教訓

https://higasiguchihp.jimdofree.com/2012/06/13/%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%B0%E3%81%9F%E3%81%94%E5%B7%A1%E8%A1%8C/ 【対馬ひとつばたご巡行】より

医師  永井規敬

5月12日(土)、当院の30周年記念「笑って元気・落語会」に多数の皆様のご参加をいただきありがとうございました。

事務局の発表では、来客数は400人を越えたようです。立川龍志師匠・泉水亭錦魚さんの熱演に感謝申し上げます。今回特に思ったのですが、落語って非常に教訓的なものだと感じたのですが、皆さんは如何でしたか。落語を初めて聞いたという若い人にも会ったのですが、そんな人のために、当院の一番落語通の大橋先生に少し落語解説をしてもらうコーナーを作れば良かったですね。これは次回の企画に持ち込むことにしましょう、次回があるのかないのか気になることでしょうが、生活習慣病、認知症を治療する一環として、東口病院特別落語処方を考えたいものです。

落語会に先立つ今年のゴールデンウィークに、「なんじゃもんじゃ」のメッカと私が思っている長崎県(福岡県ではありません)の対馬を旅行してきました。対馬旅行の目的はもちろん、不思議な名前の「なんじゃもんじゃ」です。この木の解説では必ずモクセイ科の落葉高木。ヒトツバタゴ(別称、なんじゃもんじゃ)。対馬北部・鰐浦(わにうら)に約3000本自生しており国の天然記念物。他に国内では、岐阜県、愛知県に数十本の自生地がある。といつも第1位に述べられているからです。今までは、連休中は人出が多く、県内以外は出かけることが、まったく無かったのですが、なんじゃもんじゃの花は、4月下旬~5月上旬に咲くので、この時期しか選択の余地がありません。

もう一つの大きな動機は、昨秋から寝がけに読んでいた辻原登著『韃靼の馬』(だったんのうま)(日経新聞社)が江戸年間の対馬藩士・阿比留克人が活躍する小説を読んだからです。地理的に朝鮮半島に一番近く、古くから歴史的に中国、朝鮮への重要な玄関口であった対馬という島に非常に興味がわいたのです。

『韃靼の馬』のプロローグに----対馬は美しい島です。ですから、ツシマという地名のほんとうの由来はウツクシキシマにあるのではないでしょうか。ご覧なさい、浅茅湾に沈む夕陽を、5月鰐浦の岬を雪化粧したように、におうヒトツバタゴの白い花群を---

この鰐浦のヒトツバタゴを見ないでなんとする。自然の景色の中に歴史の物語が浮かび出るなんて、いいんじゃないですか。

女房は、未知の世界に興味を持たない人種なもんで「そんなところ…」「よりによって…」と言って非常に不満気でしたが、私が対馬に行きたがっていることが、女房の甥に伝わり、道路工事用機械のセールスをしている甥が、早々に手配してくれた対馬観光協会から2部の沢山の観光パンフレットが送られてくるという手際のよさで、しぶしぶ。この甥は今まで25、26回は仕事で対馬に行っているようです。

5月1日夕方診察を終え、すぐに羽田のホテルに泊まり、5月2日7:30分発ANA福岡行きにて出発。この便は前日5月1日が新型ボーイング787型のジェットの初就航で、知ってる人は降り立ったところで機体をバックに記念写真を撮っていました。それを見て私達はその事を知ったのですが、そういえば各シート毎に液晶モニター画面が着いていて、音楽・映画などのサービスがあったようです。それを利用しない間に福岡に。福岡で乗り換えて、同じANA、福岡10:30発-対馬やまねこ空港11:05着。

出発までは「霧で視野が悪い場合は、福岡空港に戻って来ますからご了承ください」などアナウンスされて「何を言うか」と思いながら乗ったのですが、対馬は少し霧雨の中でしたが「うまくいくシマ」で空港から小型車をレンタルし、その日の宿をとった島の北端、上対馬町の比田勝港と隣の鰐浦を目指しました。対馬というシマは、全島対馬市、3万8007人。標高500m前後の崚険な山からなる島。福岡まで海路132km、韓国釜山まで対馬海峡西水道を隔てて49.5km。暖流の対馬海流がこの島で二分され北流するため、年平均気温15℃。秋から春にかけて、大陸から北西の季節風の影響を受け冷え込むことがあるが、四方を海に囲まれているため雪はほとんど降らず、夏は海風により本土より涼しい(対馬市の案内書より)。この南北にキュウリのような(南北82km×東北18km)細長い島は、典型的なリアス式海岸で、ノコギリ状に深く入り込んだ沢山の浦に、港と少ない平地に集落があり、その集落をつなぎながら、西側に382号線、東側の海岸に39号線の道路が沢山のトンネルで山地を抜けてつながって行く道路事情でした。

写真1 展望所からの鰐浦ちなんじゃもんじゃ

これだと女房の甥っ子の機械も売り込める可能性があったんだと思いながら、2時間で北端、上対馬町の比田勝港に到着。この港には連日釜山(往復15000円)からも、また博多からもフェリーや高速艇が入港していて、私達の想像以上に世界の流れの中にあるようです。昼食を食べた宿の隣りの寿司屋も、韓国からの団体さんと観光バス運転手で一杯で入口の風の吹き込む席がやっとでした。

島の最北端の岬の上に天気が良ければ釜山の街が望めるという韓国展望所にのぼりました。小さな朝鮮通信使展示物と展望台は韓国風建物で、きれいな芝の空地と周囲はヒトツバタゴの2~3m高さのものが植え込まれ白い(5分咲き)花を咲かせて、5月4日用の『ひとつばたご祭り』ののぼり旗と一緒に霧雨の中、ハタハタと風を受けていました。しかし、この天気でこの展望所から釜山は望めるはずもありませんでしたが、手前の海栗島(うにじま)は、航空自衛隊のレーダー基地で日本の防衛最前線です。またこの右下が期待をしていた鰐浦を一望できるところです。パンフレットで写真紹介されるヒトツバタゴの風景地です。今日はパンフレット写真のように全山真っ白という状態ではなかったのですが、新緑とその緑の陰の中で、その白さはひときわでした(写真-1)。

写真2 鰐浦から北側の斜面のなんじゃもんじゃ

足の稜から、対岸の頂まで白い花は5分咲きというところでしょうか、しっかりと風の音に合わせて波打っています。ここが3000本のヒトツバタゴ自生地での「メッカ」なんです。このまま展望所から急な坂道を下って鰐浦の小型漁船の係累されている浜に下りました。この浜から展望所

の方向に見上げた景色です。(写真-2)。

写真3 岩盤に根を生やしている

冷たく感じる北西の風の中で、写真を撮っているとバイクで畑に行って来たという80才を越えない老人と立ち話をしました。「ヒトツバタゴって、どんな使い道があるのですか?」、昔は木質が非常に硬く、カマ、クワの柄に使っていたとの事。またずいぶんカマドの薪にも使用したようですが伐採が禁じられるようになり、特別な使い方は無くなったようです。自生した木は急な岩盤のスキ間に根を生やし、急な斜面に立っていて、かなりし っかり者の木のようです(写真-3)。

写真4 網で囲われた畑

実生で芽は出るようですが、その後の育ちが悪いとのことです。この老人とは、かなりの時間話をしたのですが、この鰐浦の住民も昔は「畑に行くと行って」船で海岸端の狭い畑に通ったようです。最近は走りよい道路ができたのですが、道端から、ロープで、山地に祭り用のサカキの枝をとりに昇って行く姿を見ました。海より畑や平地に苦労があるようです。また今は、イノシシと鹿による作物被害に困っているようで、国道端の小さな畑もしっかりとしたニワトリ小屋のように網で囲んでありました(写真-4)。

この鰐浦の部落は、海の方から船着き場があって、道路が巡らされて、それに続いて、コンクリート打ちされた少し広い乾燥場があり、その後に沢山の黒瓦ぶきの物置小屋が一つ一つ立ち並んでいます(写真-5)。

写真5 乾燥場と物置群

これは以前、北の風が吹く季節に、この部落に火事がおき、風にあおられた火が部落全体を焼き尽くした何度かの経験から、一番風上に当たるところに食料、海産物や重要な生活物資をしまっておく小屋が作られるようになったそうです(図-1)。

図1 上対馬町鰐浦集落図

一軒の家で4~5個の小屋を持っていて、またその手前の乾燥場も家ごとに地割があるとの事です。寝起きする住宅は、その奥に並び、庭木には、やはりヒトツバタゴが20~30年はたった大きさで見事に花を咲かせていました。

翌日(5/3日)も午前中再度、鰐浦の部落を訪ねて「どこかにヒトツバタゴの苗は売っていませんか?」とたずねて、車2台の駐車スペースのある『鰐浦住民センター、購買部』で明日のお祭り用盆栽のヒトツバタゴが20鉢ほどあり、1500~3500円と値付けされていました。「わかめ」「ひじき」「うに」「しいたけ」といった特産品に合わせ、2500円の盆栽1鉢を買って宅配便で送ることにしました。『ひとつばたご祭り』は、5月4日の明日ですが、その賑わいぶりとイベントを見物したかったのですが非常に残念。その日の午後は、東海岸側の山は深く、そしてところどころで漁港が顔を出す39号線を南下して、翌日の出発のため、空港近くの対馬藩宗家10万石の巖原(いづはら)見物としました。長い長い韓国との外交・貿易・戦い・などいつも最先端に立ったこの島の歴史を知るには、少し時間が足りなかったようです。

かなりせわしい、対馬旅行でしたが、巨木巡り、バードウォッチング、フィッシングと、いろいろ遊べる島でもあるようです。対馬では、あまり「なんじゃもんじゃ」と言わないようで、それはメッカですから「ひとつばたご」と正式に呼んでいました。

ところで、平成24年度のなんじゃもんじゃ情報は、我が家の「なんじゃもんじゃ」は昨年あまり花と実がつきすぎたのか、対馬に嫉妬したのか、5月中旬に二枝にチョボチョボと花が咲いただけでしたが、それはそれできれいで新芽が多くなり、緑が豊かになりました。また若里公園の「なんじゃもんじゃ」は、逆にかなりはなやかに花をつけてくれました。

また、落語会の翌日(5月13日)消化器内視鏡学会の帰りに、ちょっと立寄った、小石川植物園のなんじゃもんじゃは、周囲に大きな立木が沢山あって、おまけにやはりトイレの近所で、あまり大事にされている様子でなく、残念ながらきれいな状態ではありませんでした。

新しい情報としては、篠ノ井石川の中村秀樹さん宅には、昭和49年来の高さ10Mを超える大きななんじゃもんじゃの花が満開間近という記事が長野市民新聞(平成24.5月19日(土))に出ていました。是非と思いながら、まだ出かけていません。これが今年一番のニュースです。


一指李承憲@ILCHIjp

自然は私たちの師匠です。最も近くにあり、いつどこでも会うことができる万人の師匠です。私たちは自然から人生の知恵や道理を学びます。春夏秋冬の循環の中で自然の理を悟り、輝く太陽の中にすべてを公平に照らす大きな愛を見いだし、新芽や若葉の萌え出ずる新緑の中に生命の驚異を感じます。


Facebook湊 万徳さん投稿記事

女優の杏さんが伝説のフォ一クシンガ一加川良さんの『教訓1』を自然体で歌う動画がアップされて話題になりました。杏さんの世代とはかけ離れた半世紀前の1970年に発表された反戦と平和を込めた曲でした。

(記事と動画はこちらです)↓

http://music-calendar.jp/2017112101/  【杏さん「命を捨てないように」と歌う動画を投稿。子どものそばで、加川良さんの「教訓1」を】

杏さんの世代よりかなり前だが、含蓄のある加川良さんの曲であることも驚きを持って迎えられた。【新型コロナウイルス】

YouTubeに投稿された加川良さん作曲の「教訓1」を歌う杏さん

YouTubeに投稿された加川良さん作曲の「教訓1」を歌う杏さんYouTubeより

杏さんが伝説のフォークシンガー加川良さんの「教訓1」を自然体で歌う動画がアップされ話題になっている。杏さん世代とはかけ離れた半世紀前の1970年に発表された含蓄のある加川さんの曲であることも驚きを持って迎えられた。

その曲の冒頭は

「命はひとつ 人生は1回 だから 命を すてないようにネ……」

だ。50年前の反戦と平和を込めた曲だった。

杏さんはInstagramにこうメッセージを寄せている。

自分のことを守ることが、外に出ざるを得ない人を守ることになる。

利己と利他が循環するように、一人ひとりが今、できることを

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YouTubeには数々の声が寄せられている。

https://www.youtube.com/watch?v=8Oo_DaRTJWM


・なんて美しい歌声なんでしょうか。曲も美しい。ありがとう。加川良さんというすばらしい歌手がおられたなんて知りませんでした。杏さんは泥沼から華を咲かす蓮華のようだ。社会が暗闇に覆われつつある中で、この歌声が心に沁みる

・この曲は初めて知りましたが、 「死んで神様と言われるよりも 生きて馬鹿だと言われましょうよね」 という歌詞が素敵だと思いました!

・世代が違って知らない人も多い歌だとは思うが、歌詞の内容は今の時代だからこそ心に刺さるものがある。

・加川良を持ってくるセンス。 命を大切にしよう。


http://www.tapthepop.net/song/32711?fbclid=IwAR13l_EkvRsfP40_1FgMyFXqRv05__zS0PGF9DMtlSs9e866EYMzTAIh2xI 【21世紀になってもたくさんの人たちに歌われている加川良の「教訓Ⅰ」】


http://music-calendar.jp/2017112101/ 【加川良「教訓1」が作られた真相とは?】より

執筆者:中川五郎

今年の8月15日の終戦記念日にNHKでオンエアされたドキュメンタリー番組『戦慄の記録 インパール』をぼくは見逃していたのだが、昨日11月7日の深夜というか、8日の午前1時45分から再放送があったので、それでようやく観ることができた。

太平洋戦争で「陸軍史上最悪の作戦」と言われているインパール作戦の全貌が、貴重な資料、生き残った兵士たち、遺族や関係者の証言、初めての現地取材などで明らかになるのだが、ほんとうにすごい番組だった。勝ち目がまったくなくても絶対に後には引かないし、どれだけ犠牲が出ようとも兵士の命など何とも考えていない。そして大失敗に終わっても責任を取ろうとせず、そこから目を逸らし、ほかに転嫁しようとする。旧日本軍の体質、指導者たちの恐ろしい姿がはっきりと描き出されていた。

そしてこの番組を観ながら、終始ぼくの頭に浮かび上がってきたのが、加川良さんの歌「教訓1」だった。

「御国は俺たち死んでも、ずっと後まで残りますよね。失礼しましたで終るだけです。

 命のスペアはありませんよ」という内容の曲だ。

ドキュメンタリーはまさに一人一人の兵士の命など一顧だにしない「御国」の姿、作戦を立て、指揮を取り、命令を下す指導者たちの姿を浮かび上がらせる。それを信じて、あるいはそれに逆らえずに命を落とした若者たちがどれほどいたことか、その真実を突きつけられて、怒りと悔しさ、悲しみと憤りで胸が張り裂けそうになってしまう。

だからこそ加川良さんは、こんなことがもう二度と繰り返されないようにと、こんなことが絶対に起こらない未来にしようと、「命はひとつ、人生は一回。だから命を捨てないように。あわてるとついフラフラと、御国のためと言われて、その気になってしまう。命を捨てて男になれと言われたら震えましょう。わたしは女で結構。女のくさったのでかまいません。青くなって尻込みなさい、逃げなさい」と歌ったのだ。

加川良さんの歌で広まった「教訓1」だが、これはすでにみんなが知っているように作家の上野瞭さんが1967年に三一新書で発表した『ちょっとかわった人生論』の中の「戦争について」の「教訓ソノ一」をアレンジしたものだ。ぼくはこの本を高校生の時に買って読んでいたので、加川良さんの歌を聞いた時、「あっ、これは上野さんの『教訓ソノ一』をもとにしているな」とすぐにわかった。

しかし上野さんには失礼だが、この本はそれほど売れなかったようで、発売された当時話題にしたり、買って読んでいる人はぼくのまわりにはほとんどいなかった。そして今この本はめちゃくちゃ入手困難なものとなっている。もし加川良さんが歌にしなければ、上野暸さんが書いた言葉は、これほど知られ、広まることはなかったのだ。

加川良さんが「教訓1」を歌い始めた頃、この曲の歌詞は本人が書いたものだとみんなから思われていた。しかしはっきりしておかなければと、1972年12月に加川さんは上野さんの家を訪れた。その時のことを上野さんは1985年に光村図書から出版された『日本のプー横町』という本の中の「教訓」という章で次のように書いている。イーヨーとは、上野暸さん自身のことだ。

「話によれば、梅田の地下で、身障者のためにボランティア活動を続けている人がいて、パンフを売っていた。それを一部買ったところ、イーヨーの書いたものが載っていたというのである。加川良は、これは歌になると思った。うたってみたいと思った。かくして、フォーク・ソング『教訓1』が生まれ、それは、シンガー・ソング・ライターとしての加川良を人びとに知らしめることになった……」

「イーヨーは、その歌を聞いたことがなかった。くわしい事情を聞いても仕方がないという気持ちになっていた。現に一人の若い歌手がうたっている。うたうことで自分の生き方を確かめようとしている。それがたまたま、イーヨーの書いたものであった。それだけのことなら、事後承諾で十分である」

「曲をつけたのはあなたでしょ。書き言葉と歌は違いますよ。ぼくが、いくらいい言葉を書きつらねたとしても、それは活字となって特定の読者にとどくだけや。歌は異質の文化ですよ。ま、これからは、ぼくのどこそこより採った……という一行を、入れておけばいいだけやないのかな」

上野さんの言うとおり、加川良さんが歌にすることで、上野さんの言葉は広く伝わり、50年近くが過ぎた今もその言葉に共感した多くの人たちによって「教訓1」は歌われている。世代を超えて現在も歌われ、そして確実に未来へと歌い継がれて行く。もともとは上野さんの言葉だが、加川良さんが歌にすることによって、その言葉は今も生きて伝わり続けているのだ。

指導者たちが数の論理を振りかざして暴走し、持たざる者の命などどうなってもいいと考え、独裁や戦争に向かって突っ走ろうとする今の日本の中で、「教訓1」はまさに歌われるべき歌となっている。上野暸さんの言葉を「教訓1」という歌にして、今に伝える加川良さんは、ほんとうにすごいことをしてくれたんだなと、ぼくは改めて思わずにはいられない。

11月21日、本日は加川良さんの誕生日。存命ならば古希となるはずだった。


http://blog.drnagao.com/2022/03/post-7898.html 【加川良「教訓Ⅰ」】より

加川良さんの「教訓Ⅰ」という曲を御存じだろうか。

ワクチン関連で悩んでいる人や、ウクライナ侵攻で立ち上がった市民に、そして僕自身に向けた曲、だ。

加川良  「教訓Ⅰ」  →こちら

どこから逃げるのか? オミクロン? 違うよね。 戦争?そうかもね。

ロシア軍の兵士の士気が低下しているのは間違いなさそう。虚構からは、逃げるしかない。

闘わずに静観するのも、ひとつの逃げ方だはと思う。とにかく、自分が死なないこと。

そのためには「情報」が大切だ。

今日は、国会議員や地方議員に南出市長と1時間の講演をした。南出市長が今夜のMrサンデーで「ワクチン後遺症」の話をした。議員が一番なにも知らない。

国会議員、分科会、日本医師会、医学会など、全て思考停止している。

その後、十三の劇場で、40分の予定が、90分も舞台挨拶をした。九州からわざわざ観にきてくれた人がいて、ちょっと感動した。

市民のほうが、国会議員の1万倍目覚めている。身を呈して、国と闘っている。

何なんだ? と思うが、それだけでは何も変わらない。

でも、立ち上がる市民が日に日に増えてきたのが光明。今夜も結局、22:30~25:30まで作戦会議。まさに不眠不休で命を賭けて国を護っている仲間達。

PS)

コロナチャンネル #666_

昨年の死者は戦後最多の145万人! コロナ自粛の大罪だ!!  →こちら

こんな動画を666日連続でやっているのは、世界中で僕だけだろう。

世界一の馬鹿。

今日も数人のコロナ診療と在宅医療。そして、講演2つと遅くまでの会議。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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