大和魂と大和心

https://president.jp/articles/-/539 【大和魂を批判した戦術家、秋山真之】より

松本 健一

作家・評論家・麗澤大学教授

「国民作家」司馬遼太郎──。彼の手によって描かれた魅力的な群像。激動期を生き抜いたさまざまな「彼」の物語、「もう一つの日本」の物語から、混迷の現代を生きる我々は何を学ぶべきか。司馬文学研究の第一人者が語る。

司馬さんが合理主義の持ち主を好んだことは、『坂の上の雲』で主人公に据えた秋山好古・真之兄弟、正岡子規という3人の人物を見てもわかります。

秋山好古は陸軍軍人で、日本騎兵の父と呼ばれました。騎兵というと颯爽として格好がいいですが、実は戦場では騎兵隊を使いこなすのは相当難しい。たとえば満州の秋や冬は地面に霜が降りたり凍ったりで、馬で駆けることが困難です。そこで好古は騎兵隊長であるにもかかわらず、躊躇せず兵を馬から降ろして戦った。日露戦争ではこうした合理的判断を随所に見せ、8000の騎兵で当時世界最強といわれたコサック騎兵10万の猛攻に耐え抜きました。

弟の真之も、合理的精神の塊です。真之は、日露戦争を連合艦隊司令長官・東郷平八郎の副官として戦い、有名な日本海海戦の T字型作戦を立案しています。稀代の戦術家だったことからもリアリストであることは想像できますが、秋山真之は薩摩出身の財部彪に対して、「あなたたち薩摩人は、非常事態に会うと、すぐ大和魂を持ち出す」といって、大和魂という非合理的な精神を批判する言葉を述べています。

軍人の秋山兄弟と俳人である正岡子規とは異質に感じるかもしれませんが、子規もまた、「現実をあるがままに見よ」というリアリズム精神の人でした。

「柿食へば鐘がなるなり法隆寺」

子規の作品でもっとも有名なこの句が、なぜ名句として評価されているのか疑問を抱く人も多いでしょう。

実は『万葉集』以来、子規が登場するまで、柿を詠んだ歌はほとんどありませんでした。柿は保存食として重宝しますから、昔はどの家にも柿の木がありました。日常の中にある柿は詩歌の世界で美の対象として長らく認められなかった。万葉の時代に美の対象になったのは、まず萩の花です。萩の特産地は宮城野です。陸奥に赴任した地方官が萩をお土産として持ちかえると、都の人々はそれを珍しがって歌に詠む。次に多く詠まれたのは、中華文明の舶来品である梅の花です。当時、桜はどこでも見られる日常の花という理由で美の対象とはされませんでした。

そうした詩歌の伝統の中で、現実を見て身近にある柿を詠んだ子規の句は革命的でした。それゆえこの句が評価され、司馬さんも「写生」を理想として世界をあるがままに見ようとした子規を、主人公の一人に選んだのです。

司馬作品にはほかにも『花神』の大村益次郎、『歳月』の江藤新平、『国盗り物語』の斎藤道三など、合理的な精神に富んだ主人公が多く登場します。司馬さんが人間の精神の両面を描きながらも、美しいものを見るために目をつぶるのではなく、目を見開いて現実を見るリアリズムを高く評価していたことがわかります。

では、なぜリアリズムなのか。

実は『坂の上の雲』で真之に語らせた薩摩人への批判は、薩摩出身の「軍神」東郷平八郎への批判でもありました。東郷は日露戦争後、神がかり的になって、「百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得る」と言いだします。大砲が1門しかなくても命中率100%ならば、命中率1%の大砲100門の敵に負けないという意味ですが、合理的に考えればこれが間違いであることがわかります。こちらが一発必中で敵の大砲1門を壊しても、残りの99門から弾が飛んでくる計算ですから。

ところが、東郷はこうした精神訓話をずっと言い続け、それが軍の中で大東亜戦争にも引き継がれていく。司馬さんは昭和を歴史小説として残しませんでしたが、それはこうした非合理的な精神が世界を見る目を曇らせ、日本を敗戦に導いたという思いが根底にあったからではないでしょうか。


https://ameblo.jp/motojuku103/entry-12451729421.html 【「令和」 大和魂から大和心へ】

日本の大和魂(軍国主義)の象徴と言われているのがこの和歌です。

敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花

作者は本居宣長です。

直訳すると「大和心(日本人の心)とは何かと人が尋ねたなら、朝日に照り映える山桜の花のようなものだと答えよう」です。戦争中は軍国主義を煽るような意味合いで使われたりもしたようですが、本来の意味は、日本人の心を、一瞬に凝縮された山桜の美しさにたとえたものでしょう。ヤフー知恵袋より

日本海軍は神風特攻隊にこの和歌の文字「敷島」「大和」「朝日」「山桜」を隊の名前にしました。いつからか日本人の心は花(平和)を愛する人から軍国主義に変わってしまったのです。

ウィキペディア大和魂より

(大和心は)日露戦争戦勝以降の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神とともに他国への排外的・拡張的な姿勢を含んだ語として用いられていき「大和魂」という言葉も専ら日本精神の独自性・優位性を表現するものと解されるようになった。

昭和初期の第二次世界大戦期には軍国主義的な色彩を強く帯び、現状を打破し突撃精神を鼓舞する意味で使われることが主となった。

関東軍の重砲兵として入隊した当時「百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に当たる」と教えられた。疑問を挟むと「貴様は敢闘精神が足らん。砲の不足は大和魂で補え」と怒鳴られた。

—中内功「私の履歴書」(日本経済新聞、2000年1月31日)

新しい元号が「令和」に決まりましたこれは大和魂のような軍国主義ではなく

平和を愛する大和民族の大和心に戻ろうという思いで出てきたのではないでしょうか


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『おふくろさんよ 語り継ぎたい日本人のこころ』 — 川内 康範 ...

2007/12/20 -これはアメリカ的自由と世界平和の方便が、あまりにも蔓延しすぎた結果 ... 今の私たちへとつながり、大和民族としての歴史が在るんじゃなかろうか。


http://music-calendar.jp/2016040601 【生きてる限りはどこまでも~憂国の士・川内康範

執筆者:鈴木啓之】より

情念深い男女の恋愛を描いた歌謡曲の作詞に才能を揮い、作家、脚本家、政治評論家など多くの顔を持って活躍した川内康範。晩年は「おふくろさん」騒動などという、たわい無い小事件でマスコミを賑わすことになってしまったが、昭和30~40年代を中心に、映画界、テレビ界、歌謡界に及ぼした功績は計り知れない。間違いなく戦後を彩った文化人として歴史に残る人物である。類い稀に見る、一本筋の通った正義の人は、函館に生まれ、青森に没した。享年88であった。

川内は1920(大正9)年生まれ。日蓮宗の寺の息子として生まれたところにまずその作家性のルーツがあるとおぼしい。独学で勉強したという文学の才能が開花するのはまだ少し後のことで、様々な職業を転々とした後、41年に東宝演劇部に入社して脚本家デビューを果たすも、活躍の場は戦争によって一時阻まれてしまう。召集を受けて横須賀海兵団に入団した氏であったが、病気のため除隊したことで一命をとりとめた。しかしそのことで戦友の死を見ながら自分だけが生き残ったことに対する贖罪意識が芽生え、戦後の10年間、戦没者の遺骨引揚運動を行なっている。並行して、映画の原作・脚本を数多く手がけるようになるのは50年代半ば頃から。森繁久彌や柳家金語楼が主演した喜劇作品などに健筆を揮い、厳格な人柄の一方で元来持ち合わせたユーモア精神も存分に披露している。

その中で世間から注目を浴びることとなったのは、やはり連続テレビ映画『月光仮面』であろう。58年に原作・脚本を担当した特撮ヒーロー黎明期の作品は少年たちに大人気を博して、社会的なブームを呼ぶこととなった。加えて有名な主題歌の作詞も担当したことが、以降の作詞家としての活躍を促すきっかけとなる。憂国の士である川内の正義感は、その後もテレビのヒーローものに具象化され、続いて『七色仮面』や『アラーの使者』、少し時代を下って、『愛の戦士 レインボーマン』『光の戦士 ダイヤモンド・アイ』『正義のシンボル コンドールマン』の三部作へと行き着く。それぞれの主題歌・挿入歌の作詞はもちろん川内自身によるもの。殊に、汚れた日本人の心が産み出した悪の軍団と戦う『コンドールマン』の主題歌には、社会悪を憎む川内の精神が表現されて秀でている。“ゼニクレージー”や“ヘドロンガー”といった怪人にも身勝手な人間たちへの痛烈な批判が見え隠れして痛快だ。一方で、川内の限りない慈しみの心が示されたのが、アニメ『まんが日本昔ばなし』であった。

歌謡曲の作詞の仕事の嚆矢となったのは、60年の「誰よりも君を愛す」で、松尾和子、和田弘とマヒナ・スターズが歌って第2回日本レコード大賞を受賞する。「月刊明星」に連載された小説をモチーフにレコードが出され、ヒットを受けて映画化もされた。この歌の松尾パートにある、愛した時から苦しみが始まるという一節こそ、恋愛に対する川内の不変の持論であり、その後も続々と生みだされる傑作群に一貫したテーマであると察せられる。男と女の深い情念が描かれた詞は川内にしか表現し得ない独特な世界観に包まれ、聴く者に強烈な印象を残す。個性的な言葉のセンスが頂点に達したのが、66年に大ヒットした、城卓矢「骨まで愛して」である。事故死した遺体に縋りつく遺族の姿が発想の源にされたという衝撃的なエピソードもある入魂の一曲は、城が前の名前である菊地正夫から改名しての心機一転の再デビュー作であり、親戚にあたる川内が妻・和子名義で作詞。作曲の文れいじも、城の実兄・北原じゅんのペンネームであった。ちなみに北原じゅんは、『レインボーマン』の主題歌や、八代亜紀「愛ひとすじ」などでも川内とコンビを組んでいる。

ほかにも、水原弘のカムバック作となった「君こそわが命」、園まり「愛は惜しみなく」(共に67年)、森進一「花と蝶」(68年)、内山田洋とクール・ファイブ「逢わずに愛して」などヒット曲を連発する中で、その発掘と売出しに川内が奔走した歌手に青江三奈がいる。クラブ歌手だった彼女を見出してメジャーデビューさせ、スターへと育て上げた。命名も川内によるもの。デビュー曲「恍惚のブルース」をはじめ、「ブルー・ブルース」「眠られぬ夜のブルース」「夜の紅花」「この恋なくしたら」と続き、ミリオン・ヒットを記録して青江の代表作となった「伊勢佐木町ブルース」もまた川内の作詞によるものであった。この曲の最大の特徴といえるイントロのため息も、川内の発案であったという。デビュー曲「恍惚のブルース」の“恍惚”という言葉は、川内による同名の小説が「週刊現代」に連載されて話題を呼び、曲のヒットにより一種の流行語となった。シングル盤の初回プレス分は、ピンク地のレーベルにオレンジ色の“恍惚”の文字が刷られた特別仕様となっている。昭和のレコード・コレクターにはぜひとも手元に置いていただきたい逸品である。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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