Facebook上田 一美さん投稿記事
徒然日記 風立ちぬ いざ生きめやも
久しぶりに、ベランダの植物たちと、ご対面。自分の世話しか出来なかった、長患いの期間から、外側の植物や動物や人々との関わりに、向き合うことが出来るようになりました。
ふと目をやると、枯れた紫陽花の鉢から、緑の葉っぱと、小さな蕾が、これから咲きはじめる準備をしている。
枯れ草と化していた、ジユウヤクの鉢も、青々とはつぱが繁り、もうすぐ白い十字の花が咲くでしょう。
薔薇の小さな赤い蕾も膨らみ、太陽に向かって、咲く日を待っている。
モツコウバラも、小ぶりながら黄色のはなばなを開いて。笑っているよう。
ボイゼンベリーの葉も緑に色づき、もうすぐ小さな実をつけるでしょう。
何もお世話してあげられなかったのに、私と一緒に生命復活、生まれ変わり、生き直し、じっと耐える時を待って、また生きはしめる。命のサイクルのなかで、自分の命をしみじみ感じる有り難さ❗️堀辰夫の作品の言葉を、ふと呟く春の朝~
http://promontory.cocolog-nifty.com/promontory/2013/08/post-12cd.html 【「風立ちぬ、いざ生きめやも」は誤訳とはいうけれど。】より
堀辰雄の小説「風立ちぬ」の冒頭近くで語られる有名な台詞「風立ちぬ、いざ生きめやも」。これは美しい響きの言葉であり、印象深い句なのだが、誤訳であることでもよく知られている。
「風立ちぬ」の巻頭には、ヴァレリーの詩の一節「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」が引かれていることから、「風立ちぬ、いざ生きめやも」はそれの翻訳であることは明らかではある。
原詩のほうは、一般的によく使われるフランス語の言いまわしで、特に難しいものではない。英語に訳すと、「The wind is rising, you should try to live」くらい。後ろの句の主語は本来はweなんだろうけど、原文の「il faut~」は、主語の存在に厳格なフランス語文法のなかで例外的に主語を曖昧にする語法であり、わざと主語をぼかしており、つまりは自身を客観的にみて、それに言い聞かすような言葉なので、英訳する場合の主語はyouのほうがいいとは思う。
それで和訳すると、「風が起きた、(お前は)生きることを試みねばならない」の意味となる。原詩のこの部分は、前からの流れとして、体に吹き付ける強い風が心を高揚させ、「生きてやるぞ!」との決意を促す詩句である。
ところで堀辰雄はここを、「いざ、生きめやも」と訳している。「めやも」は「む」(推量の助動詞)と「やも」(助詞『や』と詠嘆の『も』で反語を表す)の合わさったものである。文法的解析をすると小難しいが、「めやも」は普通はセットで使うので、これが動詞のあとにつくと、その動詞の推量と反語を導くというのは古文の初歩的知識である。なにより中高生の古文でよく習う大海人皇子の名歌「人妻ゆゑに我恋ひめやも」が特に有名で、この「めやも」が反語表現ということを理解してないと、この高名な和歌はさっぱり内容が分からないから、必ず習う。私も中学校で学んだ。そして、「生きめやも」は動詞「生く」に「めやも」がついたので、現代語に訳すと、「生きるのかなあ。いや、生きないよなあ」となる。より直截的に訳せば、後半は「死んでもいいよなあ」であり、つまりは生きることへの諦めの表現である。
だから「生きめやも」を逆にフランス語に訳せば、Vous ne devez pas tenter de vivre・・・ではあんまりだから、やんわりとVous n'avez pas à tenter de vivreくらいになるだろうけど、いずれにせよ、己の生への強い意志を詠じた原詩とはまったく反対の意味になってなってしまう。
それゆえ、堀辰雄の「いざ生きめやも」は誤訳の典型として知られてきており、例えば大野晋、丸谷才一の両碩学による対談で「風立ちぬ」が取りあげられたとき、両者により、堀辰雄は東大国文科卒のわりには古文の教養がないと、けちょんけちょんにけなされている。
ただ、誤訳といえば、誤訳ではあろうけど、私は小説「風立ちぬ」では、「生きめやも」でもいいと思う。それは「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」をそのまま原文に忠実に「風立ちぬ、いざ生かむ」とか「風立ちぬ、いざ生くべし」などと勇ましく訳し、それを作品の基調ととらえたら、あの繊細で静謐な作品世界と矛盾するからだ。
結核に冒された人達の生活を描いたサナトリウム文学を代表として、結核患者が著書の作品には独特の世界が広がっている。
結核は抗生物質のある現代では治療の方法のある感染症の一つであるが、20世紀前半までは、効果的な治療法のない死病であった。現代の感覚でいえば、末期癌のようなものであり、これに罹ったものは、自身の命を常に見つめて生きていくことになる。
それゆえ、結核患者の作品は、短く限られた命を真摯に見つめ、その貴重な時を文章に凝集させていくため、清明でありながら密度が濃い、独自の文学を創造している。
彼らの残した作品は、堀辰雄をはじめ、梶井基次郎、立原道造、富永太郎、…と日本近代文学の珠玉の宝物となっている。
そういった人たち、毎日死と向き合っていた人たちの作品として、「風立ちぬ」を読んでみれば、季節の移り変わりに吹いた風に、「(なんとしても)生きよう」という強い意思が湧き上がるとは思えない。吹く風が伝える季節の移ろいを感じることで、このまま静かに命が消えてもという感慨が起きて何ら不思議ではなく、かえって自然な感情とも思える。
元々「風立ちぬ」は軽井沢の療養所で、死を迎えいく若い男女の、残された日々の静謐な生活を描いたものであり、「il faut tenter de vivre」という能動的な精神はどこにもなかった、と思う。
ヴァレリーの原詩では、いくつもの魂の眠る墓地に地中海から風が吹き付け、そこで著者は「生きねばならない」という強い意思が湧くわけであるが、軽井沢の森に吹いた秋の訪れを知らせる風は、地中海を吹き荒れる強風のようなある意味精神を鞭打つ剛毅なものとはほど遠く、もっと人の心に寄り添うような、人に赦しを与えるようなやさしいものであったには違いない。それゆえ堀辰雄は、吹く風にヴァレリーの詩を想起したとき、敢えてあのように訳したのでは。
「風立ちぬ」という不朽の名作につきものの誤訳問題。
いろいろと意見はあるようだが、私は堀辰雄を擁護したい。
体験記:「こころの庭」~箱庭療法
セッション提供者:南陽子さん(みなみ心理健康オフィス)
スリーインワンをはじめる前私はたくさんの心理学の本を読みふけり 、カウンセラー講座や某心理学の講座を受けに行ったりもしていた。
しかし、どれも私には合わなかった。偉い先生がいて、皆がその教えを伺うというのにも合わないし。クライアントの話を無表情に淡々と聞くというのにも、合わなかった。
(たまたま私が受けたところがそういう所だったのかもしれません。カウンセラーや心理学の先生は 皆が皆そうだという訳でもないと思いたい。)
色々精神世界や心理学の世界を探求していた時、ある心理学の本に「箱庭療法」なるものが紹介されていたのを見た。白黒の写真で色々な例が紹介されていたが、ピンボケでよく判らない写真だった。しかし心惹かれるものがあった。いつか試して見たい…と思った。
スリーインワンをはじめて 数年がすぎ、忘れていた箱庭療法が再び私の前に現れた。
兵庫県西宮市の南陽子さんの ”みなみ心理健康オフィス”にお邪魔する機会があった。陽子さんはスリーインワンのファシリテーター仲間の一人でもある。
一部屋の壁に棚があって、沢山のお人形が並んでいた。
かわいい子供や 綺麗なお姉さんや インディアン(ネイティブ・アメリカン)や パン屋のおじさんや あらゆるものが並んでいた。
大きな箱のふたをあければ砂が一面に敷き詰められていた。
ふれてみれば気持ちがいいぃ~~~~~~~~~~。陽子さんによるとその砂は海の砂だとか。 とっても気持ちいい~~~~~~
★
箱の底が見える位に砂を掘り出すと、底は青い色。陽子さんによるとそれは水をあらわすことができる、とか。
砂で山をつくり谷を作り、川や海を作る事だってできる。まさに心の風景を表現することができるのだ。
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私は山と川を作り、山には沢山の花を飾り立てた。それは自分の創作活動・クリエイティビティ。もしくは内側からわいてくるもの、とい う感じ。
☆
川をはさんだ向こう側には 風車小屋をいくつも置いて、その前に鷲や帆船を置いた。
そこには風が吹くところという感じで、内なる世界(花の山)から川を越えた向こう側が外の世界という感じ。
外の世界は広く、色々な所から風が吹いてくるし、活動的に風にのって動いていく感じ。
☆
まん中の川の、川上には小さな小さな家を置いた。
そこは生まれ育った家で、泣いている小さな子供を家の前に置いた。昔の私だ。その横には雌鳥と雄鶏を置いた。それは私の両親という感じ。とても小さなそこだけの世界、という感じがする。
その家の前から川が流れて段々大きな川となり海へとつながってゆく。その川の真中に 鮎を置いた。
イメージ的には鮭が生まれた川へ戻ってゆく川登りの逆で、その鮎は海へ向かっていく。
それが私にとっては戻ってゆくというイメージだ。
その鮎の前には 綺麗なお姉さんを置いた ふりふり きらきら ぴかぴか ~~~ 生の喜びにみちて踊りながら歩いている。
その川は 私の成長をあらわしている。
鮎はその箱庭のどまん中の位置に置かれており、それは今の私自身を表している。
そして綺麗なお姉さんは 小さな家から 段々離れて 成長していく私のすがたを表しているようだ。ふりふり~ ぴかぴか~ るんるん~て感じなのだ。
花を持っているふくろうを手前に置いた。箱庭の内側を向いている。
それは自分へ花を捧げる。自分で自分に花を上げることが必要だという事だ。
箱庭に色々置いた後自分でそれについて語る時、それが自分の心の庭であると気づいた。
【潜在意識と仲良く・箱庭療法】
潜在意識を うかつに こじ開けると パンドラの箱を開いたような混乱に見舞われます。
しかし 本来の自分を取り戻すには 潜在意識に光を当て 顕在意識化する必要があります。
そのための 最も楽しく、適切な療法が 箱庭療法です。
砂箱の砂を触っていると意識の防衛が取れ 潜在意識と顕在意識の境がイメージ表現され
それは顕在意識で受け取る準備が出来た、今・一番必要なメッセージとなります。
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箱庭療法はイメージで表現し、イメージで受け取るのが通常です。
みなみ心理健康オフィスでは 筋肉反射テスト・バイオフィードバックを使って イメージ表現を言語化し メッセージを 顕在意識で受け取りやすくします。
ヒーリングが必要であれば その場で行います。適切な変容が クライアント様に訪れます。
魂、ハイアーセルフからのメッセージ、カルマの浄化なども含めた奥深いセッションを体験していただけます。
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