https://tsukinami.exblog.jp/27845956/ 【シェイクスピアの俳句】より
こんな句がありました。
罪もうれし二人にかかる朧月
雨ともならず唯凩の吹き募る
小夜時雨眠るなかれと鐘をつく
白菊にしばし逡巡(ため)らふ鋏かな
女郎花を男郎花とや思ひけん
骸骨を叩いて見たる菫かな
詠み手は、上から順に、ロミオ、リア王、マクベス、オセロ、ベニスの商人、ハムレットの皆さんです。
というのは、むろん冗談で、いずれも夏目金之助作だそうです。東京帝大の文科の学生が『シェイクスピア物語』を翻訳して出版したとき、本の序文を頼まれた夏目金之助講師が、シェイクスピア劇中の台詞をもとに、いたずらに拵えた俳句だとか。夏目金之助? ええ、のちの文豪漱石先生です。うまいものですねえ。
この話、古い総合俳誌『俳句研究』1997年11月号に連載されていた、半藤一利さんのエッセイから引っ張ってきました。半藤さんも、うまいなあ。
【ユダヤ民族の悲劇】
中学生の頃 シェックスピア戯曲の「ベニスの商人」を読んだことがあります。
世界の財閥の営利追及の在り方を 見た時 この戯曲を思いだしました。
http://e-freetext.net/venice.htmlに「ベニスの商人」のダウンロード用テキストが紹介されていました。
「昔、シャイロックというユダヤ人がヴェニスに住んでいた。シャイロックは高利貸しであり、キリスト教徒の商人に高い利子を付けて金を貸すことで大金持ちになったのだった。
シャイロックは冷酷な心の持ち主であり、貸したお金の返済をとても厳しく要求してきたために、すべての善良な人たちに嫌われていた。
その中でも特にアントニオというヴェニスの若い商人がシャイロックを憎んでいて、シャイロックもまたアントニオを憎んでいた。
というのは、アントニオは困っている人によくお金を貸していて、そのお金に決して利息をつけなかったからである。
このことから、このどん欲なユダヤ人と寛大なる商人アントニオは互いに激しい敵意を抱いていた。
アントニオはリアルトー(すなわち取引所)でシャイロックに会うと、いつもシャイロックが高利で金を貸して厳しく取り立てることを非難していた。」と在ります。
今改めて読むと シャイロックの無念な気持ちが良く分ってしまいます。
キリスト教徒はユダヤ教徒の子孫でした。
出エジプトを果たし 約束の地に住み始めると ローマ帝国の支配と弾圧に脅かされることになります。
ローマ帝国はキリスト教徒にとっても、ユダヤ教徒にとっても共通の敵でした。
しかし、ローマはキリスト教を民の統治の道具とするため、国教会に定めます。
そして長い中世、キリスト教と政治の癒着が続きました。その間ユダヤ人はユダヤ人強制居住区域. ゲットーに隔離されました。
ゲットーが形成されたのは、文化的、宗教的に少数派であるユダヤ人が中世ヨーロッパにおいて異質なものとしてみなされたためです。結果としてユダヤ人は多くの都市で厳しい規則のもとに置かれました。
本来は共通の敵だったローマに 取り込まれた同族のもの つまりは親族に裏切られた悔しさを感じます。
もしあなたがユダヤ人だったとして 厳しい規則のある ユダヤ人強制居住区域・ ゲットーに隔離され、憎しみと蔑みに晒され ただただお金だけを 誇りにせざるを得なかったとすれば・・・?
シャイロックはキリスト教徒と結婚した 自分の娘さえ許すことができないともあります。
しかも高利貸しと侮られ非難されたとしても 相手がシャイロックの噂を知りながら 借りることを求めているにすぎません。そんな相手から借りる者こそ愚かです。
シャイロックは怒りをそして憎しみを バネにして 人々を虐げてしまったのです。
「目には目を、歯には歯を」の教えを生きているにすぎません。
悪名高きロスチャイルドの話を聞くと 私はこのベニスの商人を連想します。
しかも世界は銀行制度を認め、簡単に印刷できる紙を お金と認め より快適に、より便利に、より多くの富を・・・と求め続けてしまいました。
仮に日本が紙幣を導入しないで 金貨その他のコインを通貨で通していたとしたら 紙幣のように大量に通貨を得ることは不可能です。
インフレを簡単に引き起こすことも困難であり 消費量を増やすことも簡単にはできません。
消費は美徳と叫ばれ、マスコミを活用した コマーシャル産業の餌食になり、大量消費の大きなつけが示されています。
政治は企業に支配され、企業は銀行に支配され、銀行は一握りの大財閥に支配されるというピラミット構造を 受け入れてしまいました。
愛を失った相手に、支配欲に取りつかれた相手に「人道的に!」も何もあったものではありません。相手を告発しても真実に変えることは困難です。
では今私たちに何ができるのでしょうか?
この構造を容認してしまった 自分たちの在り方を振り返ってみる必要があります。
私たちは愛よりも富を優先してきました。その流れに無自覚に乗ってきました。
これまで世界には 石油を求めて多くの争いがありました。
原子力エネルギーさえ富のために導入されました。エネルギーを求めての争いが続いてきました。まず一つの可能性はエネルギー改革。
フリーエネルギーの利用 太陽光、水力、風力、そして磁気の活用、ヘンプカーまで検討されています。
二つ目は私たちがしっかりした死生観を持つこと。
三つ目は 団結して声を上げること・祭や地域コミュニティの回復。
四つめは 教育を権力者の手に握らせないということです。
しかし何よりも優先する必要があることは 戦争回避です。
これは 戦争を起こして得をするものを除けば 誰もが 望んでいることです。
それでも正当防衛的な 武力の行使力は 備えておく必要があるのかもしれません。
教育も、医療も、食も、エネルギーも 財閥が支配しきっています。
ウーマンリブの運動さえ 子どもの教育を「財閥が管理支配できる公教育」任せにさせるもくろみのもとに推進されたということです。
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神はすべての場所にいることができないために、母親を創造された。( ユダヤの格言 )
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自己実現を「愛に生きる」ことと捉え直せれば、「ありのままの自分を受け止め愛し、本来の自分を表現しながら生きる」ことと捉えれば 富への渇きから 少しづつ解放されてゆくのではないでしょうか?
【ユダヤとキリスト教の対立】
キリスト教はユダヤ教から生まれ、イスラム教は キリスト教の胎動の中から生まれ、いずれもモーセ5書を共通の聖典としています。そしてセムを共通の祖先としています。
《ユダヤ教からのキリスト教の自立(ギリシア語の七十人訳聖書)》
紀元60年代のヤコブの処刑、続くペトロやパウロの刑死、さらに第一次ユダヤ戦争(66-70年)の結果としてエルサレム神殿が崩壊した後で、(現在のユダヤ教主流派に近い)ファリサイ派がヤムニア会議で(旧約)聖書正典を決定するプロセスにおいて、ギリシア語の七十人訳聖書を主要テキストとしたキリスト教と完全に袂をわかつことになった。
ここにおいてユダヤ教とキリスト教の信条の相違は決定的となる。
これ以降「キリスト教」としての歴史が始まったといえる。
《ニカヤ会議:キリスト教間の派閥の調整》
キリスト教の派間の暴力抗争を解決するため、ローマ皇帝コンスタンティヌスはニカイア公会議(325年)を開いた。
《キリスト教をローマの国教会に指定》
テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言した。
さらに392年には帝国内の異教信仰が禁止された
《イスラム教の誕生》
西暦610年頃にマホメットはメッカ郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受けたと主張し、アラビア半島でイスラーム教を始めた。
アダム・ノア・アブラハム・モーセなどの預言者たちが説いた教えを、最後の預言者であるマホメットが完全な形にしたとされている。
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機会があってナジルびとを調べました。
ウィキペディアには以下のように記されています。
ナジル人(ナジルびと)とは、聖書に登場する、自ら志願してあるいは神の任命を受けることによって、特別な誓約を神に捧げた者のことである。
実名で知られている者としてはサムソンが挙げられるが、他にも大勢のナジル人が存在したことを聖書は示している。また、サムエルもナジル人であったとする意見もある。
ヘブライ語のナジールは、「聖別された者」を意味する。
この同じ語は、ヨセフが祝福されたことに関連しても用いられている。
ナジル人の誓約[編集]
「民数記」6章にその規定が存在する。
ありとあらゆる葡萄の木の産物を口にすることを禁止される。葡萄酒、葡萄酢(ワイン・ビネガー)、生のまま、干したもの(レーズン)、まだ熟していないもの、皮、が列挙されている。
髪を切ってはいけない。
死者に近づいてはいけない。たとえそれが自分の父母であっても例外は存在しない。
旧約聖書に従えば 葡萄及びその加工品を口にすれば 神の祭司としての資格を失うことになります。
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しかしクリスチャンはキリストの血と肉(十字架の死による贖い)に預かるシンボルとしてパンと葡萄酒を使います。(ミサ・聖餐式)
ミサや聖餐式は過ぎ越しの食事の象徴だともいわれます。
災いを過ぎ越し 奴隷から導き出された 神の民の感謝の儀式です。
「パン」は出エジプトの時に朝ごとに与えられた「マナ」を象徴し「葡萄酒」は 出エジプトの時 神のもたらす災いを通り過ぎさせるために 門に塗った「子羊の血」の象徴といえます。
またイエスは神の子羊とも言われます。
また「主・イエスは真の葡萄の木、私たちはその枝です」と告白します。
ミサも聖餐も信者以外は預かることができません。
神の民として聖別されるはずの儀式が ナジルびととしての誓約を破棄する儀式となっていることになります。
礼拝の中心にあるこの典礼式の「モーセ5書」に対する矛盾を どのように受け止めればよいのでしょう?
キリスト教は旧約聖書のメシア出現の預言を イエスが成就した(それ故にイエス・キリストと呼ばれます)と説きますが ユダヤ教徒からみれば パンと葡萄酒で象徴されるイエスが メシアであるはずがないということになります。
マタイによる福音社が新約聖書の冒頭に置かれているのは 新約が旧約の成就を証するものだと示すためだと言われています。
メシア・イエスという信仰が モーセ5書に照らし合わせると 眉唾だと知れば 新約が旧約の成就であるはずがないという当然の主張になります。
イエスはナジル人ではないのですから!!!
【エデンの園の中央に植えられた禁断の木の実はリンゴ?いいえ葡萄】
聖書に「園の中央にある善悪を知る木から取って食べてはならない。食べると死ぬから」と書いてあります。取って食べたアダムとイブは 神を失い、楽園を追放されます。
善悪の区分をすることは自己を神化することであり、絶対的な善悪は 存在しないということではないでしょうか。
そのの中央の木の実とはリンゴだと通説には言われています。
しかしダンワールドではマゴガーデンで葡萄の実を食べた故 人間の堕落が始まったと教えます。私はこのアニメを観た時 楽園追放をイメージせずにはおれませんでした。
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