Facebook清水 友邦さん投稿記事「誰でもない自分」。
我慢して自分に蓋をして無理にやりたくないことをしていると、やがて機能不全に陥り問題が発生します。
普通に暮らしている一般市民の人が権威に命令されると自動的に服従して他者に危害を加えるような行為を行ってしまう実験がエール大学でおこなわれた事があります。
有名なミルグラムの実験です。
『第二次世界大戦中、ヨーロッパでは約600万人といわれるユダヤ人が強制収容所に送り込まれて虐殺された。
1960年、当時ゲシュタポのユダヤ課長であったアドルフ・アイヒマンは亡命先の南米ブエノスアイレスで逮捕され、イスラエルで裁判を受けた。判決は死刑そして1962年5月31日、刑は執行されたのである。彼は裁判中「私はただ上官の命令に従っただけだ」と一貫して主張し続けた。
法律的にはともかく。心理学的には、彼の主張にも一片の真理があった。それを示したのがミルグラムの実験である。
ミルグラムは新聞を通じて「記憶に及ぼす罰の効果」に関する実験に参加してくれる被験者を募った。被験者はごく平凡な市民である。
2人の被験者が実験室にやってくると,それぞれ生徒と教師の役を指定された.生徒は椅子に縛りつけられ、手首に電気ショックを送るための電極がとりつけられた。一方、教師は隣の部屋でショック送電器を操作するように言われた。送電器には30個のスイッチがあり,それぞれ電圧と電圧に対応するショックの強さが表示されていた。
実験者は生徒に対連合学習を行わせ、生徒が誤った答えをするたびに、一段ずつ強いショックを与えるよう教師に要請したのである。この実験で生徒になったのは実は実験協力者であり,それぞれのショックの強さに応じて痛がったり実験の中止を訴える演技をするように指示されていた。
また、実験者は教師がショックを送ることをためらった時には、実験のためにショックを送り続けるように要請した。常識的に考えれば、たとえ実験のためとは言え、200ボルト以上のショックを与えることは人を傷つける恐れがあり、人道的にためらわれるところであろう。ところが、実際には教師になった被験者の62.5%が最大450ボルトのショックまで与え続けたのである。
この結果は平凡な一般市民であっても。権威ある者からの命令に接すると、たとえ不合理な命令であろうと、みずからの常識的な判断を放棄して、その命令に服従してしまうことを示している。』 引用文献 斉藤 勇『図説心理学入門』誠信書房
ミルグラムの実験は個人が社会の一員として振るまう時、個人は組織の歯車として機能してしまうことを意味しています。
保身の為に平気で嘘をつく官僚、政治家、命令されてサリンを巻いた信者、社長に命令されて粉飾決済をしてしまう経理課長、命令されるままに爆弾を落し、市民に銃を向ける兵士。
それは、服従、献身、忠誠、という美徳とされていることも方向が間違えば一転して盲目的に権威に従って反社会的な行動や人を虐殺してしまう市民の危険性を表しています。
社会に適応するために両親や周りの大人の期待に従って行動するプログラミングが幼児期の自我に組み込まれています。
他人をうけいれ、社会の常識から逸脱しない「良い子でいるべき」と言う考えが過剰になると、あるがままの自分を抑圧してしまいます。
自分を偽わると心と体は分離し緊張、硬直して、自由なエネルギーを失ってしまいます。
両親や他人、社会の期待に応えるために好きではないことをやり続けている人は多いと思います。
機械的なプログラムに支配されると、感情や本能は嫌がります。
我慢して自分に蓋をして無理にやりたくないことをしていると、やがて機能不全に陥り問題が発生します。
人は何かに同一化して自分自身を疎外しています。
私たちは分離した思考を自分と思い込み、それに支配されてしまっています。
現代人は知性が肥大し他の感情と本能のセンターのエネルギーを奪っています。
思考に支配されてしまっています。
人間は知性 感情 本能の三つのセンターを持っています。
それらが調和している状態が本来の自分です。
好きではないことを続けて葛藤している人は「私は誰か」と自分自身に問わなければならないでしょう。
私達は肉体や感情や思考を自分と思っていますが、さらにその全体をあるがままに自覚する純粋な意識があることに気がついていません。
人生の危機はそれに気がつく最大のチャンスでもあります。
自分が誰でもないことに気づけたら、人に認められることや権威に反逆してでも本当にしたいことをするようになるでしょう。
FacebookTakahisa Taniguchiさん投稿記事
「環境活動してるのに、髪の毛は染めるんですね」「お肉は食べないのに、魚は食べるんですね」「飛行機には乗るんですね」「お酒を飲むとポンコツになるんですね」こういう事を、もう何度言われたかわからない。
「〇〇する人は、こうでなければいけない」そういう考えを、人に押し付ける人たち。
そういう考えを人に押し付ける事こそが、社会を問題解決から最も遠ざけている事を理解した方がいい。
「〇〇する人は、こうでなければいけない」
そういう空気が横行してしまったら、ほとんどの人は一歩を踏み出せなくなる。
「自分は●●だけはやめれないから、問題に取り組むのはやめておこう」そう思わせてしまう。
結果、「少しだけでも問題に取り組んでみよう」という人を劇的に減らす。
一体、なにがしたいのか。
そんな四捨五入のような考え方では、なにも積みあがっていかない。
一の尊さを知っていて、それを積み上げていく人だけが、問題を解決に近づける。
相変わらず、たくさんの批判を受ける。
意外に思われるかも知れないけど、批判してくる人の多くは、社会問題に関心がない人ではない。批判してくる人の多くは、自身もなにかの問題に取り組んでいる。
同じような活動をしている人から批判を受けることもある。
「同族嫌悪」
自分と似たような相手に対して、嫌悪感を感じてしまうこと。
自分の嫌な部分や欠点を鏡で見ているようで嫌悪したり、自分がしたいことでうまくいってる相手に対しての嫉妬心や競争心に自分の弱い心を支配されることで起きる。
自分自身に完ぺきを求めるのは勝手だけど、それを人にまで求めてはいけない。
「自分はここまでやっている」そう人に認めてほしいという、承認欲求の裏返し。
目的は「自己満足」なのか「問題解決」なのか。「言いたい」のか「変えたい」のか。
一体、あなたはなにがしたい人なのか。
あれは食べる食べない、これはするしない、そんな事で分断しているヒマはない。
本当に問題を解決したいなら、今は問題に関心を持っていない人に、どうにか関心を持ってもらう。
それに時間とエネルギーを注ぐ方が有意義だと思う。
「なにがしたい人なのか」「そのための最短距離はなんなのか」僕はそれを自分に問うことをやめないでおこうと思う。
『1人の100歩より100人の1歩』
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