ほととぎす声横たふや水の上 曙は まだむらさきに ほととぎす(元禄3年(1690)。芭蕉47歳。前書きに、「勢田に泊まりて、暁、石山寺に詣。かの源氏の間を見て」) 2句のホトトギスは甥桃印の魂を指している気がするのですが?
https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/isiyamadera/basho.html【石山寺と松尾芭蕉】より
石山寺芭蕉庵
芭蕉庵
各地を旅して多くの俳句や紀行文を残した江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉。
1690年(元禄3年)、前年に「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は、3月頃から近江国に来て義仲寺にあった宿舎無名庵に滞在。
その後、門人の菅沼曲水の奨めで4月6日から7月23日まで幻住庵に滞在し、石山寺にも度々訪れていたのだという。
石山寺は、747年(天平19年)、聖武天皇の勅願で創建された寺院。
開山は良弁。
本尊は如意輪観世音菩薩。
761年(天平宝字5年)から国家的事業として伽藍の整備が行われ、東大寺から仏師が派遣されるなど東大寺との関係が深かった。
そのため、当初は華厳宗に属していたが、平安時代になると醍醐寺の聖宝(しょうぼう)が初代座主に就任したことにより真言密教の寺院となった。
二代座主は聖宝の弟子の観賢(かんげん)、三代座主は菅原道真の孫で観賢の弟子の淳祐(じゅんゆう)が就任。
淳祐は石山寺中興の祖といわれる。
平安時代には貴族による石山詣が盛んとなり、紫式部が『源氏物語』を書き始めた寺として知られ、藤原道綱の母の『蜻蛉日記』や・菅原孝標の娘の『更級日記』にも描かれている。
武家との関りも深く、東大門・鐘楼・多宝塔は鎌倉幕府を開いた源頼朝の寄進と伝えられ、室町幕府を開いた足利尊氏は天下泰平を祈願して太刀を奉納したのだという。
織田信長と争った室町幕府最後の将軍足利義昭は石山寺を本陣としている。
現在の伽藍は、豊臣秀吉の側室淀殿の大修復によって完成されたのだという。
西国三十三箇所の十三番札所。
「あけぼのはまだむらさきにほととぎす」
芭蕉は、最後の旅となった1694年(元禄7年)の10月12日、大坂御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」で亡くなった。
遺言により義仲寺の木曽義仲墓の隣に葬られた。
石山寺は、聖武天皇の勅願によって良弁が開いた。
東大寺との関りが深い寺院。
日本最古といわれる国宝の多宝塔は、源頼朝の寄進と伝えられる。
https://gogen-yurai.jp/hototogisu/ 【ホトトギス/杜鵑/時鳥/不如帰/ほととぎす】より
意味
ホトトギスとは、カッコウ目カッコウ科の鳥。全長約30センチ。日本には夏鳥として渡来する。
ホトトギスの由来・語源
ホトトギスの名は「ホトホト」と聞こえる鳴き声からで、「ス」はカラスやウグイスなどの「ス」と同じく、鳥類を表す接尾語と考えられる。
漢字で「時鳥」と表記されることから「時(とき)」と関連付ける説もあるが、ホトトギスの仲間の鳴き声を「ホトホト」と表現した文献も残っているため、鳴き声からと考えるのが妥当であろう。
江戸時代に入ると、ホトトギスの鳴き声は「ホンゾンカケタカ(本尊かけたか)」「ウブユカケタカ(産湯かけたか)」、江戸時代後期には「テッペンカケタカ(天辺かけたか)」などと表現されるようになり、名前が鳴き声に由来することが分かりづらくなった。
「トッキョキョカキョク(特許許可局)」という鳴き声は、戦後から見られる。
ホトトギスには、「杜鵑」「時鳥」「不如帰」「子規」「杜宇」「蜀魂」「田鵑」など多くの漢字表記があり、「卯月鳥(うづきどり)」「早苗鳥(さなえどり)」「魂迎鳥(たまむかえどり)」「死出田長(しでのたおさ)」など異名も多い。
https://machi-log.net/?p=41469 【なぜ “ホトトギス” ? 漢字多すぎ ! 「鳴かぬなら〜ホトトギスの句」がおもしろい】より
作者不詳にもかかわらず、世間に広く知られている “鳴かぬなら〜ホトトギス” の句についてまとめてみました。
家康・秀吉・信長を表した句
このホトトギスの句は、戦国武将としてまた時代を代表する人物として有名な3人のキャラクターを表したもの。以下のように詠まれています。
徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまで待てよ ホトトギス」
豊臣秀吉「鳴かずとも 鳴してみよう ホトトギス」
織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
その他、明智光秀を表す句として「鳴かぬなら 放してやろう ホトトギス」というものもあるようです。
なぜ “ホトトギス” !?
そもそもなぜホトトギス? という疑問が湧いたので調べてみると、この句が出てくる「甲子夜話」に答えがありました。
原文を見てみると、句には “ホトトギスを贈った人がいましたが鳴きませんでした” という前置きが。
鳴かないホトトギスを目前にした時の性格を表した句になっているようです。
漢字が全て異なるおもしろさ
この句が登場するのは江戸時代後期に平戸藩主・松浦静山が書いた「甲子夜話 (かっしやわ)」。
甲子夜話は、200巻以上続く見聞録の集大成で、当時の政治、外交、軍事に及ぶ内容が書かれているそうです。
参照元:コトバンク甲子夜話
原文に出てくる “ホトトギス” は、前置きのホトトギスも含めて全部で4回。そしてこのホトトギスは全て違う漢字で書かれています。
郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、
なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様
《「甲子夜話(東洋文庫)」第4巻(松浦静山著 平凡社 1978年)で巻53》
ホトトギスは漢字表記や異名の多い鳥なのだそうです。日本語ならではの面白さをここに見ることができました。
参照元:レファレンス協同データベース事例詳細
https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1490.html 【ホトトギス】より
見た目も、他の鳥の巣に卵を産んでしまう行動もカッコウにそっくり
全長28cm。カッコウとよく似た形、色彩をしています。日本では夏鳥で、九州以北で繁殖しますが、北海道では南部に少数が生息します。ホトトギスは主にウグイスの巣に卵を産込み、ヒナを育ててもらいます。そのため、ウグイスが生息している場所に渡来します。そこで、林の周辺にある藪のある場所、草原などによく見られます。そのさえずりは渡来初期には夜昼かまわず鳴いています。夏の季節の到来を告げる、代表的な渡り鳥。ホトトギスは、春のウグイスとならんで、季節の初音として人びとにその鳴き声を待たれました。万葉集にも、この声は田植えをしろとうながすために鳴くのだ、とあります。多くは5月ごろ渡来し、他の鳥の巣に卵をうみ、秋、南へ去っていきます。
姉妹がいました。ある日、姉が芋を焼き、まわりの堅いところは自分が食べ、中の柔らかい部分を妹に食べさせました。しかし妹は、姉がさきにおいしいところを食べたと思い、姉を包丁で殺してしまいました。姉はカッコウになり、「ガンコ、ガンコ(堅いという方言)」と鳴いて飛び去りました。妹は自分の誤ちを知って後悔し、ホトトギスになり、「包丁欠けた 包丁欠けた」と鳴いています。盛岡の一地方では、いまもホトトギスのことを「包丁かけ」と呼んでいるとか。 《遠野物語》
/木がくれで 茶摘ときけや ほとゝぎす 芭蕉/
/うす墨を 流した空や 時鳥(ほととぎす) 一茶/
https://www.bioweather.net/column/ikimono/manyo/m0606_2.htm 【霍公鳥(ほととぎす)】より
ホトトギス
「テッペンカケタカ」、「東京特許許可局」の聞きなし(鳥の鳴き声を人の言葉に置き換えて表すこと)でお馴染みのホトトギスは、南アジアで越冬し、日本に繁殖のためにやってくる夏鳥です。
他の夏鳥は、年によって春に渡来する日がずれる事がよくありますが、ホトトギスなどのカッコウの仲間は渡来する日が大きくずれません。カッコウの仲間は、日本には主に4種類が渡ってきますが、一番早いのがツツドリで4月中~下旬、その次がジュウイチで5月上旬、カッコウが5月中旬以降、そして最後にホトトギスが5月末にやってきます。
毎年正確な時期にやってくることから、例えばホトトギスの渡来は、田植えの合図とされていました。そして季節の区切りを示す=時を告げる=「時鳥」という当て字が使われたりもします。その他によく使われる漢字は「不如帰」、「杜鵑」、「子規」、「霍公鳥」などでしょうか。
卯う の花の 咲き散る岡ゆ ほととぎす 鳴きてさ渡る 君は聞きつや
(作者不詳 万葉集 巻十 一九七六)
卯の花が咲き散る岡から、ホトトギスが鳴いて飛び渡って行きましたよ。あなたは聞きましたか?
ホトトギスは万葉集で150首以上と野鳥の中で最も多く詠われています。その中で5月頃に咲く卯の花(ウツギ)と一緒に詠まれているものが15首あります。花が咲き、そして散り始める5月末に渡来することから、移りゆく季節を感じていたのでしょうか。
うぐひすの 卵かひご の中に ほととぎす ひとり生れて 己なが父に 似ては鳴かず 己なが母に 似ては鳴かず・・・・・
(高橋虫麿 万葉集 巻九 一七五五)
ウグイスの卵の中にホトトギスが一羽生まれて、お前の父や母であるウグイスのようには鳴かないようだ。・・・・・
カッコウの仲間は自分で巣を作らず、産んだ卵を他の種に預け、子育てをしてもらいます。これを託卵といいます。ホトトギスがウグイスに託卵することは万葉集の頃からすでに知られていました。
ホトトギスが託卵する相手のほとんどはウグイスです。そのため、生息場所もウグイスと同じような低地から山地のササ藪周辺です。ウグイス以外では、ミソサザイ、センダイムシクイ、クロツグミ、アオジ、ベニマシコに託卵した例が知られています。
ツツドリ
カッコウは、ホオジロやオオヨシキリのほか、オナガなど28種への託卵が知られています。ツツドリはセンダイムシクイやメボソムシクイ、ジュウイチはオオルリやコルリ、ルリビタキなどに託卵することが知られており、生息場所はそれぞれの託卵する相手の生息場所と同じになります。
ホトトギスの卵はウグイスの卵によく似たチョコレート色をしていて、ウグイスより数ミリ大きく、比率にして1.13~1.15倍です。しかし、ウグイスの全長が14~16cmに対して、ホトトギスはその倍の28cmもあり、ホトトギスの大きさを考えれば実に小さな卵です。
親鳥が巣から離れるわずかなスキに、ホトトギスは卵を巣内に産み付け、ウグイスの卵を一つくわえて持ち去ります。巣に戻った親鳥はホトトギスの卵と自分の卵を温めます。ウグイスの卵よりも早くホトトギスの卵がかえり、生まれた雛は数時間後には、ウグイスの卵を背中に載せ、巣の外に放り出します。その結果、ホトトギスの雛は親の世話を独占して大きくなります。
ウグイスの親は、自分の2倍の大きさの雛を育て上げることになります。普通に子育てをする場合よりも多くの餌を運ばなくてはなりませんから、ウグイスには相当の負担になっているかもしれません。しかし、ウグイスはお腹をすかせた巣の中の雛のために、せっせと餌を運び続けます。
もっとも、ウグイスも含めて託卵される鳥たちは、対抗手段も身につけています。カッコウの仲間が巣に近づけば、追い払ったり時には直接攻撃したり、巣の中に産み込まれた卵を見分け、その卵を巣の外に放り出したりもします。
しかし、このような対抗手段を全ての鳥が身につけているわけではありませんから、毎年どこかで、親の倍もある大きな雛が、小さな巣の中で大事に育てられているのです。
渡り途中のツツドリ
■ 参考文献
樋口広芳 (1986) 鳥たちの生態学 朝日新聞社.
荒垣秀雄編 (1976) 朝日小事典 日本の四季 朝日新聞社.
中村登流・中村雅弘 (1995) 原色日本野鳥生態図鑑(水鳥編) 保育社.
松田道生 (2003) 大江戸花鳥風月名所めぐり 平凡社.
菅原浩・柿沢亮三 (1993) 図説日本鳥名由来辞典 柏書房.
佐竹ら校注 (2000) 新日本古典文学大系2 萬葉集二 岩波書店.
https://tenki.jp/suppl/kashiwagi/2020/05/27/29836.html 【夏の夜更けに一声鳴くのは時鳥?郭公?~平安和歌に見られるホトトギス~】より
五月五日の端午の節句では菖蒲が主役でした。時宜遅れを「六日のアヤメ、十日の菊」とも言うように、菖蒲は五日限定ですが、古典文学で五月を通して代表するものと言えば、現代人にはほとんど縁遠いホトトギスです。今回はホトトギスについて、平安和歌を中心に紹介します。
ホトトギス、その漢字や鳴き声は?
ホトトギスは異名が多い鳥ですが、漢字表記でも以下のようなものが知られています。
時鳥・郭公・子規・不如帰・杜鵑・蜀魄・霍公鳥。
おそらく一語については最多ではないでしょうか。このことだけでも格別な鳥だと知られます。これらの中に「郭公」もあります。これはカッコウという別の鳥のはずなのに、と違和感をおぼえますが、実はホトトギスはカッコウ目カッコウ科に属し、ウグイスに託卵することも共通するので、混同されていたのかもしれません。
古典和歌で郭公はホトトギスの表記として、ごく普通に使います。なお他のいくつかの表記は中国の伝説に由来がありますが、それは後ほど触れることにします。数あるホトトギスの表記の中で、今回は「時鳥」を代表で用いることにします。
時鳥は万葉集でも150首余り詠まれ、古今集では夏に属する歌34首のうちの28首で詠まれています。春の桜に劣らず、まさに時鳥は夏を代表する鳥でした。
ホトトギスは渡り鳥の夏鳥で、五月ごろ南方から飛来します。「キョッキョッキョキョキョキョ」と鳴き、「テッペンカケタカ」とか「特許許可局」と聞こえるなどと言われますね。筆者は自宅で夏の朝に聞き、ウグイスとはちょっと違うなと気づきました。その鳴く様は、
〈谺(こだま)して 山ほととぎす ほしいまま(杉田久女)〉
のように、山では昼でも「ほしいまま」に鳴いているようです。しかし、平安和歌では、そうした実際の生態と別に、鳴く時間帯や鳴き方など、歌人たちが好んだ共通の美意識によって絞られて詠まれています。
ホトトギスを詠む和歌の基本
平安時代の時鳥を詠む上でのポイントは古今集にほぼ尽くされています。それらについて和歌を挙げて見てゆくことにします。
〈いつのまに 五月来ぬらむ あしひきの 山時鳥 今ぞ鳴くなる〉
〈夏の夜の 伏すかとすれば 時鳥 鳴く一声に 明くるしののめ〉
〈思ひいづる 常磐(ときわ)の山の 時鳥 唐紅(からくれない)の 振りいでてぞ鳴く〉
三首とも夏の歌ですが、まず最初の二首を見ると「早くも五月が来たらしく、時鳥が鳴き始めたようだ」というものと、「夏の夜は短いものだが、眠りに就いたと思ったら時鳥が一声鳴いて夜が明けた」というものです。
これらには時鳥の詠み方の大事な点が表現されています。つまり、時鳥は「五月になると」、南方からの渡り鳥としてではなく、「山から飛来して鳴き」、それは「夜更けから明け方間近」で、「一声鳴く」ということです。
三首目は、「昔を思い出す時、常磐の山の時鳥が紅の色を染めるように絞り出して鳴き声を挙げているよ」というものです。その声は「昔を思い出す」ことに結びついて、「悲痛な印象」だということです。
この歌の注釈には、唐の詩人白居易による有名な長詩「琵琶行」という、平安時代すでに日本に伝わっていた詩の一節、「杜鵑は啼血(血を吐いて鳴く)」が参考に挙げられています。時鳥は口の中が赤く、血を吐いて鳴くというイメージなのでしょう。このように、時鳥には漢文世界からの知識もイメージ作りに関わっていたようです。
ホトトギスは、蜀王の化身
前項で述べた時鳥の漢字表記の多さは、中国の伝説に拠ります。それは、中国の蜀で望帝と号した杜宇(=杜鵑)という王が、帝位への未練を残して死後に時鳥となり、国が滅んだことを嘆き悲しみ鳴いたという伝説です。やはり、古今集の夏の歌で、
〈時鳥 鳴く声聞けば 別れにし ふるさとさへぞ 恋しかりけり〉
があり、時鳥の声に誘われた懐旧の思いを歌っています。この歌から、下河辺長流という近世前期の国学者は、その著「続歌林良材集」で、蜀王が化した時鳥を、
〈その鳴く声、「不如帰去」と鳴くなり。これ故郷を思ひて「帰らんにはしかじ」という心なり〉と、杜宇の旅中で抱いた望郷への切ない思いが、死後に化した時鳥の声に溢れていて、その声は故郷を思って「帰ることにまさることはない」と鳴いているのだと述べています。
これが、「杜宇・杜鵑・不如帰」をホトトギスと読む由来です。また、杜宇が死んで時鳥に化したが、蜀の人はその鳴き声を聞いて「我が帝の魂」と言ったともあり、ここから「蜀魄」も加わったのでしょう。さらに、〈この鳥の鳴くを待って農事を興すは、そのかみ(昔)望帝、稼穡(農事)を好める王の魂なる故に、なほ農の事を勧むるなるべし。……この鳥死出の山より来る鳥なれば、死出の田長(たおさ)と名づく。田長は農を催す名なり。これ彼の蜀王の死して、その魂の鳥と化して更に帰りくる故に、死出の山より来るといふ義か〉とあります。つまり時鳥は「死出の田長」といって、農事を勧める鳥と呼ばれていたということ、さらに死の国から飛来するという新たな時鳥のイメージが加わります。こうした蜀の杜宇についての伝説は、「華陽国志」「蜀王本紀」「抱朴子」などの中国の古い書籍から学ばれていたようです。しかし、山を死者の世界として、時鳥が人々の生活する里と往復するという発想には、日本古来の農村の考え方も結びついたものかもしれません。
まず時鳥が農事を勧める鳥とされるということですが、古今集にある、
〈いくばくの 田を作ればか 時鳥 しでの田長を 朝な朝な呼ぶ〉
での歌意は、「どれほどの広い田を作っていると、時鳥は咎めるように、シデノタオサと鳴いて田長を毎朝呼ぶのか」といったものです。ここでの鳴き声が、時鳥そのものを指すようになるとされます。
時鳥が死の国、あるいは冥界と縁が深いことを次の項で見ていきます。
冥界の使者、ホトトギス-「和泉式部日記」の始まり-
橘の花
橘の花
平安文学中の珠玉の短編、和泉式部日記は、高名な歌人和泉式部と冷泉天皇の皇子敦道(あつみち)親王との恋愛を綴った歌日記です。冒頭は、和泉の元恋人だった、敦道の兄為尊(ためたか)親王の死から、ほぼ一年後、為尊の従者だった童が敦道の使いとして、橘の花を和泉にもたらしたところから始まります。なぜ橘なのかは、次の古今集の歌に拠ります。
❬五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする❭
橘の花の香りは昔親しかった人の香りを甦えらせるという内容です。つまりここでは、橘の花が亡き為尊親王を偲ぶ和泉の心を促すことを、敦道が期待して贈らせたのです。そのことへの和泉の反応が、この日記最初の時鳥を詠んだ歌です。
❬かをる香に よそふるよりは 時鳥 聞きかばや同じ 声やしたると❭
「昔を偲ぶという橘の花より、時鳥の声を私は聞きたい」という内容です。ここに時鳥が用いられるのは、時鳥が亡き親王のいる死者の国から来たとされるからです。時鳥が親王の声を思い出させることに期待したいというのが、和泉の答えです。それに、敦道が答えます。
❬同じ枝に 鳴きつつ居りし 時鳥 声は変はらぬ ものと知らずや❭
「時鳥に兄の声を求めるなら、私は同じ枝に止まっていた弟ですから、同じ声ですよ、親しくしましょう」という内容です。和泉の歌を自分の意図に沿って、わざと捩じ曲げて答えたと言えそうです。しかし、実は敦道がそのように答える余地は、すでに和泉式部の念頭にあったのかもしれないようにも思えます。和泉式部の恋歌でのしたたかさも垣間見えるようです。そして、この二首がきっかけになって、二人の恋を描く和泉式部日記の世界が繰り広げられることになります。
ホトトギスと恋歌
時鳥が平安和歌で、なぜそれほど好まれたのかと考えた時、深夜から明け方という時間の限定に意味があるように思います。枕草子が「夏は夜」と言うように、昼は暑すぎるせいもありますが、平安貴族にとって、夜更けは男女の恋の極みになる時間です。恋人と共に夜を過ごす最後の別れ直前の時間、あるいは恋人を待ち続けたが訪れはなく、むなしさを感じざるを得ない時間、それが時鳥の鳴く時に重なります。
〈時鳥 夢かうつつか 朝露の おきて別れし 暁の声〉
という歌は、古今集の恋の歌です。ここで時鳥は恋人の面影を映す者とも読めます。「おきて」は、朝露が「置く」ことと、朝「起きる」ことを掛けています。この一首は、「恋人との短い逢瀬が夢の中のことか現実かわからないほどはかなくて、目覚めると朝露が置く時に飛び去った明け方の時鳥の声のみが耳に残って、それが恋人に会った名残だ」というものです。このように、時鳥の鳴く時と、恋の思いの最も深まる時間帯は重なるのです。このことが時鳥が好んで和歌に詠まれた大きな理由のひとつではないかと思います。
旧暦5月1日は、令和2年の6月21日。梅雨のさなかですが、ぜひ時鳥の声に耳を澄ませてみたいものです。
参照文献
古今和歌集全評釈 片桐洋一 著(講談社)
続歌林良材集 久曽神昇 編(風間書房 日本歌学大系別巻7)
和泉式部日記 近藤みゆき 訳注(角川ソフィア文庫)
歌ことば歌枕大辞典 久保田淳・馬場あき子 編(角川書店)
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/letter/keiko.htm 【宮崎荊口宛書簡】より
(元禄6年4月29日)
たびたび貴翰御細書かたじけなく、これよりも*をりをり御案内と存じ候へども、閑窓とは人の言はせざるに紛れて*、心外に移り行き、日かず三年、一別を隔て候*。いよいよ御堅固に御座なされ候よし、珍重に存じ奉り候。御内室様・文鳥子*、つつがなく御入りなされ候*はんと存じ候。このはう*御両息、御無事に首尾よく御勤めなされ候。をりをり御目にかかり、おうはさども申すことに御座候。
御発句など、たまたま仰せ聞けられ候。ことのほか感吟仕り候。此筋子*へ申し、少々書きとめ置き申すべくと申すことに御座候。如行、火事*以後も相変らず風雅相勤められ候旨、厚志の逸物、殊勝の至りに存じ候。拙者、当春、楢子桃印*と申す者、三十あまりまで苦労に致し候て病死致し、この病中神魂を悩ませ、死後断腸の思ひやみがたく候て、精情くたびれ、花のさかり、春の行くへも夢のやうにて暮し、句も申し出でず候。頃日はほととぎす盛りに鳴きわたりて人々吟詠、草扉におとづれはべりしも、蜀君の何某も旅にて無常をとげたるとこそ申し伝へたれば、なほ亡人が旅懐*、草庵にしてうせたることも、ひとしほ悲しみのたよりとなれば、ほととぎすの句も考案すまじき覚悟に候ところ、愁情なぐさめばやと、杉風*・曾良*、「水辺のほととぎす」とて更にすすむるにまかせて、ふと存じ寄り候句*、
ほととぎす声や横たふ水の上
(ほととぎす こえやよことう みずのうえ)
と申し候に、また同じ心にて、
一声の江に横たふやほととぎす
(ひとこえの えによことうや ほととぎす)
「水光天に接し、白露江に横たはる」*の字、「横」句眼なるべしや*。二つの作いづれにやと推敲定めがたきところ、水間氏沾徳*というふ者とぶらひ来たれるに、かれ物定めの博士となれと*、両句評を乞ふ。沾いはく、「「江に横たふ」の句、文に対してこれを考ふる時は句量もつともいみじかるべければ、「江」の字抜きて「水の上」とくつろげたる句の、にほひよろしきかたに思ひ付くべき」の条*、申し出で候。とかくするうち、山口素堂*・原安適*など、詩歌のすき物ども入り来たりて、「水の上」のきはめよろしきに定まりて事なみぬ。させること無き句ながら*、「白露江に横たはる」という奇文を味はひ合せて御覧下さるべく候。これまた、御なつかしさのあまり、書き付け申すことに候。 以上
卯月二十九日
荊口雅老人
なほなほ、当年は江戸につながれ候。再会ゆるゆると願ひ申し候。
岐阜の長老宮崎荊口宛に、江戸芭蕉庵から出した書簡。甥の桃印死去後の寂しさを綴っているが、門人や知己達がつぎつぎと元気付けに訪れている様子もうかがえる。ホトギスが啼くに任せて句も作らずに居た悶々の時に、杉風や曾良が励まして「水辺のほととぎす」という題を提出して挑発しているところなど、師弟間の思いやりを彷彿とさせる。
題詠の二つの句について、芭蕉自身は論評をせず荊口に任せているのも興味深い。
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