物の生態に通じていた当時の人たちですから、猿やイノシシの子やリスなどを捕まえてきて、集落でペットとして飼っていたかもしれませんね。そんなときには、子供たちが喜々として世話役をかってでた光景が目に浮かびます。

縄文土器〜世界的に見ても高度な装飾

縄文時代を縄文時代たらしめたのは土器で煮炊きを始めたことですが、当時から土器は単に目的を果たせばいいということではなく、縄模様や渦巻き模様をつけたり、火焔や水煙、人や動物をかたどった装飾物を付けたりとデザインにもこだわっていました。狩猟採集生活においてこのような高度なデザインが進化した例は世界的に珍しく、海外の博物館でもしばしば縄文土器が展示されています。

釈迦堂遺跡の水煙文土器

釈迦堂遺跡の水煙文土器

(撮影:小川忠博、所蔵:釈迦堂遺跡博物館。許可を得て掲載)

こちらは山梨県釈迦堂遺跡から出土した縄文土器。水煙(みずけむり)のような構造が幾重にも重なって全体として美しい曲線を醸しだしています。これが日々の煮炊きに使われていたなら、当時の生活は実用と高い芸術性に根付いたものだったことが分かります。

現代の食器やお皿も形や絵付けなどデザインにこだわることは同じです。デザインが生活に彩りを与えてくれることを縄文人も現代人も知っていたということでしょうか。

縄文時代のスイーツ

縄文時代にはオシャレなスイーツもあったそうです。それはクッキーです。全国各地の縄文遺跡から、ドングリやクリから作ったクッキーの炭化したものが出土しています。

作り方はとても凝っていたそうです。まずはクリやどんぐりを石の皿と延べ棒のようなもの(磨石)で粉にします。

その粉にどんなものを混ぜたのかは推測の域をでないものの、動物の脂や野鳥の卵などを混ぜて焼いたのでは?と推測する研究者もいます。遺跡によっては、クッキー1つひとつに丁寧に渦巻き模様がつけられたものもあり、当時からオシャレにスイーツづくりに取り組んでいたようです。

縄文時代の労働時間は4時間⁉

一説には縄文時代は1日4時間程度の労働だったといいます。現代社会では労働のために日々の日常を味わえなくなっている人もいますが、当時は今と比べたらだいぶゆったりとした時間が流れていたようです。

もっとも当時は労働という観念はおそらく希薄で、食べ物を獲りに森に行く、面白い形を思いついたから土偶を作るなど、目的と行動が直結していたのだと思います。また、祭りや通過儀礼、食べ物への感謝・死者への弔いの儀式に多くの時間を割いていたようです。

以上、長大安定期、縄文時代の暮らしの解説でした。

このように見てくると、当時は優れた持続可能な社会が形成されていたことが分かります。当時から学ぶ、と言うとありきたりですが、1万年以上も続いた安定な社会から、これからの社会の理想的な形を探ったり、人類がなぜ戦争をするのかという問いに迫る学問が進むかもしれません。

一方で、6,000年以上同じ集落で同じ暮らしを続けた縄文時代とは対照的に、たった数百年でここまで科学技術を進化させた現代人。自動車や飛行機で簡単に移動でき、YouTubeで好きな動画を見て、美味しい食事やスイーツを食べ、SNSで世界中の情報をすぐに得られるこの日常に、やはり現代社会の価値の高さを実感せずにはいられません。


https://www.yomiuri.co.jp/fukayomikakko /20171214-OYT8T50003/  【「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!】より

 日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也なるや 教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。

世界最古級の土器や火焔土器…独自文化に世界が注目

縄文時代を代表する大規模な集落跡、青森市の三内丸山遺跡。復元された6本柱の大型掘立柱建物が威容を誇る

 縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指す。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴だった。

 世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔かえん土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されている。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきた。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていなかった。

 斎藤教授が縄文人の核DNA解析を思い立ったのは、総合研究大学院大学教授を兼務する自身のもとに神澤秀明さん(現・国立科学博物館人類研究部研究員)が博士課程の学生として入ってきたことがきっかけだった。「2010年にはネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)解読が成功するなど、世界では次から次に古代人のDNAが出ていたので、日本でもやりたいと思っていた。神澤さんが日本人の起源をテーマにしたいということだったので、縄文人の核DNA解析に挑戦することにした」と振り返る。

福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読に成功

(『核DNA解析でたどる日本人の源流』に掲載された図をもとに作成)

 問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地さんがんじ貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪元げん教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大臼歯きゅうし)1本ずつを取り出し、提供してくれた。

 解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。

 「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。

アジア集団の中で最初に分岐した縄文人

 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万~8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。

 縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」

 アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏いかだで海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。

分岐した時期は2万~4万年前の間

 では、縄文人の祖先が分岐したのはいつごろか。「オーストラリアやパプアニューギニアに移動した集団が分岐したのが約5万年といわれるので、5万年より古くはないでしょう。2万~4万年前の間ではないかと考えられます。日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代ですから、4万年前あたりの可能性は十分にある」と指摘。「旧石器時代人と縄文時代人のつながりは明確にあると思う。後期旧石器時代はもともと人口が少ないですから、日本列島にいた少数の後期旧石器時代人が列島内で進化し、縄文人になった可能性も考えられます」と語る。

 また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊ふなどまり遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。

 以前から、アイヌと沖縄の人たちとの遺伝的な類似性が指摘されていたが、なぜ北のアイヌと南の沖縄の人たちに縄文人のDNAが、より濃く受け継がれているのだろうか。

 日本人の成り立ちに関する有力な仮説として、東大教授や国際日本文化研究センター教授を歴任した自然人類学者・埴原はにはら和郎かずろう(1927~2004)が1980年代に提唱した「二重構造モデル」がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、という学説だ。斎藤教授は「今回のDNA解析で、この『二重構造モデル』がほぼ裏付けられたと言っていい」という。

遺伝的に近かった出雲人と東北人

 日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。

 数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。

 「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。

日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?

 斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。

 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。

 このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。

弥生・古墳人も解析、沖縄では旧石器人骨19体出土

 日本人の成り立ちをめぐり、現在、さまざまなDNA解析が行われ、新たな研究成果も出始めている。「神澤さんや篠田謙一さんら国立科学博物館のグループは、東日本の縄文人骨や弥生人骨、北九州の弥生人骨、関東地方の古墳時代人骨など、数多くの古代人のゲノムを調べています。北里大学医学部准教授の太田博樹さんらの研究グループは愛知県・伊川津いかわづ貝塚の縄文人骨のDNAを解析していますし、東大理学部教授の植田信太郎さんの研究グループは、弥生時代の山口県・土井ヶ浜遺跡から出土した人骨から核ゲノムDNAの抽出に成功しています」

沖縄・石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から出土した約2万7000年前の日本最古の人骨

 古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。

 縄文時代以前の化石人骨も続々と見つかっている。日本本土で発見された後期旧石器時代人骨は静岡県の浜北人だけだが、近年、沖縄・石垣島の白保竿根田原しらほさおねたばる洞穴遺跡から約2万7000年前の人骨が19体も出土し、学際的な研究が進められている。

 分子(ゲノム)人類学の進展と技術革新で、謎に満ちた縄文人の由来や日本人の起源が解き明かされる日が、近い将来、きっと訪れるだろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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