https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2965203/ 【虹】
【ノアの箱舟と火の鳥伝説】
ユダヤ教の聖典であるモーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は イスラエルの民の出エジプト以降に編纂されたことは言うまでもありません。
しかしノアがぶどうを作り、葡萄酒を飲んでいるのに、「民数記」6章にはナジル人(「聖別された者」)はありとあらゆる葡萄の木の産物を口にすることを禁止されると記されています。ここにも葡萄を巡って大きな矛盾が存在します。
それは 創世記が神の呼び名においてだけでも[エロヒーム資料」[祭司資料」に分けられるほど様々な セム族に伝わる口伝が寄せ集められて編纂されているからにほかなりません。
神話表現を採る創世記を「逐語無謬説」の立場で読むと 大変なことになります。
神話は 夢や、泥酔 その他トランス状態に陥った時 あるいは臨死体験を通してそして シンボル、自然、祀りなどを通して潜在意識に触れて得た情報です。
私の潜在意識情報は「ノアの箱舟」と「火の鳥伝説」は同じ体験に基づくものだと 伝えます。いずれも「アトランティスとムーの滅び」に起因しているからです。
アントロメダ星雲は「アトランティスとムー」が核戦争で滅んだ残像だと聞きました。
そしてアトランティス・ムーの滅びは多くの人の潜在意識情報にあります。(その故の罪責感を持つ人たちに沢山会いました)
物質はエネルギーが密集している状態を指します。
密集するためのコァは 帯電効果のある鉄だとも聞いています。
アトランティス・ムーの滅びのエネルギーは帯電効果のある鉄に集まり続け 滅びの船となり 宇宙をさまよい続けた・・・それがノアの箱舟。
その乗組員である霊魂達は 死を死に続ける絶望(キルケゴール)に嘆き苦しむ火の鳥(またはフェニックスまたはベヌー鳥。そして鶴は魂とも言われます。)私にはそのように思えます。
地球がそのようなノァの箱舟にならないよう 祈ってやみません。
新共同訳
創世記 / 9章 18節 ~
箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。
この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。
さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。
やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。
神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。また言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ」
霊現象への考察・2
潜在意識に眠るものは 自己神化の欲望?いいえ、決して。今ですら「無になって結構」が私の本音です。
潜在意識に眠るものは 愛欲?多分満たされていると思います。
地位と名誉?今更、十分です。
しかし自己実現への欲求はは明らかに願いとして存在します。
以前スリー・イン・ワンという プログラムの中で 自分の心の小部屋を見たことがあります。
心の小部屋には 紫光に満ちていて 全てが一つに溶ける様な安らかで平穏な部屋があるとともに 深い、真っ暗な部屋がありました。
そのワークを導いたリーダーは 「その穴に蓋をしなくていいか?」と尋ねましたが 「私の中にあるものだから構わない」と答え 穴に下りていく階段さえイメージしました。
その小部屋から出る時 ドアに鍵をかけるように勧められましたが 人工的な鍵をかけたくなく ありのままに置いておきたいイメージで終わりました。
その穴は 虚無の淵、孤独の淵でした。
今は 死の淵と思えます。
それ故、私は霊現象とともに死の淵をさまよい続けたのかもしれません。
愛する者との死別が 「デビルチャイルド」以上に 私の 今生で乗り越える必要のあったテーマかもしれません。(激しい嘆きが生じました。 多分そうだと思います。)
幼い頃、我が家では 母と兄の死はタブーとして扱われそれに向き合ったのは 30代になってからです。
大学院の 聴講科目の課題で「ファミリーツリー」を完成する必要が生じ、可能な限りの戸籍を取り寄せ、抵抗を振り切って義母やレイプをした腹違いの兄から できる限りの情報を収集しました。
父も自分の母を幼い時に亡くしています。最初の妻を亡くし、私の母を亡くし、その母との間に生まれた愛子(私の実兄)を見送っています。
最初の妻を失ったことに伴い 仕事も、住まいも、娘も失い 自律神経失調症になりました。
それは父の持病となり 晩年それが昂じて自死をしました。
両親に全面依存する 幼い子は 両親の不仲や 自分が虐待される状況に置かれると 自分が「悪い子」だからだと 考えると言われます。
母と兄が「私の出生」が原因で亡くなったと信じた故、母や、兄(聞き取りによると 母と兄は自分を無条件に守り、愛してくれた存在だったようです)以外の者を愛してはならないし 愛されてはならないと 自分に命じたと考えられます。
周囲に愛があっても愛を受取らない枠組みを自分に嵌めることになったとも言えます。
ニヒリストであった思春期 「武者小路なんて、なんと甘い!」と考えていました。
愛なんて歯が浮くような欺瞞だとも決めていました。
そんな思いは 渇望しても得られない願いを誤魔化すための 自我の防衛機制だったとも考えられます。
人生の最終点が死であるのであれば 自分を満足させてくれるものを求め切羽詰まれば死ねばいいと 考えていました。
「 自分を満たしてくれるもの」「自分の存在の意味」を 脅迫的に求め続けました。
しかし一番渇望しているものを封じ込めていたため ニヒリズムに足を掬われ中学生半ばから学業も放棄してしまいました。
キルケゴールは 死とは絶望を生き続けることだと言います。
つまりは 私にとっては 虚無と孤独と死が一つだと言えるのかもしれません。
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